2007-12-30

失念と残念

12/8の出版記念会を失念していた。飯田橋だったのに。近くでやっていたのにチェックを忘れた。

盛会だったようだ。きっと朝まで飲んでいたことでしょう。
まあ,私のようなものが行っても,仕方なかったかも知れない。結局,行かなかったかも知れない。会いたくない人にも会うという場所だ。

この日は午前中は早稲田で講義。午後はJIMSに行っていたようだ。

旧い知人の出版でなく,JIMSに行くというところに,自分のこの数十年間と現在について何かを思う・・・。

2007-12-24

社会情報学会

12月15日(土)に日本社会情報学会の定例研究会(社会統計調査研究部会)で講演。

「インターネット調査回答者の特性」本多則惠
「社会統計調査の歴史的現在」鈴木督久
「社会調査・世論調査にインターネットをどう活用するか」萩原雅之

3人は個別に講演依頼されていたが,フタを開けたら3人とも知人であった。小豆川さんとは久し振りということになるが,確かに久しぶりかな。筑波,日科技連つながり。

「インターネット」がテーマだったようだが,調査について,のつもりで語った。
きっちり準備しようと思ったが,結局は新しい研究の発表などできるはずもなく,これまでの主張のままである。

ベースになっているのは,行動計量学会の巻頭言や最近のコラム。また,晩年の林知己夫の主張も。

回収率の問題については,なにか提案ができるわけではないので繰り返し確認。また,回収率をめぐってJGSSとの間でやりとりした件も紹介。

学習院大学のWEBサイトに出るらしい。学会誌には講演録が掲載されるらしいから読んでみよう。

天野徹先生がよく質問されていた。以前,著書を書店で立ち読みしたことがあり,名刺を見てすぐに思い出した。「まえがき」が印象的な初等統計学の本でした。

文系学生用の最近の入門本では広田すみれがいいと思った(まだ,通読してないけれど)。

終わってから,演者+αで目白で飲む。みな相変わらず。

JIMSでは吉祥寺で遅くまで飲んだ。JIMSには知人が少ないけれど,いろいろ研究以外の話は面白かった。

いつかJIMSで発表し,ジャーナルにも投稿しないといけないな,などと思うけれど,思うだけ。ベイズとLCAなど実用的だと思われる。CGMにどうしても研究的興味が行かないが,ビジネス的興味は行く。
選挙学会もそうだけれど,一方でかなりの計量的方法の適用研究があり,もう一方で定性的研究がある。

マーケティング。ビジネスだ。企業の収益に貢献してナンボだ,と思う。発表よりも開発が先だ。

2007年・50歳

2007年に何か変わったことは?

(1)何年かぶりに携帯電話を最新機種に変更した。コンビニやタクシー,映画館では携帯で支払うことに。小銭入れを使わないのは快適だ。 料金も定額制にしてサービスをフルに活用。
記録を見ると,7年以上にわたり某社の携帯だ。最初はPHSだったが1年もたたず携帯に変更したと記憶するが明確に覚えていない。その時から7年以上だ。最初はPで,次にSHだと思うが,このSHは2年以上。今回はNにしてみた。

(2)老化現象か。朝早く目が覚めるようになった。といってもさすがに5時というわけではないが,若い頃のように眠くて仕方ないということはなくて目が覚めるようになった。成長ホルモンの分泌が減少していると思われる。運動が必要になったともいえる。髪を切りに行ったら「右側に2本の白いものが出てきましたね」と言われた。

(3)運動は不十分にしかできない。68Kg(BMI22)を回復できない。70Kgを超えてしまう。

(4)映画鑑賞。自宅のDVDから劇場へ。自宅の大型TVが占有され,PCの外部DVDの調子が悪いということもあり,レンタルの契約を定額やめる。劇場もいいものである。

2007-11-25

備忘録1936

1936年(昭和11年)10月26日の東京朝日新聞

「米大統領選擧戰迫る,来月三日,いよ~執行,勝者は何れに?」「選挙資金,ル氏は三百萬弗,ラ氏は五百萬弗,投票者は四千萬」

という記事の別稿で,

「豫想戰も火花」という見出しの記事が【ニューヨーク特電二十四日發】として掲載されている。




旬日を残すのみとなった大統領選擧を前にして米國で最も権威ありとされるリテラリ・ダイヂエスト及び米國輿論調査局選擧豫想を掲ぐれば左の如くである
 ダイヂエスト
   ルースヴエルト 四二・六%
   ランドン    五七・四%
 調査局
   ルーズヴエルト 五四%
   ランドン    四六%
即ち,ダイヂエストではランドン氏優勢で州別に見て三十二州を取り全米大統領選擧票五三一票中三七〇票を以て當選を豫想せるに對し,米國輿論調査局は三九〇票を以てルースヴエルト氏の再選を示してゐる
これは調査の方法から起こってくることでダイヂエストは自動車電話所持者の
名簿を種に約一千萬の問合せを発し,これによつて得た約百萬の回答を集計したものであるが輿論調査局側は個人よりもグループを中心にし二十七萬五千を問合せそ
の中三分の一は直接面會の上得たものである,
これによつて見てもダイヂエストの豫想は割合に有産階級の回答に待ち,無産大衆を逸してゐる観念なしとしない,
共和黨側は過去十数年ダイヂエストの豫想が九割以上の正確率をもつて的中した事實に力を得てゐるが従來異なり多大に階級性を加へた今度の選擧に果して的中するか何うかは興味を惹くところでニューヨーク州でもタイヂエストがランドン優勢を報じデリー・ニユース紙のルーズヴエルト大統領再選豫想と喰違つてゐるところから一萬ドルの賭けを申込まれるなど選擧前に選擧豫想争ひが火花を散らしてゐる有様だ
從って豫想は極めて
困難であるが從来の成績と選擧豫想投票から見てルーズヴエルト大統領の絶對優勢を伝へられてゐる州は
 アラバマ,アーカンサス,ジョーヂア,ルイヂアナ,ミシシッピー,南北カロライナ,テキサス,フロリダ,テネツシー,ヴアーヂニア,ネヴアダ,オクラホマ,オレゴン,ユタの南部及び西部一帯で選擧票合計一四七票,
これに對しランドン氏の絶對優勢地は
 ニューイングランド一帯及び中部でバーモント,メーン,ニューハンプシャー,コネチカット,マサチュセッツ,ロードアイランド,カンサス,サウス・ダコタ
の五十四票である,
後の三三〇票が何方に動くかゞ興味あるところでありニューヨーク,太平洋沿岸がルーズヴエルト氏優勢を報ずれば中部シカゴ一帯はランドン氏に投ずる傾向ありといはれルーズヴエルト大統優勢ながら樂觀が許されない情勢である



当時の新聞を確認した結果の印象修正としては,
(1)ギャラップは当時すでに権威の1つであった(ダイジェストのほうが権威かと思いこんでいた)
(2)ルーズベルトは優勢という見方も多かった(ランドンが優勢という空気かと思っていた)
(3)階級性のともなう選挙戦になっているという認識は当時からあった(米国民やマスコミはその時代変化に疎かったのかと思いこんでいた)
(4)さらに新聞記者も調査方法の相違の認識があり,標本の性質について理解して調査結果を解釈している。かなりのレベルである。
(5)ギャラップ調査の3,000人という数字が出てこない

なお,ダイジェスト誌の調査は最終的に200万人以上の回収をするが,これは当時の段階の集計値の発表を伝えている。また2人の合計を100%として計算している。

2007-10-23

擬装の終焉

擬装(偽装)の告発キャンぺーンが続いて,観客としては面白い。牛乳・牛肉・シュウマイ・チョコレート・鶏肉・赤福・・・英会話学校,人材派遣会社・・・

生命にかかわらない偽装など,太古からありそうだ。羊頭狗肉という故事成語はいつできた。

ほんとうのもの,とは何だろうか。本質的な何か,とはなんであろうか。偽装とはなかなか本質的行為のようにも思える。

カメレオン

女に好かれたい一心で男がすることは何か。偽装である。たとえば「やさしそうな男」を装ってみる。女がやさしい男が好きらしいという情報によって。

亀田の強がりも偽装。物言いだけは辰吉に似ていたけれど,実力や才能は到底,辰吉に及ばない。かわいそうに。あんなに親の言うことをよく聞く子供も滅多にいない。反抗こそが中学生の属性なのに。

女にやさしくなんてしちゃあ,いけないのだ。俺は冷酷だからな,とあけすけに飾らないこと。ミニマムをベースラインにする。
そんな男でも,けだものでない限り,ふとやさしさを出してしまうことがある。女はそれを見逃さない。女はそこにホンモノを見る。

生まれてこのかた親にも,やさしくされないできた男と,うまれてこのかた親にも愛されなかった女が,お互いの中に初めて,やさしさを発見した時のような交感こそが,ほんものの何かである。

まいにち,アイシテル,と言って,なんて南蛮人のような習性は承服しがたい悲しい東洋性。

2007-10-13

闘争と親和

属性として保存された闘争と親和

両方とも人間に必要であった

内的親和と外的闘争という形式。
あるいは闘争は対外的・外在的,親和は対内的・内在的。

人類と他生物との闘争の地球史,および適合への反省。
人類と無機との交渉という自然破壊・変容と回復。

闘争の興行化,あるいは生存条件としての闘争の目的変化。
スポーツという近代。ローマの興行。

大相撲のトレーニングにおける殺人
プロボクシングの試合における反則
高校野球の純真の前提と汚染の事実

ナチ,ゲシュタポ,官憲

愛と憎の表裏一体

理念と現実

適度と過度の,正常と犯罪

男と女
生と死

2007-10-08

祖父

祖父は祖母よりも早く亡くなった。80歳は超えていたと思うが,私が学生時代に亡くなった。

じいちゃんは私の遊び相手だった。祖父とと孫は遊び相手である。

裏山に川があり,いまと違ってコンクリートなどで川底を固めていない自然の川だった。その川から田圃に用水がひかれていて,小さなサカナなどもいた。

田圃の中の道の横には溝があって,川の水は溜池に入ると同時に,すべての田圃に平等に流れ込んでいた。子供同士で遊んでいてサカナとりは主要な遊びだった。とれるのはモロコである。

親が農協関係で田圃ももっている友人が,おもしろいサカナ捕獲法を見せてくれた。田圃に川の水が落ちるところがあり,そこにワラの塊を置いておく。翌日になってワラごと取り出すと,その中にモロコがからまっているのである。なるほどな,と思った。

じいちゃんに,すごいね,と言ったように思う。

そのあと,じいちゃんと一緒にサカナとりに行った。タモが唯一の道具である。田圃の横の溝の下流にタモを置いて,長靴をはいた私が構えている。じいちゃんの指示は「溝の両端に足を置いて,足ふみしていろ」というものだった。
あとで考えると,円形のタモを四角い溝に置くから,両側の下方に隙間ができる。そこに足を置いて,バシャバシャしてふさげ,という意味だった。

上流からじいちゃんが,溝の中を勢いよく,バシャバシャ音をたてて歩いてきた。そして私のところまで来て,タモを持ち上げた。

重い感じがした。ごみのようなものまでタモの中に入っている。水からタモをあげてびっくりした。モロコが一杯はいっている。その区間にいたモロコを一網打尽に全部とってしまったのである。なるほど,そういう戦略だったのか,と思った。

今ではもうこの水路にサカナは住んでいない。ヤゴもいないかも知れない。子供にも教えて見せてやれない。

2007-10-07

六本木ララバイ

1980年代に六本木に住んでいた。

ヒルズやミッドタウンで六本木が変貌する様子をたまに観察している。むかしは六本木にも風情はあった。もちろんアマンドの前にたむろしている若者の雰囲気は25年前と変わらないし、はじけたい若い女の様子も昔と変わらない。

ヒルズの地理が脳裏にないのだが、むかしは小さな公園があり子供も遊んでいた。東日ビルが昔のままなので、このビルを中心に考えると私の中ではよく整理される。

最近ついに、私が住んでいたアパートが取り壊された。いまは更地であり、これから新しいビルが建設される。これでとうとう、私が20代の頃にすんでいた六本木との物理的な証拠が消えて,いよいよ訣別ができる。六本木は朝まで明るいが、当時の私はいちばん暗かったともいえる。

芋洗坂をくだり、麻布十番に向かわずに右折する。この先端はいまは吉野家だがむかしは高級な天婦羅店であった。右折すると、たったひとつ入るだけの裏通りなのだが、すこしは落ち着きがあった。

当時すでに古いビルだった4階に住んでいた。となりに女の子が母親と2人で暮らしていた。まだ小学生になるかどうかの年頃だったから、いまはもう30歳を超えているということか。女の子は発語に障害があった。母親も高齢になったはずだが、女の子はどうなったのだろうか・・・。どこに行ったのか。切ない思いがする。
六本木を離れた後、何年かたって休日の六本木に行ったとき、中学生くらいに成長した彼女を一度だけ見かけたことがある。すっかり成長していたが、すぐに分かった。スラリとしてホットパンツで元気に歩いていた。まっすぐ前を向いて、足早だった。おもわず「マリアちゃん!」と声をかけそうになり、かけそこねた。六本木交差点は彼女の、そして私の日常生活圏であった。これでさえ昔の話だ。

六本木が変わっていくと、どこかさびしい気持ちになる。みんなで飲むと、必ず「ラーメンを食べたい」というやつがいて、必ず7丁目のほうに歩いて、大八でラーメンを食べるのであった。その大八も閉店して久しい。木造の建物だけは無人で残存しているが・・・。

screen

DVDレンタルは便利だが,どういうわけか忙しいと,何週間も観ないままになってしまう。

劇場に行くという行為の楽しさは確かにある。最近のように3連休がたまにあると,たまった仕事をしようと思いつつ,劇場に行きたくなる。

今なら,観たい映画は,どんな映画があるだろうか。

1.エディット・ピアフ~愛の讃歌~
2.さらば、ベルリン
3.大統領暗殺
4.ウィッカーマン
5.待つ女
他.パーフェクト・ストレンジャー

などか。
六本木にでも行ってみるか。

「エヴァンゲリオン」を同時代にまったく観たことがなかった。先日,劇場版の公開を観た。「鉄人28号」の世代としては,著しい進歩に驚いたが,高度化したのは感覚であり,精神に進化はない。

リモコンでなく,人体と一体化するリアリティーは感覚と技術の高度化だと思える。人類としての闘うDNAに本質的な変化はないが,抑制された闘争心の体現が,ヒーローの属性を変質させ,そこに綾波が小娘である必然性がある。また未来を託すのが少年である必然がある。

全人類よりも重い荷物はないから。淡々と引き受けるしかない。こういう感性はこの時代のものであり,どの時代のものでもあった。人はやりたいことだけをやって生きていくことはできない。関係性の中に規定される。

やらなければいけない事態を,ただ引き受ける人こそが,リーダーとして本質的なのだということが,作者にはよく分かっている。


大きな歴史性と,小さな歴史性の等価性。
目の前の個人への愛と死と,類としての人類への愛と死の等価性。

2007-10-06

統計改革と司令塔

10月から統計委員会(政府統計の司令塔)がスタートした。誰も興味を示さないかと思ったが,今日の経済面には第一回会合をうけた記事が掲載されていた。第一回の会合の傍聴には別の会議があって出ることはできなかった。

統計審議会よりは強い発言権を持つのかどうかは,政治的背景にもかかわる。統計法の改正はされたが,今後も「統計」の環境は厳しいだろう。こういう事態に「統計学」は無力か。

政府統計だけでなく民間統計も転換を迫られている。そして学術統計も。

2007-10-04

アカルサハ

・・・・



アカルサハ,ホロビノ姿デアラウカ,人モ家モ,暗イウチハマダ滅亡セヌ。

彼らは明るい・・・

暗いうちはまだ滅亡せぬ。



・・・・

2007-09-27

内閣の性格

調査主体(マスメディア)だけでなく,内閣の性格も影響しているかも知れない。発足直後の緊急調査(25,26日)の比較では,安倍内閣と違って,福田内閣の支持率の調査主体間差は「やや」小さい。支持率の最大差はポイント(不支持率は2ポイント)の差異。
ちょうど1年前の安倍内閣発足直後では支持率の差異はポイント(不支持率は4ポイント)。
8月の安倍改造内閣の直後は読売(44%)と朝日・毎日(33%)の差異は11ポイントだった。このときは「なぜ,これほど違うのか」という意見がさすがに出たが,ただマスコミはいつもと同じ測定装置で測定しただけである。クロス集計などから淡々と探索するしかない。

朝日・毎日が低く,日経・読売が高い傾向は変わらない。

福田内閣の発足直後<2007年9月25,26日>
朝日 53%(27%)908人
毎日 57%(25%)828人
読売 58%(27%)926人
共同 58%(26%)1025人
日経 59%(27%)660人


安倍の発足直後<2006年9月26,27日>
朝日 63%(18%)996人
毎日 67%(16%)1041人
読売 70%(14%)946人
共同 65%(16%)1035人
日経 71%(17%)720人


共同を除けば,各社とも福田と安倍の差異は10~12ポイントで安定している。




ところが共同は朝日・毎日・読売・日経のような構造ではない「外れ値」である。
なぜだろうか? 結局は不明だが,現象的に異なる調査管理である事実としては,共同だけが2日目の調査の終了時間を早く切り上げているという点である。通信社として2日目には結果が配信された。しかし,他社は2日目の夜ギリギリまで実施した。この違いがある。ただし,それは安倍内閣でも同じだ。福田内閣の場合は組閣が送れ認証式は翌日になったが,記者会見で閣僚名簿は発表され,そこから各社は調査をスタートした。共同は閣僚名簿発表よりも前に調査を実施していれば状況は違うが・・・。未確認。

2007-09-24

故郷

故郷に帰ると時間の流れと空間の広がりは変わり,東京で「仕事」をするようには身体が作動しない。数年来避けてきた問題にも直面しなければならない。

それでも肉親の父と母が健康なことに感謝できる。

精神の父は足が悪く視力も落ちて長女が一家の世話をしているという。
長女は私と同じ年に生まれ育った。時代の共有という勝手な親近性を確認してしまう。

肉親の両親にも,むろん及ばない。
精神の父には,ことごとく足元にも及ばない。
もっとも大切なものを学ぶこともできなかったし,理解することもできなかった,ということだ。

2007-09-08

そして神戸

 ことしは神戸大学でいくつかの学会が開催された。神戸も京都もいいところなのに,慌ただしく東京に戻り,遊ぶ余裕がないのはさびしい。

 三宮という地名を見たとき,「ああ,ここが野坂昭如の火垂の墓なのか」--と思いつつ,大阪のJRの座席の合理性にいつもびっくり。東海道線と違うのは,出入口の扉両側の4人BOXの背中側にも折りたたみ式の座席があり,みんな平気で座っている。慣れない東京人には無防備に思えるが,若い女の子も平気で座っている。私も,勇気を出して座ってみた・・・。

・・・・・・・・・


 統計学会は発表数が多いので,質問時間はほとんど無い。

 家計調査を観察した宇南山氏の恒常所得仮説の確認は,あざやかな分析だと思ったが,「日本では他国と異なり,仮説に整合的である」――という結論に,どうしても楽観的になれない気持ちが残る。

 家計調査は回答者負担の大きい調査であり,抽出地点において調査員が協力依頼をしても拒否されることが多い。平均的には3.3世帯に1世帯の協力という。つまり「日本の」世帯の3割の協力的集団だけを調査しているデータの観察結果ということになっていないだろうか(単身世帯率も考慮しなければ議論を間違える危険性もあるが)。世帯は,ある種の割当標本になっている。

 その3割の世帯標本は半年間にわたって家計簿を記入して調査協力のできる余裕がある。当家のことを思うと不可能と思えるような,丁寧な,几帳面な家庭である。そういう家庭は所得も日常も安定しているし,そのような家庭は将来のこともちゃんと考えており,退職後に突然,支出を切り詰めなければならないような「いい加減な」世帯ではない--のではないか,と考えてしまう。

 つまり「日本においては恒常所得仮説が確認できた」のではなく,結果的に整合的な世帯をスクリーニングしたことになっていた「日本の3割の世帯を代表母集団とした家計調査データが仮説整合的であったことが確認できた」ということになるのではないか。
 これは分析の問題ではなく,データの問題である。枠母集団の再定義が必要なのだ。「日本の5千万世帯」ではない。比較的(所得も精神も)余裕のある3割が,代表母集団だから仮説に整合的に見えた,という疑念を捨てきれない。7割の非協力世帯も調べた時にはじめて,胸を張って検証的表明を主張できる。

 割当標本のスクリーニング効果(選択バイアス)は,家計消費状況調査の回収率低下を分析した佐藤氏の報告でも確認できる。この調査を受託していたSJCの不正が発覚した時に,回収率は75%から69%に急落し,業者変更してNRCとRJCにしたら61%にまで落ち込んだというデータの分析だ。(役人に業者,業者といわれると少し気に障る。確かに手前供は業者でございますが。Aスーパーは裏口に業者出入口という看板があるが,Bスーパーの裏口には,御取引先様出入口という看板があるという。Aの業績は悪化し,Bは好調だ)。

 回収率低下によって「几帳面な世帯」の増加を探索した報告は興味深いものだった。この分析も見事だ。こういう観点は統計のメーカーらしい。しかし,そう言われてみた後では,この観察・発見は常識的だという気持ちにもなる。佐藤氏も示していたが,協力標本の持家比率が母集団(国勢調査)より高くなることは,いくつもの調査で安定的に観察できる。その一連の知見である。
 また回収率が75%というのは常識的でなく,61%のほうが現実的なような気がする。割当標本(一種のパネル)という事情があるのだが,家計調査はもっと高い回収率だから,ひょっとしたら割当標本調査のコストは無作為標本より高いかもしれない。

 SJCが75%の回収率を維持していたのはノウハウ(能力)があったのかも知れない。具体的なことはわからないが,無作為標本の回収力ではなく,協力してくれる世帯の割当と維持の問題である。長期間やってきた業者を変更する際には,ノウハウ継続も必要だ。業者変更のたびに回収率が一時的に低下するだろう。
 しかし,ノウハウとも言えないこともあるだろう。世帯抽出(選択)において,あるいは回収時点において,調査員がどう説明しているかも想像する。「面倒だよ」「大変だよ」という言う回答者に対して,「そんな細かい数字はいりまへん。1万円単位でもわかる範囲で結構ですわ。とにかく記入してくなはれ」と言っているのか,いないのか。

 不正事件のあとだということもあって,変更後の業者では「几帳面な」現場管理がされていて,回答者にも几帳面に要請していた結果かも知れないし,あるいは協力依頼の際に,記入負担の説明を低めに伝えて,回収時点になって拒否されてしまったのかも知れない。「簡単ですから頼みますよ」と最初の敷居を下げるのがいいのか,「大変ですけど」と説明して協力世帯の選定に手間をかけるのがいいのか?

 データ生成のタイミングから離れるほど,データ分析結果における誤解の危険性が高まる。

2007-09-07

ダイアローグ

近鉄で京都に向かいながら,K野さんが企画テーマの話をする。
木村先生の企画セッションのタイトルは「科学か技術か」「定性分析は定量分析に勝つか」という具合に面白い。集客力がある。
今日的課題へのアプローチの方法として抽象化すれば,対立概念をタイトルにしていることに共通性がある。
そこでK野さんがスラスラと「統計学に数学は必要か」「多変量解析に未来はあるか」といくつも来年のテーマ案を口にする。こちらは対立関係になっておらず,将来性や必要性というコンセプトのタイトルになっている。
知的運動形態としての弁証法が企画セッションの中で実現するわけではないが,集客力という機能は重要である。「因子か主成分か」とか「検証か探索か」とか「帰納か演繹か」とか・・・。

批判と反批判というダイナミズムの中から本当のことが見えてくることはあるのだ。人間は追いつめられると本性が出るように。

「官か民か」「産か学か」「論理か直観か」「知性か感性か」「潜在か顕在か」「意識か無意識か」「源初か極限か」--という対立によるコントラスト強化の戦略は,欧米の弁証法だけではないはずだ。乾坤などの易経の中にもある。もちろん複雑系の中にいるのに二項対立は単純化すぎる側面はある。しかし基本的である。また自然の中にあるシステムになっているともいえる。「有機と無機」のように。「オスとメス」のように。「右脳と左脳」のように。「右手と左手」のように。「保守と革新」のように。

対立と干渉と変転と連続。

「ベイジアンかフリークエンティストか」なんていうのも出たけれど,S桝さんは,飲んだくれ会を企画提案。

ほんたうに,余裕がなくて読んでいない・・・後悔しない意思決定。

2007-09-06

指定討論

 久しぶりに指定討論。

 インサイト・マーケティングって何かと思ったが,朝野氏の解説では,起源はフロイトだという。マーケティングにフロイトは大袈裟なようでもあり,理念的には当然でもありそうな。もっともフロイトを勉強していないから理解しているわけではないが・・・。
 無意識の領域に関しては,人生を振り返る限り納得できる。大脳の皮質の奥深くというフィジカルな対応も信じられそうだ。これが消費行動と関連つけられるまでは距離がありそうだが。
 一般的にだけいえば,私ならどうしても潜在変数と顕在変数の対応を考えてしまう。

 そういう意味では小代氏の投影法は話題としてのつながりがある。風呂のコンセプトを引き出すのに,抽象的な写真を見せるというわけだが,これは本質的なコンセプトが欲しいために,被験者には現象的な刺激を提示して,ふたたび本質的な共通性を抽象していることになる。言語ではなく画像を使うことで,論理ではなく直観を利用していることになる。

 井上氏には量的なる芸術家というイメージがふさわしい。多重共線性を回避するためにラフ集合を使うのはよいとしても,ほかにも手段がありそうだ。重回帰分析をしているところでは,どうしても「SEMならいいのに」と思ってしまう。検定も登場するのだけれど,計量的な側面だけでみると,厳密性の程度にムラがあるような気がする。
 むしろ,何が面白いかといえば,いろいろな計量的方法の組み合わせではなく,デザイナーの創造性へのジャンプの瞬間である。統計手法をレトリックに貶めることなく,ジャンプできるかどうかが井上氏の研究の真価である。

 藤居氏のスキャンパネルの研究は,抄録集にあるような「革新者クラスター」においても,すべてが影響者ではないという発見に興味があった。このパネルには,どうしても研究よりもビジネス展開に興味がいってしまう。ミルミルよ,どこへ行く・・・。

 河野氏の自由記述回答の研究は実践的な意味がある。質問紙調査の自由回答は二次的というポジションを超えるところに興味を共有できるのであるが,結論は先のようだ。これは難しいし,見つけたら絶対に発表なんかしない。私なら。

 田久氏のプレゼンテーションはいつもの調子で人柄が出ていた。コーホート研究に言及されたので,ネットパネルで,どのようなコーホート研究ができたか,そちらに興味がいってしまう。プロモーションのための知見は得ていたと思う。男女差のカイ二乗検定は必要ないのではないだろうか。母集団が分らない。

 池内氏のブランド選択モデルは,いわゆるマーケティング・サイエンスの分野で一般的な方法の適用なのだが,このような消費者行動モデルの研究にはいつも同じ感想がわく。交通の分野で実際的な成果があり,ノーベル賞ものだとは思うが,消費者に購買してもらう目的を持っている企業には実践的貢献があるのだろうか,というものである。
 22901人もの回答を得ながら,761人で分析していく過程には注意が必要だ。「条件にあう」回答者に絞った分析であることは最後まで影響する。
 考慮集合の4ブランドだけを回答するところと,全部のブランドのパラメータを示した表との関係はよくわからなかった。回答しなかったブランドに関するパラメータの推定方法はどうするのか。
 そのうえでブランド・ダミー変数だけで潜在クラス分析をしているが,回答者は4つ以外のブランドには回答しなかったので,その他のブランドのパラメータはクラスタリングにどう関係しているのか,という疑問がわく。
 クラスターの結果は常識的であり,このデータをクラスタリングする限り,潜在クラスを使わなくても伝統的な,たとえばk-meansでも同じ結果が出そうである。潜在クラスを使うメリットを示さないと,単に,新しくて難しそうな(有難そうな)手法を使ってみた,というだけになってしまう。学者のような研究に落ちていかなければいいが。
 コンジョイント+潜在クラスというコンビネーションは,芳賀・豊田(2001)がやったわけだが,そろそろ普及したということか。

 中山氏のMDSは面白かった。研究者としての姿勢が一貫している。ところで2商品間の距離,あるいは関連性は対称だろうか。非対称ということはないだろうか。非対称MDSはここでは使えないだろうか。

2007-09-05

京都の恋

むかし「京都の恋」という歌謡曲がヒットした。
京都はロマンチックである。その京都で学会があった。

「内閣支持の構造と差異-小泉と安倍」という,学問的貢献の薄い報告をしてきた。

内閣支持率のメディア間の差異が大きいという議論があるけれど,こんな話は少し調べたら,すぐに観察できる。

発足直後にも週刊誌で同様の議論があり,「広研レポート」にコラム「安倍内閣支持率はバラバラか?」を書いた。
今回は改造後の支持率なのだが,各社がいっせいに同日紙面に結果を掲載すると,比較の実例を見せられて、大きく違う、そんな気分になるわけである。
しかし,この差異は今回が特別ではなく,昔から存在し,安定的に存在を継続している差異である。そして差異はランダムではなく傾向的であり,偏りと呼ばれる差異,すなわち非標本誤差である。その大きさはしばしば,標本サイズから計算した95%信頼区間よりも大きい。

<小泉内閣>の時代。
同一週で実施された世論調査において,安定的に大きな差異を示していたのは「読売-時事」である。平均的に9ポイント差があった。最大で12ポイント差があった。
学者がよくいうのだけれど,「電話と面接では違う・・・」などというようなことを。しかし読売と時事はどとらも面接であり電話ではない。(読売の電話は緊急調査であり,定例は面接なのだが,この比較は面接のみである)。
時事はNHKとも差異が大きい。最大で13ポイント差を記録している。平均的に7ポイント差である。
時事の内閣支持率の絶対値はいつも低水準であり,反対に読売とNHKは高水準である。
読売とNHKと日経の支持率は,時事を下回ったことは一度もなかった。
そういう観点でいえば,NHKの支持率は,朝日を下回ったことがなかった。しかし,平均的には3ポイントの差異に過ぎない。しかも相関係数は0.99( n = 8 だが)である。

<安倍内閣>では,まだデータ数が少ないのだが,
やはり,「読売-時事」の差異が最大である。14ポイント差をすでに記録している。同一週では3回しか実施していないが,その平均的差異は11ポイントだ。
「時事-NHK」も14ポイント差を記録した。平均的に9ポイント差がある。
「朝日-読売」はよく言われるように,読売が高い。確かに安倍内閣の7回の調査で,読売が朝日より低い支持率を記録したことはない。最大で12ポイント差の事例もあり,平均的に8ポイントもの差がある。

2社間の支持率の差異の%(ポイント)の分布はヒストグラムと散布図を観察すべだが,要約統計量だけでも示しておこう。




発表では試みとして,同一週のデータ事例の少なさを補うために,線形補間してみた。
そのヒストグラムを観ておこう。小泉内閣の「朝日-読売」の支持率の差異の%(ポイント)のヒストグラムと箱ひげ図。




安倍内閣ではこうなっている。



小泉内閣支持率,6メディア(および平均)





安倍内閣支持率,6メディア(および平均)


2007-08-10

冒険者

数十年ぶりに「冒険者たち」(1967)を観てしまった(DVD)。

40年前の作品と40年前の若者。まだ戦後20年だったな。要塞もドイツ軍もユダヤ人もリアリティーがあった。
アラン・ドロンも骨のあるいい感じで,モテない役をやるといい。決してヤサ男ということはない。

友情と,抑制された三角関係。まだ何かを信じることと,未来への可能性があった。

漱石の「こころ」だと,こんな三角関係にならないわけだが,フランスの三角関係もいいもんだ。しかし女が素直にコクるのが,どうも気に入らない。この女は死ぬしかないな,という必然性がそこにある。
もし,そこまで描いたのなら監督とはたいしたものだ。この告白は三角関係の均衡を終わらせるわけだから,だれか1人は消えなければならないからだ。作品はだれか1人を消すのではなく,だれか1人だけを残した。ここにも予想外があり,厚みが感じられる。

フランス映画らしい心理描写は,とてもいい。博物館の子供に,彼女の面影を見つけたところなどは深みがある。

こういう作品を観ると,確かに俺にも若い頃があって,学生時代もあって,いまは50歳の中年なんだなあ,と思う。
こんな映画を観ると,「夢のカリフォルニア」や「イパネマの娘」なんか聴いたりして。20歳だったころを思い出す。

「レティシアを海に沈めるシーンが,とてもいいの」なんて言っていた女がいた。


なんで,これがレンタル・リストに入っていたのか・・・?

2007-08-09

どうする

あまりにも遅れてしまった仕事。

どうするの。

あすは早く起きてやる。

夏休みは返上してやる。

その気になればできるはずだ。
気力と体力しだいだ。

借りができた気分。
これから返済していかなければいけない。

2007-07-25

積荷

参院選前に一息ついたが,昼間の本業以外の部分でも,これまでの積み残し案件がいっぱいだ。
ToDo Listでも作らないといけないほど密集している。

第一優先はJMRAのレポートなのだが,先にJMAの資料は今夜完成させなければいけない。
3つめは広告本の原稿も8月早々だ。速記録がきているけれど,いつもアドリブ派の私にとっては,書き下ろしするしかない。でも,今回の感想だが,自分のオリジナルで書けばいいという感触を持った。他人のテキストなんか参考にするからだめなんだ。
4つめにコラム。10日には入れなければならない。コラムを書いていると,ブログを書かなくなるような気がする。
5つめ。学生の成績も8月締切で時間さえあれば,すぐに終わるけれど,先延ばしにすると,忘れてしまうことがあり,できれば頭の中にあるうちに済ませたい。
おおっと,その前に行動計量学会の原稿の締切がとっくに過ぎていた。これも分析して書かなければな・・・。
この1週間で6つのToDoか。

あとは外部の委員会・研究会がどれくらい響くか,だな。
政府関連の委員会が2つ。業界の委員会と研究会。合計4つか。短かいのは半年,ながいのは2年。月1回だから,と思ったが,4つということは毎週じゃないか。仕事とはいいつつ,楽しい側面もあるとはいいつつ,意義あるものだといいつつ,知らないうちに増えるものだな・・・


暑気払いの季節。ビール飲みすぎ。コンタクトつけたまま寝てしまった。ついにやってしまった。角膜に少しキズつけたか。眼科にいく。
「男の方は,お酒飲まれるからねえ。飲むときはメガネになさってね」
「はあ,そうですよね」
「しばらくはコンタクトしないでください。お酒もだめです。治りが悪くなりますから」
「先生,ちょっとくらいなら飲んでもいいんでしょ」
「ほほほ,お好きな方は,飲んだら,やめられないでしょ」
「そうですよね。1か0ですよね。眼のほうが大切です」

2007-07-20

日程

もう,こうなると緊張感もほぐれて,どうしようもない。終わった。

読売が7月14~16日に実施して,18日付で報道。

朝日はいましがたネットに出した。17~18日の調査。20日付ということになる。
読売の速報に反応したわけでもないだろうが・・・。

共同通信の立場はたいへんだな。

毎日と日経は・・・。

もとはといえば安倍首相が日程を延期したことに遠因と特殊要因があるということにしよう。

ことしの夏はやけ酒だな。ちゃんと付き合って下さいよ,諸賢。

2007-07-16

記憶

今朝の履歴書で長嶋が,1968年9月18日の巨人・阪神戦を書いている。バッキーが王にビーンボールを投げた試合だ。11歳の私は白黒TVで観ていた。
ただ記憶違いがあった。死球を頭部にあてたのは,バッキーではなくて権藤(正利)であった。
私は,バッキーが死球をあて,そのあと大乱闘になったのだと記憶していた。また殴りかかったのが荒川コーチだというのも知らなかった。(バッキー荒川事件というらしい)
バッキーがあとずさりしながら逃げていき,全員が飛び出し,ぼこぼこに殴られるシーンは覚えている。

王が死んだ。

小学生の私は,タンカで運ばれ,足を曲げたまま硬直した王を観て,そう思った(翌日の試合に出たが)。

長嶋は,その後の打席で権藤からホームランを打った。


その後,あまり印象的シーンはないが,阪神が20世紀最後に優勝した翌年,バースが江川から場外ホームランを打ったシーンはすごかった。
当時,バースは絶好調であった。バースはベースに近く構える。あの巨体で,おおいかぶさるように。そこに江川はインコースに投げた。
TVで観ている限り,とうてい打てないコースに思えた。しかしバースがスタンスも変えずに,振り切りインコースのストレート(だったと思う)をライトスタンドの上に叩き込んだ。白球は闇夜に消えていった。どこまで飛んで行ったのか。

忙中

「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」(1975)を観た。レンタルしたのは1月以上前,この間,いずれの週末も映画1本見る余裕がなかったことになる。といいつつ,今夜に余裕があるわけではない・・・。

田中絹代の話が面白かった。溝口監督の作品などひとつも観たことがない。新藤兼人の履歴書を読んで,この作品をレンタルした。
溝口は私的にも田中を好きだったようだが。

新藤兼人と乙羽信子の関係もすごいというか,たいしたもんだというか。
この夏,新藤兼人の「陸に上った軍艦」が公開されたら,観に行こう・・・。いつ封切だろう?。参院選の前日で渋谷か。予約ができるのか?


同時に借りていたのは何故か「トリスタンとイゾルデ あの日に誓う物語」(2006)。
確かに,スパイダーマンに出ていた,確かにサンダーバードに出ていた。しかし,まったく違う印象。
2人ともいい感じだった。ラブストーリーは「いい感じ」に決まっているけれど。

とにかく,いろいろな角度から人間を描いている限り,どの作品にも核心は存在する。

2007-06-23

追いつめられる

いよいよ気分的に余裕がなくなってきた。

近づく参院選。毎日の仕事。将来の構築。手のつけられないレポート。原稿締切。講演。講義。委員会。子どもたち。・・・・

5月の人間ドックの結果は,それなりだが,その後も体重は減らない。ジムに行くような時間がない。週末だけでも行けば維持できる。2回行けば改善する。半月も行かないと,オナカはビールに負ける。50歳からは意識的に整備しよう。



BMI=22.4なのに,腹囲88.5で「高値」というコメント。これでも数年前のズボンがはけるようになったのだ。
脂肪肝と胆のう胞が消えた。少し運動したせいかと思う。
LDLが増加。しかし家系をみるかぎり動脈硬化にはなりそうな気はしない。
ここ数年,胃カメラを飲んでいる。昨年はあれほど自覚症状を訴えたのに,「何もありません」だったのに。今年は何も言わないのに食道裂孔ヘルニア。これは昨年からなのだ。見落としたんだな。たまに気になる。
委縮性胃炎はいつものこと。気の弱い性格だからなあ・・・。ストレスで胃癌になるタイプである。親族にも癌は多い。
聴力が若干の低下というが,あれはその気になっていないと聞こえないような・・・。しかし晩年は耳が遠くなるだろう。祖先がみなそうだから。

2007-06-18

29%

時事通信の6月(8日~11日)世論調査(面接法)で安倍内閣支持率が3割をきって29%となった。ニュースはあるが,タイミングでもある。
時事の安倍内閣支持率の絶対値は,マスコミ各社の中で,いちばん低い。朝日や毎日より低い。
たまたまNHKが同時期(8日~10日)に実施しており(RDD法),こちらは37%であった。
読売はRDD法(5日~7日)で33%だった。

2007-06-03

半端はいけない

各社の内閣支持率の相違を久しぶりに,まとめて観察してみたい。
少し始めたところで「広研レポート」のコラムに書いてみた。安倍内閣だけ特別なことはないかも知れない。

データを用意する作業が大変。各社が協力してくれるけれど,できるだけ自分でやろうと思い,図書館で調べたけれど,もうこんな作業もできないトシになったなと思う。秘書が欲しい。

もう7月まで,ほとんど余裕はない。余計なことなんかできない。

しかし,よく遊び,よく学べ,である。

中途半端がいちばんいけない。

2007-05-31

誤変換

行動計量学会報の巻頭言で,誤変換していた。現役記者だったらとんでもないことになっていた。もっとも必ず校正される首相の名前。
あんなに注意していたのに,注意しながら誤変換。IMEの責任のようにも思うのだが・・・。

ああ,穴があったら入りたい。

バリ島のホテル(コンラッド)で,空港に出発するまでの時間,ビジネスセンターにこもって書いた。それなりに焦ってはいたが,時間的には間に合っていた。余裕でメール送信したんだけれど・・・。失格だ。

ビジネスセンターのスタッフ女性はとても好感がもてた。

2007-04-23

突入せよ

統一地方選挙が終わった。参院二補選も波乱なく終わった。

これでもう4月もわずかで,5月連休があければ,あっというまに2007参院戦に突入する。
補選を除いて安倍政権で最初の国政選挙。どのような結果になるのであろうか。忙しくなりそうである。

小泉改革の継続としての格差問題が表面に出ている。安倍の目指す憲法改正は今のところ必ずしも参院選の争点にはなっていない。おまけに亥年(統一地方選+参院選)。盛り上がらないのか。


戦後60年である。

事実関係として団塊世代は,私たちの常に先輩であり,10年先の見本(良否は別として)であった。いま先輩たちをみると,話題は老化問題(老後)であり,訃報である。


戦争が終わり1947年に生まれ,戦後民主教育を一身にあびて成人する1967年頃から学生運動に没入し,20代から30代をさまよい,不惑の1987年にいたっても仲間の裁判闘争をかかえた家族の面倒をみ,自分のこども(団塊ジュニア!)を育て,1997年の世紀末に50歳を通過。そして2007年にちょうど60歳。

癌で亡くなった・・・さん。

明確になった死を前にして,かつての交友を謝絶したのは,本人の意志だったのか・・・

この世代は濃い関係性が象徴的だと思っていたが,むろん私の周囲に限定した関係かもしれない。企業内の団塊世代は現在トップを構成している。私のつきあった団塊世代はなんとか卒業はしても,すんなり既定社会の枠内に収まることができず,仕事もさまざま,しかし仲間とはよく付き合い,何かを始末しきれずいるうちに,訃報をきくと,何かを抱えて,それはついに人生全体にまで及んでいたのか,と思う。

2007-04-16

水泡に帰す

久しぶりに体重計に乗ったら69Kgになっている。オナカも少し出たようだ。筋トレメニューも疲れのせいか1セットしかできない。
せっかく68Kg以下にまでシェイプアップしたのになあ。努力した4か月で5Kgも脂肪を減量して,サボった2か月で2Kgも増えた。
年が明けてから忙しくなって,肉体的整備を怠った成果である。体重がこんなに容易に変動するものとは思わなかった。

5月1日の人間ドックでは,減量を褒めて貰おうと思っていたのに,努力は水泡に帰すのか・・・。

忙しい → 運動しない → 夜中に飲む・食べる

これから暑くなるとビールの消費量も増える。ますます危ない生活。

新年度が始まり,いろいろと時間が減っていく。「読む・書く」時間は減る。原稿2本,気が重い。
働く時間は増える。レンタルDVDはかるく1月以上は返却していないから余裕もないのだ。映画を1本も観ない月が増えそうだ。会費だけは自動引き落としになる。休会なんてケチなことをせず,文化的生活の回復に努めよう。心を入れ替えて。

なんとも時間の使い方がヘタなことか。

2007-04-03

見識

世論調査が電話法に転換したことで始まった速報化は,日曜組を常態化し,場合によっては土曜組,緊急時には平日調査という現象を生みだした。世論調査はそれじたいがニュースであり,ニュースは早いのが命であり,とくに通信社であれば絶対的である。

最近,朝日は月曜組をやっている。速報競争状態にない場合ということでもあるが,事情は知らない。調査の立場からは見識である。日曜の夜まで落ち着いて調査する。月曜組になるが,朝から結果は出ていて夕方までに記事を書く時間がある(夕刊にもNETにも書けるが)。

日曜の夜しか在宅しない人々がいる。この層をどう考えるか,である。

2007-04-02

いつでも夢を

新入社員諸君,入社おめでとう。

 僕らは君たちと仲間になることができて,とても嬉しい。
 また,君たちの若さが羨ましい。君たちには未来があって可能性がある。僕らのように過去を反省している立場とは違うのだ。とても眩しい。

 しかし,そんな若さに嫉妬しながらも,これから会社員をスタートする諸君に何か言いたい気持ちもある。つまりお節介を焼きたいのだ。僕らはトシをとったけれど,こんな苦労もしてきたんだよ,といい気になって語ってみたいのである。

 ほんとうは君たちを夜の酒場に連れ出して,おいしい酒を飲みながら説教をたれる方が気持ちいいのだけれど,こんなしみったれたオジサンには誰もついてこないので,ブログという場所で我慢します。

(1)仕事をバカにしてはいけない
 大学で高度な研究を終えて会社員になり,仕事を与えられてみると,なんだかバカらしい作業に思える。また先輩や役員もバカじゃないかと思える。
 しかし,つまらないと思える仕事でもバカにしないで誠心誠意,心をこめてやって欲しい。君たちはまだ全体が分からないから目の前の作業がつまらなく見えるのだ。そう思っていて欲しい。先輩だって最初は簡単なことからアサインするのだ。
 そうして経験してみてから、なお無意味に思えたら具体的に提案し、改善しよう。もはやその時は、君の改革案に皆が一目おくことだろう。
 もし君たちがバカらしいと思いながら仕事してミスを混入させたら,あとで重大な結果につながることがある。そんな時,先輩は君たちをかばって,クライアントに出向いて深々とアタマを下げてくるのである。先輩たちはそういう責任も負いながら君たちを育てている。ナメてはいけないよ。

(2)ミスしたら何をなすべきか
すぐに上司に報告しなければいけない。たいへんなミスをすると動揺する。そして何とか自分の手中で始末しようと焦る。そうやって時間が過ぎる。傷が深くなる。落ち着くんだ。すぐに上司に報告しなさい。必ず助けてくれる。罵倒されると怖れるな。怒鳴る上司もいるかも知れない。しかし君が日ごろからまごころ込めて仕事をしていてミスしたのなら、必ず助けてもらえる。そういう安心感が会社には必要だ。

(3)簡単に辞めないで欲しい
 僕らは君たちを採用するために,長い時間をかけ,いろいろ気を遣い,会社のお金も使っているんだ。最低限の義理というものがあるでしょう。それに長い時間を展望して育成していくつもりだから,給料だって最初は低いのです。あっという間にベンチャー成金になるわけではない。少し我慢して仕事を始めようではないか。
 売手市場だから「3日で転職先を探し始める今年の新入社員」などという解説もあるけれど,そういう社員は部分だけ使い捨てにされるだけだ。それでいいのでしょうか。有能な社員とは何か持っているものです。プロとしての価値ということです。それは3日で転職していたら身につきません。
 どうしても曲げられない事情があるなら,辞めるのは稼げるようになってからにしよう。会社への借りを返してからだ。

(4)仲良く仕事をしよう
 幼稚園じゃあるまいし、何を言うかと思うでしょう。会社は仕事をするところであって、仲良会ではない。しかし、毎日気持ちよく働きたいでしょ。
 会社というような組織にはイヤな奴がいるものなのだと思っていたほうがいい。グチグチ文句を言ったり、邪険にしたり。仕事も責任も押し付ける。自分が正しいと信じて周囲が見えない。そんなことが君にも起きるかも知れない。特に新人はデキないから、標的にされやすいのです。
 でも、考えてみましょう。その人はどうして、そんなにイライラしているんでしょうか。その人にも事情があるのです。理解してあげましょう。それだけです。
 要するに、僕らはいい仕事がしたいのです。社内の人間関係がうまくいき、現場に活気があって、冷静な判断がなされ、よく儲かって、みんなの給料が上がるというサイクルになっていればいいだけです。

(5)勉強しよう
 しかし、「学者」になってはいけない。会社は学校じゃあないんだ。勉強しなければよい仕事はできないけれど、会社は君たちを学者にするために給料を払っているのではない。仕事をしてもらうためだ。
 学者になると、むつかしい言葉を使って口が達者になる。しかし,そういう人が仕事ができるとは限らない。重き荷をくくりて、人の肩に乗せ、おのれは指にて、これを動かさんともしない。そんな「学者」になってはいけない。そんな人がたくさんいたら会社はやっていけません。
 流行のビジネス書をてっとり早く読んで、新語と横文字を操ると、デキそうなビジネスマンに見えると思うかもしれない。底が浅いだけです。若いうちから世渡りばかり上手になってはいけません。もっと本質的な勉強をしておこう。
 僕らの仕事の専門分野のひとつである調査や統計について、大学の先生に聞きに行っても仕事の解決になるような教えがもらえることは少ない。僕らのほうが詳しいのです。僕らはその道のプロなのです。そのくらい勉強しなければ、いい仕事は作れません。勉強しましょう。仕事しましょう。

・・・・

 嗚呼,説教はじめると止まらなくなるので、この辺でもう中断します。


 初心を忘れないで、いつでも純粋な初心を思い起こそう。君たちもやがて汚れて成熟していかなければなりません。成熟によって喪失する純粋には、立ち返るべき価値があります。
 そこそこやって誤魔化そうなんてミミッチイ考えをもったらオシマイだ。
 うす汚い根性は捨てて、大きなヴィジョンを描こう。

 いつでも夢を♪

2007-03-26

東京のカエル

きょうは大学の卒業式。
小雨だが,なんとかなった天候。あすからはすっかり春。

今夜も温かいせいか,あちこちから路上にカエルが出てきた。ヒキガエルである。その数,なんと十匹くらい。

珍しいので写真をとった。携帯カメラを近づけても逃げない。これでは交通事故死するわけである。

夜なので見えにくい。

晴れ姿の卒業式とは対照的で,気持ち悪いかも知れないが,東京のどまんなかで,池もないのに,堂々と道路に出てきて産卵である。
オスが3匹くらい乗っているのもあった。

子供のころからカエルで遊んでいたが,私の実家ではトノサマガエルが多く,ヒキガエルはあまり見ない。東京のカエルも巨大でたいしたものだが,ヒキガエルは美しくないねえ。グロテスク。そもそもカエルは青いものだと思っていた。こんな泥のような色をしているなんて・・・。水が違うんだなあ。



2007-03-25

個人情報保護法と戦争可能性

城山三郎への追悼文章があちこちで出始めた。
晩年,個人情報保護法への反対を表明したことも書かれる。

城山三郎の反対表明の背景としては,言論保護との対立という説明をされることが多い。情報保護という美名をつけた情報隠蔽という可能性。

本質的な注意はどこにあるであろうか。

個人情報を保護することは善いことである。善いことが組織的に準備されると,いつでも悪に転化するという原則に,本質的な問題がある。しかも最初の善意と無関係に悪化していく。

ボランティア,NPO,社会運動,善いことを組織的に推進すると,いつでも悪に転化する可能性を帯びていく。こういう逆説的な思想は,ひろく理解されることが難しい。

ナチの青年たちは明るく,とても健康的で,やがて大量虐殺を実行していきそうには,とうてい見えない善だったかったかも知れない。

善いことは,しようと思ってしてはいけない。数と組織に頼んではいけない。黙って淡々とやればいい。やるのが大変なことなら,カネ(対価)をとって有償行為として労働化すればいい。善行をネタに商売するなんていけないことだわ,なんておちょぼ口でいわず,正当な対価で実施するほうがよい。

無償の行為が美しいかも知れない美は,社会的に組織された善行の中にはない。
ただ1人の人間が,もう1人の人間に対する関係の中にしか発生しない。

善いことを声高に実行している人を見たら,まずは疑ってみることだ。

2007-03-22

メディアと政治

蒲島・竹下・芹川『メディアと政治』有斐閣
の新聞広告をみかけたので,さっそく amazon で買った。
すぐに到着したので,ざっと眺めてみた。

全部を通読したいけれど,読み残してある方が先だという順番もあるので,私にとって永遠に「アタマが上がらない人」の一人である芹川さんの章を急いで斜読した。

「あとがき」(蒲島)が面白い。

新聞記者にとって,原稿の締切を守らない人間なんて,存在を許されない,のである。

私だって,最初は原稿締切を守っていた。しかし学会で締切を守らない人もいる。学会大会なんて「あとは当日発表」というテもある。ジャーナルでも遅い人がいるから発行が遅れる。書き手もそうだが,編集者が忙しい時もある。レフリーの返却が遅いこともある。
もちろん学術研究だから,あわてて書くのもいけない。落ち着いて研究したらいい。しかし社会には常識的な時間というものがあるのだ。

本の原稿もそうだ。

しかし,全員がそういうわけではない。とても早い人もいるし,着々と書く人もいる。実力が違うのだ。時間のせいにしてはいけない。

会社員は就業時間外で原稿を書いているのに,締切を守る。組織で生きてきたそれが習慣である。新聞なら締切までに記事原稿が書けなければ,とっくの昔に記者はやってられない。

私も,堕落したのか・・・本当に守れなくなった。老化でもある。
(ああ,本当にごめんなさい,高○さん)

2007-03-18

Vista 購入の後悔

2月に新しくノートPCを買った。ちょうど買い替え時期とVistaのリリースが重なったために,OSはVistaにした。

失敗であった。いまだに使えず,放置してある。

世界的なソフトウエアなのにインストールさえできないもの,実行できないものが数本。

Office2007は動くけれど,他社の組み込みソフトはだめである。翻訳ソフトなども動作しないと周辺の購入者から聞いた。

高級仕様にしたので20万円。無駄使いした。
取り急ぎ一番安いノートをXPで買った。7万円。
PC会社ばかり儲かる結果に・・・。

ハードウエアメーカーのHPにはVista推奨文がある。
MSは他社のソフトのサポートに無関係。

誰も責任者がいない。購入者の自己責任である。

2007-03-06

逆境

立ち上がれないと思えるほどのダメージを受けたり,すべてが脱力するほど落ち込む事態に追い込まれたりすることが人にはある。逆境である。人によって何に傷つきやすいかは異なっているけれど,その人にとっての打撃は,間違いなく打撃である。

私にも,そういうことは何度もあったように思う。

しかし,どうやって切り抜けてきたであろうか。切り抜けられなければ自殺してしまうような事態か,切り抜けないなら逃走するかしかない。子供がイジメで自殺するのは,どこにも出口がなくなってしまうから,自分を消してしまうしかないと決心するからである。心が先に死んでしまうからである。

大人の逆境はどうなのであろうか。その人なりに切りぬけるしかない。他人が救済することができないし,励ますことすらおぼつかない。

私は,これまでの人生で最大の逆境を思い出す。それを思い出す余裕すらないこともあるが,ふと極限だと思えるような場所で,これまでの最大の困難を思い出す。それに比べると,この困難はたいしたことがない,ということになる。

それが逆境に強いかもしれない私の秘密かもしれない。

もう1つは,一般的なことだけれど,自分自身だけの力では生きていけない時期,つまり乳児期とかそういう時期に,つまり愛されるしか術がない時期に,じゅうぶん愛されたかどうか,ということが何かを決めてしまうように思える。生きていけない人はいるのである。

少なくとも社会は,家族とは違って,甘くないから,いつでも困難はそよ風に乗って襲ってくる。

簡単に逆境の前にくじけてしまう奴がいる。

私は本当に甘い,甘えが,実は嫌いではない。そんな甘えに静かに浸っていたいと願う者である。

しかし,無責任な身勝手に過ぎないような甘ったれには,断固として臨む者である。

2007-03-04

最初の経験

宮城まり子の履歴書の書き出しに,いい話がある。私の母よりやや年上の80歳。人間にはいつまでも,こどもの頃の強い記憶は残るものだなと思う。潜在化した記憶・体験も含めて,出現と同時に多くは規定されてしまうと言い換えてもいい。

小学校の入学式で,ついに自分だけ名前を呼ばれなかった。そのまま帰宅した。家政婦が小学校を間違えた。という話である。
翌日,父と小学校を訪れて校長室で1人だけの入学式。昨日の父は母の入院先に行っていたから。娘に詫びる父。何とも思っていない娘。入学してはしゃぐ。

最初の予期せぬ経験に対して人は無垢でいられる。そうでなければ,自分だけ名前の呼ばれない入学式など,想像を絶するものがある。

私も事情があって,小学生の息子と離れ離れに暮らしている。どの家庭にも,その家庭に見合った不幸は存在する。

作品はほとんど見たこともなく,吉行を経由して,なんとなく名前だけ知っていただけの,宮城まり子。

2007-03-01

啓蟄

このまま春になる稀有な年である。御茶ノ水駅のホームに立つと,川べりに開花した桜が見えた。確かに桜に見える・・・。本当に桜であろうか?

今の家に住んで気がついた春の兆候がある。

冬眠していたカエルが目覚めて路上に出てくるのである。動きがのろいので,クルマに轢かれる。そういう光景が春の告知である。地温が確実に冬眠の水準を超えたのである。もう2週間くらい前にカエルが出てきて,すでにクルマに轢かれて,いまはもう路上に張り付いたのカエルの内臓とカワも消去されつつある・・・。

東京のど真ん中に,こんなに大きなカエルがいるのか,というほど最初は驚いた。だいたい,どこで「おたまじゃくし」を見ることができるのであろうか?
もちろん,ボウフラを見ていなくても,蚊は登場するから,どこかに水があるのは理解するのだが。

おそらくは完備した下水道の中のどこかでカエルが生息しているのであろう。東京の下水道の整備は相当なものである。

2007-02-25

成功譚

「ドリームガールズ」を観た。娯楽ミュージカル映画として愉しんだけれど,歴史的な作品というような風格はないように思える。米国のショービジネスにおける人間ドラマ(友情と裏切り,競争と協調)としては普通で,米国人好みの成功譚としては平凡。ダイアナ・ロスのドキュメントとしては作品性が高い。うまい歌手の歌を聴けたということかもしれない。それは,それだけですばらしい。

むかし「コーラスライン」(1985)というミュージカル映画があった。オーディションの場面だけで構成した早いテンポの作品であり,歌と踊りの芸術性も高い。舞台ではできないが,映画ではできる試みである。

成功譚としては最近の「プラダを着た悪魔」がひとひねりあって楽しかった。けれんみのない成功譚では「ワーキングガール」のようなストーリーが東の横綱。その水準なら,西の横綱は「プリティー・ウーマン」ということになるか。

「プラダ」には,もう一段階の追加があった。この作品の成功譚としての本質は,そこにある。娯楽作品としてのファッションのオンパレードなどは作品のレトリックに過ぎない単なる愉しさである。

2007-02-16

追悼・小林和夫さん

小林和夫さんが逝去した。2月9日。

再入院のベッドの上で最後までやっていた仕事は,Malhotra の翻訳であった。下巻の出版を遂げたかったであろう。

出会いは,小林さんの晩年である。いくつか文献を教えてもらった。メールもまめに下さった。

ラディカルでブレのない発言は一貫していた。むしろ一貫性にこだわっているようにさえ思えた。何かを基準に照らして発言していたと感じた。業界の代表者という自覚があった。最後に公表した論評は「新聞研究」(2005/7)の文章であろうか。「よろん」などにも書いていた。住民基本台帳法改正の動きの中でのことであった。協会のパブコメは小林さんの筆が原版だろう。その前にも,個人情報保護法と調査ビジネスとの関連で精力的に仕事をされた。

2006年の日本科学技術連盟の新年会では,まだお元気であった。日銀-新情報問題や,住民基本台帳法,などについて雑談した。「あとは,あたながやって下さい」と言われたものの,もちろん私の実力では不足である。

2002年の奥野忠一先生の葬儀で会った時には,とても元気であった。まっすぐ浅井晃先生(2005年逝去)のところに行って,お話をしていた。日本科学技術連盟での市場調査セミナーを浅井先生とやった関係がベースにあるのである。浅井先生の本で事例として使われた調査票も,その頃のものだろう。

最後にお会いしたのは,JMRA(2006年末)カンファレンス懇親会であった。入院先から抜け出して,車いすで会場に来られた。このとき,記念撮影の嫌いな私であるが,なぜだか携帯電話を取り出して,挨拶する小林さんを写した。車いすから立ち上がり,出版されたばかりの上巻について,紹介・挨拶をしたのである。

この本には市場調査のことが何でも書いてある。リサーチャーよ,これを武器として闘いに出向け。

そういうメッセージであった。

いつもいつも,リサーチャーの地位向上ということを願っていた。

昔は実査だけやってればよかったのが調査会社。しかし,いまやクライアントも余裕がない。そういう時こそリサーチャーは提案力をもってクライアントの中に入っていけるのだ。

そういうエンカレッジであった。



本の紹介記事を書くから,この写真をブログに載せてもいいかという確認のメールを年末に出したけれど返事は来なかった。すでに入院生活の状態で,とうていメールチェックをするような生活ではなかったのである。

小林さん,ここに掲載させていただきますよ。よろしいですね。

2007-02-13

本質的に重要なこと

笠原芳光が思想について吉本と対談。ついついamazonで買ってしまった。数日は読む暇もなかったが、パラパラと冒頭を眺めてみる。いきなり電車の中で声を出して笑いそうに・・・。

「人生感」と、最近の学生が答案などに書く、というところから笠原は話を起こしたのだが、これに対する吉本の反応は、意図的なのか、無邪気になのか、久し振りの一撃。

こういう反応の仕方は変わっていない。

一番よく覚えているのは、何かの雑誌の対談で蓮實重彦と対談。確か、フーコーが来日した頃であり、蓮實重彦が漱石論とか表層論を書いていた頃である。蓮見が滔滔と今後の漱石論の展開などを述べた後、吉本は一言「本気かねえ」と言ったのである。

ああ、すべてが一瞬のうちに終わってしまった、という何とも言えない感じが共通している。

私だったら,こんなことを言われたら、もう赤面して、そこから先は言葉も失ってしまう。恥ずかしさで死にたくなるほどである。

この背景はいくつか指摘することができるのであるが、本質的に重要なことが何かという問題を含んでいるということが1つ。もう1つは巨匠と秀才というような相違ではあるが、学生風情が安易に真似をしてはいけないという側面を含んでいるということである。

後者は太宰治の「何を言っているんだ。君はまだ何もやっていないじゃないか。それは怠惰というものだよ」という問題に通じている。


女性との対談は、あまり面白くない。これを一番覚えているのは、田辺聖子との対談で、もう最後は「いや、いいです、いいです」と言うのに,田辺が「ずるいわ、ずるいわ。男の人って、そうやってちゃんと言わないんだから」というような逃げた格好になってしまって、女との対談は苦手なんだな、という笑いであった。

2007-02-04

関係の基準

「社会」あるいは,もう少し狭くして「組織」の中にいると,人間と人間の面倒な関係が不可避的に発生する。企業組織もそうである。

もっとも単純な明瞭性は戦闘組織。目的が簡単で,達成までのプロセスと組織要件が明白で,人類の長い歴史的経験もある。
もっとも複雑な曖昧性は家族組織。とくに国家や宗教の背景や強制から遠ざかり,個人と個人の関係(男女関係)だけを基礎に自然発生する場所に近いほど,多様性がある。
極限的には自分と自分との関係という内部組織を想定することもできる。

企業組織は比較的,明文化された関係の構造を作っているようにみえるけれど,現在的な日本の一般的企業の組織の中に発生する人間関係はさまざまだ。

まだ学生の頃,つまり今のように,すっかり企業人につかりきってしまう以前は,社長だからエライとか,上司だから上等だ,とかいう認識はなく,その人そのものの何かで判断していた。しかし,長い間,企業組織の中にいると,序列に過ぎない関係が人間的価値の関係に置換される思考に慣れてしまう。

職制上の上下関係に限らず,同僚関係のようなレベルでも同じである。いや典型的かも知れない。「この人になら何でも言うことができる」という信頼から,「顔も見たくない」不信を経て,「存在すら許しがたい」憎悪まで・・・。

言いにくいことを,しっかりと言える関係か。

言いにくいことを言えない組織だったら開放感はない。

企業組織のような場合なら,特に下から上に言いにくいことを言えるかどうか。大学のような組織なら,学生から教師へ言えるかという場面も存在する。

上から下へは組織的に言うことができる。下から上には人間的に言えるかどうかが判定される。

単なる言いっぱなしは,単なる無神経に過ぎない。

言いにくいことが言えない関係は閉塞感が強まる。それは,よい関係ではない。

2007-01-28

両方をみる

選挙前の通常国会で,与野党ともにスキャンダル攻勢をしているように見える。どのように選挙結果に影響するのかは実は予想が難しい。

裏事情を知っている人々のいうようにならないこともある。表面的に伝えられた情報だけが影響することもある。伝達された情報が多くても,人々の実感という判断基準が大きな影響を持つこともある。「実は,あの話は・・・」ということを知っている人のいうことは常に正しい結果を予測するわけではない。
TVに出て凶悪事件を解説している人の話を聞いていれば,そのレベルも知れるというものだ。社会を見る眼,判断,批評の方法を獲得するのは難しい。

社会調査の参考書を眺めてみると,けれんみのない教科書から始まって,読み物・作品といえるような参考書まで,表現の分布があるように見える。

かならず学ばなければいけないことを正しく記述したテキストは必要であり,それが学者の書く文章にも適応している。しかし作品としては面白くない。教科書だと思うしかない。

一方で,作品として面白い参考書は,しだいに文学や哲学を語るような書物・文章になっていく。あきらかに教室の学生ではなく,もっと多くの人々に伝えることを考えている作家がそこに存在している。このような参考書に対しては作品としての評価が可能になってくる。優れた作品として普遍性を獲得した水準に達しているのか,流行に反応して消えていく一過性の水準でしかないか,ということが作者との間で交感されるのである。

統計数理研究所の「国民性と調査法の研究」で第一回の中村隆先生「調査法の基礎としてのサンプリング」を聞いてきた。

Model Assisted Survey Sampling

を下敷きにした統計モデルとサンプリングの関係のところが興味深かった。推定値と推定量,統計モデルの誤差(残差)とサンプリングの誤差,統計モデルの(仮定の)正しさとサンプリングの正しさ。

この本は標本抽出の基礎理論について書かれているということで,美添先生の

「標本抽出法の基礎理論」

でも下敷きにされている。

社会調査で社会が分かる「分かり方」と,社会生活をしていて感じる「感じ方」には溝が存在することがある。経済統計の景気と,生活実感の景況も同様だ。いつも両方あると思ったほうがいい。どちらか一方だけでは不十分である。計量的な分析もするし,質的な分析も試みるし,どこかに違和感がないかという自分自身の実感にも信頼を置かなければ,いつかどこかで間違えるように思える。

なにか本質的に理解する場合,対象の起源を考える。そこから現在を照らしてみる。あるいは,自然のようなモデルが想定できるなら,それは極限からの偏差(残差)として考える。 偏差は現象といってもよい。

人間の精神の起源としての宗教。
経済の極限としての貨幣。
母集団と標本との間の中心極限という関係。
社会の起源と極限。

残差の中の人間の善や悪。

ヒトは戦争によって種を絶滅させることができる。ホモサピエンスは彼以外のすべての人類種を絶滅させた種かも知れない。一方で親和という共同性や一体感も同時にもち,また必要でさえある。

善悪は相対的で共存する。立派なだけの聖人はいない。

教師として正しいことを語る時,どこか自分に対して,疑い深く,注意深くなる。

2007-01-22

ニール・ジョーダン

ニール・ジョーダン(1950)の作品を3つ続けて観た。まあ偶然のようなものだが,DVDのオンライン・レンタルは便利なもので,同じ監督や同じ俳優の作品を集中的に予約できる。

「プルートで朝食を」(2005)
「俺たちは天使じゃない」(1989)
「ことの終わり」(1999)

の順番。

共通しているのは,いずれも神が底流の主題になっているという一貫性だ。神ではなく奇蹟と言ってもよい。この奇蹟は,通俗的には奇蹟の物語であるが,物語ではなく自然とか本質だともいえる。
キスしたらアザが消えたというのは通俗的な奇蹟だが,文脈から信じてもいいような奇蹟になっている。「ダ・ヴィンチコード」の奇蹟が,現象的な奇蹟ではなく,精神としての神だといえるような本質あるいは人間性であったように。

3作品とも売春や不倫や刑務所などの現象的なストーリーを意識的に使っているように思える。形式的なこと現象的なこと,を背景に見せることで,本質的な神(奇蹟・信)を主張しているという舞台装置になっている。「俺たちは天使じゃない」は,それがコメディになっている。

ニール・ジョーダン(の3作品)のモチーフはとても明らかだと感じる。ところが20年前,封切の頃にニール・ジョーダンの「モナリザ」(1986)を観ていた。この作品は分からなかった,という印象とスクリーンが暗い,重い,という記憶しかない。悪い作品だという印象は残っていないけれど,また記憶もしている作品だけれど(ストーリーは忘れた),解釈力がなくて理解できなかったのであろう。いま観れば別の感想があるかも知れない。

2007-01-11

Universe vs. Population

JAPOR の New Year Party に出るのは「昔話」を先輩から聞くためでもある。

gallup の1937年問題について,新しい資料の存在を教えてもらった。

もう1つは林先生が強調していた「調査対象集団」と「母集団」の区別のこと。私も生前に直接,林先生と話をしたが,分かるようで分からない部分が残ったままであった。

この件は林先生と水野先生がよく議論していたという。

ユニバース:「ある時点で日本に居住している有権者」などの抽象的な定義
ポピュレーション:「住民基本台帳」などの具体的なサンプリングの元(さらに,「サンプリング・フィールド」という概念の必要性まで議論されていたという)。

という解説であった。私は逆だと思っていた。ユニバースが「具体的」な対象定義の表明で,母集団は統計学的な「抽象的」概念ということかと思っていた。
もし上記の解説のような区分ということであれば,目標母集団と枠母集団という区別に相当する。この区別ならば当然していることである。単なる用語法の相違なのか。

林先生により,文章として書かれたものの中では,母集団は確率的な付与のされた状況を指しているが,具体的な抽出リストのことと,確率付与の関係は少し曖昧だ。全体の件数が不明であっても,各要素に等確率を付与することを確保できる状況があると思う。
また,母集団の定義としては,有限母集団だけを念頭にしており,無限母集団の扱いが除外されているようにも思える。
林先生に沿って書かれたと思われるテキストとしては,宝月ら(1989)などがある。

いったい,議論すべき価値があるのだろうか。

2007-01-03

日の出 2007

2007年初日出。愛知県の砥神山から。





鯛の塩釜焼き。形原温泉のお店で。中学校の同級生と会食。