(cache) 吉見俊哉・成田龍一 対談 歴史のドラマトゥルギー 『大予言「歴史の尺度」が示す未来』(集英社)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年6月15日

吉見俊哉・成田龍一 対談
歴史のドラマトゥルギー
『大予言「歴史の尺度」が示す未来』(集英社)刊行を機に

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未来が見えない。多くの人々が底知れぬ不安を抱えながら暮らしている、この混迷を極める時代に、未来を見通す「歴史のメガネ」が必要である。

昨年『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社)で文科省の「文系縮小」政策の流れに対し緊急提言を行った、社会学者の吉見俊哉氏による新刊、『大予言「歴史の尺度」が示す未来』(集英社)が刊行された。

ともすれば誤解を招きかねない『大予言』と題した意図、過去を解きほぐし未来を読み解く歴史のパターン、世界史と世代史を架橋する「歴史の尺度」について、「今こそ未来を語らなければならない」という問題意識を共有する、著者の吉見俊哉氏と歴史学者の成田龍一氏に対談をお願いした。(編集部)

歴史の時間軸で現在と未来を問う

吉見 俊哉氏
成田
 吉見さんの新著を拝読し、力作だと思いました。歴史学でも、いま、世界史をいかに描くかをめぐって議論がなされていますが、そうした動きと接点をもつ著作です。吉見さんらしく、理論的な整理とともに、あわせて叙述を実践されており、読みでがあります。

この本は、三つの位相から論じられると思います。一つは吉見さんの今までの仕事の中での位置付け、いま一つは吉見さんが「歴史の尺度」から歴史に焦点を当てられた位相です。後者は、歴史学を含む歴史の知の有り様の再考ということでもあります。そして、三つ目には、こうした思索が出された<いま>の位相ということです。

この三つの位相から『大予言』をみるとき、まず、第一の点からは、時間論となっていることに関心が惹かれます。吉見さんは、これまで空間論/都市論を、「盛り場」を軸に論ずるところから仕事をはじめられましたが、つねに方法論・対象の設定・歴史的射程からの叙述、という三者をセットにしてきています。同時に、その三者は、たとえば「カルチュラル・スタディーズ」「文化社会学」の検討、あるいは「博覧会」「電話」の考察として、個別にも追求されます。また、『ポスト戦後社会』(岩波書店)のような、歴史叙述そのものも執筆されました。

吉見さんはこの『大予言』において、時間を前面に出しながら、歴史をめぐる知の軌跡を辿り、現在と未来を問うています。時間軸を焦点とし、様々な歴史理論を検討し、理論的にまとめていく作業でもあります。総括とともに、新たな磁場を作られる仕事のように、この本を読みました。
吉見
 過分なご評価をありがとうございます。私の中でこの本は、三〇年前のデビュー作である『都市のドラマトゥルギー』(河出書房新社)と深く重なっています。実は、この二つの本の思考の構造は同じです。タイトルの「大予言」から、ノストラダムスや大川隆法を連想されてしまい、遂に吉見は怪しいところに行ってしまった、教祖になったかと(笑)、驚いた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、そうしてこの本を読むと、この本には未来の大事件もカタストロフも予言されていません(笑)。

むしろ、この本が予言しているのは、そのような大事件や大発展、大破局がもう起こらない未来です。大予言の「大」は、四半世紀から数世紀、数十年から数百年という時間的な長さを示しています。私は前著『「文系学部廃止」の衝撃』(集英社)の中で人文社会科学、文系の知は絶対役に立つと主張しました。しかし、その「役に立つ」というのは三年、五年ではなく、数十年、数百年という単位で役に立つことを考えなくてはならない。そういう長期的視座を日本社会は見失い過ぎています。そして今回の本では、人文社会科学はどう長い単位で役に立つのかを実践的に示そうとしています。

一〇年単位(decade)で歴史を区切る「年代」はよく使われる尺度ですが、一〇年という単位はいろんな意味で短すぎる。一〇年単位では歴史は変わらない。「年代」という言い方が問題を見誤らせているという気がしています。ですから、二〇年から三〇年を一つの単位にするのは幅として丁度良くて、二五年(quarter-century)は、それを最小単位として見ていくと歴史が構造化されて見えてくる面白い単位なのです。
予測と予言の違い連続性を前提としない知


吉見
 本書では、二五年を基本単位とした歴史への展望を、「予言」という言葉を使って示しています。「予言」という言葉を使った最大の理由は、ソフォクレスの『オイディプス王』とシェイクスピアの『マクベス』です。序章で論じましたが、オイディプス王もマクベスも、予言によって苛まれ、予言を覆そうと全力で挑戦し、しかしまさにその行為によって予言に嵌り、破滅していきます。ここにはある種の歴史の定義があると思います。つまり、一方には超越的な予言、法則性、構造があり、他方にはその予言に抗い、何とかそれを乗り越えようとする人間的な実践がある。予言と人間的な実践の熾烈な葛藤、そのダイナミズムの中にこそ歴史の本質があると私は思います。

この本で一番言いたかったことは、歴史への演劇的な想像力の復権です。三〇年前、私は『都市のドラマトゥルギー』で都市への演劇的な想像力を考えましたが、同じように、この本でも歴史への演劇的な想像力を考えようとしています。それが何に対抗しているかというと、歴史に対する工学的、統計的な知です。もっとはっきり言うと、予言と予測が全く違うことが重要です。絶対に、この本は予測の書ではないのです。

では、予測と予言がどう違うのか。予測というのは歴史の連続性を前提にしていると思います。実際、天気予報や株価予測ならば、この連続性はかなり成り立つ。選挙結果の予測は時々外れますが、それでも多くの現象について、三年、五年くらいの射程であれば連続性の仮説が成り立ちます。その場合は、大量の統計データ、つまりビッグデータを集めていけば正確な予測が可能になることが結構ある。

しかし、もっと長い時間、三〇年、五〇年、一〇〇年では歴史は非連続です。歴史の中には質的な断層がある。例えば一九五〇年代、六〇年代の地平と、二〇〇〇年代、二〇一〇年代の地平は非連続です。ところが、私たちの思考に慣性の法則があるというか、歴史の非連続性をなかなか想像できず、未来を過去の延長線上に考えようとします。そうすると、歴史の非連続点では次々に予測不能なことが起きて、「想定外」だということになる。でもそれは、連続性を前提とするから想定外なのであって、むしろ歴史の非連続とは何なのかを深く考える必要があります。ですから、予測の連続性を超えたところで歴史の非連続性を捉えることのできる知がぜひとも必要なのです。予測の地平を超えるそうした知を指し示すために、この本では「予言」という言葉を敢えて使ったわけです。なぜなら、近代化という連続的な発展過程の中で「予測」は社会科学的に地位を固めていった。他方、そこでは歴史に対する演劇的な想像力が周縁化されてきたのではないか。でも、直線的な連続性を前提としない仕方で、なお未来を見通す歴史の知があり得るはずで、それには非連続性の認識とその尺度が決定的に重要になる。
歴史の非連続パターンの反復

成田 龍一氏
成田
 タイトルについて、どこかの段階で言及しなければいけないと思っていましたが、冒頭から出てしまいました(笑)。「大予言」という言葉は知的な姿勢に馴染まないのではないか、と危惧されましたが、「歴史」が予言するなか、それに立ち向かう「人間」という構図ですね。そこから歴史理論を提示されようとしている。しかも、ここで歴史の考察の「単位」の提起と、歴史の「叙述」の実践を組み合わせて提供しています。

アカデミズムを含む歴史の知は、過去を対象とすることにより、現在を分析し、そのことを介して未来を考察してきました。過去の総括によって現在の位相をはかるという実践は、未来を想定し、未来と対話しているという営みです。しかし、歴史学の場合、一九八九年の冷戦体制崩壊や二〇一一年の東日本大震災後には、未来との対話を閉じてしまったかのように見えます。未来を語ることへの自信を喪失し、萎縮している。それを、吉見さんは、連続/断絶の文脈で再整理し、あらためて未来への発言を促しています。今こそ未来を語らなければならないと、私自身も強く思います。

吉見さんは、宿命や運命のように考えられている事態と、それに抗うように生きる人間を見すえ、その双方を問題にしていくことを言われました。これは、歴史をめぐる現在の知に対する、厳しい批判を含んでいます。吉見さんの処方を、いくらかの飛躍を伴いながら言うと、法則定立的な認識と個性記述の対立といった現在の知の有り様の再考――近代知を、時間論―歴史認識を焦点として考察する営みということになると思います。

「歴史に対するドラマトゥルギー」という印象的な言葉をいわれました。大澤真幸さんが『<世界史>の哲学』(講談社)ということを考え、壮大な議論を展開していますが、鋭敏で円熟した社会学者たちが「歴史」に焦点を当てているということが印象的です。大澤さんは「空間」に重心を置き「世界史」の構想を問題化しますが、それに対し、吉見さんは「時間」を分節化するようにして議論していきます。

歴史の描き方を問題化し、時間を再検討するという処方によって、現状の知に対して異議を申し立て、そこから先を見通そうという意図がうかがわれます。ここには、<いま>が歴史の転換期である、という認識があるのでしょう。
吉見
 純粋に歴史が連続的に進んでいくならば、方向性は決まってしまっていますから、そうした歴史の傾向に抗う人間的な実践は必要なくなります。歴史の発展はむしろ統計的に予測可能な事象となり、しばしば工学的に未来は操作可能なものになるはずです。そして、そんな連続性が永遠に成り立つのならば、人文社会科学の出る幕はそれほど無いかも知れない。

でも、この前提は間違っています。実際には、歴史には方向性そのものが構造転換していく局面があり、未来はいつもそれまでの傾向の延長線上に見えてくるわけではありません。むしろ、長期スパンの歴史のなかで繰り返されるある種の非連続性のパターンから学んでいくことが多いと感じています。  
世代史と世界史をつなぐ

成田
 そうですね。私たちは、時間が一直線の方向に、しかも単一の方向に流れていくという思考にすっかりなじんでしまっています。歴史学でいえば、近代化理論にせよ、マルクス主義の理論にせよ、そこに一つの価値を込めながら議論をしていきました。時間が変化していく方向は、進歩だということです。しかし、その時間論は、普遍的なものでも永遠的なものでもない。ある時期のある地域における時間の考え方であり、そのことが再検討される時期に遭遇しているということですね。
吉見
 直線的な時間の連続性という認識は、ユダヤ・キリスト教的な終末論に起源があります。永遠の未来に向かう時間の観念が中東起源で成立し、現在のはるか延長線上に終末が来る、あるいは救済の時が来るという考え方でした。やがて、十六世紀から十八世紀までにこの時間の観念が進歩や成長の観念に世俗化していきました。
成田
 革命であったり、近代化の達成であったりということですね。この相対化は、ヨーロッパ中心主義への批判ということともなります。
吉見
 近代化とは世俗化ですから、宗教的終末は、一方で「成長」の観念に変わり、他方ではアンチテーゼとしての「革命」の観念に転化していった。しかし、一見、正反対に見える成長も革命も、いずれも未来に対する歴史の連続性を前提としている限りで同類です。今日、そうした連続性の概念自体が問われていると思います。
成田
 それに代わって、循環の仮説や、あるいは吉見さんが強調されているパターンを見出すことによって、歴史をあらためて説明する知が出されているのですね。歴史とは、変化にほかなりませんが、その変化をいかに説明するのか。説明の仕方は多様であるはずですが、これまで一つの鋳型を持ち、その鋳型に縛られていたという指摘です。しかも、連続性の中の変化の認識であり、断絶の認識を欠いているという議論です。断絶を認識することは、実は難しいことでしょう。私たちは歴史の持続を、無意識に前提にしてしまっています。なるほど、歴史が変わった、時代が終わったという言い方をしょっちゅうします。しかし、それは大きな連続の舟に乗った上で、小さな変化を断絶として見ているということにほかなりません。歴史の断絶をどのように考え、その断絶をどのように知ることができるのか。

こうした問いを立てたうえで、吉見さんは歴史家たちによる歴史の考察―時間論を手掛かりに議論していきますが、そのときに、二五年と一五〇年と五〇〇年という具体的な数字を、根拠づけながら導き出していく。ここで吉見さんは二つの作業を行われていると思います。

一つは、歴史にかかわる理論的な認識を、時間論としてまとめあげたということ。そして、それをもとに、大きな見取り図を作りあげていきます。いま一つは、その理論仮説を実証するために、具体的な歴史叙述を遂行していくという作業です。理論的な整理とそれに基づく見取り図の作成にとどまらず、二五年といったときには、日本の戦後や近代、あるいは世界の動きを叙述し論証しようとします。二五年ごとに、出来事を提示しながら、その尺度からの歴史像を提示します。一五〇年といったときにも同様に、近世/近代の歴史像を、長い世紀(「長い十六世紀」「長い十七世紀」……)をもとに叙述します。このことは、五〇〇年という尺度において、十六世紀から二〇世紀までの時期の叙述ともなります。「近代」という時代が、五〇〇年の流れとして提示されます。主に世界史的な出来事が記されますが、日本の事例も取り上げられます。つまり、二五年と一五〇年と五〇〇年という尺度からの歴史叙述の重ね書きをしています。
吉見
 私の拙い歴史叙述に触れていただきましたが、この本で一番オリジナルなのは、歴史叙述自体よりも、そうした歴史叙述を可能にする時間的な枠組みを「歴史の尺度」として示した点ではないかと思います。二五年説の話が出ましたが、その背景にある歴史の切断はどういう構造条件の中で現れるのかを理論化してみたつもりです。この本では、歴史のそうした非連続性を考えてきた二つの系譜に注目しました。一つが世代史的切断としての世代交代、もう一つが世界史的切断としての恐慌です。

まず、世代交代は家族史の切断点で、この切断が近代家族では必ず現れます。祖父母世代、親世代、子世代、孫世代と、家族の主導権を担う世代は必ず交代する。この交代で家族の人間関係や世代意識が変化していきます。その際、私が注目したのは、母親が子を産む平均年齢が過去数百年を通してほとんど変わっていないことでした。五〇年前と較べると、寿命はすっかり長くなっていますが、母親の平均出産年齢はあまり変わっていません。それは、大体二五歳と三〇歳の間です。出産期間はかなり変化していて、昔は一〇代から四〇代くらいまで子供を産み続けていたのですが、今は少子化で出産期間の幅はずっと狭くなっています。しかし、出産年齢の平均値はそれほど変わっておらず、だいたい二五歳。ですから、親子の世代間隔は大きく変化していないのです。
成田
 そうですね。二五年の尺度にかかわり、近代家族と近代資本主義という二つの根拠が示されましたが、説得的です。世代間隔が変わらないということは、ある世代が社会的に活躍し、影響力をもつ範囲と時間の持続を意味していて、システムにつらなっていきます。一つのシステムが有効性を持つということが、二五年の幅で考えられるということ。

私自身も、二五年の幅で日本の近現代史を説明することができるのではないかと、ひそかに思っていました(笑)。一八六八年の明治維新を基点とする前後二五年で近代国家の成立というシステムが作られる。一九四五年の大日本帝国の結末を迎えた前後の二五年、つまり一九三〇年から一九五五年の幅で日本のもう一つの変容が説明できる。また、一九八九年の冷戦体制の崩壊を中間に置く前後二五年で、近代後期の変容にも符牒が合います。ただ、吉見さんの議論の特徴は、それをさらに一五〇年、五〇〇年と拡大していくところにあります。一五〇年と五〇〇年と、歴史の尺度を長期に量的に拡大することによって、「世界」が視野に入ってきます。家族と国家にとどまらず、地域と地域間の連結、そこから構成される世界――世界のシステムとして展開される歴史を、丸ごと視野に収めようとするところにこの本の醍醐味があると思います。
「近代」の二つの山 空間と情報の爆発

吉見
 一五〇年に関して言えば、一五〇年の単位で見るか、その倍の三〇〇年という単位で見るか、両方あり得ると思うのですが、ポイントは、近代には二つの山があることです。第一に、ブローデルの「長い十六世紀」に情報と空間の爆発があった。即ち大航海時代が一挙に訪れて世界が銀で繋がっていく。この空間的な爆発と同時にグーテンベルクの活版印刷が十五世紀半ばに発明され、十六世紀の印刷革命、つまり情報の爆発をもたらしていく。この空間と情報の爆発をもって、前期近代が始まっているという認識がまずありますね。

そして、もう一つは言うまでもなく産業革命と市民革命です。十八世紀末以降、ホブスボームの「長い十九世紀」を通じ、欧米中心の世界的な産業化と植民地化が進んだ。この前期と後期の近代は連続的であると同時に非連続です。
成田
 この近世と近代の捉え方は、一九九〇年頃に提供された国民国家論の議論と接点をもちます。国民国家の形成の前史として、近世=アーリーモダンを設定し、国民国家を相対化しようという考え方です。しかし、そうした時間軸ではなく、また国民国家への移行を必然化する連続性ではなく、「長い十六世紀」と「長い十九世紀」に着目し、連続と断絶を持つ変化として「近代」を問題化とするのですね、そのときに一五〇年という単位が持ち上がってくる。

いま一つ、吉見さんは、ここで印刷革命、つまり情報革命であり、知のインフラの変容である出来事を入れ込み、一五〇年の問題を提起しています。吉見さんならではの見識であり、時間軸からの世界史叙述に深みを与えている。しかも、科学史家の山本義隆さんの仕事を組み込んでいますね。山本さんは、近代の知の有り様に対し厳しい批判をしており、「近代」を再考する著作のなかに、山本さんの仕事を組み込む仕掛けが為されています。
吉見
 山本さんはアルブレヒト・デューラーを高く評価されますね。印刷革命が中世的な大学の権威を破壊していく可能性を評価していると思いますが、実はこれには両面性がある。十六世紀の情報爆発、印刷革命はルターをはじめとする宗教改革の波を引き起こし、やがて二十世紀のイデオロギー対立ならぬ十六世紀の宗教対立が、極度の宗教的不寛容も生んでいきます。同じように、現在のインターネットやデジタル革命による情報爆発も、ポスト・トゥルースやトランピズムを生んでいますが、他方で既存のアカデミズム、大学の権威はこの情報爆発の中で危機に陥っています。どちらの時代も、情報爆発は全面的にネガティブかというと、必ずしもそうではないし、全面的にポジティブなのでもない。情報爆発が可能にする知と、それが危機に陥らせていく知の領域があります。どちらの時代にも、大学はどちらかというと後者ですね。
成田
 別の言い方をすれば、知のインフラ自体を問題にすることで、「歴史の尺度」がよりリアリティをもつ、ということですね。オングやマクルーハンの議論も含めており、吉見さんの知見が凝縮された著作になっています。

歴史学におけるグローバル・ヒストリー

吉見
 知の地平という問題も含め、歴史の非連続性は、決して無秩序を意味しません。「想定外」なことが連続しているから、未来が読めないわけではない。歴史の連続性が失われると、カオスに陥るわけではないのです。そうではなく、これまでの連続性を前提にした見方がある鋳型の中でだけ歴史を見ていたから、そこから外れてしまう動きが見えなくなってきたのです。ですから、鋳型、つまり歴史のメガネを変えるべきなのだと私は思います。非連続性の視点を持つことで大きな歴史が見えてきます。世代交代という家族史上の非連続点は一つですが、もう一つは恐慌で、これはマクロな政治経済史、資本主義システムの非連続点です。この資本主義の非連続点が周期的に生じることをいち早く考察したのがコンドラチェフで、彼は二五年の上昇と二五年の下降という繰り返されるパターンを明らかにしました。近代家族と同じように、資本主義も二五年という長期の波動するリズムを持っている。この二つのリズムの共振を考えることの先に、近代世界を貫通する非連続性の歴史学を構想することができるはずです。
成田
 歴史が断絶を伴っているということを、歴史学の世界が強く意識したのはブローデルの仕事によってです。周知のように、ブローデルは三つの時間―三つの波動の変化によって、歴史を描きます。政治のように眼の前で移り変わる短い波動に留まらず、中・長期的な波動による変化が組み合わさって歴史が動いているという認識は、大きな影響力を与えました。まさに大予言だったわけです。吉見さんは、このブローデルをもとに、「近代」の「入口」と「出口」という議論をし、五〇〇年の尺度に言及します。「近代」の転換ということが、吉見さんの認識に横たわっています。

現在の歴史家たちもまた、世界史の認識ということを手掛かりに、この転換を認識しているように思います。アメリカの歴史家リン・ハントが『グローバル時代の歴史学』(岩波書店)で、マルクス主義も近代化論も、社会史もパラダイムとしての力を失ってしまったと指摘しています。冒頭に述べた、世界史の見直しはそうした中での動きであり、その一つの例がグローバル・ヒストリーです。空間と時間をグローバルに広げていくことにより、新しい歴史の見方―パラダイムを模索する動きが出てきています。このグローバル・ヒストリーに代表される模索は、これまでのヨーロッパを中心とした歴史概念の批判ともなっています。

同時に、グローバル・ヒストリーに留まらず、環境史というもっと大きい単位で歴史を考える動きもあります。地球を一つの生命体とし、そのうえに生息する種として人類史が構想されます。数十億から数億年の単位での歴史です。

つまり歴史の尺度――ブローデルの言うところの波動、あるいは国民国家を単位として考える歴史の尺度が、いまや塗り替えられる渦中にあり、五〇万年という人類史の幅での思考などが、次々に出てきていています。歴史の尺度の見直しが、歴史認識の動向としてあり、そこと共振する著作として吉見さんの本が提供されました。歴史学と社会学という学知が、同じ課題を追求しているのですね。
「メタ史学史」歴史の修辞学

吉見
 私は歴史学と非常に近いところで仕事をしてきましたが、微妙に歴史学とズレていて、半分は人類学的ないし社会学的なところにいます。つまり、歴史を変化として以上に構造として捉えたいと考えている。この構造も単一ではなく、非連続に、劇的に転換していく。この視点を、私自身はドラマトゥルギー的と呼びたいですね。
成田
 はい。別の言い方をすると、直線的な歴史である因果関係で説明する歴史叙述ではなく、歴史におけるパターンに着目していることなど、(歴史学とは異なった)歴史の修辞学の提供であるともいえます。この点で、吉見さんのブルクハルトへの着目には、私も共感しました。とともに、吉見さんの実践は、私の言葉でいえば、「メタ史学史」ということになります。『都市のドラマトゥルギー』でやろうとされたことがメタ都市空間につらなるとして、今度の『大予言』では、歴史家の営みをもとに、時間を焦点化しながら歴史の根拠を探っています。歴史家の認識の深層とその推移を扱い、史学史を用いた歴史分析として、メタ史学史になっていると思います。
吉見
 多木浩二さんならば、ドラマトゥルギーではなくて修辞学とおっしゃるでしょうね。でも私は、ケネス・バーク的にドラマトゥルギーと呼んでおきます。
成田
 そうですね。二十一世紀に関して、それは十六世紀型なのか十七世紀型なのか、あるいは十四、十五世紀型なのか、という問題提起そのものが歴史の修辞学、ドラマトゥルギーにかかわってきています。『大予言』では、そのことを歴史家の思考の推移に内在しながら探る営みとして展開されており、メタ史学史という言い方をしました。別の言い方をすれば、歴史学にみられる現象――グローバル・ヒストリーに始まり、ビッグ・ヒストリーに至るまでの歴史の尺度の再考を、吉見さんが時間論として集約し理論化し、歴史(歴史学ではなく)に投げ返す営みです。歴史学にみられる現象を、メタ史学史的に展開したということです。
吉見
 歴史学であれ社会学であれ、必ず問われなければならないのは、「今、私たちはどこにいるのか」という問いです。「今、ここ」を非常に遠くから見返すモメントが、人文社会科学には本質的に備わっています。そういう長い目で現在を捉え直すとき、その歴史の根本には予言と人間的実践との葛藤がある。そして、この非常に長い歴史の中の二十一世紀には、次の三つの可能性があるとこの本は主張しています。

(1)「長い十六世紀」としての現在、つまり大航海時代と印刷革命によって枠づけられる一四七〇年からの一五〇年と二十一世紀が相似するという仮説。

(2)「長い十七世紀」としての現在、つまり爆発から収縮へ、国家間の壁が厚くなっていく十七世紀から十八世紀中庸までと二十一世紀が相似するという仮説。

(3)「近代の秋」としての現在、つまりホイジンガが描いた十四、十五世紀の「中世の秋」と似て、近代が終焉に向かう傾向が二十一世紀にはあるという仮説。

この三つとも二十一世紀の理解として可能なのですが、こうした長期のパターンの反復を見ることで、二十一世紀以降の未来の歴史が見えてくると私は考えています。
成田
 歴史の修辞学によって、未来を語る本書の読みどころですね。もう一つ、吉見さんの仕事を、近代と世界の捉え直しと考えたとき、日本という地政学が改めて問われなければならないだろうと思います。日本という位置、地政学を離れては議論できない論点を孕んでいる。吉見さんは周到に、ウォーラーステインやブローデル、あるいはホブズボームやアリギにも目配りし議論されていますが、戦後日本、そして吉見さんの立ち位置を離れては議論できません。実際、『大予言』の最後では一九七〇年代に話を持っていき、他ならぬ見田宗介、鶴見俊輔、日高六郎さん、さらに公文俊平や村上泰亮さんなども挙げて、自分史と重ねながら議論されています。
吉見
 自分を位置付け直している(笑)。日本の地政学ですが、「近代日本とはどういう地政学的磁場なのか」というと、まず言えることは、近代日本という場所は、遅れてきた帝国主義がどういう末路を辿るのかを明快に示してきたと思いますね。
成田
 吉見さんが「時間」に着目し、現在の問題を理論化されましたが、それを「空間」に成り返すときにはそういうような操作手続きが必要か、ということになります。日本を「周縁」あるいは「中心」とは言うことができません。柄谷行人さんは「亜周縁」ということを言っていますね。新しい概念を創り出せば、より吉見さんが説明される経験を論じられるロケーション―地政学が獲得できるかと思います。ちなみに、柄谷さんは、歴史の六〇年周期説も論じていたことを思い出します。
吉見
 それは次の仕事で、次は再びアメリカ論に取り組み直す必要があると考えています。この九月からハーバードで教えますが、私の積年のテーマは日本の中のアメリカを考えることです。これは、どちらかというと空間論、地政学的な問題です。現代のポスト帝国主義的な磁場の中で日本を考えるとき、やはりアメリカとの関係が決定的に重要です。従って、アメリカと日本の両方から近現代を押さえ直す必要がある。時間論を再び空間論に戻し、これは『親米と反米』(岩波書店)、『天皇とアメリカ』(集英社)等でこれまでもやってきたことですが、現在のトランピスムの蔓延という状況下で、再び「アメリカ」について本格的に考えるというのが、次に私がすべきことです。成田さんは次のご著書で、どのような歴史を構想されているのですか。
成田
 近現代日本の歴史を「通史」という構えで叙述してみたい、と考えています。今日の話の流れで言うと、来年が「明治維新一五〇年」で、その中にどういうプロセスとどういう日本の経験があったのか。この一五〇年を、二五年を幅とする三つのシステムの展開として叙述できないだろうかということを、「明治維新一五〇年」という言い方のもつ問題性も含めて、考えたいと思っています。こうしてみると、吉見さんと共振して波長が合ったことに、あらためて気づきます(笑)。

吉見さんは、最後にメタではなくベタな(笑)、証明をされましたが、社会学と歴史学の領域の差こそあれ、問題を共有していることに対し、少なくとも私と吉見さんは、自覚的に接点を持ちながらやってきたと思います。
吉見
 まさに二五年説が今、実証されたわけです。世代の周期では、成田さんも私も学問的に同世代ですから(笑)。同じパラダイムを生きているのですね。
2017年6月9日 新聞掲載(第3193号)
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