J=B・セーと産業主義の起源

J.-B. Say et les origines de l’industrialisme, par Édgard Allix, dans Revue d’économie politique (1910)

訳序

industrialisme:産業主義。

industrie:勤労/産業。(定訳どおり。勤労は産業を構成する要素であり、産業は勤労の体系的な帰結である。ところが日本語では「勤労」はしばしば労働の美称にすぎない。)

produit immatériel:非物質的生産物。(一般には辞書的に「無形生産物」と訳されるが、悪訳であろう。セーがmatérielのみならずimmatérielな生産物もありと主張したのは、すべての生産を物質の創造ではなく形式の創造に、つまり人為的な有形性に求めるからである。immatérielは英語ではintangible――語源的には、接触不可能――と訳されるが、これも無形とは異なる。)

administration:経営/行政。

本文

「産業主義」のサン=シモン主義的なものが、近年、幾つもの作品の対象にされた。ヴェイユ氏とE・シャルレティー氏の共著[1]を継いで、E・アレヴィー氏の研究[2]は特に、サン=シモンのシステムと、シャルル・コントとデュノワイエの『ヨーロッパ監査官』で解説された自由主義理論、以上両者の間の接続点を調べた。一八一七年、「サン=シモンとオーギュスタン・ティエリ、シャルル・コント、デュノワイエは同時に、積極的政治学とはアダム・スミスとJ=B・セーが述べたとおりの政治経済であると見て取った」[3]

我々はここで、J=B・セーの産業主義への貢献を決定し、それがしばしば思われているよりはるか直接的であることを証明するつもりである。産業主義テーゼはスミスとセーの学説の一般的精神に単純に鼓吹されたのではなく、セーの『論考』に少なくとも本質的な要素として潜在的な状態ですでに含まれていた。これこそは、我々がこの見地で『論考』を分析し、『監査官』とサン=シモンの理論を近づけることで確立したいことがらである。

J=B・セーはアダム・スミスの犠牲者である。彼を『国富論』の普及者としか見ない勢いで、彼の作品の独創的な価値と射程が忘れ去られたけれども、我々が信じるとおり、それが王政復古下フランスでの政治的経済的理念の運動の根本的部分を担っているのが真実であるならば、その歴史的意義はかなりのものである。

J=B・セーは、政治経済を生産理論であるとみなしただの、人の道徳的条件より生産物の増加に気をもむ経済的「物質主義」の類に陥っているだのと繰り返し非難された。[4]

セーがその名声の大部分を負う『政治経済論考』は、その表題と副題の一般性にもかかわらず、この傾向性の最終過程の価値を調査しようとはせず、なによりも富の形成の論考である。分配は要約的な素描の対象にすぎない。いつもの自由主義学派の程度とは違って明敏にも、セーがこれに関わる喫緊の疑問を意識していたのは疑いない。いわく、「最大多数派階級の生産物分担は生産分担と正確に比例するか?」[5]。彼は社会的所得分担での労働者の不利な状況を手早くも精力的に目立たせる。[6]しかし、彼はこれを力説せず、事実を指摘する。それがはその関心の本質的な対象でないことは明らかであり、彼にとって――彼自身が言うとおり――生産の研究は分配のそれより重要である。[7]同様に、消費は生産との関係においてしか、ほとんど関心がない。彼は、資本を蓄積する経済を褒め称えるため、そして、それを消散させる公私の浪費について、破壊的消費と生産的消費の区別を十分に開発する。

ところで、彼の中傷者が後に彼を批判するかど、そして現代人の精神を掴んだのは、まさしく彼の作品のこの性格である。J=B・セーが彼の世代に及ぼした影響力はここから来ている。

各世代は一定の大志を抱いているが、それは優勢な理念において定式化や凝縮を遂げられるまでは曖昧にしか意識されない。人間の精神にとって、システムとは必然性である。社会の混乱した傾向性は、それを浮き彫りにする理論の周りに組織化されることでしか形にならない。

一八一五年、フランスは民族の過去最大の努力を尽くして、自由と静寂の途方もない必要性を感じ取った。殺人的闘争の十五年間、その敗北と侵略での終結、帝国的役人による市民的生命の拡張兵舎の体制は、人に戦争への恐怖と権力濫用への憎悪を吹き込んだ。この国は公論家が「軍事政府」と呼んだものを一掃したがったのであり、フランスで反軍国主義の第一次炸裂が生じたのはこのころということができる。

しかし、この「軍事政府」という憎い定式を新しい定式に取り替えなければならない。ここで自由主義が頼ったのは政治経済であった。それは過去を散らして未来を導くべき二つの理念のアンチテーゼにおいてフランスの怨恨と大志を要約した――破壊生産だ。

征服と略奪でしか維持されない、富の破壊者たる政府は、労働と勤労で富をなし、生産の不可欠な条件であるゆえに財産と自由を尊敬する生産者体制に対立する。高くつく体制と生み出す体制の対立だ。

ほぼ二十年間、経済的綱領にして政治的綱領となった、この「生産」という肥沃な理念を流通の上に打ち出したのが、J=B・セーの当時の功績であった。

セーが多くのところでと同じく、ここでも部分的にはアダム・スミスの作品に鼓吹されていたのは疑いない。リスト氏は『国富論』の著者に捧げる注目すべき章で、「ときに行われるようにスミスを産業主義の先駆者や前触れとして提示し、農業の擁護者とみなされるフィジオクラートと対照する以上の間違えはない」[8]と述べる。リスト氏が言うとおり、確かにアダム・スミスはすみずみに至るまで農業を持ちこたえていたし、彼の筆の下では逐一フィジオクラートな理念が表れるし、彼はものごとを深めるとき、ケネーの学説をしばしば論駁よりは改正でとりなしていたようだ。[9]しかし我々は、同時代人がその作品に見出したことと、彼らが保ち続けたことにも気づかなければならない。よしやゲルマン・ゲルニエが彼を「フランス経済学者との類似を慎重に避ける」ようにしていたと咎めたにせよ、彼らからフィジオクラート的なところが全面的に消えていたことに疑いはない。彼は彼らを「農業システム」の敵対者であるとみる。彼らに感銘を与えたのは、「民族の年次労働が原始的基金である」という皮切りの大原理と、労働と和平の術で自由人民が絶え間なく自ら繁栄するという理念である。[10]

ヴィタル・ルーは彼の本『商業の繁栄に対しての政府の影響について』(1800)で、「不滅のスミス〔原文ではドイツ語の形でSchmidt〕がその作品でよく開発した」原理の適用を誇りにしながら、すでに「野蛮な民族を破滅、戦争に導く大志が、商人には祖国愛を鼓吹する。或る人々の幸せは破壊のうちにあり、他の人々の幸福はみなの繁栄のうちにある」と記している。

しかしフランスにスミスを知らしめ、とりわけ彼の生産理論の矯正と拡大に他の誰より貢献したのはJ=B・セーである。ドスチュ・ド・トラシーが言うとおり[11]、「生産の問題は多くの賢人に扱われており、その頂点にはテュルゴとスミスがいるが、わたしに言わせれば、わたしがこの主題について最もよく知っている著者、セー氏よりもよくこれを啓蒙した人はいない」。『国富論』を読んだことのない人は啓蒙階級でさえ多かったが、『論考』を読んだことのない人は少なかった。彼らが生産の将来へと勤労の社会的政治的使命への信念を引き出したのは『論考』なのである。

セーの経済理論は、実際、生産者に無制限の展望を開いているようにみえる。彼は「販路」において、生産の限界をほぼ無限に引き伸ばす価値法則を述べる。すなわち、富とは価値をもつ物であり、価値は――しばしば言われるとおり――効用に基づく。[12]彼が念のため言うには、すべての富は専ら土地から来るとフィジオクラートともに信じるかぎり、延長し増加する富の手段は非常に制限されていると考えてしまわなければならない。[13]アダム・スミスその人も労働を価値の唯一の源泉をみなしたので、人間的産業の異様な進歩を説明することができずにいる。「スミスは我々の社会に群がる非生産的な無為者と労働者にもかかわらずこの文明人が享受する生産物の豊富さを粗野な諸民族の赤貧と比較して説明することに非常に手間取っている」[14]。彼は分業に訴えたが、分業に或る種の奇跡的な美徳を帰するように強いられた。実際、彼の価値学説が富を人的労働の結合の果実としか見ないよう拘束するのである。

彼は、価値を端的に効用から生まれるものと理解していたとすれば、自然の作用もまた効用生産的で、ゆえに価値生産的であるとみていたことだろう。「自然はほとんどつねに、[15]人とその道具の労働と共同しており、この共同において我々は労働の節約と資本の節約にもっと成功することで一層の利益を得る。この節約は必ずや費用がかかるもので、我々がなんとか生産物の最大部分を成し遂げるための手段は、自然の無償サービスなのである」[16]

かくて、すべての「システム」は致富の可能性を恣意的に制限するという共通の誤りに陥ってきた。生産的階級はフィジオクラートが考えているよりはるかに広い。製造業と商業、輸送業、諸々の士業が、農業と同じように効用を、つまり富を創造するし、セーの同時代人はその最善の証明として商業の生産性を考えていた。生産「資金」は土地や農業には限られない。自然、労働、資本は同じように効用創造に貢献するのである。

「富の一点一点すべてを創造する」[17]ことができると示したのは政治経済の「大発見」であった――「これがそれをかつてなく貴重なものにした」。生産性の源泉は膨大で、人の手の届くところにある。彼らは認識して意志するにすぎない。「富は、人の勤労が道具の助けで物に付す価値から成り立っており、各民族のまさにその胸の中で、そのような効果を及ぼすような仕方によって、創造され破壊されること、増加され逓減されることができる。重要な真理よ。なぜならば、それは人が合理的に欲望する財を、それを得るための真の手段を知って用いるかぎり、人の手の届くところに置くからだ」[18]

勤労の生産力は無知と国家の悪政にしか制限されない。[19]啓蒙を広めて政府を改善せよ、あるいはむしろ、彼らが害なすのを妨げよ。そしたら富の増加に課されうる制限はなくなるだろう。

セーの楽観主義はイギリス人経済学者の新学説に掠ってすらいなかった。実際、彼はその射程を正確に理解することなく一生涯彼らと討論するのである。彼には他人の意見を取り入れる柔軟性がなかった。リカードは書簡で彼を、それを理解しておらず論争を避けていると非難した。実際、彼が拒絶した賃金理論において、彼は言葉の問題しか見ておらず、彼が採用した人口理論においては、その根本的な要素、すなわち比例未満の収穫の法則を解きほぐすには及ばなかった。

マルサスの学説は実際には人間的産業の不可能性の宣言である。人の増加と生産物の増加の間には致命的な「不一致」がある。耕作の法則は増大する障害を生存手段の増加に対立させ、人口の運動は生産の不十分さによって足を引っ張られる。

これがマルサスの理論の核心であり、セーはこれに気づかなかった。彼はこれを、生産の利益を称賛するための更なる議論を加える定式、楽観的な感覚で論評する要約的定式に還元する。すなわち、他がすべて等しくば、人の数は生産物の量に比例する。[20]そして、彼は速やかに結論を引き出す。「生産を促進する以外で人口を増加させることはできないし、生産の源泉を攻撃する以上に、少なくとも持続的な仕方で、人口を減少させることはできない」。[21]

しかしながら、セーは『論考』最終版[22]と『完全講義』[23]において生産の制限を寸評しなければと感じる。生産は「食料品がその生みうるサービス以上に価値をもつ点」で停止する。しかし彼は、すべての資源とその使用法を知っているならば、この末期から遠くない国はないと保証することで、このがっかりな見解を速やかに引き離す。彼の本当の考えが表現さいるのは、「不幸を蒙っている国の場合において、人間の数の削減ではなく、生産物の量の増加を望まなければならず、それは人口が活発で、勤労し、経済的であり、良く統治されるとき、すなわちわずかしか統治されないとき、つねに余地がある」[24]と言うときである。この最後の命題はマルサスの理論の精神とは明らかに矛盾しており、マルサスと〔アレクサンダー・〕エヴェレットを論駁した或る著者は、いみじくもセーに宛てて述べることができた。「人口に関するわたしの見解は全般的なトーンにおいてマルサスのそれよりあなたの哲学に一致していると思われます」[25]

いずれにせよセーにとっては勤労が人口の基礎になり、マルサスの学説はフランス政治経済を経て産業主義学説に変貌し始めた。マルサスは人が悪を帰する政府の落ち度ではなく自然から社会悪が生じると証明するための保守的な意図で『試論』(『人口論』)を著したかたわら、それはフランスでは、社会の致命的問題を解決する際の政府の無能を証明し、それを「生産物の母、勤労」[26]に手渡すよう促すという政治的な反対の精神で利用された。諸国家と諸州の境界、諸民族の法律と習俗は偶然的な境遇にすぎず、その産業の発達への影響力によって間接的にしか人口に影響しない。マルサスの『試論』は思いがけない迂回によって、社会とはその産業がなすところのものであるという原理の裏付けを果たしたのである。

社会悪は生産の不十分から生じるのであり、この理念は有名な販路理論でなお例証される。過剰生産に帰せられる経済危機は実際には過少生産から生じる。生産物は生産物と交換されるから、それらが売り渡されないとしたら、それは相手方の欠如ゆえなのである。「他の生産物が足りないから一定の生産物は過剰なのである」。

したがって、危機の対策は均衡を再確立するため、立ち遅れたままの部門でさらに生産することである。それに実を言うと、この均衡はめったに歪曲されないだろう。「もしもすべてがつねに全面的な自由に委ねられるならば、或る種の生産はめったに他のを凌がないだろう」。[27]他方を渋滞させるこの不足を一方で維持するためには、「自然的または政治的な災害、強欲や政府の蒙昧のような、主な原因か暴力的な手段」がなければならない。[28]ここでもまた、落ち度は政府から来るのが普通であり、救済は産業からなのである。

販路の理論は生産の治療的作用に光を当てるだけではない。それは当時の精神に相当の印象を与えたもっと広い射程の帰結を含意する。実に、それは勤労が全個人と全民族の利害関心を一致団結させると示す。「民族は、近隣民族が繁栄することに関心をもち、その裕福さから利益を得ることを保証される」。[29]すべての国の生産者の間には真の共同体が存在し、すべての人はどこから生じた産業的進歩であれ利益を得る。したがって、産業的精神は国際調和と平和の精神である。「啓蒙された諸人民の愛国は人類に拡張する」。[30]

アンチテーゼは速やかに戦争精神に求められる、というのもそれが富をなす唯一の源泉は外国人の略奪だからである。セーいわく、「政府が一般的富を増加するには二つの手段しかない――安全を保障し財産を尊重するか、他民族から奪い取るかだ。後者のシステムは「権力と致富の技量を濫用する者が則るシステムに類比される。それは生産せず、他人の生産物を掠め取る」。[31]

セーの門弟たちはこの対照を発達させて悦に入る。これが専制に抗する彼らお気に入りの武器になる。勤労が人々の調和を実現するから、「ヨーロッパの古国家の排他的で嫉妬深い格律」[32]は政治的経済的ナンセンスである。この科学は諸民族の分断を無視する。それは、生産する者と生産しない者、富を創造する者と破壊する者の間の、深遠で普遍的な区別しか知らない。マルクス主義的な階級闘争の理念はそのルーツをセーの学派の自由主義学説におく。マルクスは中世以降の歴史をすべてノブレスとブルジョワジーの闘争に帰するギゾとオーギュスタン・ティエリからそれを変更しつつ借りた。しかしA・ティエリがサン=シモンの学説と『ヨーロッパ監査官』から引き出したこの理念はセーに関連している。しかしながらこの闘争は、マルクスにとっては生産的階級内においてさえプロレタリアと資本家の間で生じるが、セーと彼の門徒にとってはあくまでも生産的階級と非生産的階級の間にある。彼らはこう叫ぶのも本意であろう。「万国の生産者よ、団結せよ!」

セーの着想の政治的射程はこれまで適切な注目を受けていなかったが産業主義すべての芽生えを含んだ一節において特殊な仕方で明らかになる。それは一八〇三年版にすでに現れており、以降で正確、完全にされている。それは「産業の進歩から近代人に生まれる依存」[33]と題される。古代においては、土地も資本も産業所得ももたなかった平民は、公人のクリエンテスに身を窶した。近代人においては、産業的才能をもつすべての人は独立している。大王はもはや被征服者からの略奪品を友人に分配することができない。「民族の大半は大王に仕えることにはほとんど利益がないが、公共に仕えること、すなわち産業を活用することには多くの利益があると気づく……政府は遠い昔は人民に授けていた援助を人民から得る。かくて、近代的全民族の全体は政府が転覆したのとほとんど同じ状態に留まるのである」。[34]

一八一七年版で加えていわく、「この観察から引き出さるべき他の帰結は、政府が生産者の助力でしか自身を維持できないのでつねに一層生産者に依存することと、自らその補助金の主人となりうるすべての民族はつねによく統治されるだろうこと、この平和の術以外に資源を求めるすべての政府はすべての軍事政府と同じように長きにわたって自身を維持することができないことである」。[35]

そのうえ、政治経済は人と制度の社会的価値を判断する基準を設ける。それらが費やすものとそれらがもたらすものを比べれば事足りるし、セーの考えでは非物質的生産物の理論は人間活動の全部門にその適用を広げる効果をもつ。[36]この見地からは、社会で対立する二つの集団がただちに区別される。もたらさずに費やす集団か、もたらした上で費やし、物の力により、他人を養う集団かだ。さて、前者は自由主義が闘争する全権力を含んでおり、後者はそれが支持するすべてなので、政治経済はここで政治に同定されることになる。

富の破壊者の範疇にはまず軍と政府が入る。「スミスは兵士を非生産的労働者と呼ぶが、ああ! むしろ破壊的労働者なのである」。それはいかなる生産物でも社会を富ませず、彼自身の維持に必要なものを消費するのみならず、他人の労働の辛い果実を自分自身のための無駄に破壊することに頼ること頻りである」[37]。彼が繰り返しバンジャマン・コンスタンから一節を引用していわく、「戦争の費用はその支出よりも高くつく。稼ぐに差し支えることで高くつくのである」[38]、そしてそれは国が産業的であるほど悍ましい。しかもそれは進化の論理それ自体によって後に非難される。近代戦争は次のとおりの矛盾を含意する。すなわち、科学的で高価となり、ますます勤労の助けを必要とすることや、軍に優れたエンジンや弾薬などを備えなければならないこと。ゆえに今日では富が戦争の遂行に不可欠であること、ところがこれは勤労によってしか提供できないこと、産業的な人々は軍事力の唯一の有能者であるが、彼らは自ずと平和的であること。なぜならば「戦争が勤労を要するとしても、勤労は戦争を維持できない」からである。

かたわら、生産術の進歩はますます軍隊を募りにくくする。農業者、製造業者は、深い先入見なしで労働をやめることができない。財産家と資本家は休憩よりむしろ貨幣を犠牲にすることを好む。したがって、もはや真の国民軍はありえず、いるのは賃金兵士であり、「その仕事は国を守ること――そして、彼らの指導者の情念と暴政の道具たること頻りである」[39]

啓蒙――と販路法則の知識――の増加が、すべての民族はその本性からして友であることをついに理解させるだろう。最終的には、軍事政府は事前の訓練が必要なわずかな騎兵と砲兵の部隊に削減されるだろう。国家の武力は市民軍と良い制度のうちに存するだろう。[40]

政府もまた、少なくとも専制的であるときは、富の破壊者である。セーは彼の後継者たちの妥協なき反国家の先入見を分かち合っていないが、彼がその活動を無に還元していることは複数の例によって証明できる。にもかかわらず、彼が政府を国民の負債に計上していることは明らかである。これこそ彼の非物質的生産物理論の曖昧さと諸刃の性質が現れるところである。それは、国家のサービスはすべて非物質的生産物であるから政治経済の障害であると読み取ることを許してしまう。「公や判事、司祭は速やかに政治経済の攻撃の対象に陥るとヴェッリ伯爵が主張したのは間違っている」[41]

したがって、政府階級は生産的階級に入らなければならないようだ。ひとえに、まずは非物質的生産物はそうでないものより劣っていると言わなければならない。それは「非耐久的」生産物であり、国民資本を蓄積することも増加することもできず、ゆえに、生産されると同時に消費される非物質的富の生産的労働を最小限に削減することが社会の最大の関心である。そのうえ、生産される価値がその創造のために消費される価値を超える場合にしか真の生産はない。そして経済的な見地から言えば、国家のサービスは普通しかるべきものではないことが、いみじくも経験で確かめられている。したがって最善の政府は安い政府、可能な限り行動を起こさない政府であり、最善の財政計画は少なく支出すること、最善の課税は最小の課税である。[42]国制問題にかくも大なる重要性を付すのは間違っている。「国家は適切に経営されるならば、あらゆる形態の政府の下で繁栄できる。我々は絶対君主制がその国を富ませ、大衆議会がその国を滅ぼすところを見た。行政の形態それ自体は富の形成には間接的、偶然的にしか影響しない。富とはほぼ全面的に諸個人の作品なのである」[43]

聖職者は役人と同じ評価を受ける。セーは或る一節で矢を放つ。いわく、超自然的な力の干渉が道徳の維持に必要であると思われるとき、「我々はその力の遂行者を自称する人々に金を払っている」。もしも彼らの労働が有用であるならば、その効用は無価値ではない非生産的生産物であるが、この人々は優れた人々ではないならば、その労働はちっとも効用生産的ではないし、聖職者たちを養うために犠牲にされた社会の収益の部分は無駄であって、それはどんな見返りを受けることもない交換である」[44]。そして『政治経済要理』(1817)は狡猾な疑問を立てる。「公共は聖職者に給与を支払うことで何の利益を得ると自惚れているのか」?

また、政治経済は自由主義的な対照がその鼻先に見出す階級をすべて非難する。

それでは、このファランクスを構成する生産者の、あるいはセーが誇らしげに父権を請求する名[45]、サン=シモン派が一山築くところの名でいえば、「産業家」の軍勢を見てみよう。

その脚光を浴びるのは、イギリス学派ではまだ認識されていなかったがフランスの社会理念史においてはセーの学説での彼の登場が第一級に重要な人物――企業家だ。マルサスの政治経済が土地所有者のそれであるとしたら、セーの政治経済は企業家のそれである。企業家が占める位置は、彼が七月王政の下で持ち上げられるところの政治的役割に指定される。ジェローム・パチュロは自らの運命を心した。

企業家の機能は産業を取り巻く諸機能のなかで最も重要である。それは生産の仕事を経営する。[46] それは必ずやエリートとして現れる。そしてセーは彼に必要な質の列挙で飽くことをしらない。判断(力)、忍耐(力)、人と物の知識、計算に堪能な頭、知能、思慮、秩序、誠実さ……「人集りにありふれるようなものではない道徳的資質」。

かつてオシーの製造業者は可愛い花冠を結った![47]

セーにとって、企業家とはつねに美徳の後光に包まれた個人であり、ときにその労働とは独立した利潤を集める集団、たとえば、管理職員に給与を支払う社会でありうるという考えはよぎらなかった。

企業家の隣には労働者が置かれる。セーは我々がすでに述べたとおり、彼らとその上司の間に生じうる紛争の原因を取り除く。しかしながらどちらも同じ階級、その産業的能力からの利益で生きる産業家の階級に属する。この両者の間には、その機能の尊厳しか違いがない。一方はその人間的な知識を有用な使用に適用するが、他方は物質的な実行の作業に限定される。[48]

企業家と労働者が生産の本質的な動作主であるならば、学者や不可欠な協力者である。科学と産業の提携は、サン=シモン派に開発されるが、すでにセーによって宣言されていた。産業はどこであれ理論と応用、実行から成り立つ。学者は産業にその操業を指導する理論を施す役を担う。さもなくば無益な好奇心に向かう科学の関心が存するはなかんずく実践的役割である。[49]そのほか、学者は或る民族においては企業家以上に必要なわけではない。科学的発見は或る国から他所へ普及するが、それは産業の長に必要な資質と同じではない。人々の優位は後者、産業の長にこそ依存するのである。それは伝播不可能であり、貴重なほど稀少である。

ただ企業家の長と労働者、学者だけが、厳密に言って、産業家を形成する。しかし産業はまた資本家と土地所有者をも必要とする。[50]

資本家はセーの作品では企業家と同じほどの尊敬を授からない。しかしながら、資本の所有は無限に尊重される。しかしながらそれは産業的才能ほど議論の余地がないものではなく、実際、それは相続を神聖化する立法との協賛一定の条件のみを許可できる協賛を予め前提している。[51]そのうえ、資本家は生産者であるというとき、それは、生産するのは資本である、という言い方になる。たとえ資本家がではなくとも、資本は実に生産的であるが、それはなおも才能によって実用されるときのことであり、才能はその月並みな労働から生じた利潤の主な部分を担う。結局、資本家の利子が社会的利子と絶対的に同じではないということもありうる。最も儲かる資本の利用がつねに国の最たる利益になるわけではない。[52]

セーは土地所有者に対してはさらに険しい。資本家に注がれる観察は自ずと彼らにも適用されるが、そのうえで、彼らは特別でもっと非共感的な考察の対象である。大土地所有者が復古王政の下で反動的政党を形成したことを忘れてはならない。自由主義者が最も激しい攻撃を差し向けたのはこの旧体制の人々である。

セーは、産業的能力の所有と資本の所有は土地の所有より神聖な何かであるという、それを搾取しようと望む者にとって結果的に肥沃な原理を定める。[53]「一つ目は人格に堅らかに付属し、二つ目は過去に達成された労働や貯蓄努力を予め前提し、三つ目はその起源を――略奪のみに負う。なぜならば、一つ目の人に開発された土地が我々の時代までつねに正統に受け渡されてきたと仮定することはできないからである」[54]。確かに、この掠奪は最終的には人類の利益に向かっていた。なぜならば一定の生産的作用因の本性は、彼らがそれを専有するときにしか、真のサービスを行うことができないからである。それでも依然として、その権原は損なわれており、その財産は「最も尊からぬ」ものである。[55]

そのうえ、歴史は征服で富をなした大財産家と初めにその保護下についた産業階級の敵対を証明している。少しずつ、「産業は大財産家に依存せず、彼らを永遠に脅かすことなく、大衆に生存手段を提供してきた」[56]

しかしながら、この人々は初めに占有した特権的立場の何かを保守してきた。「耕作に適した土地の量はどの国でも限られているが、資本の群と農業者の数は割り当てられることができない。かくて、かつては人が住んで耕されていた国での土地所有者が、農家に対して或る種の独占を行使する……」[57]。それ以降、財産家が富の優位と幾らかの信用と位置の優位を得ることを考えなくても、契約は財産家に好意的になり、農家に非好意的になるだろう。

しかも、財産家はその徳による尊敬を強いない。彼らのほとんどは「文明の喜びに慣れて、大事業を計画し実行する必要を決して感じず、一人では決して感じないし必ずや多忙な民族において一般的とは感じられないところの熱意もわずかにして……、社会の防衛に貢献するために、彼らの休息と命を犠牲にするよりも、むしろその収入の一部を犠牲にすることをつねに選好してきた」[58]。彼らはしばしば日課と無精の犠牲者である。

我々はこの分析の諸要素をただ『論考』だけから借りようとしてきた。これは実際にはセーを自由主義の学長にし、自由主義政党に対照の学説の実質を与えた二つの版、一八一四年版と一八一七年版である。しかし『完全講義』は復古王政の政治的闘争の最中に著されることで、この悪い理念を一層精力的に擁護することになる。

かくて、資本家と土地所有者は生産者階級の最後の二つの段階を占める。主座に就くのは「人間知識を増加する者――それらを人の使用に適用する者――それを実行する者」である。したがって、自由主義的な対照において考えられる生産者と非生産者の対照には、すでに怠け者と労働者の対照が含まれている。企業家が彼の労働とは独立した利潤に気づくことを示せば、我々が近代社会主義の広義「資本家」と労働者の対照に到達するには十分であろう。

セーの作品の産業主義テーゼの重要性が分かる。生産は他の問題がすべて従属的であるような一大社会問題である。その卓越性は産業家にも及び、彼らの中でも「中流階級、壮大さの陶酔に対する防衛と、窮乏に強いられた労働に等しく[59]に当てはまる。

したがって、少なくともイギリス学派の著作物以上に読まれていたセーの『論考』は、経済的射程と同じだけ政治的射程をもっている。政党がその議論を闘争に持ち出すことで、自由主義行為の綱領が打ち出されることになった。それが〔シャルル・〕コントとデュノワイエの『監査官』の作品である。或るビジョナリーは、この理念をすぐに論理の過当まで押し進め、セーの生産理論に拘って生産者政府に行き着いた。これはサン=シモンにも当てはまる。

『監査官』編集者の独創性は彼らがJ=B・セーの政治経済を政治学に変形したことである。

一八一四年に、皇帝退位の後、二人の若い著述家シャルル・コントとデュノワイエは、自由主義理念を広める雑誌を立ち上げるために集まった。百日天下の翌日、彼らの七巻を重ねた出版物が警察に差し止められた。それまでは純粋に政治的な討論にはほとんど関わらなかった。その辛辣で正直な論争は、デュノワイエ自身の証言によれば、「立法と管轄についての一定の知識」が目立つが、「経済的懸念がまったく欠けていた」。

一八一七年、『監査官』は『ヨーロッパ監査官』となって、新しい精神で再登場した。その創刊者は休止期間に政治経済を発見した。彼らは、立憲的問題を扱って時間を無駄にしていたことと、帝政僭主の破滅が絶対君主政の再確立に尽くすばかりだったことを見て取った。政府の形態論に閉じこもる形而上的政治学を、経済的関心の知識に基づく積極的政治学に代えなければならない――まさに『ヨーロッパ監査官』がセーの論考の論評で言うとおり、「政治経済は人民に繁栄と衰退を示すことで、政治の真の基礎を定める。彼はそれを、最初と中世の文明国家と近代的な人々の文明国家の間に存在する違いが分かる著述家全員のもとに置いた」。[60]

そのうえ、デュノワイエの記録[61]によって、我々は『ヨーロッパ監査官』が新しい鼓吹を引き出した源泉を知っている。その編集者たちの精神には三つの作品が深い印象を与えた。フランス君主政についてのモンロジエの作品と、バンジャマン・コンスタンの『征服の精神についての試論』、J=B・セーの『政治経済論考』だ。

モンロジエ[62]は、メーストルとボナールの近くで、革命から生じた近代的理念に対しての最後の反動を行う著述家集団と繋がっている。歴史的には、彼らは政治哲学の追求に際して力を合わせ、その考察のため、十八世紀にデュボス神父と戦ったブーランヴィリエのテーゼを取り上げる。序列の区別は偶然の不正義ではなく原理があって、それは力の優越性であり、征服の権利に由来する。征服者フランク族が貴族階級〔クラス・ノーブル〕を、被征服者ガリア族が有産階級〔ブルジョワジー〕を形成した。歴史とは、支配的な階級に征服された階級の継続的な反乱、生まれの正当な特権に対する科学と産業の反逆の一覧である。

バンジャマン・コンスタンの、一八一三年[63]の年末にハノーファーで出版された冊子『ヨーロッパ文明との関係における征服と簒奪の精神』は、デュノワイエいわく、近代的な人々の活動の目的、ひいては政治の真の目標に説き及んだ最初の作品である。人々はかつて戦争に生きていたが、近代的民族に特有の目的は、平和を要する産業である。

バンジャマン・コンスタンがこのテーマをどれほど深く、広く開発していたにせよ、彼が関わりのあったJ=B・セーにこれを借りていたと想定するのは向こう見ずではない。『論考』第一版の「産業所得から近代人に生じる独立」についての章と「軍の支出」についての節は、B・コンスタンが解明したほぼすべての理念の真髄を含んでいる。しかも、彼はJ=B・セーを引用しており、二度も繰り返すほどこの文に感銘を受けていた。いわく、「戦争の費用はその支出よりも高くつく。稼ぐに差し支えることで高くつくのである」、「近代人にとっては、幸福な戦争はそれが生み出すものより間違いなく高くつく」。[64]

最後に、『監査官』著者が受けた第三の影響はセーの『論考』からであり、その第二版は一八一四年に現れた。「セー氏は最も明快な秩序で、顕著な改善を伴いつつ、富の生産についてのスミスの諸理念を再生産しながら、……もっと科学的な仕方で、我々の物理的な財すべてが産業によりどう創造されるかを解明し、かくて、産業をもっと広い見地から、社会の根本的目標としてみなすように仕向ける」[65]

デュノワイエはその注でセーを咎めたが、それは彼の解明した学説が政治学とは思われなかったこと、政治学とは政府の形式の理論でしかなく、そうでしかありえないと信じていたからである。[66]実際、セーはただ政治経済だけが諸民族の繁栄の法則を与え、政治学は権力組織の科学であるかぎり、社会的厚生には無関心な何かであると教える。『ヨーロッパ監査官』に対しては表現のニュアンスしかない。

さらに、『監査官』の著述家は自由主義政党の花形を自宅に迎えるセーその人との関係をもっていた。[67]シャルル・コントは一八一八年に彼の娘アドリアンヌ・セーと結婚した。セー自身は『サンスール監査官』第三巻に、ベンサムの『議会改革計画』に関する記事を寄せた。

かかる雑誌は一八一七年の選挙でパリの有権者に対し、ラファイェットと〔ジャック・〕ラフィット、〔ジャン=アントワーヌ・〕シャプタルなどと同時に、彼の名を推薦した。彼の『論考』と一八一七年に出版された、人と社会についての摘要の『小編』(Petit volume)は、最も媚び諂ったような評価の対象である。コントによる『論考』の分析は百二十二ページが費やされ、支持する引用ともにセーの開発を一歩一歩追っている。それは書評というよりはむしろ簡約版であった。

我々はアレヴィー氏がすでに研究した『ヨーロッパ監査官』の理論を詳しく解説しはしない。セーのそれとの緊密な関係を際立たせるには主要な記事[68]から引き出された短い要約で十分であろう。

『ヨーロッパ監査官』の学説は生産の観念と生産者と非生産者の対照に基づく。社会は二つの階級に分割される。「活発で勤勉な」階級と「怠けて貪る」階級――「産業の人たち」と「特許の人」――「スズメバチとミツバチ」――「支払う者たちと支払われる者たち」。フランス革命は彼らを戦わせる普遍的闘争の一幕にすぎなかった。

古代と旧体制では、優位は怠け者のものであったが、近代産業は働き者に至上性を保障し、人類の一部が他に及ぼす覇業を破壊するところのものである。しかしこのため、産業の精神が戦争の生産に取って代わらなければならない。これまでは戦争精神が優勢であった。これこそは、国家内部において貪る階級の権力を維持し、国際関係においてヨーロッパ均衡体制、実際には平和への永遠の脅威である「ぼろぼろの古い機構」を生み出したものである。

ただ産業の精神だけが、決して財産を法律の恣意的な創造とはせず、産業の普遍的な属性とすることで財産の尊敬を保証し、[69]これを産業の関心の共通性に基礎付けることで普遍的平和の維持を保証する。[70]

「産業の精神は戦争精神と同じようには働かない。それは乱暴ではなく生産に沸き立つ。それは人ではなく物に及ぼされる」[71]。それは人々の敵意を終わらせて友好的な関係を創造し、相互繁栄に関心をもたせる。そして、『監査官』は販路の法則を発展させる。「各生産物に対して交換されうる物が多いほど、各生産者に開かれる、増加した交換手段の販路は多くなる」(« plus il y aura pour chaque produit de choses contre lesquelles il pourra être échangé, plus chaque producteur aura de débouchés ouverts, de moyens d’échange multipliés »)[72]

国際的な均衡は変貌する。いまや権力の集団は存在せず、二つの大民族のみがある。生産者たち――産業家たち――のヨーロッパ民族と、その他だ。「それは新ヨーロッパと格闘する旧ヨーロッパである」[73]。前者の目標はヨーロッパから三つの大疾患、すなわち戦争と恣意性、独占を根絶することであり、後者の目標は専ら権力を行使することでしかない。フランス革命に抗する連合体と現行の正統主義的な全君主制の同盟はこの所業である。

産業家民族が各国で従うべき政策とは何か? 『監査官』はJ=B・セーがすでに解説した意見を取り上げて、立憲的問題の関心の欠如を強く主張する。政治的な主題において形式の問題に引き止められることは、手段でしかない政府を目的であると思い込んでいるのである。「共和国万歳! と一方が言う。君主国万歳! と他方が言う。そしてこれらの言葉で彼らは抱きしめあうのである。疑いなく、どちらも言おうとしているのはこうだ。人の福祉よ万歳」[74]!「法律が認めるのは君主制か、共和制か、それとも専制政府かではなく、それらが社会の関心のうちにあるかを知るのが問題である」[75]

これに関連して、『監査官』は彼らの着想の最も独創的で最も新しい部分たる歴史的唯物論の理論を概説する。

あらゆる制度の本性は富の取得様式によって決定される。「生存に必要な物を生産するため国が利用できる手段は、その社会的組織の形式と、それを指揮すべき人々の選択を決定する」[76]。かくて、ローマ民族はその収入源を寇掠におき、その組織すべてが好戦的になった。軍事的重要性の上に社会階層が築かれたのである。もしも、戦争でしか生存できずにいるローマ人が、その頭を産業の人に取り替えて商業の栄光を褒めそやしていたら、彼らを気が狂っていると正当に非難できるだろう。[77]封建制もまた好戦的な体制であった。中世、少なくともローマ帝国の終焉時においては、君臨する秩序の基盤を揺るがしたのは産業であった。ローマの人々がもう奪う相手をもたず、中世の職人が「勤労で富を創造することの秘訣に気づき、貴族がそれを奪う力を失い、そうではなく引き換えに平等な価値を与えなければならな」[78]かったとき、権力は否応なく手から手へ渡って、その制度が変貌することになった。かくて、奴隷制の消滅はキリスト教のおかげでも領主の寛大さのおかげでもない。奴隷を消滅させ、彼らの主人の影響力を無に帰したのは、産業である。それが主人の債権者になって、奴隷を養う農業商品と引き換えにその生産物を売ったのだった。[79]

近代的人民はもはや軍や役人ではなく、農業と製造業、商業の生産物によって存在する。「わずかな学者や兵士、公が人民を危機に陥れることはないと、よく知られている[80]

したがって、「よく秩序立った国家においては、政府は生産に依存せざるをえず、それは、生産者の人身と彼らの労働による財の安全を見守り、寄生虫に抗してこれを保障することに生産者が支払いをする、生産者に担当される委員会であるに違いない。よく秩序立った国家においては、可能な最大数の個人が労働し、最少数が統治するに違いない。完成の極みは誰もが労働し誰も統治しないところにある」[81]

事実、政府は生産の手段をもっておらず、消費の手段しかもたない。[82]「決して見失ってはならないことは、公職員がその職員としての資格において絶対的に何一つ生産しないことである」。[83]政府がそのむしろ否定的な性質である義務に違反するのを妨げるため必要なのは、行政する者に抗して、生産する者が組織することである。一つの社会に二つの階級があり、一方の生産物が他方を扶養して、他方が一方を保護するところでは、彼らの間に闘争が生じる。「生産者は自由を欲し、保護者は権力を欲する」[84]

「我々には産業家の代表が必要である。いまや我々の第一の関心は産業にある」[85]。代議院は「生産の弁護士の委員会」[86]でなければならない。そのためには産業家と財務家、学者が選出されなければならない。もしも産業なき土地所有者が場所を得るならば、それはおしまいになるだろう。「土地財産は、産業に加わるときは最も有用で最も高貴であるが、産業から離れるときは最も非道徳的になりうる。[87]最後に、役人全員と行政からの俸給生活者全員が、議会から排除されなければならない。

しかしながら、フランス革命がどう避けるか知らなかった二つの落とし穴に気をつけなければならない。

それは生まれの貴族政が終わったことを理解していたが、新民族の自然な代表者を発見できなかった。その議会は弁護士、司祭、文人、医者、多かれ少なかれ国家年金の人に満ちていた。[88]

第二に、産業家のごく一部は彼らの大義に背いており、背き続けているし、純粋かつ端的に、彼らが抗議するものに対しての濫用から利益を得ていた。これらは怠けて貪る階級として通ることで、彼らの政党を裏切ってきたし、裏切っている。[89]フランス人民は自らの主権的人民であると宣言する際、全面的に権力へと飛び込んでいし、[90]産業の人も役人になるため実に頻りに自身の労働を辞めて、廃された権威の職に就いていた。

この二つの誤りを正すため、まず公共機能の威信と優越を削減することが重要である。続いて政治体において産業エリートに影響力を与えることが重要である。

すべての社会はそのメンバー間の繋がりを創造する階層を前提する。旧階層の破壊は国を脱組織化し混乱させた。なぜならばそれは、新しい貴族制がどう制定されるべきか、そしてそれが農業者と製造業者、商業者の貴族制であるべきことを、分かっていなかったからである。[91]戦争の人が消えるにつれて、産業に献身する人はさらに多くの労働者に取り囲まれる。……〔自分の国を〕豊かにしたい文明人はまた一定の産業的能力と幾らかの資本、多数の労働作業員を必要とする。あらゆる種類の産業が、戦争産業と同じように、参加する人々の間の従属を生み出し、とりわけ、大成果を得るためには幾つもの努力を統合せねばならず、そして、最大の能力と最も大量の資本を所持する者は自然と他のみなの長、他人を存在させる者になる。こうして唯一の議会に統合するとき、多数の関心の頭である者」[92]は、個人の孤立を破壊し、すべての関心を束ね、永久に軍を抑え付ける、など。

もしも革命議会が「富農や相当数の製造業者、銀行家、商人」[93]で構成されていたら、それ以降、ヨーロッパを苦しめていた害はすべて避けられていただろう。[94]

ヴェイユ氏とシャルレティー氏、アレヴィー氏の後に、ここでサン=シモンの学説の解説を繰り返すことはしない。我々のテーゼを確立するには、彼の理論の『ヨーロッパ監査官』のそれとの類比を示せば十分であろうし、それ自体によって、一方と他方を彼らの鼓吹の共通資産、J=B・セーに結びつけよう。

実を言えば、我々は『監査官』の記事を要約したとき、すべての主要な理念、サン=シモンの混乱した作品の際立った点すべてに触れることができていた。すなわち、産業主義の根本理念――政治学を政治経済に解体するという理念――階級闘争の理念とスズメバチとミツバチの弁明――自由主義政党の党首を非難して、「俺の場所から退け」(« ôte-toi de la que je m’y mette »)――安い政府の理念と役人の生産者への従属――政府形態に関する無関心――人への権威に代わる物の経営の理念――産業議会の理念、「フランス革命の口喧嘩と軍事政府」に対しての批判――人民主権ドグマ批判――人の自然的不平等と産業的貴族制の優越性の肯定――サン=シモンが軍と無職金利家、役人と同じ地位に分類した、産業的労働に従事しない土地所有者に対する不信、など。[95]

さらに、サン=シモンはこの理念を『監査官』の編集者たちから借りたわけではなかったし、彼らも彼から借りたわけではなかった。実際、一八一四年から一八一七年まで、彼らのどちらも同じ思想に生きていたのである。A・ティエリはサン=シモンの『産業』と『監査官』の両方で執筆していた。サン=シモンはJ=B・セーに日焼けしていた。しかしサン=シモンはいつもの熱情で、コントとデュノワイエより誇大な仕方でセーに負っていることを示した。彼が見事な千里眼でこれを示した一節は、その長さにかまわず引用する価値がある。なぜならばそれは、深い意味で、セーの学説を理解している部分が一つたりとも存在しないからである。

彼の作品は政治経済がこれまでに発見し証明したことをすべて含んでおり、まさしくヨーロッパにおいてのこの科学の極致に相当する。

ここにあるのは、素晴らしい日に見つけられたなかでも最も一般的、ひいては最も重要な真理であると思われる。

その一。有用な物の生産は政治的社会が繁栄できるところの道理に適った唯一の積極的な目的であり、ゆえに、生産と生産者を尊敬せよという原理は財産と財産家を尊敬せよというものより無限に肥沃である。

その二。政府は産業に要らぬ世話を焼くときつねに産業を害し、それを奨励する場合でさえこれを害する、ゆえに政府はその世話をして、産業をあらゆる種類の不調と困難から守ることに限らなければならないということになる。

その三。社会の唯一有用な人である有用な物の生産者は、その行進を規制するために競争すべき唯一の者であり、実際に税を支払う唯一の人である彼らは、投票権をもつ唯一の者である。

その四。人は生産を害することなくその実力を他人に差し向けることができず、ゆえに、戦争はその目標が何であれ全人類を害し、勝ったままの人民すら害する。

その五。或る人々の他の人々に対して独占を行使することの願望は悪い発想の願望である、なぜならば独占は実力でしか獲得されず維持されず、それを享受する人々の総生産を減少させるに違いないからである。

その六。産業が完成するのと同時に、道徳は事実を達成する。人々と人々の関係を考えるにせよ、個人間の関係を考えるにせよ、この観察は真理であり、ゆえに、どこであれ優勢たるべき、みなに広められるべき教育、強められるべき理念とは、生産の各活動において増加する傾向があるそれであり、他人の生産への尊敬である。

その七。全人類が共通の目的と関心をもつので、各人は彼自身を、労働者一団と関わるように、専ら社会的な関係において考慮しなければならない。[96]

彼がセーに差し向けた唯一の批判は、「漠然とながら彼に反して、政治経済が政治の真の唯一の基盤である」とは感じなかったということである。

それでは、サン=シモンの新しさと独創性は何か?――財産についての見解? しかし彼はこれを語る幾つかの節において、要するに、財産は専ら社会的効用のみに基づくと断言するに限った。そして(彼がおまけに言い加えるには)、その基盤を法律に求めるのは――少なくとも土地所有者にとって――危険であり、生産に資するサービスでしか自分を正統化できない、とかつて宣言したJ=B・セーのうちに見出した。

・産業が財産分配を変更するという理念? しかしこれはすでに『監査官』にある。「社会的組織が完成してゆくほど、富をなす恥ずべき手段は稀少になる。したがって、怠けて貪る階級の絶滅により、各人の富が彼の長所に、つまり彼の効用に、ほとんど直接に比例するような点まで到達することができる」[97]。そしてセーの『論考』においては、我々は第二版で消されたこれを読んでいないが、第一版にいわく、「年間生産物の公正な分配を奨励し、ゆえにすべての階級に更なる安楽と資源を行き渡らせる傾向のある法律の国は、分業から生じる悪の大部分を維持するものだろうか?」[98]

・彼が社会での学者に帰する役割? しかしJ=B・セー自身が生産者の中に、有用な知識を普及する職に就く学者を入れており、しかも彼らの地位は企業家に次ぐと示唆している。『監査官』もまた産業家と同時に学者の議会選出を提言しており、もしも彼が学者一般に対してときに険しいようであるとしたら、それはただの博識家、抽象的思弁家、「システム創造者」(サン=シモンの言で「形而上学者」)、あるいは年金受給の役人著述家でしかないとみたからである。サン=シモンにとって、学者とは積極的研究、ゆえにその本性からして産業を利する知識に献身する者のことである。そして彼は非常に慎重にも、学者は永遠に農家と製造者、商人、銀行家への依存の下に留まると言う。「もしも我々にとって悪いことに、俗事のが学者の手に委ねられるような物の秩序が確立されるならば、科学の体が速やかに腐敗し、聖職者の邪悪さを帯びるだろう、彼は狡賢く専制的な形而上学者になるだろう」[99]

・アレヴィー氏が考えるとおり、[100]サン=シモンは生産者の観点につき、J=S・セーと彼の弟子たちは消費者の観点についたのか? しかし実際には、まさしく消費者の政治経済ありと言うにはフランスではバスティアを待つ必要がある。『監査官』が語るのは生産者のみであり、我々はJ=B・セーをつねに鼓吹しているのもまた生産の関心であると証明しようとしてきた。『論考』[101]では、彼が消費者のことを記すのはたった一度だけである。いわく、消費者が本質的階級である、なぜならばそれは万人を包括し、一般的関心に相当するから。しかし彼ら自身をして、あるいは所得を稼ぐ者、生産者として、直接間接に、消費者はすべてであるから、ゆえに消費者の関心は生産の進歩に結びつくから、彼は消費者と生産者の分割を「最も愚かな分割」と批判する。

実際、サン=シモンが自由主義学説に対して少しずつ加えていったのは、彼の二冊の表題、『組織者』と『新キリスト教論』に象徴的に表現される二つの理念である。

一八一九年以降、サン=シモンはおそらくオーギュスト・コントの影響で、自由主義を批判的で消極的な学説でしかなく、既存の体制を破壊することに長けているが、これを取り替えるには不十分であり、有機的オルガニーク)な学説に作り変えなければならないと考えるようになる。新社会は「組織」(オルガニゼ)される必要があり、その組織化(オルガニザシオン)の原理は政府になければならない。この違いを実によく理解していたデュノワイエが言うとおり、「後に、彼はあらゆる暴力から産業家を守ることに権力を制限するのではなく、産業の全活動を束に統合する役を担い、これを共通目的に向けて指導する、社会の自然な長とみなした」[102]。『監査官』にとって、産業主義は現行諸制度の自然な発達から結果し、政府を監視しその危害を予防するために産業家を議会へ送り出すであろう選挙制大学のもっと良い教育から発生するかたわら、サン=シモンにとって、社会を変形し、指導活動を新たな手に託するのは法令、王令(「オルドンナンス」)である。権威は後見人を変えるべきだが、それはつねに権威でなければならない。国民的学説を普及するのは精神的権力でなければならず、「国民的大製造業」を経営するのは世俗的権力でなければならない。

サン=シモンのもう一つの刷新は、末期に際して、セーと彼の弟子の道徳であるベンサム功利主義を、「最も数多く最も貧しい」階級に対する友愛と同情の学説に置き換えたことであった。

いまや我々はJ=B・セーがフランスで打ち出したこの生産という概念の肥沃さを測定することができる。社会的幸福の秘訣が産業の進化と富の増加にあるとの信念は彼以降、長く続くことになった。サン=シモンが始めた大事業はその果実であり、ギゾの有名な言葉――その公式パリサイ主義はそれ以来かなり非難されてきた――――「金持ちになりたまえ!」[103]はその表現である。

生産者と非生産者の対照、階級闘争理論の原基は、経済学的討論に新たなパースペクティブを開き、近代社会主義が発生する進化の出発点を形成した。サン=シモン主義者たちはこれを労働者と怠け者の対照に拡大した――後者はいまや、労働者階級からの搾取で暮らす金利生活者と土地所有者を含んでいる――そして我々はJ=B・セー自身の中にこの方向性の表明を認めてきた。サン=シモン派に多くを負ったカール・マルクスが、その価値と剰余価値の理論によって、今度は企業家を労働者階級から搾取者階級に移すことになる。

J=B・セーに思い描かれたとおりの生産者階級は旧体制の権力の頚木から開放された後、互いを引き裂く二つの集団に分断されることになる。これはセーも『監査官』も、サン=シモンも予見していなかったことだ。生産者一同の関心はつねに団結的で不可分であると思われていた。一八四八年、まだ若いころの確信に忠実なままだった『監査官』の編集者の一人、オーギュスタン・ティエリは、第三身分が、二つの致命的に敵対する階級、人民とブルジョワジーに分裂するところを見た。彼の伝記作家ジルベール・ティエリいわく、「彼は落胆に満ちて、五年かけて請け負っていた仕事を中断した。歴史がまったく理解できないと、彼が時おり苦々しく叫ぶのが聞こえた」[104]

『新キリスト教論』でのサン=シモンを除けば、彼らは第四階級を予感していなかった。そしてこれがその存在を示し始めたのは、産業主義者陣営の決定的な決裂の兆候になった。サン=シモン派は労働者に手を差し伸べた。対照的にもデュノワイエは、我々がいつの日か解明する機を得るであろうとおりの自由主義政治経済の理論を作り直して逸脱する奇妙な仕事により、セーの広く真に「自由主義的」な学説を、「党派」に抗してのブルジョワ擁護の狭い学説に変形した。

それでもやはり、生産者と非生産者の独創的対照――セーから来た対照――は、社会主義の形成と同じだけ必然的に、経済思想の必然的な一歩であった。

[1] G. Weill, Saint-Simon et son œuvre, Paris, 1894と、Charléty, Essai sur l’histoire du saint-simonisme, Paris, 1896。

[2] Revue du Moisの二つの記事、La doctrine économique de Saint-Simon (10 décembre 1907) と、La doctrine économique des saint-simoniens (10 juillet 1908)。

[3] E. Halévy, loc. cit.Revue du Mois, 1907, IV, 647.

[4] Cette étude est extraite d’un travail en préparation sur J.-B. Say et la formation de la doctrine économique libérale en France.

[5] Traité, 1re édit. (1803), I, p. 97.

[6]« Le maître et l’ouvrier ont bien également besoin l’un de l’autre, puisque l’un ne peut faire aucun profit sans le secours de l’autre ; mais le besoin du maitre est moins immédiat, moins pressant… Il est bien difficile que cette différence de position n’influe sur le règlement des salaires… Ajoutez qu’il est bien plus facile aux maîtres de s’entendre pour tenir les salaires bas qu’aux ouvriers pour les faire augmenter ». Traité, 1re édit., II, p. 242-243. – Cf. I, 277. « Les chefs d’entreprises exercent un monopole non seulement à l’égard des consommateurs, mais encore, et par d’autres causes, à l’égard des ouvriers et de plusieurs agents de la production. »

[7] Œuvres diverses, édit. Guillaumin, p. 274-275 (examen critique de M. Mac-Culloch) et p. 118 (lettre à Ricardo).

[8] Ch. Gide et ch. Rist, Histoire des doctrines économiques, p. 74 et suiv., Paris, Larose, 1909.

[9] Il admet, comme Quesnay, la supériorité de l’agriculture sur l’industrie, parce que, dans le travail agricole, la force de la nature collabore avec celle de l’homme et donne naissance à une plus-value qui fournira la rente (Rich. des nat., liv. II, ch. V). La valeur des produits industriels reconstitue simplement la valeur des éléments nécessaires du coût de production. L’analyse est la même que celle des physiocrates et A. Smith se borne simplement à montrer que là où ils n’avaient vu qu’une opération stérile, il y a une reconstitution de valeurs détruites, et par suite, une production nouvelle. M. H. Denis, dans son Histoire des systèmes économiques et socialistes, a excellemment résumé la conception de Smith sur ce point : L’agriculture accroit la valeur en accroissant la quantité de matière ; l’artisan conserve la valeur en transformant la matière ». I, 258.

On relève aussi, d’ailleurs, dans le Traité de Say, un développement qui détone avec tout le reste, et dont la présence ne s’explique que par la reproduction irréfléchie d’un texte d’Adam Smith. C’est le passage relatif aux v emplois des capitaux les plus avantageux pour la société » (Traité, 1re édit., II, p. 329, maintenu dans les éditions suivantes). Say y expose que le capital le plus avantageusement employé pour une nation est celui qui féconde l’industrie agricole, parce qu’il provoque à la fois le pouvoir productif des terres du pays et du travail du pays. Il admet, comme Smith, que les capitalistes ont un penchant naturel à diriger leurs capitaux d’abord vers l’agriculture, de préférence tout autre emploi.

[10] Notons que cette idée tombe, en France, dans un milieu merveilleusement préparé l’accueillir. Les arts mécaniques, déjà réhabilités par d’Alembert, dans le Discours de l’Encyclopédie, sont l’objet d’un véritable engouement pendant la Révolution. La confiance est sans bornes dans le progrès des découvertes scientifiques et de leurs applications pratiques. On est frappé aujourd’hui de la place que les articles de technique industrielle tiennent dans une revue comme la Décade. La Société d’encouragement pour l’industrie nationale est fondée cette époque. Cf. Picavet, Les Idéologues, chap. 1er, passim.

[11] Éléments d’idéologie, 1815, t. IV, Traité de la volonté, p. 161.

[12] Ce n’est pas ici le lieu de discuter l’erreur de cette proposition : richesse valeur d’échange utilité, sur laquelle est construite toute la doctrine de Say.

[13] Le passage apparaît dans la 2e édit. du Traité, 1814, I, p. 19.

[14] Passage également ajouté à la 2e édit., I, p. 30.

[15] Le plus curieux, c’est qu’en réalité, A. Smith l’a parfaitement vu et s’est mis lui-même en contradiction avec sa théorie de la valeur. Dans la culture de la terre, la nature travaille conjointement avec l’homme, et quoique son travait ne conte aucune dépense, ce qu’il produit n’en a pas moins sa valeur ». Rich. des nations, liv. II, ch. V (p. 439 du 1er vol. de l’édit. franç. Guillaumin).

[16] Traité, 2e édit., t. I, p. 30.

[17] Lettres à Malthus, Œuvres diverses, p. 496. Cf. p. 513.

[18] Traité, 2e édit.. t. I, p. 21.

[19] Traité, 2e édit., t. I, p. 34.

[20] Traité1ère édit., t. I, p. 391.

[21] Traité1re édit., t. I, p. 392. Say n’a vraisemblablement connu Malthus qu’entre la 2e et la 3e édition du Traité. Mais les passages que nous citons de la Ire édition sont intégralement maintenus dans les suivantes.

[22] Traité, édit. de 1841, p. 147. Cette mention, d’ailleurs assez vague, ne figure pas encore dans l’édition de 1817.

[23] Cours complet, 3. partie, chap. III.

[24] Traité, 3. édit. (1817), t. Il, p. 166.

[25] Œuvres diverses, p. 549.

[26] « Une administration vicieuse attaque la population dans son principe, en desséchant les sources de la production ». Un mauvais gouvernement « non-seulement empêche de naître, mais on peut dire qu’il massacre ”, Traité, 2e édit., II, 153.

[27] 2° édit. (1814), t. 1, 150.

[28] Ibid., 1, 155.

[29] Ibid.

[30] Petit volume (1817), œuvres diverses, 700.

[31] Traité, 2e édit., t. I, p. 276.

[32] Ibid., t. I, p. 155.

[33] 1re édit., De l’indépendance née chez les modernes des revenus industriels, t. II, p. 262.

[34] Loc. cit., t. II, p. 264.

[35] T. II, p. 103.

[36] Cf. discours d’ouverture de 1832 au Collège de France : On peut apprécier par les mêmes méthodes les biens et les maux qui résultent de la conduite des particuliers et gouvernements et parvenir ainsi connexe quelle balance il en résulte pour la société… On apprécie le service qu’on peut attendre d’une bonne loi comme le service qu’on peut retirer d’un bon outil et savoir, toute proportion gardée, la somme d’utilité qu’une nation retire d’une belle manufacture ou d’un bon gouvernement. Nous pouvons, dés lors, comparer la somme des biens dont ils procurent la jouissance à une nation et ce qu’ils lui coûtent Œuvres diverses, p. 179.

[37] Traité, 1re édit., II, 427.

[38] Ibid., 426.

[39] Ibid., 1re édit., II, 423.

[40] Petit volume, œuvres diverses, IV, p. 691.

[41] Traité, 2, édit., I, p. 110.

[42] Traité, 1re édit., II, p. 74-75.

[43] Traité, 1re édit., Discours prélim.

[44] Traité, 1re édit., t. II, p. 75.

[45] Epitome de la 2e édit. du Traité, t. II, p. 457 : « Industrieux : ce mot, pris substantivement, veut dire celui on ceux qui travaillent à la production des valeurs, c’est-à-dire à la création des richesses ». Dans le Cours complet (éd. de 1840, t. I, p. 85), J.-B. Say dit avoir employé dans son Traité les mots Industrieux et industriels (ce dernier comme adjectif) « longtemps avant qu’on songeât l’un ou l’autre ». D’autre part, Dunoyer, dans sa Notice sur l’industrialisme (Œuvres, t. III, p. 193), fait observer que l’invention du mot industriel n’appartient certainement pas à Saint-Simon et qu’il se trouve dans le vocabulaire de de Wailly, qui était déjà à sa 6e édition en 1813.

[46] Traité, 1re éd., I. II, p. 228.

[47] Il est à remarquer, en effet, que, de l’édition de 1803 à celle de 1814 Say a dirigé la filature d’Auchy de 1805 à 1813 –, la liste des qualités nécessaires à l’entrepreneur s’allonge sensiblement. Notons, au passage, que dans la 1re édit. (t. II, p. 322 et s.) Say donne la préférence à l’agriculture sur l’industrie : « Combien le sort du cultivateur en chef n’est-il pas préférable, avec des moyens égaux, au sort du manufacturier, du négociant, sujets aux fantaisies du public, esclaves d’un travail assidu ». Cet éloge de la campagne, sorte de morceau de bravoure écrit dans le style emphatique de l’époque, ne se retrouve plus dans la 2e édition.

[48] Liste des producteurs dans l’Epitome, 2ème éd., p. 427.

[49] Traité, 1re éd., t. I, p. 8.

[50] Cf. liste des producteurs de l’Epitome.

[51] Traité, 2. édit., t. I, p. 138, en note.

[52] Traité, 1re édit., II, 329.

[53] Traité, 2e édit., I, p. 138.

[54] Epitome, édit. de 1826.

[55] Epitome, art. Propriété (addition postérieure à 1817).

[56] Traité, édition postérieure 1817 au chapitre De l’indépendance née chez les modernes…

[57] 1re édit., t. II, p. 319.

[58] Ibid., 422.

[59] Traité, discours préliminaire. Dans un passage du Traité (21 édit., t. II, p..241), Say fait l’éloge des « républiques aristocratiques », comme étant le gouvernement le plus économique. Le mot « aristocratique » est ajouté dans la 2e édition.

[60] Censeur européen, II, p. 219.

[61] Notice historique sur l’industrialisme (Revue encyclop. de février 1827). Insérée dans les Œuvres de Dunoyer, II1, p. 173 et suiv. M. Halévy ne cite pas cette notice, cependant capitale pour l’histoire des idées du Censeur et de Saint-Simon.

[62] De la monarchie française depuis son établissement jusqu’à nos jours. Paris, 1814.

[63] Réimprimé à la suite du Cours de politique constitutionnelle, édit. Laboulaye 2e édit., II, p. 135 et suiv. B. Constant l’a résumé lui-même dans la brochure : Des élections prochaines, p. 314 du même vol.

[64] B. Constant, loc. cit., p. 157 en note et p. 111 ; Traité de Say, 1re édit., II, p.426 ; B. Constant s’est également servi de l’ouvrage d’un autre économiste, de l’Histoire du revenu publie de Ganilh (1806) qui lui a fourni une idée nouvelle : que le crédit public met les gouvernements modernes sous la dépendance des particuliers (édit. Laboulaye, II, p. 251-255). Say, dans la 1ère édition du traité (II, p. 526), développe d’ailleurs une idée voisine de celle-là : le crédit donnera la prépondérance aux gouvernements représentatifs,

[65] Dunoyer, loc. cit., p. 178.

[66] Ibid., p. 175.

[67] Stuart Mill, Autobiographie, trad. Gazelles, p. 57 : « En passant par Paris (1820), soit en allant, soit en revenant, je demeurai quelque temps chez M. Say, l’éminent économiste… Il appartenait la dernière génération des hommes de la Révolution française. C’était un beau type du vrai républicain français ; il n’avait pas fléchi devant Bonaparte, malgré les séductions dont il avait été l’objet ; il était intègre, noble, éclairé. Il menait une vie tranquille et studieuse, au bonheur de laquelle contribuaient de chaudes amitiés privées et l’estime publique. M. Say était lié avec la plupart des chefs du parti libéral, et, pendant le séjour que je fis chez lui, j’eus l’occasion de voir plusieurs personnages marquants, parmi lesquels je me rappelle avec plaisir Saint-Simon, qui n’était pas encore devenu le fondateur d’une philosophie ni d’une religion et qu’on regardait seulement comme un original de moyens ».

[68] Les articles les plus intéressants, comme exposés de doctrine, sont contenus dans les premiers volumes. Citons les Considérations sur l’état moral de la nation française (Comte, 1, I) ; Du système de l’équilibre des puissances européennes (Dunoyer, 1, 93) ; De l’organisation sociale dans ses rapports avec les moyens de subsistance des peuples (Comte, Il, 1) ; Considérations sur l’état présent de l’Europe (Dunoyer, II, 67) ; Compte rendu du Manuel électoral (A. Thierry, II, 107) ; Vues des révolutions d’Angleterre (A. Thierry, IV), etc.

[69] Censeur, I, 7.

[70] Il est intéressant de voir les chefs actuels de l’économie libérale, qui se sont affranchis de la métaphysique de Bastiat, en revenir presque textuellement aux théories du Censeur : « La politique a obéi surtout à des inspirations de pillage et de conquête, à des conflits de dynastie, à des passions religieuses. Les vieilles civilisations guerrières et sacerdotales font place à la civilisation productive et scientifique. Tous les peuples commencent à reconnaître que l’échange est un moyen d’acquisition moins onéreux que la guerre. Les malaises actuels viennent des conflits entre ces types de civilisation. L’empereur d’Allemagne conçoit l’industrie comme une organisation militaire. En Europe, de nombreux officiers et soldats sont entraînés vers un idéal de batailles. Les socialistes qui prêchent la paix internationale et la guerre sociale, les protectionnistes qui traitent tout étranger comme un ennemi représentent des survivances de rapacité. » (M. Yves Guyot, Journal des économistes, 15 fév. 1910, p. 176).

[71] Cens. europ., I, 114. – Cf. Saint-Simon : dans l’ancien régime, « les hommes sont places avant les choses » (Œuvres choisies, II, p. 417). Dans le nouveau système, « l’ordre social doit avoir pour unique objet l’action des hommes sur les choses » (Œuvres, IV, p. 81). Nous ne saurions donc souscrire à l’opinion de Rist (op. cit., p. 24M) qui, après avoir cite ces deux passages, conclut : « Le gouvernement. économique se substituant au gouvernement politique, l’administration des choses l’autorité sur les hommes, voilà les conceptions nouvelles par on Saint-Simon dépasse les libéraux dont il semblait jusqu’ici suivre la trace ». En réalité, l’idée et même l’expression se trouvent, comme on le voit, dans le Censeur européen.

[72] Ibid., I, 127.

[73] Ibid., II, 73. « On voit, dans l’une des deux confédérations, des agriculteurs, des commerçants, des manufacturiers, des savants, des industrieux de toutes les classes et de tous les pays ; dans l’autre,… des gens en place, des soldats de profession, d’ambitieux fainéants de tous les rangs et de tous les pays, qui demandent à aire enrichis et élevés aux dépens des hommes qui travaillent ».

[74] Ibid., III.

[75] Ibid., 1,86.

[76] II, 5.

[77] II, 36.

[78] II, 24.

[79] I, 48.

[80] I, 55. Cf. la parabole de Saint-Simon.

[81] Ibid., II, 102.

[82] II, 109.

[83] II, 30.

[84] II, 113.

[85] II, 112.

[86] II, 112.

[87] II, 133.

[88] Ibid., II, 54, 56, 58, 60.

[89] I, 39.

[90] II, 97.

[91] II, 58.

[92] II, 50-51.

[93] Censeur européen, t. II, p. 56.

[94] Si l’on voulait relever tous les éléments de formation de la doctrine du Censeur, il serait intéressant de rechercher l’influence des constitutions d’Amérique, qui ont vivement impressionné Comte et Dunoyer, et qui sont citées par eux comme appliquant déjà, en partie, les principes industrialistes.

[95] On pourrait multiplier les rapprochements : ainsi encore, l’idée que le gouvernement parlementaire est une transition indispensable vers le régime industriel. Voici comment s’exprime le Censeur européen (t. I, p. 89) : « Un avantage inappréciable qu’a la France sur tous les autres peuples, c’est que l’intervalle pli sépare le gouvernement féodal du gouvernement représentatif est franchi « .

[96] De l’industrie, œuvres compl., 2. vol., p. 185-186. Le passage est transcrit tout au long dans le compte rendu que le Censeur donne de l’Industrie, t. III, 201. Cf. plusieurs autres passages de Saint-Simon : M. Say remanie les idées de Smith et les classe d’une manière plus méthodique… Dans M. Say, la critique de la conduite des gouvernements actuels prend un caractère plus clair ; la comparaison entre les principes de l’administration militaire et ceux de l’administration industrielle est établie d’une manière plus directe (De l’industrie, 4e vol.). – « Je vous observerai d’abord que l’opinion que vous appelez la mienne est l’énoncé général des principes professés par le théoricien J.-B. Say et par les autres écrivains en économie politique » (Du système industriel).

[97] Censeur europ., t. 1, p. 88.

[98] Traité, 1re édit., t. I, p. 81. I, 45 ; I, 60.

[99] Système industriel (Œuvres compl., t. V, p. 161).

[100] Article cité, p. 671.

[101] 2e édit., t. I, p. 57.

[102] Notice (Œuvres, III, 186).

[103] Guizot avait d’ailleurs soin de préciser en ajoutant : « par le travail et par l’économie », et ce conseil en valait bien un autre.

[104] Guizot s’est rendu compte plus tôt qu’Augustin Thierry de l’évolution qui se dessinait et a passé par les mêmes inquiétudes. Sa conception historique repose aussi sur la lutte des classes, de la féodalité et de la bourgeoisie. « Depuis plus de treize siècles la France en contenait deux, un peuple vainqueur et un peuple vaincu… De nos jours, une bataille décisive a été livrée : elle s’appelle la Dévolution (Du gouvernement de la France, 1821, p. 1-2). En 1838, dans son essai sur la Démocratie dans les sociétés modernes, il pousse le premier cri d’alarme. L’esprit démocratique a été une arme efficace pour détruire les anciennes institutions. Mais quand le moment de reconstruire est arrivé, quoi de plus absurde que de continuer à employer contre l’édifice moderne qui commence à s’élever, les armes qui ont servi à ruiner l’ancien et de mettre en péril les artisans du nouvel œuvre ? Après 1848, il faut se rendre l’évidence : « Un troisième combattant est entre dans l’arène. L’élément démocratique s’est divisé. Contre les classes moyennes on dresse les classes ouvrières, contre la bourgeoisie le peuple. C’est un fléau, c’est une honte, que notre temps ne peut accepter. La paix sociale : c’est le besoin suprême de la France, c’est le cri de salut (De la démocratie en France, 1819). – Cf. Simkhovitch, Marxism versus Socialism, IV ;Political science quarterly, déc. 1909, p. 641 et suiv.