戦争体験の風化がすすみつつある戦跡群!
沖縄戦の際に本島中北部の米軍キャンプに収容されていた住民が郷里やその周辺に戻ることを許されたのは1945年(昭和20年)の末であったが、本島南部ではまずは散乱する遺骨の収容を完了させねばならなかった。
この時、南部の米須海岸の付近のキャンプに収容されていた真和志村(現在の那覇市)の人々が散乱していた白骨の収拾作業をおこなって3万5千体にものぼる遺骨を収容し、米軍からもらったセメントなどから作ったものが「魂魄の塔」である。

images11081沖縄各地には他の都道府県の戦没者のための碑が建てられているのにたいして、沖縄県の塔というものはなく、現在でもこの「魂魄の塔」が事実上の沖縄県の塔となっている。
また、遺骨の詰まった慰霊塔はこの「魂魄の塔」ばかりではなく、大小さまざまなものが各地に散在するが、残念なことにはその多くは雑草に埋もれるにまかせられ苔むした石碑となって、人知れずに風化しつつあるのが現状だ。

日本軍を顕彰する石碑群へと変容した南部戦跡!
だが、このような沖縄戦の真の戦跡が忘れ去られつつあるなかで、観光化がすすみ土産品店が軒を並べ、門前市をなしている一群の戦跡群がある。
それは南部戦跡(沖縄戦跡国定公園)めぐりという観光コースの目玉として組み込まれた小録海軍壕(豊見城村)や「ひめゆりの塔」、そして牛島軍司令官を祀った摩文仁丘の「平和祈念公園」などだ。

また、喜屋武岬の「平和の塔」は地元部落の人々が周辺に散乱していた遺骨をあつめて建立した納骨堂を、国の霊域整備事業によって現在の地に移築したものであるが、その際に碑文が日本軍(第62師団)の「玉砕」や「偉烈」を顕彰したものに置き換えられ、避難民の無縁墓がいつのまにか軍隊の慰霊塔にすり替えられた。

戦争の傷跡を生々しくとどめた真の戦跡は放置される一方で、日本軍を顕彰する慰霊塔ばかりが林立し、いつのまにか南部戦跡の中心点も沖縄住民最後の地である「魂魄の塔」から、牛島軍司令官を祀った摩文仁丘へと移しかえられた。
また、「沖縄南部戦跡観光」の観光ガイドたちもひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊の若人たちの「殉国美談」を語り、「英霊」たちの安らかならんことを祈って「海ゆかば」を唱和することはあっても、鉄の暴風に追いつめられた無数の住民たちの生きざまや死にざま、軍民雑居のなかでの軍隊と住民との骨肉相食む“地獄絵図”などは口にしなくなった。

沖縄戦跡からは沖縄住民の戦場体験が切り捨てられ、日本軍の「勇戦敢闘」や「偉烈」を語り伝えるためのものへと再編成されていき、「南部戦跡の靖国化」がすすんでいった。
また、そこからは戦争の実相も浮かび上がらず、戦争にたいする人間としての抗議の声もかき消された。

戦争神話を生み出し「戦跡の靖国化」をすすめた援護法!
さて、この「南部戦跡の靖国化」がすすんだのは戦没者の遺族への対応として、援護法、正式には戦傷病者遺族等援護法が1952年に制定されたことをきっかけとしている。
この法律は当時まだ米軍支配下にあった沖縄にも適用がはかられ、沖縄の軍人、軍属や準軍属(一般住民で「戦闘協力者」と認定されたもの)の扱いが決められた。
そして、該当者には遺族年金や障害者年金が支給され、さらにはその適用者の名簿が靖国神社に渡され、同神社に合祀されることとなった。

だが、ここで「戦闘協力者」と認定されるためには軍の要請により戦闘に参加したことが立証されなければならず、遺族が日本軍によって家族が殺されたという事実を申し立てても拒否されることになった。
そこで、現地では民間人とくに学徒隊や義勇隊、集団自決者や児童、幼児といった各層の人々がいかに日本軍に献身的に協力したかを強調する風潮が起こり、「国を思い、郷土を愛し、身を挺して祖国のために散っていった殉国の至情」といった戦争神話が続々と生み出された。

こうして住民虐殺や集団自決という名の強制死、沖縄人の総スパイ説などといった戦争の醜悪な側面はみごとにぼかされ、靖国思想による沖縄戦記の再構成がおこなわれた.
さらには、援護法や靖国神社とのつながりから沖縄戦を「祖国防衛」として美化する遺族の集まりも生まれ、戦没者の追悼のありようも大きく変容していった。
こうした沖縄側の援護法適用運動の影響を受けてすすんでいったのが「戦跡の靖国化」であり、沖縄戦で沖縄の人々を本土決戦準備にむけた時間稼ぎのための捨石にしたことや、多くの犠牲を生み出したことを認め反省するような国の記念館も記念碑がひとつもないのが沖縄の現状である。

また、日本政府が先の戦争を誤った戦争であることを認めず、正当な戦争としてこれへの貢献度に応じて援護していこうとするのが援護法である。
ゆえに、この法律には侵略戦争への反省という要素がひとかけらもなく、そもそも日本政府には国家がおこなった誤った戦争により犠牲になった人々への償いとして補償をしようとする意思がさらさらにない。

追伸
image110911995年に元鉄血勤皇隊員であり沖縄戦研究者でもあった太田昌秀知事のもとで作られたのが「平和の礎」である。
「平和の礎」は恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく沖縄戦で亡くなられたすべての人の氏名を刻んだ記念碑であり、日本の戦争を美化・正当化する靖国神社が日本軍人のみを「英霊」として祀っているのにたいして、民間人も含めさらには敵味方の別なく、すべての戦死者を追悼しようという記念碑である。

ただ、沖縄県民を捨て石として犠牲にした牛島司令官や住民を虐殺した日本軍将兵、沖縄県民、さらには強制連行されてきた朝鮮人軍夫や慰安婦たちを同列に刻銘することに異議を唱える人々もいる。

参考 沖縄戦 大城将保 高文研