「証言」とは
証言は、何らかの事柄が事実である、あるいは事実ではないということを自己が証明するため、又は第三者の証明に資するために、自己が経験したこと等を述べることである。「証言」とその変遷
【自称・従軍慰安婦「李容洙」氏の場合】1.1944年夏、友達の母親に「豊かな生活ができる」所へ行かないかと誘われるが断る。その何日か後、その友達が家に誘いに来て外に出ると、軍服みたいな服を着た男がおり、ワンヒ゜ースと赤い靴をもらって感激してついて行く。
(「写真記録 やぶられた沈黙」1993年)
※どのあたりが強制的に連行された、なのか。
2.「1944年夏のある日、酒屋をやっていた友達(キムプンスン)のお母さんが 「今のような苦しい生活をしている必要はないじゃないか。 私の言うところに行けばご飯がたくさん食べられ、豊かな生活ができる」と言いました。 ですが私は「嫌だ」と言って飛び出て来ました。 それから何日かたったある日の明け方、キムプンスンが私の家の窓をたたきながら 「そうっと出ておいで」と小声で言いました。私は足音をしのばせてそろそろとプンスンが言う通りに出て行きました。 母にも何も言わないで、そのままプンスンの後について行きました。 〜(中略)〜行ってみると川のほとりで見かけた日本人の男の人が立っていました。 その男の人は四十歳ちょっと前ぐらいに見えました。国民服に戦闘帽をかぶっていました。 その人は私に包みを渡しながら、中にワンピースと革靴が入っていると言いました。 〜(中略)〜それをもらって、幼心にどんなに嬉しかったかわかりません。 もう他のことは考えもしないで即座について行くことにしました。 大邱から私たちを連れて来た男が慰安所の経営者でした。
(「証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち」1993年10月)
※娘を売り飛ばそうとする親友の母親と、売り飛ばされた親友と共に行こうと決めた「家出娘」の話。
3.1943年、友達と川で魚を捕っていたら、軍服を着た男二人に指差され逃げる。同10月のある日の明け方、女の人が家の中に入ってきて「黙っておいで」と言われて引っ張って行かれる。この女の人には「韓国語で話すな」と言われる。堤防の所に連れて行かれると前に見た男がいた。先に来ていた親友に赤いふろしきを渡され、その中には靴が入っていた。
(「私たちと戦争責任(アジアの声)」 戦争犠牲者を心に刻む会 編 1996.8)
※キムプンスンが「謎の女の人」に。
4.1944年のある夜、韓国の故郷から日本軍により誘拐され、日本軍の性奴隷として足かけ3年間従事。慰安所に送られた時はわずか数え年16歳であった。
(英文中国日報 1998年8月23日)
※1945年8月15日の終戦に伴い日本軍は連合国によって解体され存在しない。
5.14歳で銃剣をつき付けられて連れてこられ、拒むと殴られ、電気による拷問を受けて死にかけた。
(元「慰安婦」へ補償を~日本共産党との会合 2002年6月26日)
※特高や日本軍の拷問で電気ショック使用?蹴る・殴るより遥かに金がかかるそんな器具を慰安婦のためにわざわざ日本軍が用意するか甚だ疑問である。
「10年前、スマホでi-modeとフェイスブックをしていた」…という証言が嘘であることはすぐバレる。
スマホの普及、フェイスブックのサービス開始、全てに歴史があるのであり、時系列を無視して適当なことを言っているとボロが出る。電気ショック、ジープ、ヘリコプターなどもそうである。
電気を使った拷問は、1930年代にフランスの植民地警察がベトナムの民族主義者を弾圧するために使っていた。フランスは1947年より再び使用を開始し、それが米国のベトナム派遣軍へ伝播し、さらにブラジルやアメリカ本国へと伝わり、70年代以降広く使われるようになった。
①本人の勘違いか(後世の映画・小説等の影響による錯覚)?
②第一次インドシナ戦争における米国のフランス支援の際、民族主義者や共産主義者への電気拷問を学んだ米軍が、朝鮮戦争中にそれを真似、米軍指揮下の韓国軍も活用か?
朝鮮戦争時に米軍・韓国軍慰安婦だったなら電気による拷問をされる可能性がある。
6.1944年、16歳の時に「軍服みたいな服を着た男」に連行され、台湾へ。日本軍「慰安婦」としての生活を3年間強制された。
(「消せない記憶」~京都での市民集会李容珠 2004年12月4日)
※1945年8月15日の終戦に伴い日本軍は連合国により解体されている。
7.16歳でわけが分からないまま連行され、1944年ごろ、日本軍に拉致され、台湾で約3年間従軍慰安婦
(京都新聞(2004年12月5日)
※1945年8月15日の終戦に伴い日本軍は連合国により解体されている。
8.女性が片手で私の肩を抱いて、もうひとつの手で口を塞いで私を連れて行きました。その時、私は韓国の年齢で16歳でした。
(証言集会~同志社大学(2005年4月21日)
※日本軍の男、だったはずでは
9.韓国の大邱から15歳ごろ連行された。
(朝日新聞 2005年8月11日)
10.15歳で韓国・大邱の家から軍人に拉致され、台湾まで連れ去られ、敗戦で解放されるまでの3年間の経過を証言した。
(「埼玉上田知事発言に元慰安婦が抗議」JanJan 2006年10月13日)
※1945年8月15日の終戦に伴い日本軍は連合国により解体されている。
11.「私の前半生」 1928年12月、大邱生れ。男5人、女1人の9人家族だが、貧しかったので学校は1年しか行かず、13歳の時から工場で働く。
1944年秋、16歳の時に女友達のキム・プンスンと川辺で貝拾いをしていた時、丘の上から年長の男が私たちを指し、連れの30歳代の日本人がやってきて誘った。
おびえた私は走って逃げたが、数日後の早朝にキムが窓を叩いて小声で誘った。
私は母に黙ってスリッパでそっと抜け出すと、数日前に見た日本人がいた。彼は人民軍のような服(People's Army Uniform)に戦闘帽をかぶり、3人の少女が一緒だった。合流して5人になった我々は駅から列車で平壌を経由して大連へ向かった。
途中で帰りたいと泣いたが拒否された。
11隻の船団に乗り、船中で45年の元旦を迎えた。上海に寄ったあと台湾へ向ったが、途中で爆撃に会い乗船に爆弾が1発命中した。大混乱の最中に同船していた日本兵にレイプされた。これが私にとっての最初の性体験である。
船は沈みかけたが何とか助かり、私は血まみれで台湾に上陸した。同行した慰安所の主人(妻は日本人)は「おやじ」と呼ばれたが、時に暴力をふるわれた。新竹の慰安所ではトシコと名のり、毎日4、5人の兵士に性サービスした。
そのうち性病にかかり、なじみの特攻パイロットにうつしてしまったが、彼は「君の性病は明日突っこむ僕へのプレゼントと考えるよ」とやさしかった。
終戦となり、4人の仲間とともに帰国、両親にも私の体験を語らないまま、飲み屋で働いたり魚の行商、保険の外交員などをして戦後をすごした。
(米国下院公聴会 2007年2月15日)
おびえた私は走って逃げたが、数日後の早朝にキムが窓を叩いて小声で誘った。
私は母に黙ってスリッパでそっと抜け出すと、数日前に見た日本人がいた。彼は人民軍のような服(People's Army Uniform)に戦闘帽をかぶり、3人の少女が一緒だった。合流して5人になった我々は駅から列車で平壌を経由して大連へ向かった。
途中で帰りたいと泣いたが拒否された。
11隻の船団に乗り、船中で45年の元旦を迎えた。上海に寄ったあと台湾へ向ったが、途中で爆撃に会い乗船に爆弾が1発命中した。大混乱の最中に同船していた日本兵にレイプされた。これが私にとっての最初の性体験である。
船は沈みかけたが何とか助かり、私は血まみれで台湾に上陸した。同行した慰安所の主人(妻は日本人)は「おやじ」と呼ばれたが、時に暴力をふるわれた。新竹の慰安所ではトシコと名のり、毎日4、5人の兵士に性サービスした。
そのうち性病にかかり、なじみの特攻パイロットにうつしてしまったが、彼は「君の性病は明日突っこむ僕へのプレゼントと考えるよ」とやさしかった。
終戦となり、4人の仲間とともに帰国、両親にも私の体験を語らないまま、飲み屋で働いたり魚の行商、保険の外交員などをして戦後をすごした。
(米国下院公聴会 2007年2月15日)
※慰安所は、日本人ではなく、彼女の同胞・朝鮮人が経営しており、暴力を振るったのはその慰安所の主人であった。客としてやってきた、亡き優しい日本兵との思い出話を語る。
12.15歳の時、家で寝ているとき小窓をたたく音に目を覚まし、手招きされるままに外に出ると日本軍人が立っていた。脅されるままに連行される。
(イヨンスさいたま公聴会(2007年2月23日)
※小窓をたたいて誘ったのはキム・プンスンだったのでは
13.15歳のとき、小銃で脅され、大連から、台湾に連行され新竹海軍慰安所で特攻隊員の慰安婦とされた。
(JANJAN「米公聴会でも証言した李容洙さんが、埼玉で再び「証言・告発」2007年2月26日)
14.月の明るい夜の2時か3時に軍人と女が家に入ってきて、刀を突きつけ、口を押さえて連れだされ、女3人をつれた軍人と合流、列車にのせられた。
(日本外国特派員協会 2007年3月2日)
(日本外国特派員協会 2007年3月2日)
※友人キム・プンスンがいつの間にか強制連行の共犯者に
15.母親を呼ばぬよう、日本兵は私の口をふさいで家から引きずり出した。
(ニューヨーク・タイムズ 2007年3月6日)
※以前は親に黙って抜け出したと証言
16.1942年7月、15歳の時ウルサンで、働いていたレストランへ行く途中、2人の大男に腕をつかまれ、5人の女とともにトラックへ放り込まれた。
(ワシントンポスト 2007年3月7日)
※連行されたのは1944年だったのでは。
前日、「家の中から引きずりだされた」と証言。そもそも、川のほとりで連れ去られたはずでは。
下院公聴会では、工場で働いていたと証言したが今回はレストランに。
大邱(テグ)から連行されたと主張していたがなぜか蔚山(ウルサン)に。
17.16歳の時に強制連行され、2年間日本兵の慰安婦をさせられた」「日本兵に足をメッタ切りにされ、電気による拷問を受けた」
(ハーバード大学で行われた記念公演 2007年4月28日)
17.16歳の時に強制連行され、2年間日本兵の慰安婦をさせられた」「日本兵に足をメッタ切りにされ、電気による拷問を受けた」
(ハーバード大学で行われた記念公演 2007年4月28日)
※ポツダム宣言受諾に伴い日本軍は解体され、1946年2月までに日本へ帰国。以前は3年間と証言。
18.15歳の時、両親のもとから連れ去られ、台湾の特攻隊の慰安所に送られた」「台湾の慰安所で、私は殴られたり、蹴られたりしました。「言うことを聞いたら、お父さんお母さんにまた会わせてやる」と言われ、されるがままになりました。ひどいことをされ、腹膜炎になりました。
(旧日本軍の性暴力被害者に謝罪と賠償を求める国会前スタンディング 2007年6月14日)
※連れ去られたのならば、両親はいったい何をしていたのか。
19.15歳の時に台湾の神風部隊に連れて行かれあらゆる拷問に遭いほとんど死ぬところだった。一緒に連れて行かれた他の女性2人は死んだ。
(ニューヨーク韓人有権者センターおよびクィーンズボローコミュニティカレッジのホロコーストセンターの記念講演会 2011年12月13日)
※2007年の米国下院公聴会で4人の仲間とともに帰国した、と証言
20.15歳のときに、自宅で寝ていたところを日本軍によって連行された。
帰りたいと言うと「言うことをきかなければ殺す」と脅され、軍靴や棒で顔や体に暴力を受けた。各地を日本軍とともに転々とし、17歳で父母の元に帰るも、「また捕まるのではないか」と思うと、顔を上げて歩けない。誰にも話せなかった。
(川崎から日本軍「慰安婦」問題の解決を求める市民の会 2012年9月12日)
21.16歳だった1944年、日本軍に引きずられて船などに乗った後、台湾内の日本軍部隊に行った
2年間強姦に遭い、性関係を拒否するという理由で電気ショックなどの虐待にあった
(2015年4月23日 米下院議員会館)
※ポツダム宣言受諾に伴い、台湾の日本軍は解体され、1946年2月までに日本へ帰国。以前は3年間と証言。
22.1943年10月、隣人に呼ばれて家の外に出た。汽車やトラック、船に乗せられてどこかに連れていかれた。ほかの少女たちは、幼かった私に毛布をかけ、じっとしていれば何も起こらないと言って私を慰めた。性関係を拒否すると、手首に電気ショックの拷問をするなど暴行や虐待を受けた。
米国の爆撃で慰安所が破壊された時、大量に出血して死ぬかと思ったが、それが流産だったことを後で知った。
(ワシントンポスト紙 インタビュー 2015年4月23日)
※前日までは1944年と証言。新竹が空襲されたのは1943年11月25日であり、1944年に連行された人が何故か新竹空襲に遭遇したことに。以前証言していた、船での移動中に受けた爆撃を、「米国の爆撃で慰安所が破壊された」へと変換か。
23.数えで16歳のある夜、日本の軍服を着た男と女の子に拉致され、大連に連れて行かれて暴行された後、台湾の新竹の慰安所で働かされた。
(週刊文春 大邱市にて、本人への取材 2015年7月22日)←NEW!!
※友人キム・プンスンが完全な共犯者に。慰安婦になるきっかけを作ったキム・プンスンとその母親を恨んでも恨みきれないか。
24.次回の証言用空きスペース
時をかける娼女~いったいどの「証言」を信じれば?~
半世紀以上前のことであるため、本人の記憶違い、加齢による物忘れ、被害妄想など様々な要因によって「証言」に多少のズレが生じることは仕方がない。しかし、上記の「証言」のように、まるで時空を超えたかのように時と場所と状況がコロコロと変わる「証言」も珍しい。
これは、 慰安婦を支援する団体の活動に政治的・商業的要素があり、そうした団体の意向によって、より人の注目を集めるべく嘘・誇張を用いて「証言」を脚色しているためである。
嘘をあたかも真実であるかのように語るためにはまた別の嘘を付かねばならず、嘘に嘘を重ねていった結果、言っている本人も分けが分からなくなり、あらゆる所で矛盾が発生するのである。
では、この数多の「証言」の中で、比較的信憑性が高いものはどれか?
「証言」の中で、1、2、11に注目したい。
1,2はいわゆる「慰安婦」問題が騒がれ始めた初期の「証言」で、11は14年後の2007年の米国下院公聴会での「証言」である。
他の証言では「強制連行された」と語っているのに対し、この1,2,11だけは「自分からついて行った」と語っており、他の証言とは温度差が感じられる。
1,2以降、十数年間ずっと「強制連行された」と語っていたのに、14年後の11(=米国下院公聴会)で突如、初期の証言に近い内容に戻っているのは注目すべきところである。
これは、
●「証言」初期 → 「支援団体」の影響をそれほど受けていない
●米国下院公聴会 → 偽りの証言をすれば不利な立場になる
からであると考えられ、他の「証言」に比べれば1,2,11の信憑性は高いと考えられる。
彼女は「強制連行」されたのではなく、自分からついて行ったのである。
本人が、そう「証言」している通り。
超時空慰安婦ハルモニ~証言・おぼえていますか~
1,2,11の証言を読み返すと、「家出娘が業者の甘言にそそのかされ、ホイホイとついていった結果、可哀想な目にあってしまった」という話であることが分かる。
彼女は日本軍に「強制連行」されたのではなく、親に黙って家出をしたのであり、そのきっかけは友人キ・プンスンとプンスンの母親であった。
親友キム・プンスンの母親が、娘を人買いに売り飛ばし、売り飛ばした娘の親友である李容洙をも一緒に行かせようとした・・・という構図が読み取れるだろう。
これはあくまで想像にすぎないが、大邱でのこれまでの苦しい生活と、親に売り飛ばされようとする親友。「貧しさ」…この現実を前にして、親友と辛苦を共有しようと家出という選択をしたのかもしれない。あるいは、故郷である大邱では自身の未来が見いだせなかったため、故郷を飛び出し、違う土地へ行くことで、違う人生を求めたのかもしれない。
これはあくまで想像にすぎないが、大邱でのこれまでの苦しい生活と、親に売り飛ばされようとする親友。「貧しさ」…この現実を前にして、親友と辛苦を共有しようと家出という選択をしたのかもしれない。あるいは、故郷である大邱では自身の未来が見いだせなかったため、故郷を飛び出し、違う土地へ行くことで、違う人生を求めたのかもしれない。
…哀しく・切ない話であるが、どのあたりが、新聞や会合で散々叫んでいる日本軍強制連行・慰安婦性奴隷なのだろうか?
「嘘も休み休み言え」と批判されても仕方ない。
どこで、いつまで慰安婦をしていたのか
証言の通りならば、1944年の夏頃に誘われ慰安婦になり、大邱~大連まで鉄道を使って行き、大連~上海までの航路に乗って移動した。さらに上海~台湾(基隆or高雄)航路を使い、台湾到着後、基隆(or高雄)~新竹も鉄道で移動したと推察される。
極悪非道な日帝がわざわざこんな金と時間をかけ、「性奴隷」にするためだけになにゆえ朝鮮半島から「強制連行」する必要があるのか謎である。台湾で集めた方が効率がよいのだから。
1944年の夏に誘われ慰安婦になったのなら、「3年間日本軍の慰安婦にされた」という主張が嘘っぱちであることになる。
なぜなら、1年後の1945年8月15に日本はポツダム宣言を受諾し連合国に降伏する。連合国により日本軍の解体がすみやかに進められ、1946年2月までに軍人16万人が復員、続いて民間人28万人が1946年2月から4月にかけての第一次引き揚げで台湾から日本へ帰国した。
支援団体の影
「証言」をこうして並べてみると、様々な団体が近寄ってきたことが見て分かる。
そして、そのたびに「証言」が異なっていることも。
「慰安婦」「強制連行」をネタに、善良な人々を騙し、一儲けを企む者達がいるのである。
いわゆる従軍慰安婦問題において、捏造報道を行った朝日新聞の元記者である植村隆氏(現:北星学園大学非常勤講師、元新聞記者、元朝日新聞社社員)の妻は韓国人であり、その義母である梁順任は韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」の会長であり、慰安婦への日本からの賠償を求める運動を主導した。
日本における新聞記者という立場を利用して虚偽の記事を書き、義母が韓国で起こしている慰安婦の賠償請求の運動を支援し、一族が金銭的利益を得る…という構図が読み取れるだろう。
いわゆる従軍慰安婦問題とは、梁順任・植村隆ら一族が金銭的利益を得る目的で作られた、
金儲けのためのファミリービジネスなのである。
なぜ「従軍慰安婦」を批判しなければならないか?
我々の父や祖父を、ありもしない嘘で犯罪者呼ばわりしようとする者達がいる。ありもしない嘘で、犯罪者の子孫呼ばわりしようと企む者達がいる。
捏造によって祖先の名誉が汚されたのならば、真実を明らかにして、祖先の名誉を回復するのは子孫たちの義務なのである。