ナナシロです。
先日書いた、下記の記事が想像以上に多くの方に読まれ、それなりに反響があったため、再び「ブラックボックス展」について書きます。
前回と違い、より主催の「なかのひとよ」にフォーカスした内容になります。
ですが、本題に入る前に少し寄り道させてください。
(本題に入るときは、ちゃんと「本題に入ります」って言います。笑)
いくつかの不可解なコメント
「歌ってみた」や「踊ってみた」くらいのノリで、「鑑賞の観点を変えてみた」のが前回書いた記事でしたが、こんな個人的な気付きを書いただけの記事にあれほどのコメントが来たのは驚きでした。
もちろん、これだけ読まれたのは「ブラックボックス展」の主催者である「なかのひとよ」が自身の運用するTwitterアカウント「サザエBOT」でリツイートしたことが大きいのは明確です。
その時点では「わーい、たくさん読まれているぞー」という程度だったのですが、だんだんと不可解なコメントが来るようになりました。
そのうちの一つがこちら。
サザエbot信者の考察ブログだけど、本気でマリファナやってんじゃないか…
— はきだめ (@gerogerokz) 2017年6月22日
なんだよなかのひとよは神のプログラムって…カルトかよ… #ブラックボックス展 pic.twitter.com/gq3ErSYAPR
さらに、
イヤイヤ…
— はきだめ (@gerogerokz) 2017年6月22日
サザエ信者は本当に頭沸いてんのかよ… https://t.co/MUrBJPR5W8
と言及されていました。
僕は基本的に強い言葉遣いで圧力をかけてくる方は無視するスタンスなのですが、ここで一つ気になったのが「サザエbot信者」「サザエ信者」という表現でした。
サザエBOTについて知ったのはこの記事を執筆する直前で、
「ずいぶんとフォロワーの多いTwitterアカウントだなぁ」
程度にしか思っていませんでした。
しかし、このコメントを皮切りにいくつか似たようなコメントが来たため、そこで初めて、
どうやら「サザエBOT」というアカウントに否定的なイメージを持っている方が多いらしい
ということを知りました。
(すみません、これ本当に知らなかったので弁解させてください…。笑)
「サザエBOT」はなぜ評判が悪いのか
「サザエBOT」がどういう経緯で悪評を集めたのか調べてみたところ、過去に以下のような出来事があったようです。
これらのまとめや記事で指摘されている内容の真偽については深入りするときりがないため、今回はこれらが事実だと仮定して話を進めます。
まとめると、
ということのようです。
人間は「確証バイアス」がかかる
余談ではありますが。
「確証バイアス」とは、
- 自分の信じる仮説を支持する情報ばかりを集めて「やっぱりそうじゃないか!」と主張する
- ある仮説を信じるあまり、そこまで強い関連性がない情報を自分にとって都合の良い解釈で受けとる
といった、認知の偏りのことをいいます。
先ほどツイートを引用させていただいたはきだめさんは、まさにこの「確証バイアス」がかかっている状態のようで、僕の記事を読んで、
「これは『なかのひとよ』を礼賛する記事である!」
と断定しておりました。
僕はそれを見て、「書いてへんがな…、というか知らんがな…、そんなアホな…」と思いましたが、改めて自分の記事を読んだとき、一点、僕の書き方が悪かったと感じる部分がありました。
それは、神を記号として使用したという点です。
一つの記号として使うのは自由だが、神という言葉が世間一般でどういうイメージがあるのか知らないのか?
— ゆき (@YUKI_SYS) 2017年6月22日
固定観念の含まれている言葉は、ただの記号とは言えない。僕は、君がなかのひとよを正当化し、偉そうに言葉を綴っているだけに見えるがね。
この方も言葉遣いが大概ですが、確かにと首肯せざるをえない指摘でした。
読み手がどう受け取るか、という視点が少し足りなかったように思います。
今後の記事を書くときの参考にさせていただきます。
以上、余談ではありましたが、これらの指摘を受けて、より「なかのひとよ」の存在と「ブラックボックス展」について追うきっかけとなりました。
ご指摘くださった方々、ありがとうございます。
「なかのひとよ」の違和感
さて。
ここまで、サザエBOTについてよく知らなかったという言い訳、僕の書き方のつたなさの謝罪、と寄り道してきましたが、ここからが本題です。
僕は前回の記事で、「ブラックボックス展」のことを
神(なかのひとよ)によって恣意的に引き起こされた電気信号の連続に過ぎない
と、書きました。
僕がこう表現したのは、「なかのひとよ」が神的な振るまいをすることが前提だったのですが、どうやら実態はそれとはかけ離れていたようです。
最初に「なかのひとよ」の違和感に気付いたきっかけは、以下の一連のやりとりからでした。
私はプログラマなので、こういう疑問が出てくるのですが、、 プログラムをコンパイルする作業がどこかに必要ですよね。
— nishi811 (@nishi811) 2017年6月22日
別のアーキテクチャ(ハードウェア)でコンパイルする可能性と、あるいは、プログラムそのものを改変する可能性とを考えると面白いですね。
単純に言えば、別の場所、別の言語、別の人間によって実行されたら?ということになるのですが、、
— nishi811 (@nishi811) 2017年6月22日
今、悩んでるのは、「なかのひとは、コンパイラそのものなのか、コンパイルされたものなのか」なんですよね。
その、神でありコンパイラである部分が、綻びの原因だと思うんです。どんなコンパイラも、実行されるアーキテクチャ(環境)の制約の上にあるので。
— nishi811 (@nishi811) 2017年6月22日
その割には、なかのひとは自身のことを、未来"人"と、コンパイルされた物のようにも振る舞ってるんですよね。
そうなんです。結局、キャラ詰め切れてないのかな、という気分になってしまうんです。
— nishi811 (@nishi811) 2017年6月22日
要するに、
神であるはずの「なかのひとよ」が、神によって生み出された「未来”人”」と自称することは、自身が神ではないことの証明になっていないか?
ということです。
そして、ここに畳みかけるように、さらに別の方から極めて的確なコメントをいただきました。
こっちも言葉足らずで申し訳ありません。「神=崇拝の対象」と思っていたわけではないです。
— タカムラ@Σ(-᷅_-᷄๑) (@rinntarowatanab) 2017年6月22日
”「なかのひとよ」には人格が存在しない”とナナシロさんが書くことは問題がないと思っていますが、少なくとも人であり人格があるなかのひとよの中の人の一人がこのブログをRTすることはおかしいです
ブログは「なかのひとよ」が形而上の存在だと書いてありますが、それを形成している人のコトまで言及していません
— タカムラ@Σ(-᷅_-᷄๑) (@rinntarowatanab) 2017年6月22日
そして今回の件は、「なかのひとよ」ではなく、それを形成している人、運営団体に問題があると思っていて、その「中の人達」が「なかのひとよは形而上の存在だ」と逃げていることが問題
そして「なかのひとよ」の「中の人たち」が直接出てこずに、サザエさんbotやなかのひとよを使って、我々に発信し続けるのであれば、表に出ている部分を批判したいと思っています。
— タカムラ@Σ(-᷅_-᷄๑) (@rinntarowatanab) 2017年6月22日
その、形而上の存在であることを隠れ蓑に仕様としているアタリが気にくわないのです。
この指摘に対して僕は思わず膝を打ちました。(前回の記事に続き2回目)
ほころびはやがて大きく
実は、「なかのひとよ」は、「サザエBOT」で僕のブログ記事を2回リツイートしています。
始め、それは単に「ブラックボックス展」というキーワードを拾ってリツイートをしているだけだと思っていました。
が、実際にサザエBOTのタイムラインを見てみたところ、
「なかのひとよ」の意図したとおりに動いている人間のつぶやきのみをリツイート
していることが分かりました。
これは到底「恣意的」とは言えない行為です。
意思を持つということはすなわち神性の放棄です。
違和感は明らかなほころびとなり、「なかのひとよ」という着ぐるみが露わになった瞬間でした。
そして「ブラックボックス展」の崩壊へ
前回の記事で僕が提案した「ブラックボックス展」の楽しみ方は、「なかのひとよ」自身の人的な振るまいによって、自ら瓦解していったのです。
個人的には、「なかのひとよ」の中の人たち(タカムラさんの言い方を借りるならば)は、ずいぶん脇が甘かったなぁと思いました。
と、同時に、
神の創造した人間が、神として振るまうことは不可能なことである
と確信しました。
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「ブラックボックス展」および、「なかのひとよ」については触れるのはこの記事で終わりにするつもりですが、最後にちょっと僕の妄想について書こうと思います。
(なお、「ブラックボックス展」は現在、痴漢ほう助問題で大炎上していますが、そのことや、サザエBOTの倫理観等とは切り離して読んでいただければ幸いです。)
(それでも的外れなコメントが来る可能性があるので、せめて痴漢ほう助問題における僕の考え方は書いておきますが、一言で言うなら「リスクヘッジができないならイベントの主催を務めるのは筋違いですし、それでも想定外のことが起こったときは誠実さが伝わるように対応すべきです。たとえ素顔を見せてでも」です。)
僕は「なかのひとよ」による、「神として振るまう」という試みにとても面白さを感じました。
それは紛れもない事実です。
企画そのものはだれにでも思いつくような子供騙し(前回の記事でも書きました)だと思いますが、それを大衆相手に躊躇せずやったことは、浦沢直樹さんの漫画「20世紀少年」に出てくる”ともだち”を見ているようで、恐ろしく不気味で、それでいてなぜかワクワクさせられるものだと感じました。
ですが、「20世紀少年」でもそうだったように、一度ほころぶと崩壊するまで止まりません。
「なかのひとよ」についてもすでに限界が来ていると感じるので、これまでのスタンスを捨てても良いのかな、と思います。サザエBOTなどのTwitterの運用もやめて。
そして、顔を出して一私人として振るまえばいいと思います。
その上で、ここからは僕の妄想ですが、今度は本当に人間ではない存在を「なかのひとよ」の模倣犯として仕立てあげるというのはどうでしょう。
たとえばAIを利用すれば、人間よりもほころびが出ないように神を演じさせることはできると思います。
そういうことを考えていると、なんだかワクワクしてきます。
と、あまり興奮していると、「不謹慎だ」「タイミングが悪すぎるぞ」というコメントをいただきそうなので(笑)、この辺りで筆をおこうと思います。
お読みいただきありがとうございました。
では、また。