沖縄戦から72年 「慰霊の日」

沖縄戦から72年 「慰霊の日」
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沖縄は23日、20万人を超える人が亡くなった沖縄戦から72年となる「慰霊の日」を迎えました。激戦地となった沖縄本島南部の糸満市にある平和祈念公園には朝早くから遺族たちが訪れ、戦没者を悼み、平和を願う祈りをささげています。
太平洋戦争末期、昭和20年の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦で沖縄県民の4人に1人が犠牲となり、日米両軍を含めた戦没者は20万人を超え、被害の全容は今もわかっていません。

沖縄県は日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日を「慰霊の日」としていて、糸満市摩文仁の平和祈念公園には朝早くから遺族たちが訪れ、戦没者の名前が刻まれた平和の礎の前で手を合わせています。

おじを亡くし、体験者の証言を伝える活動をしている八重瀬町の53歳の女性は、夫や息子とともに訪れ、「戦争体験者から戦争の悲惨さをたくさん聞いてきました。もう二度と戦争を繰り返さないよう、1人でも多くの体験者の声を後世に伝え続けていきたいです」と話していました。

沖縄戦から72年が経ち、体験者から直接、証言を聞くことが難しくなる中、今月12日には沖縄戦に動員され多くの学友を亡くした経験から、平和への取り組みを続けた大田昌秀元知事が92歳で亡くなりました。県民の9割近くが沖縄戦のあとに生まれ、戦争の記憶をどう語り継ぐかが課題です。

また、沖縄では今も在日アメリカ軍専用施設のおよそ70%が集中する重い基地負担が続いていて、去年は名護市でオスプレイが大破する事故が起きるなど、基地があるが故の事件事故が絶えません。

平和祈念公園では正午前から戦没者追悼式が開かれる予定で、平和を願う祈りに包まれる23日の慰霊の日は、戦後72年たっても続く沖縄の重い基地負担を問い直す日でもあります。

「平和がいちばん」

沖縄戦が終わる間際に父親が撃たれて亡くなった、沖縄県豊見城市の石原ヨシ子さん(82)は、父親の名前が刻まれた平和の礎を訪れて手を合わせました。石原さんは「毎年、娘と2人で平和の礎を訪れています。父親は海岸沿いでアメリカ軍に撃たれて、遺骨は今も見つかっていません。平和がいちばんです」と話していました。

「戦争がなくなってほしい」

沖縄県糸満市の中学生、千葉悠平さん(13)は両親や兄弟など家族6人で、沖縄戦で亡くなったひいおばあさんの慰霊のために平和の礎を訪れました。
礎に水をかけて、刻まれた名前を丁寧に拭いたあと、花を添えて手を合わせていました。千葉さんは「安らかに眠ってほしいという気持ちで祈りました。平和が続いて戦争がなくなってほしい」と話していました。

「戦争が二度とないように」

沖縄戦の時、沖縄県糸満市にある平和祈念公園の近くの壕に避難したという沖縄県宜野湾市の宮城勝子さん(78)は、父と祖母、それに2歳の妹を亡くしました。宮城さんは「シリアなど今も世界各地で戦争が起きているのを見ると胸が痛いです。戦争が二度とないようにお願いをしました」と話していました。

「来るたびに悲しい気持ちに」

沖縄戦で母と姉と祖父の家族3人を亡くした沖縄県浦添市の善原朝輝さん(80)は、3人の名前が刻まれた平和の礎に水をかけて手を合わせました。
善原さんは「ここに来るたびに悲しい気持ちになりますが、家族に会いに毎年来ています。8歳のときに戦争にあい、半年もの間、壕に入ってずっと水も飲めないような状況だったので、亡くなった家族に飲んでもらいたいと思い、たっぷり水をかけました」と話していました。

大田元知事の秘書が献花

「平和の礎」の創設に取り組み、今月12日に亡くなった大田昌秀元沖縄県知事が設立した研究所で秘書を務めていた41歳の女性は、大田氏の告別式で供えられた花を1輪手向けて手を合わせました。女性は「大田先生は天国でも平和を願い続けていると思うので、そのバトンを私たちがつないでいかないといけないと思います」と涙ぐみながら話していました。

「魂魄の塔」でも祈り

沖縄戦で激戦地となった糸満市にある「魂魄(こんぱく)の塔」は、沖縄戦のよくとし、身元が分からないまま放置されていた、およそ3万5000人の遺骨を集めて沖縄県内で最初に建てられた慰霊塔で、朝早くから遺族らが訪れ、静かに祈りをささげています。
沖縄戦で亡くなった祖父母の遺骨が見つかっていない兵庫県尼崎市に住む、平良秀雄さん(72)は「1度も会ったことがない祖父母は、きっと初孫の私の顔を見たかったと思い、毎年、慰霊の日には沖縄に来ています。遺骨は見つかっていませんが、祖父母はここに眠っているという思いで手を合わせています」と話していました。