あんまりまとまらないかも知れませんが、ちょっと書いてみます。
子どもが出来てから、「子どもが可哀想なことになる話」がほんとーーにダメになりました。実話、創作問わず、触れるだけでダメです。見たくもないし、勿論読みたくもない。出来ることなら視界に入って欲しくない。
実話の話をするならば、無論、たとえば児童虐待なんかは法律でも禁止されていますし、あってはならないことだと思います。出来ることなら可哀想なことになる子どもがゼロになって欲しいし、社会はそうあるべくリソースを注がなくてはならない。これは、私の「見たくない」が、社会の規範と一致している例です。
けれど、例えばその手の創作についての話をするならば、「法律で規制して、存在出来ないようにするべき」だとは、私は思いません。「社会にそういう創作が存在してはならない」とも思いません。
何故なら、私の「子どもが可哀想なことになる話」に対する感情は私的なものであって、それが即「社会に存在してはいけない理由」にはならないから。私の好き、嫌いは、社会の規範とイコールではないから。
「ある創作を禁止する」というのは表現の自由に規制を入れる大事(オオゴト)であって、余程の論拠、余程の根拠が必要です。社会から何かを排斥する、というのはよっぽどのことです。
勿論、きちんとした時間ときちんとした議論を重ねて、法的な問題も当然クリアして、その結果として「ある表現に規制が入りました」ということはあり得るでしょう。それは別に問題ないと思います。
けれど、単に「俺が嫌いだ」という理由だけであれば、それは「表現の自由を規制する」論拠にはなり得ない。
ちょっと思うのは、「世の中には、私憤と公憤を区別できない人が結構多いなー」という話なのです。本当は「俺が嫌いだ」というだけの理由なのに、それをうまいことお化粧して、「こういうものは社会に存在してはならない!みんなの為だ!子どもの為だ!」と声高に叫ぶ人たち、結構頻繁に観測出来ます。
私は、そういう人たちがあんまり好きではありません。結果的に利害が一致するとしても、私はそういう人たちが嫌いです。
だって、それは私憤じゃん?と。
お前が言ってるのは、実質的には「俺が嫌いだ!」だけじゃん?と。
「俺が嫌いだ!」を、「社会の為に!」「みんなの為に!」「子どもの為に!」とうまいこと言い換えてるだけじゃん?と。
それは単に、存在しない数の力で自分の言葉を説得力ドーピングしてるだけじゃん?と。
そういう人たちがいう「〇〇な創作が社会に存在してはいけない理由」は、往々にして穴があったり、ダブルスタンダードになったりします。例えば、「こういう創作に影響されて、××な犯罪が発生するかも知れない!」という主張であれば、「いや、影響されるだけだったらこういうテレビでもこういう報道でも影響されそうだけど、そっちは何でいいの?」という話になったりします。「こういう表現が子どもを傷つける!」という主張であれば、「こっちの表現は何で傷つけないの?そのファールラインは誰がどう決めるの?」という話になったりします。
これは結局、その主張が私憤に根ざしているだけであって、きちんとした検討にも法的な論拠にも立脚していないからです。
繰り返しになりますが、「何かの表現を規制する」というのは大事なんです。少なくとも、一人の人が、ほんの数行の主張で、過不足なくその論拠を説明出来るような話ではない筈なんです。
なのに、自分の私憤を公憤にすり替えて、まるで一言で「社会に存在してはいけない理由」を必要十分説明出来たようになっている人は、ちょっと何かを勘違いしていると思います。
「俺が嫌いだ」だけなら自由です。何の問題もない。誰かが何かを嫌うのに、それこそ文句をつける筋合いはない。私だって「そういう」創作や表現は嫌いだし、見たくもありません。
けれど、「俺が嫌いだ」と「社会の為に存在してはいけない」を混同してはいけない。あなたの好き嫌いは、社会の規範とイコールではない。
私はそんな風に思うのです。
今日書きたいことはそれくらいです。