(cache) 増田聡・千葉雅也対談  「ラディカル・ラーニング」のすすめ  東大・京大で今一番売れている本『勉強の哲学』をめぐって|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年6月22日

増田聡・千葉雅也対談 
「ラディカル・ラーニング」のすすめ 
東大・京大で今一番売れている本『勉強の哲学』をめぐって

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勉強の哲学(千葉 雅也)文藝春秋
勉強の哲学
千葉 雅也
文藝春秋
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東大・京大の大学生協で今、村上春樹『騎士団長殺し』、恩田陸『蜜蜂と遠雷』より売れている本、それが千葉雅也著『勉強の哲学』(文藝春秋)である(東大本郷・京大生協1位[4月]、東大駒場生協1位[5月])。
四月十一日の発売から二ヶ月が経とうとしているが、引き続き好調の売れ行きを見せ、現在は五刷累計発行部数が四万五千部に達した。
人文書としては異例のことである。
東大生・京大生が引きつけられた「深い勉強」「ラディカル・ラーニング」とは、いかなる仕組みの「学び」を意味するのか。
千葉氏と、大阪市立大学准教授・増田聡氏に対談をしてもらった。 (編集部)

哲学と生活の往還

千葉 雅也氏
増田
 千葉さんの『勉強の哲学』についての率直な感想は、「やられた」という感覚です。勉強ってなんだろうと考える時に、ぼんやりと自分がイメージしていたことを、まさに言葉にしてくれたところがある。千葉さんはいつもストレートに語る人だけれど、この本はその千葉さんの語り口がよく現れていると思います。千葉さんは常に専門的な哲学的知見を生活と往還させて語ろうとする。だから読者は各々の様々な観点から読むことができる。たとえば今、人文学の危機についてよく話題に上りますよね。あるいは実利志向の功利的な本が売れる出版状況があったりする。そうした現状にこの本をポンと置くことによって、景色ががらっと変わってしまう、そんな効果をもたらすんじゃないかと思うのです。だから、既に四万五千部とうかがったんだけれど、もっと売れて欲しいんですね。「売れる」ということは、単にお金が儲かるということではない。「ヒットする」ということは、資本主義社会の中で成功し、金を儲けるイメージと結びつけられて理解されがちです。しかし他方で「ヒット」とは、多くの人々にその作品が支持されたことを同時に意味する。アカデミックな領域の規範からは「売れること」「ヒットすること」がネガティブに捉えられがちですが、むしろある本が「ヒットする」ということは、より多くの人に届くことによって、受け取った人の考えや感性を変える契機にもなりうると思うんですね。だから千葉さんのこの本、もっとがんがん売れて欲しいです。ややもすると、本が売れるのはその本が大衆向けで水準が低いからだ、と受け取ってしまう風潮が知識人の間にはあるじゃないですか。
千葉
 「インテリたこつぼ主義」的な価値観の中では、あるでしょうね。
増田
 千葉さんのこの本は、決して知的な水準を落として書かれたものではない。僕は内田樹さんの最初の本、『ためらいの倫理学』を想起しました。内田さんの本は、人文学的な知を背景としながら、それが危機に晒されている状況と対峙しつつ、自分の生活実感と照らし合わせながら、今われわれが直面している状況の見取り図をうまく指し示していた。千葉さんも、まさにそういう本を二〇一七年の今にフィットする形で書かれたのだろうと思う。だから、東大生や京大生のあいだで読まれるのは、よくわかるんです。
千葉
 ありがとうございます。勉強することを、日常的なコミュニケーションの問題に絡めて捉えてもらうとわかりやすいだろうと思って、「ノリが悪くなる」とか「キモい人になる」といった言い方を使いました。本が刊行されてから、ツイッターの反応を見ていてわかったことですが、この本が最初に届いたのは、既にある程度キモくなっている人たちなんですね。つまり、そこそこ勉強していて、本の好きな人です。それが僕のコアな読者層だろうから、それはそうなんでしょう。なんとなく自分は周囲から浮いているなとか、ずれているんじゃないかと思っている人たちがいて、しかしそれこそがまさに勉強しているということとシンクロしているんだ、だから自分が肯定されているようでよかったと、そんな反応がたくさん来ています。
増田
 勉強したり本を読んだりすることが、いかに世間では否定的に捉えられているかということですよね。
千葉
 そうでしょうね。今の話に関わることですが、僕がこの本を書こうと思った大きな動機を、最初にちょっとだけ話しておきます。勉強しないでヤンキー的な育ち方をして、でも世間の壁に打ち勝って成功した人というのがいますよね。そういう成功ルートを綴った本は、これまでたくさん書かれている。勉強しないけれど勝ち組になった、その成功談であり、それがヤンキーたちへの応援歌にもなっている。
増田
 矢沢永吉の『成りあがり』がそうですね。
千葉
 ええ。だけど、勉強することでキモくなってしまった人に対する応援歌は、ほとんど書かれていないんじゃないか。それを僕は書きたかった。その意味では、今寄せられている反応は、とても嬉しいんですが、もうひとつの課題としては、これまで勉強をしてこなかった層にも読んでもらいたいわけです。もっと「ウェイウェイ」している大学生たちに誤配されることを、僕は期待しています。
増田
 そういうビジョンが背景にあることはよくわかります。最初に千葉さんがツイッターで今回の本についてつぶやいているのを読んだ時には、面白いところを狙って書くもんだなと思った。「アウトライナー」の話とかをしていたから、どんな本になるんだろうと想像していたんですが、まさかこんな本になるとは思っていなかった。むしろ、最後の第四章に書かれている実用書的な要素が中心で、補足的に哲学的な話題が挿入される本になるのかなと思っていましたから。ところが、刊行されてみるとストレートな哲学書だった。途中で構成が変わったんでしょうか。
千葉
 そこは流動的だったんです。第一章の言語環境の話、自分の今いる環境といかにしてメタな距離をとるのかとか、その概念分析と整理をやっているうちに、どんどん哲学的方向に話が膨らんでいったんですね。アイロニーとユーモアの観点で会話論をやるという構想は最初からあったんですが、それも書いているうちに大がかりになっていった。理論編が自ずと膨らんでいった感じです。本当はもっと気軽な実用書を書くつもりだったのが、途中から、研究的な側面が強くなっていったというのが正直なところです。結果的には、ドゥルーズ=ガタリ的な枠組みとウィトゲンシュタイン的な言語観を架橋するような本になったと思っています。これは、いずれやらなきゃいけないと考えていた哲学的プロジェクトであり、それを予備的に、ある程度は実装することができたんじゃないか。
増田
 最後の補論で学者向けの注釈をきっちりとやっているところにも、千葉さんのサービス精神を感じます。できるだけ多様な人々がアクセスできるように配慮されている。うちの小学四年生の息子も「来るべきバカのために」という副題に反応していました。どうも「自分に向けられた」本だと感じたらしいです(笑)。そもそもこの「勉強の哲学」というタイトルは、いつ決まったんですか。
千葉
 最終段階です。
「勉強」の概念を変える

増田 聡氏
増田
 「勉強」という概念を中核に据える、このコンセプトについては?
千葉
 それは最初です。元々『勉強論講義』という仮タイトルだったんです。「〇〇の哲学」というのはいささか陳腐なので、どうかなと当初は疑問でした。ただ、何人かに相談すると、「千葉さんと言えば哲学のイメージだし、哲学的な内容になっているんだから」とアドバイスをもらったこともあって、『勉強の哲学』にしたんですね。サブタイトルに関しては、突然降りて来たんですよ。「はじめに」を何回か書き直していた時に、突然勢いがついて、「来たるべきバカのために」にしちゃおうと(笑)。もちろんニーチェ的な超人のイメージですが、思想史・宗教史上を見てみると、三段階で変身するという話は、結構ありますよね。千野帽子さんに言われたんですが、仏教の「往相と還相」もそうです。修行して精進している状態に入ってから、もう一回俗の世界に戻って来る。プラトンにだって似たような話があるし、スピノザの三種の認識の話もそうだと言える。その二〇一七年版になったという感じですね。
増田
 中国故事でいえば「邯鄲の弓名人」ですよね。「大賢は愚なるが如し」といいますか、この構図は洋の東西を問わず人類の知の構造として普遍的なものだと思います。やればやるほど、それが何だかわからなくなる。そうした構造を持つ「勉強」の概念に関して、西洋哲学の文脈から東洋的な達人観へときれいに着地させているのがこの本だと思う。

ただ、普通の人が考える「勉強」と、この本の論じる「勉強」とはちょっと違いがありますよね。世間一般の人にとって、日本語で「勉強」というと、知的な領域に関わるものではあるんだけど、苦しいことに耐え抜き、労苦を重ねて(学歴や資格といった)世俗的に役に立つ一定の成果を獲得するために行うこと、そういったイメージがある。他方で千葉さんは「ラディカル・ラーニング」や「本当の勉強」という言い方で、そのような目的遂行的な勉強観を相対化しようとしている。「勉強」というポピュラーな言葉をいわば罠として用いながら、新しい知的パースペクティブを獲得する時の、言語とアイロニーとユーモアの関係を整理し、人間の知的活動の哲学へと誘惑していく。つまり、「ラディカル・ラーニング」という考え方は、「勉強」という概念をある意味で別の形に作り変えるところがある。そこが面白いと思いました。
千葉
 「勉強」という言葉に「深い」という形容詞をつけたのがポイントで、説明が進むと言葉のイメージが生成変化していく。そういう語りの仕組みを取っています。
増田
 「自分は勉強してないからなあ」と思いながら読みはじめたんですが、読み進めるうちこういう「勉強」ならいつもやってるなと思ったんですよね。千葉さんは勉強の概念を作り替えている。東大生や京大生に読まれているというのはいいなと思うところがあって、彼らは労苦を伴う勉強を積んできたわけですよね。受験勉強という形で、世俗のノリに同調する形で知的な労苦を積んできた。それを「深い勉強」「ラディカル・ラーニング」という言葉をフックにして、違う方向に引っ張り込もうとしている。そんな印象を持ちました。
千葉
 そうですね。ただ、このことははっきり書いていないけれど、労苦に耐えて物を覚えたり、たとえば鉛筆の芯で手が黒くなるまで単語を書いて記憶したり、そういう営みも必要だということは、暗黙の前提になっている。本当は、そのことを強調すべきだったかもしれませんね。この本では、今の自分のノリを変えて、別の環境の中に入っていって、新しい言葉を獲得するという話はしているけれど、そのためには、これまで知らなかった固有名詞を覚えないといけないし、外国語をやる必要もある。まさに「いわゆる勉強」が必要です。
増田
 僕が『勉強の哲学』を読んだ時に感じたことを、自分の若い頃の知的状況を振り返りながら、もう少し話します。一九八〇年代、浅田彰の『構造と力』を端緒に、ニューアカブームが起こった。その頃は、知的でアカデミックなものを求めるその「キモさ」自体を、ポジティブに称揚する傾向があったわけですよね。それに対する批判として現れたものが、八〇年代後半頃の「別冊宝島」的な言論だったと思います。浅羽通明や大月隆寛といった方々は、現場主義もしくはある種の保守主義的な立場から、そのような知的「キモさ」が依って立つ土台の脆弱さを指摘した。それは知を可能にしている下部構造を見よ、という批判だったと思います。僕自身も八〇年代のニューアカ的なノリ、役に立ちそうにない難解な知を称揚することに対しては、惹かれながらもどこか胡散臭さを感じていた。賢い人、そして経済的に豊かな人はニューアカブームにノルことができるかもしれないけれど、誰もがそんなふうにはなれるわけではない。つまり、人は何のために勉強するのかという話です。多くの人は、実利的な目的で勉強する。典型的には司法試験や公認会計士試験ですよね。ニューアカ的な「学問」が可能となるには、「何かのために」勉強する必要を免除された環境が必要になる。 
無自覚な自動アイロニー

増田
 大学受験の時、文学部に行きたいと言ったら親に反対されました。文学や哲学なんて勉強しても役に立たない。役にたつ勉強をしろ、と。しかし受験生の頃はちょうどバブル時代でしたので、当時の文学部卒業者の就職状況はかなり良好だった。その「エビデンス」を親に示して、文学部への進学を納得させたということがありました。いわば経済的な下部構造こそが、自由な知的探究を担保しているところがあって、それについては自覚しておかねばならない。「別冊宝島」の哲学とはいわばそういうものであったと僕は捉えているのですが、そこには千葉さんの言う「アイロニー」の議論に繋がって来るところがあるんじゃないかと思うのです。こんにち言われる「人文学の危機」や、大学の苦境、あるいは出版界でも実用性を重視した書物が溢れる状況がある。そうした知をめぐる環境のなかでの「自覚をめぐる問題」が、千葉さんのこの本の背景にある気がしたんですね。

その観点で『勉強の哲学』を読むと、アイロニーの問題に関して、少し楽天的に感じられるところもあります。アイロニーを扱った第二章で面白かったのは、次のような指摘です。アイロニー(=ツッコミ)というものは、基本的に「自覚的」である。しかしアイロニーが過剰になっていくと、それ自体が、話を成立させまいとする状態へと「無自覚に転化」する。そういう言い方をしていますよね。最初は自覚的にはじまったアイロニーが、繰り返されることで無自覚なものへと転化する。この指摘は重要です。これを敷衍して言えば、僕が思うに「自動アイロニー」のようなものがこんにち蔓延しているように感じるんですね。知的な営みに対して懐疑的な視線を投げかけることが常態化・大衆化している背景には、無自覚な自動アイロニーの作用があるんじゃないか。もちろん、知的なものへの批判的視線自体は、最初は自覚的なアイロニーとして現れた。さっき名前を出した浅羽通明さんがそうです。浅羽さん自身はインテリで、千葉さんの言葉で言う「ノリの悪さ」を厭わない方だと思います。インテリが、インテリであることを可能にしている土台に懐疑を抱き批判する、という浅羽さんの思想的スタンスに学生時代の僕は強く感化されました。しかし、その当時は自覚的かつ誠実な知的探求だった振る舞いが、いまでは陳腐化され大衆的に広まっている。それが現在のネトウヨ、ネトサヨ的なものに直接繋がるとまでは言わないけれど、人文知に対する懐疑的な視線が全面化しているのは、自覚すらされていない自動アイロニーの蔓延が一つの要因と思うんですね。千葉さんも本の中で書いています。「SNSで、手当たり次第に言葉尻をあげつらうリプライを送りつけるツッコミ屋は、そうしたアイロニーの無自覚化に陥っているのではないでしょうか」(八八頁)。

僕の観点では、自動化されたアイロニー装置がコミュニケーションの標準形式としてあらかじめ装備されているから、ということになる。では、そういう人たちに向かって、どう働きかければいいのか。千葉さんの図式で言うと、アイロニーからユーモアへと転化することができる人とできない人がやはりいて、できない人は単なる不毛な「ツッコミ屋」になってしまう。彼らに対してどういう言葉で対することができるのかなと、ぼんやり思ったんですね。
千葉
 どうやってアイロニーからユーモアへの転化を図るのか。最終的に僕は、自分の享楽を発見することが大事であるという話をしていますよね。それがユーモアへの転化可能性に関わっている。逆に言うと、自分の基準となる享楽を持っていないから、アイロニーの泥沼に陥ってしまう。
増田
 自動アイロニーに身を任せて知を攻撃すること自体が享楽になっている。今は、そういう人々が多くなって来ているんじゃないか。
千葉
 増田さんのご指摘はよくわかります。幾人かの方から同じ意見をいただきました。そこは弱点かもしれないのです。というのは、僕自身は自動アイロニーの享楽が大嫌いで、愚か者だとしか思っていないところがあるからです。自動アイロニー自体の享楽性については、もっと考えなければいけませんね。
巨大な哲学的問題

増田
 いまコミュニケーションを行っている「この場」をひっくり返すこと、台無しにすることの想像に、享楽を見出す人たちがいる。たとえば自分の生活が辛いとき、「このセカイ終われ」「みんな死んじゃえ」とかついネットでつぶやいてしまう。そういうつぶやきって、アイロニーが自動化されているわけでしょ。北田暁大さんも『嗤う日本の「ナショナリズム」』で、アイロニーの自動生成装置のようなものの大衆化について考えていた。形式化されたアイロニーをユーモアに生成変化させる方法はないものか、そんなことを千葉さんの本を読みながら考えていました。
千葉
 アイロニーからユーモアへ転化する「可能性」について提示できただけでもよかったと思うんです。確かに、アイロニーから抜け出るための道筋を強い形で説明することは、うまくできていないのかもしれません。しかし、生活の中で楽しみ(享楽)を発見して欲しいというのが僕の最小限にして最大限のメッセージなのです。関連した話になると思いますが、ラカン研究者の松本卓也さんが最近、「水平方向の精神病理学」ということを言っているんですね。かつての精神病理学は、特に統合失調症をモデルとして、生活を超えるようなある超越を目指す欲望を常に問題にしていました。この生活を支えている根本的な根拠が崩壊し、真理は何かという領域に突き進んでいくのが、「分裂病」と呼ばれるものだったわけです。その垂直方向の病に対処する時に、松本さんは、水平方向の軸を持ってくる。それによって、むしろ日常的なコミュニケーションの中で、垂直的な真理を求めることがどうでもよくなっていくような方向に向かう。そこにひとつの治癒の可能性を見出すということなんです。斎藤環が導入しようとしている新しい治療法「オープンダイアローグ」も、似たような試みだと思います。ただ、日常性の中で回復していくものがあるということを理論的に考えるのは難しい。しかしそれこそが大事だと、僕は思う。ウィトゲンシュタインで言えば、これは前期から後期への転換なんですよ。日常の言語ゲームの中で、どう解決の道筋を模索していくかということです。結局、言語ゲームはどうすれば成立するのかとか、その根拠まで疑ってしまったら、アイロニーの泥沼に陥るしかない。ウィトゲンシュタインに即せば、言語ゲームの中に参入するのは一種の跳躍です。それはつまり、何か不合理なものに耐えることである。僕が考えているユーモアへの転換も、そういう言語ゲームの中に参入する跳躍を意味しているんだと思います。
増田
 跳躍した先の環境で、深いレベルの享楽を作る。そういう整理ですよね。人は生まれて、知らないうちにある言語ゲームにいつの間にか放り込まれて、そこで特定の享楽を志向する身体が形成されていく。これまでは、人類が積み重ねて来た歴史や文化、社会といったゲームのルールにうまくビルトインされる形で、人々の享楽が形成されてきたわけです。アイロニーが自動化した人は、そういった言語ゲームの中にうまく参入することすらできないんじゃないか。
千葉
 そこからはじき出されちゃっているわけですよね。特に、辛い生活状況にあるとか、なんらかのプレッシャーを受けている状態にある人たちにとっては、周りの環境や言語ゲーム自体が自分を排除するものであり、権威的だと感じられる。既得権益層が作ったゲームには、当然入っていこうとはしない。
増田
 現代の日本で失業したとか、生活が苦しいとかいったことを「シリアの難民に比べれば大したことないじゃないか」という人もいる。だけど日本では、客観的には「大したことない」かもしれない困窮状態を、シリアの難民が置かれた困難よりも「大変なこと」として受け止める心性が確固としてある。そういった人たちに向かって、「少しは我慢しろ」と言っても主観的な困難を解決することにはならない。「失業して非モテ」の方が難民の境遇よりも辛いと感じさせる言語ゲームが生成し、そこに自分の享楽の構造を絡め取られている人が数多く存在する。逆に言うと、その享楽の構造に介入していく言葉を構想する必要がある。享楽と言語ゲームについてそんなことを考えさせられました。
千葉
 話は飛びますが、究極の自動アイロニーの人はデカルトではないでしょうか。すべてを疑っていくわけですから、徹底的な独我論になる。そして本当に独我論的状態を徹底していけば、デカルトのように、あらゆるコードを退けなければいけない。ところが、たとえばネトウヨ的な人たちは、ある種のコードは採用する。このことは第三章で問題にしていますが、独我論的状態は、任意の他者やコードを選び取る決断主義と結託することがある。
増田
 そういう状況に対して、新しい言語ゲームをはじめるとか、なんとかゲームの形を組み替えていくとか、哲学的にはそういった方向を目指していることはわかります。
千葉
 言語ゲームへの参入をどうするかというのは、繰り返しになりますが、跳躍なのであって、これは巨大な哲学的問題です。僕の知る限り、きちんと答えている人は誰もいない。ある言語ゲームの中に放り込まれること。ハイデガーだったら「投企」ですが、人は皆ある環境に投げ入れられた状態にいる。そのことの絶対的な無根拠さに耐えるとしか言いようがないですね。でも、なかなか人は、そのことを納得できない。
増田
 耐える以外にどんな道筋があるのかを考えると、それこそユーモアですよね。なぜユーモアが重要なのか、人間の知的探求においてユーモアが果たす機能について、千葉さんの本はうまく説明していると思うんです。ユーモアの分析は個人的には本書で一番好きなところです。ツイッターにくだらないダジャレばかり書くのもそんなに見当はずれではなかったかなと、自分が肯定された感がありました(笑)。
千葉
 増田さんは、言語それ自体の可能性をまさぐりながら、発言を続けているんだと思います。そこは、自動アイロニーに陥った人を、どうやってユーモリストにするかという問題にも関わってくることだと思いますね。
増田
 他人を攻撃したりコミュニケーションの場をひっくり返すよりも、くだらないダジャレを言っている方がずっと楽しいと僕自身は思う。そういう言語ゲームの中で享楽の構造が形作られてきたわけです。でもダジャレに対して、やたら怒る人っているじゃないですか。そういう人たちをなんとか笑わせようとすることはただの酔狂ではなくて、結構真面目な思想的課題だと思わなくもないです。
ヤンキー、ハイデガーを学ぶ

千葉
 少し別の角度から、この本を書いた背景について話します。今僕は、立命館大学先端総合学術研究科の大学院に所属しています。そこには、一定のキャリアを積んでから学び直しにくる社会人がけっこう多い。そうすると、ある程度歳がいっていることもあって、改めて学術的な言葉の使い方に慣れてもらうのが難しいんですね。専門的な職業に就いていた人は、その現場で使われる言葉で喋る。別の専門の人の前でも、特殊な略語を使ってしまったりするので、わかる言葉に直すように指導します。あるいは、先行研究を引いて説明する時に、「〇〇先生の論文によると、こうおっしゃっています」と言ったりするんですね。その業界で偉い著者に対して敬語を使ってしまう。あなたは客観的な距離を取って分析している研究者なんだから、敬語はやめなさいと、そういう指導からはじまるわけです。
増田
 書かれた論文を、対面の発話の延長線上として捉えているわけですね。いわばそれも「ノリ」です。そういうひとつのノリに固執せず、こっちのノリに出て来いということですよね。
千葉
 ええ。こちらに来た以上は、スイッチしてくださいという話です。
増田
 複数のノリを使い分けようと、千葉さんは本の中で提案する。でも普通の人が、意識的に複数のノリを使い分けるのは結構大変だと思うんですよね。ノリを使い分けたり、新しいノリを作ったりするのは、凡人には高いハードルになっているところがある。そこがほんのちょっとでもいいから溶けないかなという気はしますね。
千葉
 そこが少しでも溶ければ、世界が広がっていく可能性があると思うんです。オタクとか非モテ界隈の人が自分たちのアイデンティティに拘っているのも、いかかがなものかと僕は常々思っている。ちょっとした工夫で世界は広がっていくのに。でも、変化しないという享楽もある。この点では、AV監督の二村ヒトシさんのコミュニケーション論が面白くて、僕が言っていることと共通の部分があります。
増田
 自分がどうしてもノレないのはなぜか、ひとつのノリにはまり込むためにはどうすればいいか、そのための技術を示しているのがマニュアル本やハウツー本であるとすれば、そうしたノリへの参入と退出の構造自体をメタレベルで俯瞰することによって、「ノレない」人をエンパワーメントする力が千葉さんの本にはある。これまで自分が一所懸命はまろうとしていたのは、「ひとつのノリ」に過ぎないのであって、別のノリにも乗り換えることができる。そういう俯瞰した視点を持つきっかけにもなると思います。
千葉
 「浮く」とか「メタ」という状態は、上にあがるイメージであって、俯瞰的な視点に立つということですね。ただ、最初に言ったように、重要なのは、浮いてしまった第二段階からもう一回俗に戻ってくる「還相」だということです。第三段階への転換を、二十代を通してどう果たしたのかが、自分にとってはむしろ大事であった。そこをテクニカルにどのように実現したかは、この本には明確には書いていない。ここがミソと言えばミソなんです。そのやり方は、個々人の享楽によって様々である。しかし、少なくとも自分が浮いている原因を、メタ的な視点で認識できれば、そのスイッチをオンにもオフにもすることができると、僕は考えているわけです。だから、第二段階の浮いている状況に対して、きちんとしたディスクリプションを与えることで、第三段階への移行もエンパワーされるだろうというのが、一応の見通しですね。
増田
 一五一頁にある「勉強の三角形」の図に、すごく感心しました。「懐疑(アイロニー)↓連想(ユーモア)↓享楽」と回していく。ただ、この図を頭に浮かべながら、往相と還相を繰り返すことができる人も、かなり頭のいい人でしょうね。賢いんだけど「なんだか俺っていまひとつリア充になれない不幸」を内心抱いている人。だから、まさに東大や京大の学生にとっては、千葉さんの本が救いになるのだろうと思う。勉強すると不幸になるということを、はっきり書いているのも重要だと思いますね。
千葉
 そこも、あまり言われていないことですよね。でも、東大生とか見ていても、どう考えたって不幸な人が多い。
増田
 逆に考えると、たとえば最初に少し触れた矢沢永吉ですが、YAZAWA的な世界から見るならば、千葉さんの言う意味で「勉強」すると不幸になるというのは自明の前提ですよね。ヤンキー的な社会空間における勉強とは実利的な価値と密接に結びつくものです。ヤンキー的ノリの人たちが勉強しはじめるとどうなるか。たぶん「勉強の三角形」の中を移動しながら勉強したりはしない。この本の言葉で言うと、ひとつのノリに徹底して沈潜し、アイロニーも発動しない。ヤンキーが一念発起して、たとえば司法試験を目指して一心に勉強し成功する、というのはしばしばあることですが、それは千葉さんが言う「ラディカル・ラーニング」の手前にある勉強ですよね。
千葉
 でも、僕が本当に読んでもらいたいのは、ヤンキーたちなんです。ヤンキーが、自ら不幸になるような勉強を選び取って、ハイデガー的な問いに向かって生成変化してしまう。そういう奇跡をどこかで信じているところがある。
増田
 ヤンキーに訴求するには、まず千葉さん自身が成りあがってビッグになる必要がある。そこで糸井重里に聞き語りで半生記を書いてもらう(笑)。そうなれば、ヤンキーたちもみんな争って『勉強の哲学』を買って、千葉さんの言う「勉強」に目覚める。ヤンキー的な心性は「ある個人の人生への憧れ」という形で駆動されます。ですから、この本の中の「欲望年表」はとても重要だと思うんです。
千葉
 欲望年表に反応する人が、意外に多いんですよね。同業の平倉圭さんも、自分で作ってみて面白かったとか言ってくれて、他にもそういう話はよく聞きます。あまり皆さん、そういう振り返りってしていないのかなと思いました。
増田
 「黒歴史」というネットスラングが示すように、インテリは自分の実存と自分の知の関係を振り返ることを、恥ずかしいものだと基本的には考えている。でも、なぜ司馬遼太郎が国民的作家なのかと言えば、英雄の欲望年表をロールモデルとして提示することが大衆的に希求されているということですよね。大衆的な知、ヤンキー的な知への訴求力を考えると、そこがフックなんじゃないか。ヤンキーの琴線に一番触れるのは、この「欲望年表」だと思います。ヤンキーにとっては魅力的な人物の伝記、実話であることが、そのテキストの訴求力を担保する。抽象的な理論言説にはシンクロしない。だから『成りあがり』的である必要があるし、ヤンキーが千葉さんに同一化しようと思わせないといけない。
千葉
 参考文献には挙げていないんですが、この本を書く過程で、『成りあがり』も読みました。すごく面白い本ですね。
増田
 僕は講義で毎年必ず薦めています。「大学生が『成りあがり』読んでないのは恥ずかしい」と学生たちには諭しています。
千葉
 矢沢さんは、結構自己分析的な発言をしているんですよね。メタ視点がある。もちろん糸井さんの巧みな編集があってのことでしょうけれど、独特のバランスで成立している本だと思いますね。
増田
 永ちゃんは素晴らしいですよね。おそらくアイロニーとユーモアと享楽の関係が、最初からビルトインされている人であって、意識せずに往相と還相を繰り返している人なのだと思います。
千葉
 そうやって「三角形」を何重も回っている人のことを、最近「コクがある人」と呼んでいるんです。矢沢さんは、まさにコクがある人なんだ。
増田
 コクがある人、魅力的な個人へ同一化する形で、ヤンキーの学びは発動する。
千葉
 既成の科学的知識というのは、真理だから信じるというよりも、制度的な権威が保証しているところがありますよね。ヤンキーはそういう世界に属していないから、別のところに権威を生成させなければいけない。その時に、個人史が、非制度的な権威の生成という形で効いてくる。ただ、完全にヤンキー的な世界だと、あの人の言ったことだからといって、全部信じてしまう事態も起こり得る。一方で制度的なルールだけに従うと、空疎な知識の体系を信じることになる。やっぱり制度的権威性と属人的権威性、この両方が必要だと、僕は思うんですね。インテリ的な方向性とヤンキー的な方向性、両方の権威生成システムが必要なんじゃないか。
増田
 昨今の風潮では、どちらかで権威性をもっていると、反対サイドではその権威性が否定的に作用する傾向がありますよね。
千葉
 両方が排斥し合う関係にありますからね。でも、僕が信頼したいのは、ふたつをハイブリッド的に持っている人なんです。
増田
 「非モテでモテ」が大事、ということですね。
千葉
 そうそう、その言い方ですが、この本については、浅田彰さんの「ノリつつシラケ」というあの言葉のアップデート版だと言われることがあって、確かにそうかなと思います。「ノリつつシラケ」ることがいかに難しく、しかし生きる上ですごく重要な準安定状態なのか。これは太古からの真理なんだと思いますよ。
増田
 人間が互いにコミュニケーションして生きている存在である以上、何十万年経ってもその構造は変わらないのかもしれませんね。
スターシステム

千葉
 大きな話になりますが、さっきの話に関連させて、二〇世紀のポピュラー文化論という枠組みの中で考えた時にも、個人の私小説的な権威性というのは、大きなキーになるとお考えですか。
増田
 たとえば二〇世紀の文化産業は構造的なスターシステムを発達させてきたわけです。ひとりの人物に向けられる大衆の欲望をカネに替える仕組みを大衆文化産業は発達させてきました。しかし、それに対するアカデミックな知は、むしろスターという個人から距離を取る傾向にある。受け手研究であったり、スター本人よりもその周囲の人々の実践に着目する姿勢がある。専門的な大衆文化研究は、ロマン主義的な芸術観に対する批判的スタンス、反スターシステム的なノリが強い。哲学は違いますよね。ある偉い哲学者が書いたことが関心の中心となる。
千葉
 哲学は、古代からスターシステムですね。それに対し、現代の分析哲学はスターシステムの否定であると言えるかもしれない。
増田
 ビートルズの研究書は売れないんだけれど、ポール・マッカートニーのインタビューは売れるという話です。ポールの言葉を読みたいわけですよ。ポップなものに対する大衆的関心の仕組みは、基本的にヤンキー的モードと同じです。「この人が好き」、そこからはじまる。哲学の分野で、千葉さんや國分功一郎さんみたいに、読者の視線に対峙して「スター」として振る舞うことを厭わない研究者が現れているのは、ある意味で健全なことだと感じます。
増田
 東浩紀さんも読者の視線に意識的でしょ。それはとても大事なことだと思います。読者の欲望を引き受けながら、自分の主張を効果的に人々へと届かせるよう尽力している。

僕自身はスターをやるのは無理ですが(笑)、現在自明とされているノリを変容させて、少なくとも自分の仕事がやりやすいようにしたいという思いはあります。ちゃんと本を読むとか、功利的目的の勉強ばかりしないとか、政治的なことをきちんと考えるとか、そういった人を増やしていく作業は、自覚的な戦略をもってやっていかなければならない。千葉さんの本が羨ましいと思ったのは、それができているからなんです。
千葉
 願っているのは、まともに本を読む人が増えるとか、そういう堅実なことなんです。そこからはじまって、少しでも世の中が変ればと思うんです。
増田
 世の中を大きく変えるのは大変ですけれど、世の中を少し変えることは頑張ればできる。こういう本が出ると周囲の学生への教育がやりやすくなります。この本くらい読んでおけと薦めることができる。
千葉
 そうやって使ってもらえればいいなとは、書きながら考えていました。実際に自分も、大学院に入って来たばかりの人たち向けに基礎講読演習という授業を持っていて、そこで使えるような本を書きたいと思っていましたから。それと、この本は、僕が東大の表象文化論出身だということも、背景としては大きかった。専門の違う先生がいて、先生ごとに学問の作法が違う。自分の方法が絶対だと押し付けられることがなかった。いろんなノリがあることを、学生時代から身近に感じていましたから、それが、この本を書く上で影響していると思います。
増田
 僕は専門が音楽学で、演奏や作曲といったアカデミックな音楽畑の人たちを多く見てきました。音楽の世界は「一子相伝」的なモードがとても強い。プロフィールに「〇〇先生に師事」と必ず明記、みたいな。一つのノリの規制力が強固で、こんにちでは珍しく抑圧的な規範性の強い領域です。でも今の学生にとっては、特に人文学や芸術の領域では、単一のディシプリンのノリにだけ固執しても先行きは乏しい。千葉さんが提示する、複数のノリを行き来することの有効性は、今の学生や大学院生には実感を持って受け止められているんじゃないか。
千葉
 ポイントは、ふらふらとあちこち飛び回っていればいいということではなく、ひとつひとつのディシプリンが歴史性を持っていることの大事さを、まずは理解すること。いいとこ取りの話ですが、水平的な可動性と、垂直的な歴史性の両方が必要です。専門知は大事なのであって、専門家集団が互いに信頼し合っている空間で、ちゃんとした文献を読んでいくこと。それがこの本で最後に書いていることです。保守的と言われれば保守的だし、ソフトな権威主義と言ってもいいと思います。
増田
 その意見には完全に同意します。
千葉
 そこは絶対に言わなければいけない、外せない大前提だと思っています。 (おわり)
2017年6月16日 新聞掲載(第3194号)
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