先日、録画したままずっと放置していた『英雄たちの選択 元寇! 史上空前の国難 北条時宗VS最強の帝国 “神風”に隠れた真実』(BSプレミアム)をようやっと観ました。
「北条時宗を再評価しよう!」というスタンスだったんでしょうけど、まあ・・・ぶっちゃけ酷い番組でした(特に某精神科医と某評論家のコメントが・・・歴史プロパーじゃない人の見解がしばしば頓珍漢になるという良い証左にはなりましたけど)。
一番「フェアじゃないなあ」と思ったのは、モンゴル帝国史の専門家が出演してなかったところ(広い意味での「東洋史家」は出てましたけど、ほとんど何も言わせてもらえなかったに等しい。典型的な「欠席裁判」でしたね。なんで出演させなかったかと推測すると、まともなモンゴル帝国史家を出演させたら、番組の構成が完全に破綻するからでしょう。歴史番組で一番やってはいけないのは、先に結論ありき――特にこの番組は、タイトルに『英雄たちの選択』と銘打っている関係で、どうしても「主役」に選んだ人物の選択をジャッジしなくてはなりません。選んだネタをしくじるとすごく残念な展開になってしまうんですよね――で構成を決めて、それに当てはまらないコメンテーターは呼ばないってことなんだと思います。あ、それは「大河」も一緒か・・・。NHKは良質の教養番組を放送することもありますけど、どう見ても捏造としか言えない番組も目につきます。ちなみに『プロファイラー』という番組もなかなか酷いです。司会進行が今年の大河と被ってますけどそのこととは関係ありません。最近見ていて、「実は一番まともな番組なんじゃないか」と思ったのは、時折ややマニアックなネタに傾きがちとはいえ「タイムスクープハンター」でしょうか。下手な「三文大河」よりよっぽど楽しめます)。
その結果、全然モンゴル側に立った状況説明がなされず、「鎌倉幕府の決断は仕方が無かったんだ。『カミカゼ』の影に隠れがちな北条時宗という指導者をもっと評価してあげよう」という論調に流れていってしまうっていう・・・(ちなみに、「蒙古襲来」とは、日本列島に性質の悪い「対外硬」が発生する起源になった事件のひとつだったと、私は思っています。「外圧」が生ずる都度、「蒙古襲来」が思い起こされ、安易な精神論に基づく排外運動が起こるっていうね)。
番組を観ていて、一番驚いたのが「国書問題」ですかね。
大元ウルス(=元朝。最近はこの呼び方が主流になりつつあります。「ウルス」はモンゴル語で「国」の意味です。要するに単純な「中華王朝」ではありませんよ、ということですね)のクビライ・カアンから送られた国書が「脅迫文」だというんですよ。
そんな「解釈」をしてしまったら、多くのモンゴル史家から「日本中世史研究者の史料読解・解釈力(またはNHKの見解)はまだこのレベルなのか」と思われてしまうんじゃないでしょうか(一応、フォローを入れてる歴史家ってのも出演してましたけど・・・あんまり意味はありませんでした。研究者に意見は求めず、出演だけさせて番組の権威付けをするって手法は、本当にやめた方がいいと思います)。
原文を読むと、とても「脅迫文」には読めないんだけどなあ。
というわけで、以下、モンゴル帝国史研究の第一人者・杉山正明氏の『逆説のユーラシア史 モンゴルからのまなざし』(日本経済新聞社 2002)所収「鎌倉日本に外交はなかった」の「史料解釈」を引用したいと思います(本当は私が訓読すべきなんでしょうけど、折角第一人者が史料解釈してくれてますので。受け売りですみません)。
<原文>(改行・抬頭は東大寺所蔵の「国書」写しに準ずる)
上天眷命
大蒙古国皇帝奉書
日本国王朕惟自古小国之君
境土相接尚努講信修睦況我
祖宗受天明命奄有区夏遐方異
域畏威懐徳者不可悉数朕即
位之初以高麗無辜之民久瘁
鋒鏑即令罷兵還其彊城反其
旄倪高麗君臣感戴来朝義雖
君臣而歓若父子計
王之君臣亦已知之高麗朕之
東藩也日本密邇高麗開国以
来亦時通中国至於朕躬而無
一乗之使以通和好尚恐
王国知之未審故特遣使持書
布告朕志冀自今以往通問結
好以相親睦且聖人以四海為
家不相通好豈一家之理哉至
用兵夫孰所好
王其図之不宣
至元三年八月 日
<読点付随>
上天眷命大蒙古国皇帝奉書日本国王。朕惟自古小国之君、境土相接尚努講信修睦。況我祖宗受天明命奄有区夏。遐方異域畏威懐徳者不可悉数。朕即位之初、以高麗無辜之民久瘁鋒鏑、即令罷兵、還其彊城、反其旄倪。高麗君臣感戴来朝。義雖君臣、而歓若父子。計王之君臣亦已知之。高麗朕之東藩也。日本密邇高麗、開国以来、亦時通中国。至於朕躬、而無一乗之使以通和好。尚恐、王国知之未審。故特遣使、持書布告朕志。冀自今以往、通問結好、以相親睦。且聖人以四海為家、不相通好、豈一家之理哉。至用兵、夫孰所好。王其図之。不宣。至元三年八月 日
<書き下し文>
上天眷命(じょうてんけんめい)大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉(たてまつ)る。朕(ちん)惟(おも)うに古(いにしえ)より小国の君は、境土を相接すれば尚(な)お講信修睦(こうしんしゅうぼく)に努めん。況(いわん)や我が祖宗は天の明命を受けて区夏を奄有(えんゆう)す。遐方(かほう)異域威を畏れ徳を懐(した)う者悉(ことごと)くは数うべからず。朕即位の初め、高麗の無辜(むこ)の民久しく鋒鏑(ほうてき)に瘁(つか)れるを以て、即ち兵を罷(や)めしめ、其の彊域(きょういき)に還し、其の旄倪(ぼうげい)を反す。高麗の君臣感戴(かんたい)して来朝す。義は君臣と雖(いえど)も、而(しか)して歓(たのし)みは父子の若し。王の君臣を計るに亦已(すで)に之(これ)を知る。高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇(みつじ)し、開国以来、亦時に中国に通ず。朕の躬(み)に至りて、一乗の使の以て和好を通ずる無し。尚お恐るらくは、王の国の之を知ること未だ審(つまびら)かならざるを。故(ゆえ)に特に使を遣して、書を持せしめ朕が志を布告せしむ。冀(こひねがわ)くは自今以往(じこんいおう)、問を通じ好を結び、以て相(あ)い親睦せん。且つは聖人は四海を以て家と為す、相通好せざるは、豈(あ)に一家の理(ことわり)ならん哉(や)。兵を用いるに至りては、夫(そ)れ孰(た)れか好む所ならん。王其(そ)れ之を図れ。不宣(ふせん)。至元(しげん)三年八月 日
<訳文>
天のいつくしまれた大蒙古国(イェケ・モンゴル・ウルス)の皇帝(カアン)は、信書を日本国王に奉る。私がおもうに、昔から小国の君は、領土がたがいに接していても、それでもまことを語りあい、ならい親しみあった。まして、チンギス・カン以来のわれらが歴代は、天の明らかな命令をうけて天下をことごとく有し、はるか遠方諸国も、威をおそれ徳になつくものは数えきれない。私は即位のはじめ、高麗のつみなき民が長いいくさにつかれているので、すぐに兵をやめてその領土を返還し、その老若をかえすようにさせた。高麗の君臣は歓戴して私のところへやってきた。名義上では君主と臣下だが、歓みは親子のようである。おしはかるに、王の君臣も、もはやこのことを知っているではあろう。高麗は私の東の藩屏である。日本は高麗とまぢかく、国をつくって以降、しばしば中国に通交した。ところが、私の治世になってからは、一度も友好を通じる使いがない。それでも(私は)王の国が十分にそのことを知らないのではと恐れている。そこで、特に使いをつかわして信書をもたせ、私の気持ちを布告させる。どうか、今より後は、便りを通じ好みを結んで、たがいに親しみあおう。そもそも、天子は四海をもって家とする。たがいに好みを通じあわないのは、一家としてのことわりだろうか。兵を用いるなどは誰が好むことだろう。王よ、よくお考えあれ。意を尽くしません。至元三年八月 日
・・・なんというか、随分と穏やかな「国書」だなあと思うんですけど、これって「脅迫文」なんですかね?
そうは読めないと思うんだけどなあ。
杉山氏によると、この国書とほぼ同時期にクビライが交戦中の南宋に送りつけた「戦書」というのがありまして、こちらは確かにまごうことなき「脅迫文」になっています。
杉山氏の引用をそのまま使うと・・・
「苟(いやしく)も大に事(つか)うの礼を尽くさば、自(おのず)から歳寒の盟有らん。若(も)し乃(すなわ)ち大位の継ぎ難きを憂い、詭道の多方なるを慮(おもんぱか)り、坐して図(と)を失せ令(し)め、自ら甘んじて絶棄すれば、則ち請(こ)う城池を修浚(しゅうしゅん)し、戈甲(かこう)を増益して、以て秣馬(まつば)・利兵の会して大挙に当つるを待て」
・・・要約すると、「俺たちが怖いんならとっとと降伏しやがれ。もし敢えて逆らうっていうんなら、きちんと軍備を整えて待っとけやこら」ってな感じです。
直接国境を接し、数十年に渡って交戦状態が続いている南宋と、海を隔てていて初めて国書を送ることになった鎌倉幕府とでは「国書」の文面が全く違うんですね。
もしこれを、時の鎌倉幕府の為政者たちが「脅迫文」だと思い込んだのだとしたら、時宗たちはとてつもない「勘違い集団」だったということにしかならないんじゃないかと思います。
返書を与えないとか、御家人たちの結束を促すためにモンゴルの使者を斬殺するとかって、「自分たちは交渉するという発想がない危ない人たちです」と他国に喧伝してるようなもんですからね。
そりゃあクビライは侵攻してくるでしょうよ(ちなみに、かつてクビライの祖父・チンギスが西方のホラズム・シャー朝に侵攻した理由は、派遣した使節団を殺害されたからです。使者を殺すという行為は、当時としては「かかってこい」と言い返したのに等しいものだったということです。無論、遥か西方の事例を時宗が知っていたはずもありませんが、常識的に考えて、殺害だけはしてはいけないということは判るのではないかと思います。相手に格好の口実を与えますからね。古来、奈良・平安朝でも唐や新羅、渤海からの使節を殺害したことなどありませんから、時宗の行為の異常性は際立っていると思います。そして、この事実は私の心中を複雑にさせます。当時の時宗の補佐役は、時宗の正妻の兄であったこれまた有名な御家人・安達泰盛です。鎌倉幕府史上最も優れた護民・恤民思想を持っていたはずの泰盛は、時宗の「暴走」を止められなかったのでしょうか。それとも煽る側だったのでしょうか。「当時の鎌倉幕府は主従揃って外交センスが無かった」という結論に至るのは、少々残念なことです)。
「蒙古襲来」とは、鎌倉幕府のオーバーリアクションによって発生した「椿事」だった、と見ておくのが、最も無難な線なのではないか、と思います(「蒙古襲来」を「国難」と評価したい向きには納得いかないかもしれませんけど、きっかけを作ったのは返書しなかった時宗だったと言えます。単なる自業自得なんじゃないかなあ。あ、そういえば本番組で一番笑ったのは、視聴者に「時宗は、『モンゴルの恐怖』を亡命してきた南宋人から吹き込まれていた」と誘導するかのような展開があったところです。いやそれって・・・鎌倉幕府に情報分析力が皆無だったってだけの話にしかならんでしょうが。「日宋貿易」の関係から、当時の日本列島と南宋の結びつきの強さを強調する人って多いんですが、近年の東洋史の研究によると、当時の日本列島は宋朝だけでなく、当時華北を支配していた遼や金といった「北の帝国」とも交渉があったことが判ってきています。どうしても「日宋貿易」を強調したいのであれば、「日遼・日金交渉」についても言及しないといけないでしょう。例えば「平将門の乱」ですが、遼の太祖・耶律阿保機の建国に将門が影響を受けて起こしたものだった可能性があることが、近年指摘されるようになってきています。また、金と日本列島との間で僧侶の往来があったことも確認されています。当時の金は南宋以上の仏教国でしたから、そうした興隆があったのは当然のことだったでしょう。更には、交戦中であったはずのモンゴルの船舶が博多で貿易を行なっていたことも判ってきています。鎌倉末期以降日本で流通するようになった宋銭ですが、これはモンゴル統治下の中国大陸が「銅本位制」から「銀本位制」に移行したのを受けて、国内でだぶついていた宋銭を日本に輸出していたというだけのことです。つまり、「日宋貿易」以上に「日元貿易」の方が盛んだったらしいんですね。だとすると、「蒙古襲来」という「政府間対立」はあっても、「民間交流」は極めて盛んだった、ということになります。南北朝・室町期の「倭寇」の誕生も、そうした延長線上の出来事です。つまり、民間レベルから上手く情報を吸い上げれば、当時のクビライの意図は日本侵略では無くて、国家レベルでの交流・服属を企図していたということは容易に判明したはずなんです。ちなみにここでいう「服属」というのは、さほど過激な意味ではなかったと思います。モンゴル帝国の特徴は、早期に服属を願い出てきた在地勢力にはその領域を安堵し、そのまま統治を一任するというものだったからです。クビライの意図は、とにかく交易を活発化させるということでしたから、武力征服というのは想定外の展開だったことでしょう。もっとも、当時の日本が今でいう「グローバリゼーション」に対応できたかは何とも言えませんけど。ただ、「閉鎖的な島国」という現在までの歴史とは明らかに異なった展開が待っていたとは思います。・・・そういう観点をすべて無視して、「『蒙古襲来』は日本史上最大級の危機だった」という「ストーリー」をでっちあげるのは、「何かのためにする」行為であるようにしか思えません。いったい「何のため」の「ストーリー」なんでしょうね)。
おそらく、日本中世史家の多くはこの種の比較検討を全然していません(以前紹介したことのある東島誠さんとか、真面目に検討してる人もいるんですけどね。そういう人の学説が世間に浸透しないのは本当に残念なことです)。
日本史だけ勉強してきた人の多くは、世界史上の事例との比較検討が出来ていません(日本史の話しかしようとしないから、そういうことになるんだろうなあ)。
これは、日本史「だけ」愛好する人たちに対する批判というよりも、自分自身に向けての自戒の念です。
そういう視点を残してさえおけば、クレージーな歴史観を持つことは少なくなるでしょうしね。
そういう観点だけは忘れずに、なるたけフェアな歴史理解をしていきたいなと思います。
「北条時宗を再評価しよう!」というスタンスだったんでしょうけど、まあ・・・ぶっちゃけ酷い番組でした(特に某精神科医と某評論家のコメントが・・・歴史プロパーじゃない人の見解がしばしば頓珍漢になるという良い証左にはなりましたけど)。
一番「フェアじゃないなあ」と思ったのは、モンゴル帝国史の専門家が出演してなかったところ(広い意味での「東洋史家」は出てましたけど、ほとんど何も言わせてもらえなかったに等しい。典型的な「欠席裁判」でしたね。なんで出演させなかったかと推測すると、まともなモンゴル帝国史家を出演させたら、番組の構成が完全に破綻するからでしょう。歴史番組で一番やってはいけないのは、先に結論ありき――特にこの番組は、タイトルに『英雄たちの選択』と銘打っている関係で、どうしても「主役」に選んだ人物の選択をジャッジしなくてはなりません。選んだネタをしくじるとすごく残念な展開になってしまうんですよね――で構成を決めて、それに当てはまらないコメンテーターは呼ばないってことなんだと思います。あ、それは「大河」も一緒か・・・。NHKは良質の教養番組を放送することもありますけど、どう見ても捏造としか言えない番組も目につきます。ちなみに『プロファイラー』という番組もなかなか酷いです。司会進行が今年の大河と被ってますけどそのこととは関係ありません。最近見ていて、「実は一番まともな番組なんじゃないか」と思ったのは、時折ややマニアックなネタに傾きがちとはいえ「タイムスクープハンター」でしょうか。下手な「三文大河」よりよっぽど楽しめます)。
その結果、全然モンゴル側に立った状況説明がなされず、「鎌倉幕府の決断は仕方が無かったんだ。『カミカゼ』の影に隠れがちな北条時宗という指導者をもっと評価してあげよう」という論調に流れていってしまうっていう・・・(ちなみに、「蒙古襲来」とは、日本列島に性質の悪い「対外硬」が発生する起源になった事件のひとつだったと、私は思っています。「外圧」が生ずる都度、「蒙古襲来」が思い起こされ、安易な精神論に基づく排外運動が起こるっていうね)。
番組を観ていて、一番驚いたのが「国書問題」ですかね。
大元ウルス(=元朝。最近はこの呼び方が主流になりつつあります。「ウルス」はモンゴル語で「国」の意味です。要するに単純な「中華王朝」ではありませんよ、ということですね)のクビライ・カアンから送られた国書が「脅迫文」だというんですよ。
そんな「解釈」をしてしまったら、多くのモンゴル史家から「日本中世史研究者の史料読解・解釈力(またはNHKの見解)はまだこのレベルなのか」と思われてしまうんじゃないでしょうか(一応、フォローを入れてる歴史家ってのも出演してましたけど・・・あんまり意味はありませんでした。研究者に意見は求めず、出演だけさせて番組の権威付けをするって手法は、本当にやめた方がいいと思います)。
原文を読むと、とても「脅迫文」には読めないんだけどなあ。
というわけで、以下、モンゴル帝国史研究の第一人者・杉山正明氏の『逆説のユーラシア史 モンゴルからのまなざし』(日本経済新聞社 2002)所収「鎌倉日本に外交はなかった」の「史料解釈」を引用したいと思います(本当は私が訓読すべきなんでしょうけど、折角第一人者が史料解釈してくれてますので。受け売りですみません)。
<原文>(改行・抬頭は東大寺所蔵の「国書」写しに準ずる)
上天眷命
大蒙古国皇帝奉書
日本国王朕惟自古小国之君
境土相接尚努講信修睦況我
祖宗受天明命奄有区夏遐方異
域畏威懐徳者不可悉数朕即
位之初以高麗無辜之民久瘁
鋒鏑即令罷兵還其彊城反其
旄倪高麗君臣感戴来朝義雖
君臣而歓若父子計
王之君臣亦已知之高麗朕之
東藩也日本密邇高麗開国以
来亦時通中国至於朕躬而無
一乗之使以通和好尚恐
王国知之未審故特遣使持書
布告朕志冀自今以往通問結
好以相親睦且聖人以四海為
家不相通好豈一家之理哉至
用兵夫孰所好
王其図之不宣
至元三年八月 日
<読点付随>
上天眷命大蒙古国皇帝奉書日本国王。朕惟自古小国之君、境土相接尚努講信修睦。況我祖宗受天明命奄有区夏。遐方異域畏威懐徳者不可悉数。朕即位之初、以高麗無辜之民久瘁鋒鏑、即令罷兵、還其彊城、反其旄倪。高麗君臣感戴来朝。義雖君臣、而歓若父子。計王之君臣亦已知之。高麗朕之東藩也。日本密邇高麗、開国以来、亦時通中国。至於朕躬、而無一乗之使以通和好。尚恐、王国知之未審。故特遣使、持書布告朕志。冀自今以往、通問結好、以相親睦。且聖人以四海為家、不相通好、豈一家之理哉。至用兵、夫孰所好。王其図之。不宣。至元三年八月 日
<書き下し文>
上天眷命(じょうてんけんめい)大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉(たてまつ)る。朕(ちん)惟(おも)うに古(いにしえ)より小国の君は、境土を相接すれば尚(な)お講信修睦(こうしんしゅうぼく)に努めん。況(いわん)や我が祖宗は天の明命を受けて区夏を奄有(えんゆう)す。遐方(かほう)異域威を畏れ徳を懐(した)う者悉(ことごと)くは数うべからず。朕即位の初め、高麗の無辜(むこ)の民久しく鋒鏑(ほうてき)に瘁(つか)れるを以て、即ち兵を罷(や)めしめ、其の彊域(きょういき)に還し、其の旄倪(ぼうげい)を反す。高麗の君臣感戴(かんたい)して来朝す。義は君臣と雖(いえど)も、而(しか)して歓(たのし)みは父子の若し。王の君臣を計るに亦已(すで)に之(これ)を知る。高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇(みつじ)し、開国以来、亦時に中国に通ず。朕の躬(み)に至りて、一乗の使の以て和好を通ずる無し。尚お恐るらくは、王の国の之を知ること未だ審(つまびら)かならざるを。故(ゆえ)に特に使を遣して、書を持せしめ朕が志を布告せしむ。冀(こひねがわ)くは自今以往(じこんいおう)、問を通じ好を結び、以て相(あ)い親睦せん。且つは聖人は四海を以て家と為す、相通好せざるは、豈(あ)に一家の理(ことわり)ならん哉(や)。兵を用いるに至りては、夫(そ)れ孰(た)れか好む所ならん。王其(そ)れ之を図れ。不宣(ふせん)。至元(しげん)三年八月 日
<訳文>
天のいつくしまれた大蒙古国(イェケ・モンゴル・ウルス)の皇帝(カアン)は、信書を日本国王に奉る。私がおもうに、昔から小国の君は、領土がたがいに接していても、それでもまことを語りあい、ならい親しみあった。まして、チンギス・カン以来のわれらが歴代は、天の明らかな命令をうけて天下をことごとく有し、はるか遠方諸国も、威をおそれ徳になつくものは数えきれない。私は即位のはじめ、高麗のつみなき民が長いいくさにつかれているので、すぐに兵をやめてその領土を返還し、その老若をかえすようにさせた。高麗の君臣は歓戴して私のところへやってきた。名義上では君主と臣下だが、歓みは親子のようである。おしはかるに、王の君臣も、もはやこのことを知っているではあろう。高麗は私の東の藩屏である。日本は高麗とまぢかく、国をつくって以降、しばしば中国に通交した。ところが、私の治世になってからは、一度も友好を通じる使いがない。それでも(私は)王の国が十分にそのことを知らないのではと恐れている。そこで、特に使いをつかわして信書をもたせ、私の気持ちを布告させる。どうか、今より後は、便りを通じ好みを結んで、たがいに親しみあおう。そもそも、天子は四海をもって家とする。たがいに好みを通じあわないのは、一家としてのことわりだろうか。兵を用いるなどは誰が好むことだろう。王よ、よくお考えあれ。意を尽くしません。至元三年八月 日
・・・なんというか、随分と穏やかな「国書」だなあと思うんですけど、これって「脅迫文」なんですかね?
そうは読めないと思うんだけどなあ。
杉山氏によると、この国書とほぼ同時期にクビライが交戦中の南宋に送りつけた「戦書」というのがありまして、こちらは確かにまごうことなき「脅迫文」になっています。
杉山氏の引用をそのまま使うと・・・
「苟(いやしく)も大に事(つか)うの礼を尽くさば、自(おのず)から歳寒の盟有らん。若(も)し乃(すなわ)ち大位の継ぎ難きを憂い、詭道の多方なるを慮(おもんぱか)り、坐して図(と)を失せ令(し)め、自ら甘んじて絶棄すれば、則ち請(こ)う城池を修浚(しゅうしゅん)し、戈甲(かこう)を増益して、以て秣馬(まつば)・利兵の会して大挙に当つるを待て」
・・・要約すると、「俺たちが怖いんならとっとと降伏しやがれ。もし敢えて逆らうっていうんなら、きちんと軍備を整えて待っとけやこら」ってな感じです。
直接国境を接し、数十年に渡って交戦状態が続いている南宋と、海を隔てていて初めて国書を送ることになった鎌倉幕府とでは「国書」の文面が全く違うんですね。
もしこれを、時の鎌倉幕府の為政者たちが「脅迫文」だと思い込んだのだとしたら、時宗たちはとてつもない「勘違い集団」だったということにしかならないんじゃないかと思います。
返書を与えないとか、御家人たちの結束を促すためにモンゴルの使者を斬殺するとかって、「自分たちは交渉するという発想がない危ない人たちです」と他国に喧伝してるようなもんですからね。
そりゃあクビライは侵攻してくるでしょうよ(ちなみに、かつてクビライの祖父・チンギスが西方のホラズム・シャー朝に侵攻した理由は、派遣した使節団を殺害されたからです。使者を殺すという行為は、当時としては「かかってこい」と言い返したのに等しいものだったということです。無論、遥か西方の事例を時宗が知っていたはずもありませんが、常識的に考えて、殺害だけはしてはいけないということは判るのではないかと思います。相手に格好の口実を与えますからね。古来、奈良・平安朝でも唐や新羅、渤海からの使節を殺害したことなどありませんから、時宗の行為の異常性は際立っていると思います。そして、この事実は私の心中を複雑にさせます。当時の時宗の補佐役は、時宗の正妻の兄であったこれまた有名な御家人・安達泰盛です。鎌倉幕府史上最も優れた護民・恤民思想を持っていたはずの泰盛は、時宗の「暴走」を止められなかったのでしょうか。それとも煽る側だったのでしょうか。「当時の鎌倉幕府は主従揃って外交センスが無かった」という結論に至るのは、少々残念なことです)。
「蒙古襲来」とは、鎌倉幕府のオーバーリアクションによって発生した「椿事」だった、と見ておくのが、最も無難な線なのではないか、と思います(「蒙古襲来」を「国難」と評価したい向きには納得いかないかもしれませんけど、きっかけを作ったのは返書しなかった時宗だったと言えます。単なる自業自得なんじゃないかなあ。あ、そういえば本番組で一番笑ったのは、視聴者に「時宗は、『モンゴルの恐怖』を亡命してきた南宋人から吹き込まれていた」と誘導するかのような展開があったところです。いやそれって・・・鎌倉幕府に情報分析力が皆無だったってだけの話にしかならんでしょうが。「日宋貿易」の関係から、当時の日本列島と南宋の結びつきの強さを強調する人って多いんですが、近年の東洋史の研究によると、当時の日本列島は宋朝だけでなく、当時華北を支配していた遼や金といった「北の帝国」とも交渉があったことが判ってきています。どうしても「日宋貿易」を強調したいのであれば、「日遼・日金交渉」についても言及しないといけないでしょう。例えば「平将門の乱」ですが、遼の太祖・耶律阿保機の建国に将門が影響を受けて起こしたものだった可能性があることが、近年指摘されるようになってきています。また、金と日本列島との間で僧侶の往来があったことも確認されています。当時の金は南宋以上の仏教国でしたから、そうした興隆があったのは当然のことだったでしょう。更には、交戦中であったはずのモンゴルの船舶が博多で貿易を行なっていたことも判ってきています。鎌倉末期以降日本で流通するようになった宋銭ですが、これはモンゴル統治下の中国大陸が「銅本位制」から「銀本位制」に移行したのを受けて、国内でだぶついていた宋銭を日本に輸出していたというだけのことです。つまり、「日宋貿易」以上に「日元貿易」の方が盛んだったらしいんですね。だとすると、「蒙古襲来」という「政府間対立」はあっても、「民間交流」は極めて盛んだった、ということになります。南北朝・室町期の「倭寇」の誕生も、そうした延長線上の出来事です。つまり、民間レベルから上手く情報を吸い上げれば、当時のクビライの意図は日本侵略では無くて、国家レベルでの交流・服属を企図していたということは容易に判明したはずなんです。ちなみにここでいう「服属」というのは、さほど過激な意味ではなかったと思います。モンゴル帝国の特徴は、早期に服属を願い出てきた在地勢力にはその領域を安堵し、そのまま統治を一任するというものだったからです。クビライの意図は、とにかく交易を活発化させるということでしたから、武力征服というのは想定外の展開だったことでしょう。もっとも、当時の日本が今でいう「グローバリゼーション」に対応できたかは何とも言えませんけど。ただ、「閉鎖的な島国」という現在までの歴史とは明らかに異なった展開が待っていたとは思います。・・・そういう観点をすべて無視して、「『蒙古襲来』は日本史上最大級の危機だった」という「ストーリー」をでっちあげるのは、「何かのためにする」行為であるようにしか思えません。いったい「何のため」の「ストーリー」なんでしょうね)。
おそらく、日本中世史家の多くはこの種の比較検討を全然していません(以前紹介したことのある東島誠さんとか、真面目に検討してる人もいるんですけどね。そういう人の学説が世間に浸透しないのは本当に残念なことです)。
日本史だけ勉強してきた人の多くは、世界史上の事例との比較検討が出来ていません(日本史の話しかしようとしないから、そういうことになるんだろうなあ)。
これは、日本史「だけ」愛好する人たちに対する批判というよりも、自分自身に向けての自戒の念です。
そういう視点を残してさえおけば、クレージーな歴史観を持つことは少なくなるでしょうしね。
そういう観点だけは忘れずに、なるたけフェアな歴史理解をしていきたいなと思います。
>モンゴル統治下の中国大陸が「銅本位制」から「銀本位制」に移行したのを受けて、国内でだぶついていた宋銭を日本に輸出していたというだけのことです。
この時代、日宋貿易の時代から大陸の銅銭を日本側が得るために銅銭とバーターしていた対価が非常に面白いわけですね。何かというと、硫黄なんですよ。主に薩摩硫黄島や九重連山から採掘された硫黄が日本の最大の輸出品になっている。で、その硫黄の用途というのが軍用黒色火薬の原料なんですね。
黒色火薬というのは木炭粉末に硫黄と硝石の粉末を混和して製造しますが、木炭は植物資源の得られるところならどこでも、硝石は畜舎での家畜飼育をやっている所なら簡単に得られます。で、地理的に極端に得られる環境が限られてくるのが硫黄。中国に基盤を置いた王朝にとって最大の供給地の一つが日本で、同時に硫黄鳥島を擁する琉球王国とこれまた全島が火山だらけのジャワなんかも重要な供給地でした。で、日本は宋、大元ウルス、明と延々と軍用黒色火薬製造に用いる硫黄を供給し続けているわけです。
面白いのが琉球で、宋に火薬原料だけじゃなくて、契丹(遼)にモンゴル高原産の軍馬を止められていた宋に対して、琉球王国が硫黄と一緒に軍馬を大量輸出してる。こうしてみると、日本国や琉球王国の外貨獲得は常に中国大陸における戦場と深くリンクしていた事になるんですよね。
この情勢に大きな変動が生じるのが17世紀。清代になると、なんと炭鉱から産出される黄鉄鉱から硫黄を製造する技術が開発されて、中国大陸で硫黄が自給されるようになっちゃうんですね。で、それとほぼ同時に日本の国内経済の決済手段を支える銅銭がやはり国産化されてくる。
最近読んだ論文(岩波講座「世界歴史」所収の一稿)で、大元ウルスが銀本位制で経済を回し始めた原資について論じている箇所を見つけて驚いたんですが、あれ、クビライの接収した南宋朝廷に死蔵されていた品なんですよ。
南宋は領域内の経済活性化のために大量の銅銭を鋳造して市場に流しているわけですが、その原料の銅の精錬時に混入してくる銀を分離(中世末に日本に入ってきた「南蛮吹」というやつです)して得られた銀を大量に死蔵していたらしいんですね。で、モンゴル帝国全体では西方の西アジア~中央アジアでは金銀による大口潔斎が発達していて小口決済は物々交換レベルで未発達、東アジアでは銅銭による小口決済経済が発達していて大口決済手段が未発達だったのを、両方の長所を取り入れてユーラシア統一的に銀による大口決済と東アジア的な小口決済の両立を両立させていったのが、クビライ以降のモンゴル帝国の経済政策、という事だったようなんですね。
先に書いた火薬の問題を原料の三要素それぞれで追跡してみたり、銅の精錬で必然的に伴ってきてしまう金銀の問題を考慮に入れたり、こういう理化学的な視点で歴史を見てみると、いろいろと面白い現象が見えてくるように思えます。