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ワンダーラスト運営日記

ほとぼりさめるまで1年くらい西新宿から遠ざからなきゃならない。

 

こころ 1 

まだ10代の頃だろうか、森村誠一や綾辻行人など推理小説を数多く読んでいた時期がある。幾重にも張られた伏線が最後に帰結する構成の快感がたまらなく好きだった。特に森村誠一が江戸川乱歩賞を受賞した「高層の死角」は、これでもかと提示された証拠の数々が次々に否定されていき、その過程が非常にスリリングであった。森村誠一はホテルマン時代にビジネス書を著してはいるが、今に連なるミステリー作家としてのデビューが江戸川乱歩賞であった。森村誠一自身は自分の思いつくアイデアを惜しむことなく、このミステリー処女作につぎ込んだと述べている。乱歩賞に投稿したものの、後から加筆して速達で送り届けたほどの渾身の作であり、規定に反しページ番号が原稿に打ってなかったものを、審査員の二木悦子がわざわざ1枚づつページを振ったというから、応募作品の中でも異彩を放っていたのだろう。

夏目漱石の「こころ」という名作がある。誰しもが中学生の頃に読んだことがある国民的小説である。半分以上が先生の独白で占められ、明治期の日本の若者の生態が活写されている。あまりに有名なので既に内容はご存知かとは思う。先生と友人Kの二人が下宿の娘に恋をしていた。先生はKを出し抜いて娘と結婚する。失恋したKは自殺する。それが心の重しとなり、後年先生も自殺する。そんな話である。この平成の御代に、たかが失恋くらいで自殺する若者はいないと思うが、不思議と時代の違和を覚えず読める。

「こころ」は「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の全3章から成る。このうち「先生と遺書」が全体の半分を占め、最初の2章は最後の「先生と遺書」に繋がる長い伏線となっている。「両親と私」の最後で、「私」は先生から重い封書を郵便で受け取る。封書を開けると、ちらと文字が目に入った。

「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」

これはただごとではないと感じた「私」は、すぐに電車に飛び乗り先生のもとへ向かう。その車中で封書を開け、この長い手紙を読むことになる。最後の章「先生と遺書」は、電車の中で「私」が読むこの長い手紙の内容がそのまま一章になっている。この手紙が先生の遺書なのであった。先述のように、この最後の章が全体の半分を占めており、この章だけバランスが悪いほど相対的に長い。そして読み進めていくと、最後の最後に再びこの言葉が出てくる。「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」。「私」が手紙を受け取った時に、ちらと目に入ったのが、この最後の言葉だったという仕掛けである。

この瞬間、読者はハッと気付かされる。そうだ、これは物語ではなく、全体が先生の手紙、遺書だったのだと。もちろん最初からわかっていたのだが、あまりに長いので、それが手紙だということを忘れ物語に引き込まれていくのだ。そして最後のこの言葉でふと、その最初の認識に引き戻される。読み進めていき、すっかり物語の世界にはまっている最後に、この言葉と出会った時の感覚は他の小説で感じることが出来ないものであり、「こころ」が名作と呼ばれている所以ではないだろうか。


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萌えポイント 2 

ボウイのアルバム『STATION TO STATION』は名盤中の名盤である。LPで言うと、片面わずか3曲づつ、合計6曲しか収録されておらず、1曲あたり長い曲が並ぶ。しかし退屈とは無縁の素晴らしい内容で、名曲「Word On A Wing」を始め、どれが欠けてもアルバムは成立しない絶妙の曲順で収録されている。1991年に再発された際にはボーナストラックとして「Word On A Wing」と「Stay」のライヴ音源が追加収録されたが、はっきり言って完成度の高いアルバムのバランスを崩すもので、蛇足であり不要のトラックであった。『STATION TO STATION』は、これ以外手を加えてはいけない完璧なアルバムなのである。

そのボーナストラックのライヴ2曲は1976年3月26日ナッソウコロシアム公演におけるテイクである。ナッソウコロシアムはストレンジ・ファッシネイションやサンタモニカと並んで、古くからボウイの定番音源として親しまれてきた。私もこのタイトルで死ぬほど聴いたものだ。この音源を聴くと90年代初頭の想い出が浮かぶ。

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そして近年『STATION TO STATION』のデラックス版が発売になり、なんとこのナッソウコロシアム公演が完全収録されたディスクが付属することになった。うわぁお。お馴染みのナッソウなのが残念だったが、高音質で完全収録という、ファンにはこの上なプレゼントとなった。私はデラックス版を入手すると、再びこのライヴをCDの繰り返し聴いていた。そしてこれを書いている今も聴いている。

このナッソウコロシアムにも「萌えポイント」がある。このツアーではコンサートの中盤、ちょうど折り返し地点で「チェンジズ」のイントロに合わせてメンバー紹介が行なわれる。メンバー紹介の途中で美しい転がすようなピアノが奏でられ、ステージに立っているメンバーを紹介していく。そして最後に自分を紹介する「マイ・ネーム・イズ・デイヴィッド・ボウイ」。今回の萌えポイントはここである。まずは音源を聴いていただこう。



メンバー紹介の途中でピアノが鳴り出しているのがわかるだろう。「マイ・ネーム・イズ・デイヴィッド・ボウイ」・・・次である「アンディス・イズ・コー、チェンジズ・・・ハイ!」ここですよ、ここ。「チェンジズ・・・ハイ!」の部分、ここが萌えポイントである。1976年のライヴ音源をかなり聴いたが、この部分でハイ!と言っているのはナッソウだけである。流れるようなイントロに載せてメンバー紹介、そして最後のボウイが自己紹介を終える、そしてハイ!という掛け声で「チェンジズ」が始まるという絶妙のタイミング。この部分を聴くたびについ自分でも口に出して「ハイ!」と言ってしまう。

チェンジズ・・・ハイ! ダラララダラララ~ 萌えるわぁ。

Category: 萌えポイント

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萌えポイント 1 

インフォを読んでいただければお気付きかと思うが、私はボウイの曲の中で「Word On A Wing」が最も好きである。この曲だけリピートして終日聴いていたいくらい、好きで好きでたまらない。インフォを書くときに、何とかこの曲が私の心を揺さぶった感触を言葉で伝えることが出来ないかと腐心している。もちろんインフォは売らんがためのものではあるが、私はそれよりも、こんな素晴らしい音源をいろんな人に聴いてもらいたい、自信を持ってお勧めしたい、この感動を共有してもらいたい、そこに重きをおいてインフォを書いている。

それにしても、「Word On A Wing」の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。そしてこの曲はライヴバージョンよりもスタジオバージョンの方が素晴らしい。1976年ツアーやStorytellersでのライヴも素晴らしいが、やはりスタジオバージョンの完成度にはかなわない。それはスタジオバージョンにある「萌えポイント」がライヴバージョンにない、ただそれだけの理由である。少なくとも私にとって。まずはそのスタジオバージョンを聴いていただこう。



ボウイの楽曲にはこのような特徴を持つものが多いが、決まったメロディを歌詞でなぞるのではなく、基本的なリフがあり、それをバックにボウイが自由に感情の赴くままに歌うというスタイルの曲に名曲が多い。「Heroes」しかり、そしてその特徴が最大限に効果を発しているのが「Word On A Wing」なのである。例えが正確かどうかわからないが、まるで広大な太平洋を自由に泳ぐマグロのような悠遊とした雰囲気を持っているのである。そして前述の「萌えポイント」、ここが重要である。それは上記の動画の4分ちょうどの箇所からである。

「ウ~~~ワァ~~~」とコーラスが盛り上がり頂点に達した時、その重厚なコーラスがフッと抜けて、そこからボウイのヴォーカルだけが飛び出る。「ロ~ランニ~ランドォボユゥ、マィワ~ドノウィ~ン♪」という、大空のどこまでも伸びていくようなボウイの歌唱、そしてここでピアノのミックスが大きくなる、「タン、タタン♪」、そして次のフレーズ、「アナア~イトライン~ホ~トゥフィガモン、ヨ~スキ~モシン♪」、この部分でまたピアノの合いの手が入る「タン、タン、タンタタタン♪」。この「タン、タン、タンタタタン♪」が最大の萌えポイントなのだ。上記の動画では4分20秒の部分である。冒頭で「Word On A Wing」だけを終日聴いていても飽きないと書いたが、この4分20秒の前後1分間だけでもオッケーである。

ボウイのインフォを書くときは感情が入る。商売抜きに、この素晴らしさをいかに伝えようか、この感動をいかに共有してもらえるか、そんなことばかりを考えて書いている。ワンダーラストで扱っているHeldenレーベルのボウイのタイトルは、どれも自信を持ってお勧めできるタイトルばかりである。宣伝じゃないぞ。マジでそう思っている。だからインフォにも熱が入る。「Word On A Wing」はライヴバージョンも素晴らしい。ただ、この萌えポイントがライヴで再現されていない、それが残念で仕方がない。だからこの曲に限って言えば、スタジオバージョン最強である。

「ヨ~スキーモシン♪」の後の「タン、タン、タンタタタン♪」、ここだけでも聴いてもらいたい。



Category: 萌えポイント

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清原の涙 2 

1987年、清原は20歳であった。この年の日本シリーズは球界の盟主をかけた巨人と西武の戦いであった。80年代から90年代にかけて西武は異次元の強さを誇っていた。日本シリーズで西武に勝ったのは1985年のタイガースだけで、他のチームは歯がたたなかった。特に1990年の日本シリーズは西武が負けなしで巨人に4連勝している。セリーグのレベルってこんな低いのかと当時は驚いたものだ。そんな中でも1987年の日本シリーズは森監督が自身の最高傑作と自著で書いているくらい、西武の目指した野球の本領が存分に発揮されたシリーズであった。

1983年の日本シリーズも逆転劇が多く名勝負のひとつとして挙げたいが、この1987年の西武と巨人のシリーズも名プレー、名シーンが多く、歴史に残るものであろう。とにかく西武の野球はレベルが違った。同じ野球でありながら、全く違う高次元でのプレーが行なわれていた。毎年春先には各解説者が順位予想を行なうが、江本猛紀は「どのチームも戦力が均衡していて順位はわからん。確実なのは西武の最下位がないということだけだ」と述べていたくらいである。清原は引退後にパリーグの他のチームの選手から「当時の西武には勝てる気がしなかった」と言われたそうだ。広岡と森は、共に巨人を追われた人たちである。巨人を見返すために西武を徹底的に鍛えた。根本が戦力補強し、広岡と森がV9時代の巨人を凌駕すべきチームを作り上げようとしていた。西武対巨人の日本シリーズは、西武が負けるわけにいかなかったのである。

1987年の日本シリーズでも特に名場面として現在も語られるのは2つある。ひとつが辻の走塁である。それは第6戦、8回に起きた。1塁ランナーが辻という場面で、秋山がセンター前ヒットを放つ。通常ではランナー1塁2塁になる場面である。しかし西武はセンターのクロマティが緩慢な返球をすること、そしてショート川相がランナーに目を向けないことを事前に把握していた。なんと単打で1塁ランナーの辻が一気にホームに生還したのである。この衝撃のプレーは偶然生まれたものではなく、ランナーコーチの伊原の発案で事前の研究の賜物であった。この場面を目の当たりにした巨人の岡崎郁は「野球観が変わった」とその衝撃の度合いを述べている。当時の映像を見るとセカンドの篠塚が呆然として立ちすくんでいる様子が伺える。こんな野球をされたのでは西武にかなわないわけだ。

そして、長いプロ野球の歴史の中で私が最大の名場面と感じているシーンが9回裏の巨人の攻撃で起きた。2アウトまで来て、優勝まであと1アウトである。ピッチャー工藤が投球の間を置いたときにチラと1塁方向を見て笑みを浮かべる。辻が清原の肩を叩いて何か話しかけている。清原は大丈夫、大丈夫というふうにグラブを振っている。なんと清原が1塁の守備についていながら試合中に泣き出したのである。目を真っ赤にはらし、ポロポロと涙をこぼしている風景が全国に中継されたのである。

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この時、清原は「ふと向こうのベンチを見ると王さんが”もうダメだ”というふうに天を仰いでいるのが見えた」と後に語っている。ドラフトの件で苦渋を舐めた20歳の男は、自分が4番のチームがその巨人を破って日本一になろうとしている、ドラフトで桑田を指名した王貞治が諦めたかのような表情をしている、感極まって試合中にもかかわらず落涙したのである。清原にはドラマがある。そのドラマを共有しているファンにとって、この瞬間に胸が熱くならない人はいないだろう。清原が巨人を破って日本一目前で涙を流す。プロ野球史上永遠に語り継がれる名場面であろう。

この時、工藤は「アイツ、何を泣いてるんだよ」と可愛い弟分を微笑ましく思いつつも、今、一塁へ打球なり送球がいくとエラーする可能性があるとして、フライを打たせる投球をする。工藤はさすがプロである。

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清原の涙 1 

プロ野球の歴史は既に70年以上あり、その間、様々なドラマが生まれている。そして個人的には1987年の日本シリーズにおける清原の涙、これが最大の名シーンであると思っている。

時計を1985年のドラフト会議に戻す。プロ志望だった清原は巨人を切望していた。また巨人の王監督もバッター出身だけに清原に大きな魅力を感じていた。いわば相思相愛だったのである。記者の依頼で王監督は清原にサイン色紙を贈る。清原はそれを「ジャイアンツで活躍を期待しているからな」という意味に捉えた。清原はそのサイン色紙をPL学園の教室でクラスメートに見せびらかし、「原の代わりに俺が4番を打ってやるからな」「契約金もろたらおごってやるで」とはしゃいでいた。一方で、チームメイトの桑田は早々に早稲田進学を表明しており、各球団には指名回避するよう申し伝えていた。

ところがいざ当日である。巨人はギリギリまで清原を一位指名にする予定であったが、当日の朝になって急遽、桑田を指名することが決定した。この覆った決定の裏には根本陸夫率いる西武ライオンズとの長きに渡るドラフト「裏」戦争が絡んでいるのだが、その話をすると長くなるので省略する。巨人と相思相愛だと思われていた清原と、プロには行かず大学進学を表明していた桑田。巨人が指名したのは桑田であった。巨人は球団創立50周年の年であり、どうしても優勝したい。バッターは一般に即戦力にはなりがたく、その点ピッチャーは即戦力として使える。チーム事情から投手をとりたかった巨人の事情もよくわかる。しかし巨人が清原に対し思わせぶりな態度をしていたのも事実である。

ここで清原に疑念が生まれる。巨人と桑田は最初からデキていたのではないだろうか。ドラフトで抽選にならないよう大学進学を表明しつつ巨人が一本釣りを目論んでいたのではないだろうか。巨人に行くとはしゃいでいた俺を知りながら桑田はそれを黙っていたのだ。これが今に繋がる清原と桑田の確執の始まりである。各球団、巨人が桑田を指名したことに驚いた。パンチョ伊東も驚いて、指名を読み上げるアナウンスに一瞬の間が出来たくらいである。ただ根本陸夫のみが「巨人ならやるだろうな」という感想を漏らしている。実は彼も似たようなことを考えていたからである。

指名記者会見は、普通は晴れてプロに指名され未来を明るく語る場である。しかし清原と桑田は周囲の配慮により別々に記者会見が設けられた。そして、その場で清原は涙を浮かべた。思わせぶりな態度をとっておきながら結局指名してくれなかった、しかも代わりに指名したのはプロへは行かないと言っていたチームメイトである。桑田、そして巨人に対し、複雑な気持ちがこの時に生まれ、それが生涯清原を苦しめることになろうとは、この時誰が思っただろうか。ドラフト会議の日の夜、清原は母親と焼肉を食べていた。落ち込む清原を母親は叱責した。「あんたが勝手に惚れて、勝手にフラれただけやないの!ホームランをぎょうさん打って見返してやり!」。その後、清原は笑顔で西武の入団会見に出て、マスコミ向けにバットを振るポーズをとった。結果論になるが、清原はルーキー記録のほとんどを塗り替える活躍で、3割30本という期待以上の活躍をした。一方で桑田の1年目は戦力とならなかった。もちろん結果論であるが。

(続く)

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