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ワンダーラスト運営日記

ほとぼりさめるまで1年くらい西新宿から遠ざからなきゃならない。

 

死蔵 

世の中には出回らない音源や映像というものがある。商品として買えるもの、コレクター間のみで出回っているもの、そして上級コレクター間のみで出回っているもの、さらにその上の限られた仲間内だけで出回っているものがある。

私はビートルズの武道館公演7月1日夜の部の音源を持っている。約35分間完全収録である。当時録音した本人からコピーさせてもらったオーディエンス・テープである。録音した人は私の古い知人(あまりに年齢が違うので友人と言うのは憚られる)で、本人から機械に弱いので劣化しないようデジタル化して欲しいと依頼され、その際に、門外不出という約束でコピーをとることを許可してくれたのである。信用にかかわるので、約束どおり今まで誰にも聴かせたことはない。

以前ツェッペリンの929をグラントに見つからないよう録音した人の話を書いたが、あそこまでする人が他の公演を録っていないはずがないだろう。しかしこれは「ある理由」から本人の希望で門外不出となっている。おそらく私から世に出ることなく、このまま私の書庫で死蔵することになるだろう。世の中には、私たちが知らないだけで、もっと多くのテープが存在するに違いない。

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お客様のおかげです。 

先日、テレビを見ていたらフランス人が日本のテレビの取材を受けて驚いていた。「え?日本人はまだCDで音楽を聴いているの?!」。今や音楽を聴く手段としてのCDは斜陽に向かっている。しかし日本市場は特別で、まだCDというメディアは現役バリバリで推移している。

しかし我々の業界でもあまり景気の良い話は聞こえてこない。
旧青月は代金をなかなか支払わないので弁護士を通して回収した。バックトリップは売掛金が累積であまりに多額になったので、弁護士同行で公正証書まで作成した。公正証書とは要するに裁判になると一発勝訴の水戸黄門の印籠のようなものである。さすがに一度で回収は不可能な金額だったので、分割でなんとか回収した。kidの店は毎月支払いが遅れ、二度三度催促してやっと振り込まれる状況だった。御茶ノ水は「田中」が偽名であることがバレていない短い期間に取引があったが、その短い期間ですら未払いの売掛が累積したため、途中から代引きに切り替え、未回収分は毎回代引きの金額に少しづつ上乗せして、なんとか全額回収した。

今は亡き御茶ノ水ストロベリーはお互いの商品で相殺する契約だった。しかしストロベリーの商品は売れないわ、ウチの商品は売れるわで、バランスが極端に崩れ、こちらの売掛金の累積があまりに多額になったので、ウチの商品はストップして、一方的にウチがストロベリーの商品を仕入れることで最終的に調整した。ストロベリーの雇われ店長Yに「ワンダーラストの商品は売れるから困るんですよ」と言われてしまった。私はなんだそりゃと思った。これマジな話である。

これらのお店とは、その後一切の取引を、こちらからお断りさせていただいた。支払いを督促するという余分な仕事は本来の業務ではないし、時間の浪費だからだ。

今や、きちんとプレス盤でリリースしているお店も少なくなった。LHとPB、そしてウチ&DAC連合くらいか。その店がきちんとまわっているかどうかはリリースである程度推測できる。特にLHはすごいなと思う。毎週何タイトルもプレス盤がリリースされている。ウチも幸いかな多くのお客様に支持をいただいて、GRAF ZEPPELINのプレス代金を立て替えるだけの余裕もある(笑)。未リリースの商品が完成品として倉庫に眠っており、ずっと先までリリースが決まっている。例えばボウイの「IN THE NAME OF ZIGGY GUILDFORD」というタイトルが先月リリースされたが、裏ジャケットを見ると下部に小さく2012と書いてある。これは完成してから4年間、倉庫に眠っていた商品である。

これも皆、お客様のおかげである。
ありがとうございます。
良い商品を提供できるよう、これからも頑張ります。

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自己愛神経症 

タイトルの「自己愛神経症」という言葉は、実は初めて聞いた言葉である。人格障害とはまた別なものなのか、現段階での私の知識ではその違いを説明することは出来ないが、心理学専攻カウンセラーという専門の方が挙げているので正式な名称なのであろう。人格障害が治癒不可能な障害であるのに対し、神経「症」というからには、どちらかといえば病気よりの症状なのであろう。心理学というのは、どうも胡散臭い感じがすると昔は思っていたが、精神医学は世の中の不条理の大きな原因となっていると知った今、さらに深く研究が進めばいいなと個人的に感じている分野である。

前回のトピック「自己愛性人格障害」で、自己愛性人格障害の人たちが一体どのような論理展開をするかを紹介した。そして人格障害を患っている人たちは、ほぼ同じ嘘、同じ言い訳、同じ論理を使う類型化されたものであると、私と、ガチの自己愛性人格障害者との実際のやりとりを例に挙げて説明した。まさに教科書通り、お手本通りの論理展開をしていたので、皆さんは驚かれたのではないかと思う。そして、これは偶然のイッチではないということも理解していただけたと思う。

そして、私が前回例に挙げた某ツイッター男が自己愛性人格障害と確信した部分、つまり知らなかったことを「最初から知ってた」と虚勢を張る部分について、私自身の経験と知識から説明したつもりであったが、さらにわかりやすく書いてあるHPを見つけたので、ここで改めて紹介したい。それはタイトルともなった「自己愛神経症」という症状である。少し長いが引用しよう。

『その程度のこと知っていましたよ』は神経症患者の合言葉

神経症者の特徴の一つとして「自己中心性」がある。自分の物差しでしか物事を計れない。「自分の知っていることが他者も知るべき唯一のこと」になるため、いずれ「お前はこんなことも知らないのか」という言い方が口癖のように多くなってきて何でもかんでも褒めないと不満になる性格になる。
神経症的な傾向な人は「万能感(全能感)」に支配されています。これが肥大化すると、どんどん「現実的な検討能力」から離れていきます。仮想的な有能感で、根拠もない妄想を現実だと本気で言い出すのです。
自己愛神経症者は、自分のもつ神様のような万能感(全能感)から、「無知」であることを恐れます。例えば、会話の中で、結論を聞いてからでも『その程度のことは知っていましたよ。』と虚勢を張るという共通点があります。

このブログの著者によれば、「そんなことは知ってた」「最初からわかってた」、これは自己愛神経症者の口癖、合言葉だということだ。ソクラテスの「無知の知」や、論語における「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」という言葉がある通り、知らなかったこと、気付かなかったことは何ら恥ずかしいことではない。私もインフォの間違いをブートレガーよっしーに指摘され、素直に認めて訂正している。自分の無知を認め今後の知識の糧とするのは良識ある人間として当然の事である。

しかし自己愛性人格障害、この場合、自己愛神経症の人たちは、根拠不明な万能感に支配され、自分が知らないという事実を認めることが出来ない。だからこそ、「そんなことは知ってた」「最初からわかってた」「こっちはあなたの批判している相手が誰だかわかった上で(中略)言ってんの」と、わかっていなかったくせに虚勢を張るのである。

このような困った人たちにはどのように接したら良いのか。上記のブログには対処法なども書いてあるので、興味があれば一読されたし。

Category: 虚言を弄して逃げ惑うイッチの醜態

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自己愛性人格障害 

今回のテーマは自己愛性人格障害である。精神分野での医学はまだまだ発展途上にあり、例えば虚言癖などは最も研究が遅れている医学の死角にある。そもそも人格「障害」や虚言「症」などと便宜上つけられているものの、実際はそれが障害なのか病気なのかは境界が曖昧である。ただ確実に言えることは、そういう精神病質を持つ人が少なからずいるという点である。

自己愛性人格障害を認識する要因は様々だが、一言でこれと言えないところがもどかしい。しかし興味深いことに、自己愛性人格障害者たちは、まるで裏で相談しているかのように、まったく同じ言動をするのである。風邪をひいたら咳が出て発熱の症状があるように、自己愛性人格障害たちも皆、まったく同じ言動(症状)をするのである。これは何を意味するかというと、自己愛性人格障害はけして個性や性格などではなく、きちんと類型化される「障害」であるという事実である。では、まず、このブログを見て頂こう。

ドラマな日々 「彼ら」の会話-自己愛性人格障害一考察

このブログの著者は親が自己愛性人格障害であり、その経験から深く考察を展開している。その中に自己愛性人格障害との会話の特徴として以下のような指摘がなされている。私の恣意的な編集はせず、一語一句そのまま抽出した文章が以下である。

「自分は正しい」を中心にすえるから論点がずれる。「彼ら」は会話の中で「主格」「目的格」をずらす。会話の主旨を理解できていない。故意にしろ無意識にしろ国語力がない。矛盾を指摘すると「そんな事言ってない」か「そんな意味じゃない」で「どんな意味か」を聞くと 言わずに「お前に何故わざわざ説明しなくちゃいけない。言わなくても「普通の人間」はわかるはずだ。だからお前は「普通じゃない」。

この文章に改行を加え、ポイントに番号を振ってみる。

【1】「自分は正しい」を中心にすえるから論点がずれる。
【2】「彼ら」は会話の中で「主格」「目的格」をずらす。
【3】会話の主旨を理解できていない。故意にしろ無意識にしろ国語力がない。
【4】矛盾を指摘すると「そんな事言ってない」か「そんな意味じゃない」
【5】「どんな意味か」を聞くと「お前に何故わざわざ説明しなくちゃいけない。
    言わなくても「普通の人間」はわかるはずだ。
【6】だからお前は「普通じゃない」。


自己愛性人格障害者との会話の特徴として上記6つの流れを挙げている。これは利害関係のない第三者が、実際に自己愛性人格障害と接して書いた体験に基づく特徴である。後から私が「都合良いふうに編集している」と言われないよう、一語一句、この著者の記述のままであり、私は改行して番号を振ったのみである。

次に、今からイッチを例にとって説明しよう。先に述べておくが、私は批難するためにイッチを例示するのではない。あまりにもドンピシャで当てはまるので、自己愛性人格障害のわかりやすい例として使わせてもらうだけで、その点は留意しておいて欲しい。話の本筋はイッチの批判や批難ではなく、あくまで自己愛性人格障害という障害についての説明であることを強調しておきたい。

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【1】 「自分は正しい」を中心にすえるから論点がずれる。
→ 「相手は批判する人でも第三者でもどっちでもいいよ」 あえて都合の悪いポイントとなる部分から論点をずらそうとしているのが伺える。詳細はこちらを参照して欲しい。「虚言を弄して逃げ惑うイッチの醜態 5」。最初に論点をずらし、さらに論点をずらしたのを指摘されると、今度はどっちでもいいと、さらに大きくずらそうと企図しているのがわかる。
またイッチは、これとは別に、私の話題にすり替えようとして論破され失敗に終わっている。しかもすり替えた内容が13年前のことと言う執念深さ。もうひとつすり替えた内容というのが、私が言ってないことを妄想で言ったことにして、その妄想に対し批判するという悪質な手口である。詳細はこちらを参照して欲しい。「虚言を弄して逃げ惑うイッチの醜態 2」。自己愛性人格障害者は論点をずらし、都合の悪いことから離れようと画策するという点がこの【1】の主旨である。

【2】 「彼ら」は会話の中で「主格」「目的格」をずらす。
→ 詳細はこちらを参照して欲しい。「虚言を弄して逃げ惑うイッチの醜態 4 」。ものの見事に主格と目的格を差し替えているのがわかる。これは【1】を行なう際の自己愛性人格障害者の常套手段である。「主格」と「目的格」をずらし、まったく別の文脈に話を作り替え、論点をずらすという点がこの【2】の主旨である。

【3】 会話の主旨を理解できていない。故意にしろ無意識にしろ国語力がない。
→ 「作品の内容と関係なくデマや嘘を流している連中を批判している」と書いているのに、イッチは主旨を理解していないので、「作品の内容で黙らせるべき」などとズレたことを言ってきた。だからそうではなく「作品の内容と関係なくデマや嘘を流している連中を批判している」と改めて直接説明したのだが、依然として「良い作品を作れば批判者も認めてくれる」と返答してくる。こちらが同じ説明を繰り返しても、まったく主旨を理解できていないのが伺える。

また、こちらが慇懃無礼を意図して書いた「琴線に触れる」という言葉を真面目に受け取って「使い方が間違っている」と書いてくるのも国語力がないからであろう。ちなみに私がイッチのツイートを「秀逸」と書いたのも、本来の使い方では間違っているが、同じ意図から敢えて使った表現である。自己愛性人格障害者は自分の主張や自分の都合が最優先であり、相手の話を理解しようとする姿勢が決定的に欠如している。それが姿勢の問題なのか国語力や読解力の問題なのか、或いはその両方なのか知らないが、相手の話を理解できない、聞こうとしないという点で共通している。これが【3】の主旨である。

【4】 矛盾を指摘すると「そんな事言ってない」か「そんな意味じゃない」
→ 当初、イッチは「良い作品で批判者を黙らせるべき」と書いてきた。それがズレた意見だと指摘されると「批判者が何と言おうと第三者が買ってくれるという意味だった」と書き換えている。矛盾を指摘されると「そんな意味じゃない」と、まさにこの通りの展開となっている。

さらに私がイッチを自己愛性人格障害と確信したのは次のツイートでの発言である。「こっちはあなたの批判している相手が誰だかわかった上で(中略)言ってんの」。つまりイッチは、私が批判しているのは「作品の内容とは関係なく批判している連中」だと最初から分かっていたと言うのである。じゃあ、分かっていたのであれば、なぜ「良い作品で批判者を黙らせるべき」などと無意味でズレたことをわざわざ言ったのか? このブログの読者は発言の整合性がとれていないので疑問に思うだろう。これは、分かっていなかったくせに、そんなこと最初から分かっていたと虚勢を張っているのである。イギリスの精神科医による有名な実験がある。今のイッチと同じ状況下で、架空の事柄を挙げて「これは知っているか?」と質問すると、もちろん架空の事柄なので知っているはずはないのだが、虚言癖の人たちは皆「そんなことは知っている」と答えるそうである。

【5】 「どんな意味か」を聞くと「お前に何故わざわざ説明しなくちゃいけない。言わなくても「普通の人間」はわかるはずだ。
→ 「一から十まで言わないと分かんない?」と、これまた怖いくらいドンピシャな事をイッチは書いている。これは自分が途中で論理をすり替えたにも拘わらず、それを相手の非に転嫁しているのである。
例えば清原がいつから覚醒剤を使用していたかと野村貴仁に聞いたときに、野村は「マスコミの皆さんが僕のところに来ていることがすべてでしょ」と答えている。つまり一から十まで説明しなくても、自分のところに取材に来ているということは、巨人時代からやっていたことを皆さん疑っているのでしょと野村は言いたいのである。
「一から十まで説明しなくてもわかる」という場合は、それを類推させる要素が必要である。なるほど野村と清原の接点は巨人時代なので、野村が暗示している内容は説明しなくてもわかる。しかしイッチの場合は、まったく類推させる要素がなく、むしろ当初の発言から類推される内容と真逆の主張しているのだから論外である。言うまでもなく、これは自分の非を相手になすりつける詭弁に過ぎない。イッチよりも、シャブをやっていた野村の方がよっぽど筋が通って理解できることを言っているといえる。自己愛性人格障害者は自分の論理破綻を相手の理解力がないからだと責任転嫁する。これが【5】の主旨である。

【6】 だからお前は「普通じゃない」
→ 「読解力低いよなぁ」 これも意図するところは【5】と同じで、自分の論理破綻を棚に上げて相手の読解力に転嫁しているのである。例えばDV夫が妻に暴力を振るう理由が「俺にこんなことさせるオマエが悪い」という論理をかざすように、彼らには自分に非があるという考えはもとよりなく、全て相手が悪いという思考をする。よく異常犯罪者が「自分を認めない社会が悪い」と言う動機を語るが、これも自分の努力や実力のなさを社会に責任転嫁する歪んだ思考の典型であろう。自己愛性人格障害には自分に非があるという思考は皆無であり、すべて相手のせいなのである。これが【6】の主旨である。

*****

このように、まったく接点のない二人が、まるで見てきたかのように【1】から【6】まで寸分違わず合致している。時系列で言うと、このブログの記述が先でイッチの記述が後に書かれているのだが、読者の方々は、まるでこのブログの著者が【1】から【6】までピタリとイッチの論理を予言している事に驚くであろう。そしてまた、イッチもまるでこのブログを事前に見ていたかのように、きれいに【1】から【6】に沿って論理展開しているのがわかる。しかしこれはけして偶然のイッチではない。風邪の症状は咳と発熱、これと同じことで、自己愛性人格障害者は皆このような論理展開をするのである。逆に言えば、咳と発熱があったら風邪だと診断されるように、このような論理展開をするのは、実は典型的な自己愛性人格障害の手口なのである。

今回、イッチを例に出したが、彼もまた私のことを同様に自己愛性人格障害と書いていたので(もちろんその論拠は彼の被害妄想でしかなかったが)、私がここで彼を例に挙げることはお互い様だろう。まさか自分が書いていたことと同じことを相手が書いたからと言って怒るわけにはいくまい。それに、あまりにも自己愛性人格障害がどのような流れで対話するかを紹介するための「生きた実例」として最適で、短いツイッターの文章の中に人格障害を裏付けるエッセンスがぎゅ~~~っと濃縮されているのに驚く。イッチの反応があまりに自己愛性人格障害の教科書通り、お手本通りなので私自身も苦笑している。

上記の例を見てわかる通り、自己愛性人格障害の人たちは、まるで裏で相談しているかのように、まったく同じ嘘、同じ言い訳、同じ手口を使うことが多い。その分、非常にわかりやすいともいえる。実際に世の中にはこのような人間が少なくない。しかも交通事故と同じで、いくらこちらが注意していても相手の方からぶつかってくる場合がほとんどである。もしこういう人物に不幸にも出会ってしまったら、とにかく離れるのが得策である。理屈が通らないのは今までの例でもわかる通り、話せばわかるといった常識は通用しない。そして付き合っている時間に比例して被害は甚大になる。「それ」と気付いたら黙って離れるのが最善の方法である。

Category: 虚言を弄して逃げ惑うイッチの醜態

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こころ 2 

1969年6月24日、高野悦子という二十歳の大学生が自殺した。当時は学生運動華やかりし頃の事で、彼女の死後、生前書いていた日記が両親の手で出版され話題となった。「二十歳の原点」と題されたその日記は多くの人に感銘を与え、私もちょうど二十歳の頃に読んで影響されたものだった。その日記の中に親の金で大学に在学していることに自問自答するくだりがある。

「大学の卒業証書なんて、4年間学費を払ったことに対する領収書程度の意味しかない」

原本が手元にないので正確ではないが、およそ上記のような事が書いてあった。なにせ私も若く、彼女の影響を多大に受けて、この言葉に納得してしまった。さすがに大学を中退しようとは思わなかったが、卒業することに意味を見出せず、ただ自然の流れでそうなるだろうなと考えていた。もちろんそれは私の思い上がりであった。私が学生時代当時、大学進学率は35%程度であり、大学に進学するのはおよそ3人に1人。しかも私自身、親の金で大学に通っていた立場だった。今では自分がいかに恵まれていたか理解できるが、当時はそんなことに考えも及ばなかった。まさに、大学の卒業証書など、学費4年分の領収書、そう思っていた。

そして再び夏目漱石の「こころ」である。第二章「両親と私」の冒頭は、「私」が大学を卒業し、実家に戻る場面が描かれている。両親に卒業証書を見せると、両親は大喜びし、感慨深く卒業証書を眺め、床の間に飾った。

「せっかく丹精した息子が自分の元気な内に卒業してくれたのが嬉しいじゃないか。大きな考えをもっているお前から見たら、たかが大学を卒業したくらいで結構だ、結構だと言われるのはあまり面白くもないだろう。しかし、卒業はお前にとってより、このおれにとって結構なんだ。」

親としてみれば、丹精込めて大切に育てた息子が最高学府を卒業する、これで子育てが完成したことになる。それはそれは感慨深いだろう。卒業証書が親にとってのものである、この部分を読んで、高野悦子とはまた異なった意味で影響を受けた。私も両親にきちんと卒業証書を渡せたことが、せめてもの親孝行かなと思っている。

さて、私が大学を卒業してからしばらく経って実家へ帰省したときのこと。なんと私の大学の卒業証書が立派な額に入れて自宅に飾ってあったのを見つけた。まさに、たかが大学卒業したくらいで、こんな大袈裟なことをされては恥ずかしいと思った。聞けば、母がわざわざ額縁をオーダーメイドで作ってもらったという。この時、夏目漱石の「こころ」の上記の部分がすぐに頭に浮かんだのである。なるほど時代は変われど親の気持ちは同じなのだ。この卒業証書は私のためでなく、親のためなのだ。私自身は、大学なんぞ卒業した事実があればそれで良いと思うタイプだが、親にとっては卒業証書が自分たちの作品である息子が完成した証明なのだ。大袈裟なくらい立派な額に入れられた私の大学卒業証書は、親の喜びと感慨の証明でもある。息子の私にとっては当然のことで、両親がそんな喜んでくれるだなんて思いもよらなかった。改めて親に感謝した次第である。

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