ポケベル世代だから気が付くこと
ポケットベル。私の世代にはむしろ「ポケベル」とか「ベル」と言ったほうが通りがいいかもしれない。「14106とか084のアレでしょ。懐かしいね」、そんな感慨がもれるはずだ。
先日、ふとしたことでベルのことを思い出し、まさにその「14106」とか「084」の懐古記事を書いてみたら面白いんじゃないかと思った。
でも、どうせ書くなら物心ついたときから携帯やスマホがあった若い世代のひと達にも読んで欲しい。それなら、現在のインターネットとの比較をしたほうが分かりやすいし、なんなら彼女の家に電話するとき親が出るんじゃないかと緊張したことを紹介してもいい、そうやって色々と思い巡らせていると、自然に電話から現在のインターネットまでの過程を辿ることになる。
電話、ポケットベル、携帯電話、インターネット、PC、スマートフォン…こう並べみると、よくこの20年ほどのあいだで発展したなとあらためて驚かされるが、「発展」とか「発達」という言葉には、過去に不可能だったことが現在では可能になっている、過去に可能だったことが現在はより便利になって持続している、こういう意味が含まれているはず。久々にポケットベルの制約されたコミュニケーションのことを思い出し、現在のインターネットの問題と比較してみると、単純には発展したとは言い切れないのかもしれない。
電話とポケベルの時代で可能だったこと
振り返ってみると、電話から現在のインターネットまでの発展は、場所から場所、人から人、人対多数のコミュニケーション対象の拡大と言える。対象だけでなくもちろん、伝達手段、情報量も拡大したが、対象と情報量の膨張の過程で個人が忘れられたのではないだろうか。
私の世代が高校生の頃、自宅で友人や恋人とコミュニケーションするには電話しかなかった。電話は場所と場所を繋ぐもので、個人と個人をつなぐものではない。例えば、彼女と話したくて彼女の家に電話をしても彼女がでるとは限らず、お父さんがでて君は誰だと色々と聞かれるなんてことがあったし、彼女以外の家族がでたら無言で切ってしまうこともあった。
あの頃はまだ高校生で子どもだったせいもあったが、友人や恋人の家に電話して「~と申します。~さんいらっしゃいますか」という定型文を言ったり、時間を気にしたりするのが面倒だった(夜、8~9時以降に一般家庭に電話をするのは失礼になる)。我々の世代はもっと友人や恋人と、家族や時間を気にせずに直接コミュニケーションをとりたいと思っていた。そこで、見つけたのがポケットベルだ。
ポケットベルは本来、サラリーマンが出先で会社から呼び出しを受けるためのものだと私は思っている。ポケットベルには電話番号が通知され、通知をうけるとその番号に公衆電話から連絡する。そのように大人は使っていたが、我々の世代は数字が通知できることを利用して個人間のコミュニケーションツールとして使用した。
例えば、彼女と喧嘩して互の家に帰る。怒っているだろうな思って「0510276(怒ってる?)」と発信する。しばらく経っても返信がない。そこで「530731(ごめんなさい)」と再度発信すると、しばらくして彼女から「114 0521071(いいよ、怒ってない)」と返信がきて、仲直りできてよかったぁと思う。
LINEやSNSで、リアルタイムに、ポケベルよりもっと大量の情報のやりとりが当たり前にできている若い人達が聞いたら、「バカバカしい」とか「面倒くさい」と思うだろう。
でも、制約条件での情報の発信によって、間や余白が生まれ、それらによって我々の世代は、今よりも相手をイメージすることが、相手の気持ちを考えることができたのかもしれない。
インターネットで失われたもの
では、現在はどうだろう。私は先に「個人が忘れられたのではないだろうか」と書いた。
今、インターネット上で「さみしい」とか「死にたい」と発信しても黙殺される。少数の目に止まったとしても、これが本当なのか、釣りなのかは判断できない。
インターネットが情報を発信するためのものか、個人的な意見や感情を発信するものかは、ひとによって様々だろうが、いずれにしても人々から共感を得ること、承認を得ることは並大抵のことではない。
我々は今、少ない文字で表すことができる単純な考えや気持ちをキャッチしてもらうことが困難になっている。
それでも、忘れられた個人は承認を取り戻そうと、ブログやSNSで必死になって発信する。だが、ほとんどの言葉はデジタルの虚空のなかに消えていく。レスポンスがないほど承認欲求は肥満して奇形になり、他人への誹謗中傷で一時ウップンを晴らすが、ますます心を歪めることに大半のひとは気が付いていない。
では、無名の個人は忘れ去られたまま過ごしていかなければならないのだろうか。
私はそう思わない。電話からインターネットへの発展は、我々の誰かともっとコミュニケーションを取りたい、もっと多くの情報を発信したいという要求に応えた。
テクノロジーが、我々の欲求に応えるようにして発達するのならば、近い将来、これらの問題は解決するのではないだろうか。では、現在のインターネットの問題、そして我々の真の要求とはなんだろうか。
人々の心が復活する未来
私は、心と心の通信なのではないかと思う。
自分の考えや気持ちを、理論や情感を損なわずに言語化するのはほとんど不可能に近い。読み手により別のコンテクストが生まれ、それがポジティブなものならいいが、ネガティブなこともあり、誤解を解いたり批判にさらされたりで多大なエネルギーが消費される。
だが、自分の思念を言語化せず、そのままダイレクトに情感を損なわず発信しキャッチしてもらえるならば、例えばこんなことは解決できるんじゃないだろうか。
社会に出て思ったのは、世の中には自分の言動で「相手がどう思うか」を想像できない人が信じられないほど多くいるってこと。
言葉のナイフを10秒間に10本的確に刺してくる人とかザラにいて、なんの達人だよこの人らっていつも思う。— シロネコ書房@はてなブログ (@shironeko_shobo) June 20, 2017
割と本気で、人間に最も必要な能力ってコミュ力以前の「想像力」だと思う。
各々にある程度それが備わっているだけで、社会の中に生まれる莫大な量のストレスをものすごーくカットできる。リソースとしての「心」を節約できる。
個人の心が軽んじられる世の中で、ギシギシ音立てながら生きるのは辛い— シロネコ書房@はてなブログ (@shironeko_shobo) June 20, 2017
それに、インフルエンサーの発言に一喜一憂しなくていい。炎上狙いの発言なのか本心なのか、真意を容易に判断できるようになる。それは政治家も例外ではない。理念や将来のヴィジョンを語る以前に、心で民衆に判断される。いずれにしても、今支持を集めているひとで失墜するひとがけっこういるだろう。心という基準で新たなヒエラルキーが再構成されるのだから。
最後に
それから、少し大げさかもしれないが、世界中の人々と心の通信が可能になれば、我々は直接人の心に触れ、そのひと本来の価値を見出す。
新しい救世主が発見されるかもしれないし、隠れていたキリストやブッダの降臨を体験できるかもしれない。
宗教ではなくテクノロジーによって、人類は救済されるかもしれない。
心と心の通信、心のシェアと言ってもいいが、それが可能になったときどんな世界になるか、よかったら考えてみて欲しい。
…ちょっと大仰なことを言ったが、もちろんいいことばかりではない。
浮気をして帰って、どんなに上手い嘘をついても、心と心の通信で嘘はすぐに見抜かれる。女性は勘がいいから、そんなツールは今でも不要かもしれないが…。
心と心の通信、心のシェアと言ってもいいが、それが可能になったときどんな世界になるか、よかったら考えてみて欲しい。