星空文庫
水底から
kina 作
午前二時三十六分。僕はそろりとベッドを抜け出す。玄関の曇りガラスからわずかに射す電灯の明かりを頼りに、廊下でひっそりとたたずむ電子ピアノのカバーをはがす。
電源を入れる。ジッという電磁音が慎ましく息吹くのをこめかみで感じながら、ボリュームをつまみ、限りなく小さな音量にまで下げる。一番右の鍵盤を、薬指で押し付けて確かめると、重たい鍵盤が一瞬すとんと軽くなる僅か手前、誰にも聴かれてはいけない音がわずかにこぼれる。そのあまりに小さな音の滴りを、僕の鼓膜だけがすくい上げたとき、暗がりに浮かびあがる青白い鍵盤の付け根に親指を委ね、夜の淵と繋がった黒鍵の腹に人差し指と薬指を寄せる。僕が持て余した感情の一端をそっと宿すように力をこめると、鍵盤はぬるりとぬめる。
動き出す。指の隙間の緊張感と、かすかな関節の軋みがその始まりに抵抗する。
僕が最後に先生に習った曲は、ノクターンの二十番だった。ショパンの遺作であり、夜に想うその名の通り、真夜中によく溶ける。指やからだの滑らかなうねりは、夜と音色をかき混ぜた。
初めの八小節、鍵盤とお互いの調子を確かめる。次から次へと使命的に導かれる音の綴りの中で、僕の指は飲み込まれた。耳から入るのか脳裏にだけ響いているのか。旋律の躍動と音は次第に大きくなり、僕は豊かな旋律の中にいた。
右手の和音が祈りにも似たおごそかな面持ちで歌うのを、ともなって見守る左手の主音の規則的な流れ。小指の先から温かく滲みだすように響き、僕と鍵盤との境をあいまいにする。ぼこん。曲が終盤に差し掛かっていくうちに、旋律がそれまで聞こえてこなかった物理的な打音に変わり始める。ぼこん。鈍く耳の奥にとどこおる。ぼこん。ぼこん。まるで水面に浮きあがろうとする、大きな空気の泡のように含みのある音だった。ぼこん。その鈍い重さを振りかざし、僕の内側をぶつように何度も湧き立つ。
ぼこん。
夜の暗がりが次第に水中のように揺らめき始める。僕は泣いていた。視線の先に浮かびあがる白鍵にしがみつきながら、それでもなお、からだは夜の水底に沈んでいく。
その時気づいたのだった。ああこれは音楽ではなく、ただの悲鳴だ、と。
了
『水底から』 kina 作
更新日 | |
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登録日 | 2017-06-21 |
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