若きBC級戦犯 知られざる心境

若きBC級戦犯 知られざる心境
2年前までふつうの大学生だった若者が、戦時中、捕虜の虐待事件に巻き込まれ、戦後、戦犯として裁かれるという事件がありました。この若者が獄中でつづった手記など約500点が、70年の時を経て新たに見つかりました。罪に問われた1人の若者は獄中で何を思っていたのか、膨大な資料から読み解きます。(福岡局・武田善宏記者)
資料を残したのは、終戦直前の昭和20年8月10日ごろ、福岡市郊外で、捕虜のアメリカ兵の虐待に加わったとして、横浜裁判でBC級戦犯として裁かれた元学徒の大槻隆さんです。

悔しさにじむ手記の数々

資料を残したのは、終戦直前の昭和20年8月10日ごろ、福岡市郊外で、捕虜のアメリカ兵の虐待に加わったとして、横浜裁判でBC級戦犯として裁かれた元学徒の大槻隆さんです。
大槻さんは立命館大学の学生でしたが、昭和18年の学徒出陣で軍に入り、福岡城に置かれた西部軍の司令部に配属され、事件に関与することになりました。そして戦後は、A級戦犯も収監されていた東京の巣鴨プリズンの独房で、約1年半、判決を待つ日々を過ごしました。
獄中で書かれた手記には、上官の命令で虐待に加担したことを悔やむ気持ちが歌でつづられています。

「思ふとも敗けし哀れさ身に沁みて涙にじみぬ護送車のなか」
「あきらめどなほ口惜しき我なれや命令なくばかくなきものを」
「六十路なる母に告げたし我が心不孝の罪を許されよとぞ」
大槻さんの長女の番匠ますみさんは、小学生のころ、父が問わず語りに話した内容を覚えていました。そのなかで、当時のことについて「自分は捕虜を撃ちたくなかったが、そうしなければしかたがなかった。軍隊では、個人の意見ではなく上からの命令が絶対で、逆らえる状況ではなかった。戦争のなかでは、みんながおかしくなり正しい判断ができなくなってしまう」と話していたと言うことです。

追い詰められた心境も

また、手記には、判決当日の心境もつづられていました。ほかの戦犯に死刑が言い渡されるなか極限まで追い込まれていく様子がつぶさに書かれています。

「定まれる椅子にすわれど安からぬ思ひわきゆき足ふるへけり」
「いささかのなごみも消えて下腹の冷えゆく覚ゆ死刑宣告」
大槻さんは、長女のますみさんに、判決が出るまでの心境について「死刑になるとずっと思っていたので怖かった」と話していたと言うことです。

手記について、BC級戦犯が裁かれた横浜裁判に詳しい間部俊明弁護士は「私たちが調査した時の資料からはうかがえない部分が今回の手記などの資料には含まれている。特に本人の判決当日の手記は、当時、被告席に座らされていた若者の偽らざる声が伝わってくるもので、その内容にとても驚いている」と話しています。

戦後はふるさとの教員として

大槻さんに言い渡された判決は、重労働30年でした。しかし判決から7年後の昭和30年に仮出所が決まりました。大槻さんはこの時、すでに33歳になっていました。ふるさとに戻った大槻さんは地元の高校で地理の教員になり、その後、約30年間、最後まで教員として教壇に立ちました。

出世欲とも無縁で、大槻さんは長女のますみさんに「教頭や校長を目指す教員もいるが自分はならない。最後まで一教員として生徒の前でいたい」と話していたということです。

そして退職後の平成9年、75歳で亡くなりました。大槻さんが配属されていた西部軍では、昭和20年6月から8月にかけて、大槻さんが関わった事件のほかにも捕虜の処刑が相次ぎました。

一連の事件の背景には、その年の6月の福岡大空襲や8月の長崎への原爆投下への報復としての意味合いがあったと指摘する専門家もいます。大槻さんは、憎悪の連鎖を生み出した戦争の狂気のなかで罪に問われたとも言えます。

長女のますみさんは、大槻さんが500点もの資料を戦後も保管し続けたことについて「戦争は人生を狂わせ、夢や家族の思い出をつぶしてしまうということを、父は何かの形で残さなければいけないと思っていたのではないか」と話していました。
大槻さんの資料の寄贈を受けた立命館大学国際平和ミュージアムは、内容の詳細をさらに調べるとともに、今後、広く一般に公開することも検討しているということです。