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「日本の山とシカ問題」(視点・論点)

麻布大学いのちの博物館 上席学芸員 高槻 成紀

シカといえば、ほとんどの皆さんは子ジカのイメージから可愛い動物、あるいは奈良のシカからおとなしい動物だという印象をお持ちでしょう。登山やハイキングで野山を訪れシカにであったという方もいらっしゃるかもしれません。しかし今、日本の山ではこのシカが増えすぎて、様々な問題を引き起こしており、場所によっては壊滅的ともいえる被害をもたらしています。今日は今、日本の山でおきているシカの問題についてお話したいと思います。

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 日本にいるシカは動物学ではニホンジカという種で、大きいものは体重が100キロ近くにもなり、北海道のエゾシカではそれを上回るものもいます。メスでも50キロくらいはあり、大型の野生動物といえます。同じニホンジカは日本にだけいるのではなく、中国やロシアの沿海州、台湾などにもいます。
 シカは体が大きいから食べる植物の量も多いし、群れになって暮らすこともあるため、植物に強い影響を及ぼします。このため農作物や植林した木が食べられて、農林業に被害を出す動物として位置づけられていました。これはイノシシ、サル、カモシカなども同様です。でも、イノシシやサルなどは農業被害は出しても、山の森林に影響を及ぼすということはありません。カモシカも林業被害は出しますが、自然の森林に影響を及ぼすことはありません。シカだけが自然の森林にまで影響を及ぼすのです。
シカが多い場所では直径1m以上もある木の皮が剥がれて枯れてしまうというようなこともあります。

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また、影響の強いところでは、シカが食べない植物しか生えておらず、そのほかの緑はほとんどないという状況になったところもあります。
シカのいる島で実験的に森を柵で囲い、15年ほどたったら、柵の外は芝生、柵の中は林となり、文字通り「シカが森を食べる」ということが示されました。

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このように、一見かわいいと感じるシカは、実は森にとってはおそろしい動物でもあるのです。
 シカは早いものでは1歳の秋から妊娠できるようになり、しかも毎年妊娠しますから、条件さえよければどんどん増えてしまいます。現実に1978年のシカの分布と2003年のものを比較するとだいたい70%ほど分布が拡大したことがわかりました。

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そしてその後も、シカの分布はどんどん拡大しています。
 おどろいたことに、多雪地で知られる尾瀬にもシカが入って湿原を荒らすとか、南アルプスの3000m級の高山までシカが進出して、高山植物を食べ尽くすといった、かつては考えられないことが起きるようになりました。

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これはシカがいなかった時代の南アルプスです。

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そしてこれが、シカが進出してきてからの同じ場所の写真です。高山植物は姿を消してしまいました。
 また研究が進むにつれて、シカが植物を食べると群落が変化するだけでなく、たとえば紀伊半島の大台ケ原ではシカが木の皮をはいで木が枯れてしまったため、森林にすむ鳥がいなくなって、明るい場所を好む鳥が増えたということがわかりました。また奥多摩では森林の下生えが豊富なところにいるオサムシなどの昆虫がへる一方で、死体を食べるシデムシ類や糞虫などが増えるといった変化も見られることがわかりました。

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このようにシカの影響は植物だけでなく、植物の変化をとおして動物へも影響をおよぼすことがあきらかになっています。
それだけでなく、植物がなくなると、雨がふったときに表土が流れ、それが大規模になると土砂崩れがおき、こうなると防災上の問題になります。

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現実に奥多摩では大きな土砂崩れが起きましたし、東海から近畿にかけての太平洋側ではかなりの場所で土砂崩れが起きるようになったと報告されています。日本は地形が急峻で雨が多いため、その影響が大きく出るのです。
このようにシカの被害は各地で深刻化しています。
 この20年ほどでなぜシカが増えたかについてはさまざまな議論があります。おもなものはオオカミがいなくなったから、森林を伐採してシカの食料が増えたから、地球温暖化によって雪が少なくなったことが子ジカの死亡率を下げたからなどです。
しかしオオカミが絶滅したのは100年以上前、森林伐採も40年くらい前にはさかんにおこなわれましたが、最近はそれほど伐採されていません。また温暖化がシカの生存率を高めたのはありそうなことですが、雪がほとんど降らない九州などでもシカが増えているので、説明ができません。
 
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私もいろいろ調べてみましたが、いちばん説明がつきそうなのは、日本の山村から人がいなくなり、農地や森林の管理ができなくなったことが原因という説だと思います。野生動物にとって人がたくさんいた時代の農地は怖くて接近できないところでした。そういう場所から人がいなくなり、田畑が放棄されたり、森林の手入れがされなくなると、野生動物は侵入するようになります。かれらにとって栄養価が高い食物がたくさんあるのだから当然です。そういう場所で増えたシカが奥山のほうにまで拡大したというのがいちばん納得できる説明です。
 シカに対しては、いま被害を減らす努力が続けられています。
 農地は基本的に柵で囲うことで防除しています。音、光、匂いなどで撃退しようとする試みは、シカが慣れてしまうために効果がありません。中には有毒な薬剤を塗って木を守ることもおこなわれていますが、雨で流れて、ほかの生物に悪影響をおよぼす恐れがあるので勧められません。
 個体数を減らす努力もおこなわれていますが、ハンターの減少と高齢化によってなかなかうまくいっていません。
非常に密度が高かったところでは、駆除が功を奏してシカ密度が低くなった場所もありますが、本当に必要な分布の前線ではうまくいっていません。ハンターの側からすれば、シカが少ない場所では効率が悪いためにあまり出動したくないからです。そのため、分布を拡大しつつある前線ではどうしても駆除が手薄になり、シカの拡大がとまらないということになります。短期的には捕獲数を増やしていくしかないのですが、
私はシカの問題をもっと大きい次元でとらえ、農山村をかつてのように人がいて活気のある状態に復活しなければ、駆除だけをしても問題の解決につながらないと思います。つまり里山の復活です。人がいれば抑止力になり、駆除の機動力も増します。そして暗くて生産力がないために広くても野生動植物が乏しいスギやヒノキの林が広くひろがる山を落葉樹林に変えてゆき、シカの生息条件もととのえることで、シカが過度に増加することを抑制すべきだと思います。こうして自然のバランスをとりもどし、シカ問題が徐々に解消していくというのが理想です。これは大変難しい事でもあり、明確なビジョンが見えているとはいえません。
 これまではどうしてもシカ問題は一部の特殊な問題ととらえられがちでした。しかし、今、日本の森に大きな危機が迫っています。日本にすむ私たちは、まず、シカ問題をもっと身近で、大きな問題だと認識しなおすところから始める必要があると思います。

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