改めて「山月記」を読みとばさずに読んでみた。
どうも国語教育の世界では、まず「山月記」が生徒にとってとっつきにくい事が問題となっているようで、そんなに難しいかなあ、と文章を確認してみた所、いままで「山月記」を読み飛ばす形でしか読んでない事に気づいたのである。
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自みずから恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。
例えば、山月記の出だしはこのような一文で始まるが、普通の読者が隴西がどこなのか、天宝がいつなのか、虎榜とは何か、江南尉とはどのような地位なのか(それが李徴にとって「賤吏」であることは分かるのであるが)を疑問に思わずに読み進める事が出来るのは、読者がこの部分を読み飛ばしているからである。
そういう意味では、ある意味、初読で山月記の意味を完全に取ることができるのは中国史の専門家だけとも言えるが、ともかく、考えてみたら僕は「山月記」を一行一行読んだことがなかった。
それで、今度は「山月記」を一行一行読んでみたが、まずその文章の美しさに圧倒される思いがした。
とにかく圧倒されたし、深く感動した。
「山月記」の文章が美しいことは分かっていたが、いままで僕はその美しさの十分の一も理解していなかったなあ、と思った。
もちろん、「山月記」の文章はある程度、読者受けを狙って書かれたものだろうが、それにしても強烈な印象を残す文章である。
其処では醜悪な現実はすべて、氏の奔放な空想の前に姿をひそめて、ただ、氏一箇の審美眼、もしくは正義観に照らされて、「美」あるいは「正」と思われるもののみが縦横に活躍する。
中島敦は泉鏡花の文学をこのように評したが、改めて「山月記」を読み飛ばさずに読んでみると、「山月記」もかなり(鏡花のものとは違い、多いに俗受けする形であるが)芸術至上主義的な立場に立って書かれていることが分かる。
「山月記」に書かれていることは、とにかく、何からなにまで美しい。
そう考えると、僕が「山月記」について書いた過去のエントリーはずいぶん見当違いな事をかいているなあ、と改めて思う。
これらのエントリーの内容が完全に間違っているというわけではないだろう。
しかし小説を読む上で、文学というものはまず第一に芸術である、という事を忘れてはならないのは間違いない。
その一方で、「山月記」を読むと、感動する一方で少々不安になるのも事実である。
氏の芸術は一箇の麻酔剤であり、阿片であるともいえよう。・・読者は、それが、つくりもの――つくりものもつくりもの、大変なつくりものなのだが――であることを、はじめは知っていながら、つい、うかうかと引ずりこまれて、いつの間にか、作者の夢と現実との境が分らなくなって了う。・・それが、鏡花氏の作品だと、読者は何時の間にか作者の夢の中にまきこまれていて、巻を終って、はじめてほっと息をついて、それが現実ではなかったことに気付くのである。
この泉鏡花の文学の特徴は、ある程度は「山月記」にも当てはまる。
「山月記」は文章にものすごい力があるので、読者が作品に飲み込まれてしまう。
そして、作品に飲み込まれてしまうと、もう何も考えることはできない。
「李徴は単に少し運が悪かっただけなのでは?」
「李徴の子供時代はどのようなものであったのか?」
「なぜ、李徴には精神的、あるいは経済的な支援を与える理解者が一人もいなかったのか?」
「普通とは違ったことをする人は、少しくらいは性格的な欠陥があるのが普通ではないのか?」
「李徴のように、才能はあるが迷惑な性格をもった人を、社会はどう扱えばいいのか?」
このような疑問点は、「山月記」を真剣に読むほど出てこない。
確かにそれは芸術の勝利である。
読んでいる内にこのような問いが出てくるのなら、それは芸術として完璧ではないともいえるからである。
しかし、このような問を排除した世界、「つくりもの」の世界を真に受けるのは、とても危険な事である。
「なぜ、李徴には精神的、あるいは経済的な支援を与える理解者が一人もいなかったのか?」
それは李徴が元々狷介な性格だった上に、その狂悖の度がますます著しくなったからだが、そうでなければ作品の美しい世界が成り立たないのだ。
ある意味、李徴というキャラクターは「つくりものもつくりもの、大変なつくりもの」なのである。
そして、「つくりもの」の世界に感動するのと、「つくりもの」の世界を真に受けることは、常に隣り合わせなのだ。
僕は「山月記」を読み飛ばしたので、かえって「山月記」について考えることができた。
その考えがどれほど正しいかはともかく、とりあえずそれは自分の頭で考えたものである。
そう考えると、僕が「山月記」を読み飛ばした事にも少しは利益があったのかもしれない。
ある種の文学は、それが「つくりもの」であるにも関わらず(あるいは「つくりもの」であるからこそ)読む人間を飲み込んでしまうところがある。
それは、とても怖いことだと思う。
ここに氏の作品と、漱石の初期の作品――倫敦塔・幻影の盾・虞美人草等――との相違がある。これらの漱石の作品を読みながら読者は最後まで、それがつくりものであることを忘れないでいることができる。・・思うにこれは、この二人の作家の才能の差ではなくして、その自らの夢に対する情熱の相違のしからしむるところであろう。
漱石と鏡花を比較して、中島敦はこのように記したが、もしかして漱石は文学における芸術至上主義に対して警戒心を持っていたのかもしれない。
そして、この問題を考えることは、国語教育とは何か、を理解する上でも有益であろう。
ある種の薬剤と同じように、ある種の文学はそれが効き目が強いものであるだけ害も大きい。
そのような作品を教室という場で(作品に出てくる隴西やら虎榜などの単語に関する解説を聞きながら)作品に飲み込まれることなく読み進めていくという事にも、国語教育の意義がある、とされているのかもしれない。
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