カメキチの目
仕事で子どもに接することが多かったので、働いていたころから「発達障害」という言葉はなじみ深く、そういう子どもともよく関わってきた。
しかし、その頃は「発達障害」の中身はあいまいで、すんなり納得できるものではなかった。
誰もが多かれ少なかれ発達障害なのではないかと、ひそかに(心では)思っていました。
初めは「自閉症」と、それに含まれていたらしい「学習障害」くらいがいわれていた。自分が身体障害者になる数年前から「注意欠陥・多動症」とか「広汎性発達障害」を聞かれるようになった。
「ヘンなの?」と私はひとりごちた。
が、子どもたちの卒園近く就学前「指導」で心あたりの子どもは「特殊学級」に(そのうち中・高等学校は、「養護学校」から「特別支援学校」といわれるものができて)行った。行かされた。
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ところで、番組はすばらしかった。
ぜひ、みられなかった方はみていただきたいです。
ホームページもありますから「nhk 発達障害」と入力すればすぐ出ます。
つい数年前から、子どものころに「発達障害」と診断されることはなかった人でも、大人へと成長してから、いまの社会での生きにくさ、違和感みたいなものを訴えられるようになった。
「自分は『発達障害』ではないのか…」「小さいころから学校や家で過ごしにくかったのはそのせいではなかったのか…」
もちろん、ここ最近の急激な科学技術の進歩があって、脳の働きはもとより、たとえば目の周囲の筋肉の微妙な動きなどが測定できるようになり、人間の脳や身体のたくさんの働き・機能の総合的な結果として、「発達障害」が科学的に解明さるれることになった。
それを「障害」というのかな?と私は感じたけれど、番組で精巧な脳の内部映像で、さまざまな五感から入ってきた情報が、働き・機能の分担された決まった部分での処理のされ方が「ふつうはこうなるところが、(障害のある方は)こういう異常な処理のされ方になるのです」と説明され、納得せざるを得なかった。
ビックリしたのは番組出だしの「感覚過敏」という症状である。ガ~ンときた。
ある人にとっては、目の前の景色がカメラ撮影でいう「白ボケ」でまぶし過ぎたり、スーパーマーケットでの買い物で店内の、冷蔵(凍)庫の音までが人の話し声などとともに聞こえてきて、すごく疲れることのことだった。
見え方とか聞こえ方というのが、目とか耳での受けとめ方、感度はふつうの人と同じでも、脳の処理を受けた後の感覚は(現実にはそれを感じているわけですが)、何倍も違う。
よく、人は見たいものだけを見、聞きたいものだけを聞いているというけれど、それらは脳の中で瞬時のうち、さまざまな情報のうち今の自分にとってたいせつなものは何かと選択し、それだけを見聞きし、必要ないものは捨て去っているからだということがよくわかった。また、「調整」「補正」という処理。
つまり、「感覚過敏」という症状は、そういう「選択」や「調整」「補正」という処理がうまくいかず、すべての音が聞こえたり、明るすぎる景色を適当に暗めにするといったことが苦手ということ。
私は、みごとに知らなかった。自分には決定的に想像力が欠如していたんだな思わざるをえなかった。
これも自己中心、「ジコチュー」のひとつに違いない。
いまの感覚過敏症状は「自閉スペクトラム」の人に多いようだが、読み書きがうまくできない、人との関係がうまく結べないとなど、みんな誰もがうなずく理由があることが科学的に明らかだ。
それをより多くの人が正しく知り、受けいれていくことの大切さを番組は強く訴えていた。
また、「二次障害」として、地域や職場などまわりでで受けいれられず、うつ病など精神的に病むこともあることもいわれていた(ある意味、こっちの方が心理的にはよりひどい負担になっている方もおられる)。
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番組の全体を通じて、「ふつう」という言葉が、もうひとつのキーワードみたいによく出てきた。
そうじて、「発達障害」の人たちは「ふつう」が苦手である。苦痛である。
「ふつう」というノッペラボウのようなお化けの正体は何だろう?
2.9に「『普通』を考える図書館」という記事を書きました。よろしかったらお読みください。