「当たり前」を疑わない人へ。「哲学」という“自由になる方法”を知った彼女が「答えも勝敗もない対話」が重要だと考える理由。


 

「超越論的統覚」「普遍妥当性」「現象学的還元」。脳みそが痒くなるような文字が永遠に並ぶ哲学書を手にしていると、自分がちゃんと存在している感じがする。哲学者の、世界に密着している感じがたまらない。自分から、他者から、社会から逃げたくなるような世界で、言葉を通してそれらを眼差し続ける哲学は、恥ずかしくなるくらい、誠実だ。あるとき哲学書を読んでいたら、わたしが3年くらいかかって掴みかけていたことが「愛しながらの闘争」とかいうエモい概念でサクッと語られていた。哲学、やばい。

やばすぎて、上智大学の哲学研究科で修士過程まで哲学を研究した。

はじめまして、田代伶奈です。

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哲学を志した理由

 「すごいねー」「深いねー」「変わってるねー」。中学生くらいまで、ずっとこんなことを言われてきた。

 わたしがなぜ、この身体とこの名前を持つ、誰でもない「わたし」なのか。わたしが明日着る服を選んでいる裏側で、なぜ戦争が起きているのか。なぜ、誰も映画の主人公ではないのか、全くわからなかった。人がコロッと死んじゃうことを知って、泣きながら母の部屋から続くベランダを監視した。命あるものだけが生きていることが理解できず、お気に入りのぬいぐるみに「おい、生き返れ」と言い続けた。そして、なんで他者はずっと他者で、わたしの手から零れ落ちてしまう存在なのか、最後までうまく飲み込めなかった。

 わたしは、この「わからなさ」をひっそり秘密にすればよかったのに、学校の先生に聞き、友達との交換ノートに書きまくった。「すごいねー」と言われても、何がすごいかわからない。もはや、わからなさすぎて、絶望する暇もない。「は?」「なんで?」に、人生のほとんどを捧げてきたのである。

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 二十歳をすぎてようやく、この「すごくて深くて変わっていること」の名前を見つけた。つまり、問うことを許す、問うことを生業とするものに出会った。

 それが、哲学だった。

 どうやらあの圧倒的「わからなさ」は、哲学の端緒と言われる、憤りや驚きや懐疑や自己喪失だったらしい。

 最近、一緒に哲学している友達に「たまに生きてるとか死んじゃうとか他者が他者だとかそういう自明のことにびっくりしすぎて2日間くらいちゃんと生きれないんだけど、でもみんなは普通に生きてるからわたしもそうしてみるのだけど、もしかしてみんなもちゃんと生きれてないのかな、そしたらとても安心する」とラインしたら、一言「それな」と返ってきた。みんなまだ世界について何もわかっちゃいない、ということを他者と共有することから哲学は始まる。

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書を捨てよ、町へ出よう、哲学しよう

 大学院を修了したいま、「哲学対話」と呼ばれる哲学の実践活動をしている。学校や企業に行って哲学対話したり、街で哲学カフェを開催したり、ときには地方に行ったりして、対話のファシリテーションをする。まさに「書を捨てよ、町へ出よう」である。

 哲学対話は、毎回一つのテーマを決め、参加者同士がじっくりゆっくり問い合い、考える営みのこと。ふつう通り過ぎてしまう「当たり前のこと」「ただ信じてきたこと」「わかったつもりになっていること」に、「ほんとうなの?」と疑問を投げかけ、他者とともに理由を探究していく旅だ。

 そこにはもう、「超越論的統覚」「普遍妥当性」「現象学的還元」とかいう、哲学者のやばい言葉はない。みんなの人生に根ざした生き生きした言葉が飛び交う。急に表情が変わり、みんなが哲学者になる。ファシリテーターは、対話の交通整備をするだけだ。哲学の知識を与えるエラい人じゃない。

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 「表現とはなにか?」「個性とはなにか?」「世界とはなにか?」「ルールとはなにか?」「恋と愛はどう違うのか?」「話し合うことに意味はあるのか?」「人はわかりあえるのか?」「私たちは本当に自由なのか?」「死後の世界はあるのか?」「理性は感性に勝てるのか?」こんな問いを永遠に考える。

 哲学対話は、相手を論破し、勝敗を決めるディベートではないし、一回の対話でひとつの答えが出ることもない。「なんで?」と問いまくるから、「人それぞれだよね」も、「わかるわー」みたいな安易な共感も許されない。すぐ社会に役立たない。だから、何の意味があるのか、と言われることもしばしばある。

みんな哲学しよう、自由になるから

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 哲学の役割は、きっと、自分や他者から逃げようとする人を「おい待て」と追いかけ、世界を直視させることだ。「おい待て」だけじゃなくて「わたしもわからないから一緒に考えよう」と呼びかけ、敵でなくどこまでも仲間になろうとする。この、呼びかけること、そして相手とわかりあおうとすることは、海に手紙を流すようなことかもしれない。けどそれは、“自由になること”だと思う。

 そうだ、哲学はひとを自由にするんだ。ラーメンしか知らずに毎日ラーメンをすすっていたOLが蕎麦やうどんやパスタやカツ丼を知れば明日からのランチがもっと自由になるように、他者の思想と出会い理由を共有することは、わたしたちのONLYラーメン人生へのおさらばを意味する。

 こんな風に考えながら、いまわたしは「社会に生きる哲学」を模索している。

 7月から、表参道のCOMMUNE 246にある「自由大学」で「未来を創るための哲学ー対話で見つけるもっと自由な世界ー」という講義を開講することになった。全5回の対話型授業。テーマは、いまの社会を生きる上で重要な「自由」「正義」「感性」「愛」。

 みんなで、哲学対話しない?きっと、明日から世界が違って見えるはず。

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Reina Tashiro (田代 伶奈)

ベルリン生まれ東京育ち。上智大学哲学研究科博士前期課程修了。「社会に生きる哲学」を目指し、研究の傍ら「哲学対話」の実践に関わるように。7月から自由大学で「未来を創るための哲学」を開講。Be inspired!ライター。哲学メディアnebulaを運営。

Twitter: https://twitter.com/reina_tashiro

 
撮影協力 : 自由大学
All photos by Noemi Minami
Text by Reina Tashiro
ーBe inspired!

 

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