後者だとしたら、その変形は変形するものの自律的な要因ととらえるか、よりインタラクティブな他者との関係性によるものと考えるか。
そんな観点に立ってみた場合、いま読んでいるオウィディウスの『変身物語』はなかなか面白い。
起源8年に全15巻が完成したというのだから、2000年以上に書かれたものだが、僕ら自身を含む生物というものを考える際にこれが思いの外、興味深く感じられている。
エリザベス・シューエルは『オルフェウスの声』のなかで、この物語について「『変身譚』はそれ自体、巨大なポストロジックなのである」と述べている。
ポストロジックとは、前々回の「不可解とは、要するに、理解力のなさがもたらす結果にすぎない」という記事でも紹介したように、人間が自然を扱う際の「詩的で神話的な思考の発見、涵養、展開」をする思考のスタイルを指すシューエルの用語である。
つまり、生物がそれを満たす自然という対象をみる視点として、詩的で神話的な見方を導入するのだが、そこからみると、世界は変形がデフォルトで、かつ、その変形を促すものがとてもインタラクティブなものだということが自然に思えてくるのだ。
そう。僕らは常に何者(ら)かよって変形され続けている(ステキなことだ)。
ミネルウァとアラクネの織物対決
シューエルは『変身物語』について、こう続ける。主題と方法の双方向的なダイナミックスにおいて、オルフェウスという存在で言語と詩こそが中心的であるとする主張において、物質と方法に働きかける原理のひとつとして性に目をつけ続ける点において、自然過程の全射程を理解し、解釈するための具として神話を使おうとする点において、そしてその具を鏡映的に使って宇宙と精神をひとつにしようとし、相手にする形式はいつも半ばは現象だが半ばは精神と想像力のものであるという点において、見事にポストロジックである。エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』
ここで興味深いのは、その思考のスタイルが「相手にする形式はいつも半ばは現象だが半ばは精神と想像力のものである」という点で、その思考は精神にだけ影響を与えるのではなく、物質にも直接的に影響を与えるとされる点である。そして、その「物質と方法に働きかける原理のひとつ」は「性に目をつけ続ける」という点だろう。
このことを示す例を、『変身物語』から直接引いてみると、例えば、こんな箇所がここで言われていることを凝縮しているように思われる。
戦いや知恵の女神にして、製織の神でもあるミネルウァは、優れた織り手として知られた人間の娘アラクネと織物の勝負をする場面である。
ディエゴ・ベラスケス『アラクネの寓話(織女たち)』
アラクネが織物の腕が自分より上だと豪語するのを聞いたミネルウァは怒り、老婆の姿を借りて神々の怒りを買うことのないように忠告を与えたが、アラクネはその忠告を聞き入れずに勝負を挑んだため、女神は正体を明かしてアラクネと織物勝負をすることになったのだ。
女神ミネルウァが織ったのは、アテナイのアクロポリスのマルスの丘に立った自身を含む12柱の神々の姿だった。
ユピテルの浮気を隠すために変身させられた女性たち
「いっぽう、アラクネが織っているのは」次のとおりだった。まず、雄牛姿のユピテルに欺かれたエウロペの図だ。雄牛も、海も、まるでほんものとおもえるくらいだ。エウロペ自身は、うしろに残した陸地を見やりながら、仲間たちに呼びかけている風情だ。寄せる波に濡れないように、おずおずと足を引っこめているいる。つぎ、アステリエ。彼女は身をくねらせた鷲につかまえられている。それから、レダ。これは、白鳥の翼のしたに臥している。オウィディウス『変身物語』
『変身物語』の名のとおり、この物語では、神も、人も、次々とあらゆる姿に変身する。動物や鳥だけでなく、虫や植物、泉や河にだって変身する。
引用中には、主神ユピテルが自身の浮気を妻に隠すために、さまざまなものに変身させられた女性たちの例が挙げられている。そして、これらの神話のシーンは、アラクネの織物の上に描かれただけでなく、ルネサンス以降の美術史のなかで、さまざまな画家に描かれてきた。
例えば、雌牛にされたエウロペ。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『エウロパの誘拐』
例えば、白鳥にされたレダ。
ギュスターヴ・モロー『レダ』
ティツィアーノのように16世紀初頭の盛期ルネサンスのヴェネツィアの画家も描けば、ギュスターヴ・モローのように19世紀後半のパリの象徴派の画家も描いた。
『変身物語』の「人間が自然を扱う際の詩的で神話的な思考の発見、涵養、展開」としてのポストロジック思考は、こうして後代にも絵というメディアの中でも生きながらえていたといえる。
ユピテルが浮気を隠すための変身
もうすこしアラクネの織物を追ってみる。アラクネは、織り進む。ユピテルが、今度は獣神に身をやつして、美しいアンティオペに双生児を身ごもらせたこと。黄金の雨になってダナエを、火災となってアイギナを、羊飼いとなってムネモシュネを、まだらの蛇となってプロセルピナをだましたこと-そんな場面が加えられていく。オウィディウス『変身物語』
今度は、ユピテル自身が変身する例だ。
ただし、理由は同じ、浮気のためである。
「物質と方法に働きかける原理のひとつ」は「性に目をつけ続ける」だ。
これも多くの画家が絵にしている。
例えば、ダナエはレンブラントもティツィアーノも描いている。
レンブラント・ファン・レイン『ダナエ』
ティツィアーノのほうは「黄金の雨」としてのユピテルをさらに下世話にも金貨になった姿で表している。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『ダナエ』
17世紀のオランダの画家フェルディナント・ボルがアイギナを描いた作品は、ユピテルは飛ぶ炎として描かれる。
フェルディナント・ボル『ゼウスの到着を待つアイギナ』
この炎にしても、黄金の雨にしても、なぜ浮気隠しの変身として、ユピテルがそれを選んだのかは謎だ。
天空の神、気象現象を司る神がユピテルだから、炎や黄金のような非生命的なものに変身するのも不思議ではないのかもしれない。
一方、アラクネの織物にはないが、ユピテルは女性だけをさらうのではなく、男の子もさらっていて、その一例がレンブラントも描いたガニュメデスだ。
レンブラント・ファン・レイン『ガニュメデスの誘拐』
見たとおり、ここでは鷲という生物に変形している。
ちなみに、ユピテルは英語にすればジュピター。こう書くとピンとくる人が多いと思うが、ユピテルにさらわれた者たちは、みな、ジュピター=木星の衛星になっている。イオ、ガニメデ、エウロパ、レダ、カリストなど。
さらに、ちなみに、織物を織っていたアラクネは、結局ミネルウァの怒りで、永遠に糸で織物をするクモに変身させられている。
そして、そして『変身物語』で浮気をするため、変身するのは何もユピテルだけでなく、太陽神アポロンも、海神ネプトゥーヌスもさまざまなものに変形して、妻以外の女性に手を出す。
そんな物語だ、『変身物語』は。
メタモルフォーゼする僕ら
ここで注目したいのは、これらの神々および神々と関係する女性たちの変形が性的な行動とともに発しているということだろう。つまり、生物における創造的活動の場面で変形は生じている。この神話的変形とゲーテが植物や動物の形態学で、それらの固定した形態ではなく、形態そのものの変化を扱ったことはまったく無縁ではないだろう。
例えば、シューエルが、こう書いているし、
メタモルフォーゼ、変容変化はゲーテにとって、あらゆる自然現象に底流する根本原理のひとつである。「生命あるもの全てにメタモルフォーゼがある」、と1815年にゲーテはシュルピス・ボワスレに言っている、「植物においても、動物においても、人間に至るまで、人間も含めて」と。エリザベス・シューエル『オルフェウスの声』
ゲーテ自身がこんなことを書いていたりもする。
ドイツ人は、実在する物の複雑な在り方に対して形態(ゲシュタルト)という言葉をもっている。この表現は動的なものを捨象し、ある関連しているものが確認され、完結し、その性格において固定されていると見なす。
しかし、すべての形態、とくに有機物の形態をよく眺めると、どこにも持続するもの、静止するもの、完結したものが生じてこないことに気がつく。むしろ、すべてのものは絶えず揺れ動いているのである。ゲーテ『形態学論集 植物篇』
いま、バイオテクノロジーの分野で、微生物の役割に注目が集まっていて、人間がすでに知っている以上に、膨大に存在するであろう未知の微生物が人間自身のさまざまな面での生命活動にどのように関連しているか、影響を与えているかが研究されている。人間は単独で自律的になど生命として存在しておらず、ほとんど知らない微生物に健康状態という物理的なもののみならず、感情や思考のような精神的なところまで含めて、大なり小なりの変形という影響を受けていることがわかってきている。
このような考え方をより積極的に取り入れていく際、実はオウィディウスの『変身物語』のような神話的な視点での僕ら自身も含めた自然の変形という視点は、20世紀までの機械論的思考より、よっぽど馴染みやすいように思える。
だとすれば、その研究は従来的なサイエンス、テクノロジー的な視点だけではうまく進まず、むしろ、アートなかでも詩的な見方こそが重要になってくるように思えるのだ。1つ前の記事「わかることよりも感じることを」で書いたのも、結局、そんなことを思っているからだったりする。
メタモルフォーゼする僕らは、僕ら自身のメタモルフォーゼに影響を与えている、ユピテルやアポロンに近い、見えない無数の微生物の集団について思考しなくてはならない。
もちろん、それを従来のサイエンス的視点で1つ1つ発見=見える化していくことも大切だ。
しかし、それと同時に、いや、それ以前に詩的な思考をもって仮説=神話を言祝いでみること。
言葉にするという手段を、定義する=定型化するためのそれとして使うのではなく、変化のインタラクションを物語として紡ぎ出すそんな手段として使ってみること。
そんな詩的な想像力こそ、いま大切だったりするんじゃないだろうか。
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