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ⅡーⅢ 《エクレティオ》
「そういえば、ローブに着替えた方がいいんでしょうか?」
ルミナスは少し不満そうな顔をして、外套の紐を弄りながらそう言った。神官は街ではローブを着ていなければならない、ということになっている。それは他の街でもそうなのだろうか。
「いいんじゃねえか? まあ、心配なら着替えればいいけどな」
「うーん……。じゃあ着替えますね。人目に付かない場所まで移動しましょう」
門の陰に隠れてキョロキョロと辺りを見回すと、いつものようにヘインズに後ろを向かせて祈りを唱えた。たとえその肌をローブで隠したとしても、彼女の美しさまでを隠すことはできなかった。
ルミナスは心底嫌そうな顔をしている。右手に持った杖でコンコンと地面に小さく穴を掘りながら愚痴をこぼした。
「動きづらい……かわいくない……」
「ほれ、文句垂れてねえで街に入るぞ。まずは宿だ」
門をくぐると、赤や白のレンガ造りの建築物がランプの灯りに照らされている光景が目に飛び込んできた。木造が基本だったアルカディアの街並みとは全く違う。まるで違う世界みたい、とさっきまで仏頂面だったルミナスの瞳がきらきらと輝いているのは、街に点在するランプの灯りのせいだけではなさそうだ。
「ちょっと機嫌が直ったみたいだな」
「なんというか、ずっしりしてます!」
なんだそりゃ、とヘインズは笑って宿を探して歩き出す。ルミナスもそれにぴょこぴょことついていく。すれ違う人々が彼らを一瞥し、焦って目を伏せていたことに、彼女はまだ気づいていない様子だった。
宿は少し歩くとすぐに見つかった。
「二人だ。いくらだ?」
ヘインズが店主に声をかける。店主は目の前の男と少女を見るなり、怯えたような作り笑いを浮かべて言う。
「ま、まさか。神官様と騎士様にお代をいただくなど……。小さな宿ではありますが、もちろん無料でお泊りください」
「え?」
ルミナスは当然のように疑問の声を上げた。宿屋とは金を払って泊まる施設のはずだ。その金で宿屋は生活をしている。金を払わなくては店主の生活がままならない。旅をしたことのない彼女にもそれくらいのことは分かる。
助けを求めるようにヘインズの方を見るが、彼も髭に手を当てて何やら思案しているようだ。仕方がない。彼女が店主に向けて口を開く。
「あの、でも、お金を……」
「そんな……妻と子どもいるんです! どうか!!」
――この人は、何を言っているの?
「あー、わかった。食事はいい。二晩だけ部屋を貸りるぞ。案内してくれ」
「ちょっと、ヘインズさん――」
今は黙っていろ。彼の目がそう言っているようで、ルミナスは黙り込んでしまった。そのまま大人しく、店主とヘインズの背に続く。何か言おうとしても言葉が喉から出なかった。考えを纏めようとしても頭がごちゃごちゃしている。いったい何が起きているのか。
案内された部屋でも、二人は各々のベッドに向い合わせに座って黙り込んでいた。わからない、とルミナスが横向きに倒れこむと、聞き慣れた太い声が沈黙を破った。
「街のやつらの様子もおかしかった……」
ぽつり、呟いたヘインズの方に彼女は目を向ける。
「最初は旅での臭いなんかが気になったんだと思ってたが、さっきの店主……。明らかに俺たちを見て怯えてた。昔この街に来たときは、俺は騎士じゃなかったからな、気が付かなかった」
「いったい何がどうなってるんですか?」
「どうやら、この街はアルカディアとは違って、神官がとんでもねえことをしてるみたいだ。お前が金を払うって言おうとしたら、あいつ必死でやめてくれって言ってたろ。ありゃ、金を取られると思ったんだろうな。こいつはどうしたもんかねえ……」
ルミナスはそれ以上何も言えなかった。まさか自分があんな目を向けられるとは思ってもみなかった。この街の神官はどうして街の人に怯えられるようなことをするのだろう。考えても答えはでない。悔しいような、悲しいような、そんなよくわからない感情で胸がいっぱいになる。
「お前がそんな顔してんじゃねえよ。お前は何も悪くない。それより風呂入ってこい。二日も入ってないと、さすがに汗臭えぞ?」
彼はいたずらっぽく笑って、大きな手でルミナスの頭を撫でる。こうやって彼はいつも元気づけようとしてくれる。彼女は、そんなヘインズが一緒にいてくれてよかったと心から思った。
「女の子に向かって臭い、は失礼ですよ! ――ありがと、です」
彼女もそんな彼の好意に甘えて、できるだけ元気よく答えた。
浴室を出て部屋に戻ると、ヘインズの姿はそこにはなかった。探しに出かけようと扉を開けようとしたとき、タイミングよく麻の衣に着替えた彼が帰ってきた。片手には長いパンの飛び出した袋。
「お、さっぱりしたな。食ったのは燻製だけだったからな、腹減ってんだろ?」
「もうペコペコです! でも、パンだけ……?」
「いや、こいつを使う」
袋から瓶を取り出して机にコン、と置いた。琥珀色の液体が入っている。蜂蜜だ。二つに裂いた、焼きたてのパンに蜂蜜を薄く塗ってルミナスに手渡す。久々に食べる蜂蜜のパン。甘いものにも飢えていた。
「「いただきます」」
一口食べるとまだ温かいパンとハチミツの甘さで唾液が溢れる。だが舌の奥の方にほんのりと苦みも感じる。香りはハチミツとは違った甘いハーブのような。
「なんの匂いでしょう? 不思議な甘い香りです」
「ローズマリーっていうハーブだ。肉料理や魚料理にも使うみたいだ。今度作ってみるか」
説明を聞きながら、早くも食べ終えてしまったルミナスはまだ物足りない様子だ。燻製肉一切れとパンが半分では食べ盛りの少女には少ないのだろう。それを見てヘインズはニヤニヤと笑みを浮かべながら、
「食いしん坊なやつめ。じゃ、メインディッシュだ」
そう言って袋からまた小さな紙袋を取り出した。中を見ると黄金色の貝のような形をした、ふわふわとした小さなパンのような物が詰まっている。バターの匂い。甘い匂い。
「これは……?」
「まあ、食べてみな」
口に入れた途端、ルミナスの目は大きく見開き、頬が緩んでいく。やった。やってやった。期待していた通りの反応だ。ヘインズは満足そうに頷いて、
「これな、小麦からできてる菓子なんだよ。小麦から作られるのはパンだけじゃないんだぜ。どうだ、気に入ったか?」
「おいしいおいしい! 小麦すごい! 小麦作ってる人たちすごい!!」
「そう喜んで貰えると、農民のやつらも素直に嬉しいだろうな。全部食ったらこの街の教会に行くぞ」
俺のこの街での目標は達成だな、そう思いながら、うんうん、と頷いて仔リスのように頬張る彼女をヘインズは優しく見つめた。
十一時、教会への道。相変わらず街の人々は、神官と騎士に怯えとも敵意とも取れる表情を見せる。ルミナスはそんな彼らの表情を見ては気持ちが落ち込んでいる様子だ。彼女は歩きながら、エクレティオの神官にどうしてこんなことになっているのか、夜の神の話は信じられなかったのか、聞かなくてはならないと決意を固めた。
少し歩くと教会が見えた。旅を始めて最初の街。高い丘の上に建ったその教会は、アルカディアと同じく街のどの建物よりも大きいように見える。入り口の扉の前には、ヘインズと同じように鎧に身を包んだ一人の男性が立っていた。彼は近づいてくるルミナスとヘインズに気付くと、笑顔を浮かべながら自身の胸に握り拳を当て、声をかけてきた。
「これはこれは、アルカディアの神官様。遠路はるばるようこそいらっしゃいました。私はこの街の神官騎士、ノエル=ブラスと申します。以後、お見知りおきを」
予想していたものとは違った対応に少し困惑しつつ、ルミナスも挨拶を返す。
「初めまして。私はルミナス=アルカディア。彼は私の騎士を務める、ヘインズ=ゴーガンです。よろしくお願いします、ノエルさん」
ヘインズもノエルに倣い、胸に握り拳を当てて一礼する。彼はこの教会にきな臭いものを感じていたが、まだ何も分かっていない現状から、神官騎士として最低限の振る舞いをしなければならないと判断したようだ。
「それで、ノエルさん。あんた、俺たちが来るのが分かってたみたいだが……」
「ええ、この教会にもあなた方と同じく夜の神を名乗る者が現れましたからね。さあ、中で神官様がお待ちです。どうぞお入りください」
他の教会にも神が訪れたことは知らされていたが、それを信じた神官はいなかったということもルミナスから聞いていた。どうにも腑に落ちないと思いつつ、ルミナスの方を見やるがそれは彼女も同じ様子だった。それをこれから見定めるのだ、と言わんばかりに彼女はノエルの手で開かれた扉をくぐる。彼もそれに続いた。
教会の中はアルカディアのものとはあまり変わりがないようだ。祭壇の前に、こちらに背を向けて立つ姿を見つけた。ルミナスと同じくローブを羽織ってはいるが、その背丈から男性だとわかる。その背中がこちらに振り返る。
「やあ、アルカディア。そして騎士公。僕は見ての通りこの街の神官。レナルド=エクレティオ。よろしくね」
「ルミナス=アルカディアです。よろしくお願いします、エクレティオさん。あの、唐突ですが――」
「おっと、聞きたいことがあるのは当然承知の上だけど、まずは最初の目的を忘れちゃいけないよ」
旅の目的はノクトゥーアの全ての教会で祈りを捧げること。彼の言うことは尤もだ、と祭壇の前に立っていつものように祈りを捧げる。
――ノクトゥールに捧ぐ。
気持ちを落ち着かせる。コン、と杖を地面に鳴らし、左手を胸に当て、目を閉じて囁くように唱えた。ゆっくり目を開くと、蝋燭の燭台を手に弄り、祭壇に足を組んで座る影が見えた。レナルドでもノエルでもないその影は、三日前にアルカディアで感じた異彩な空気を放っている。夜の神だ。相変わらずよく見えない顔の、その口元が開く。
「久しいな。ルミナス=アルカディア、そしてレナルド=エクレティオ。予想していたよりも数刻ほど遅かったな」
「久しぶりと言うほどではありませんよ、ノクトゥール様。つい昨日もお会いしたばかりでしょう?」
口を開いたのはレナルドだった。ルミナスが彼を振り返ると、教会の入り口近くでヘインズとノエルが片膝をついているのが見えた。レナルドとノクトゥール様はもう数回は会っている? いったいどういうことか、と交互に二人の姿を見る。
「そうであったな。それで? 準備の方はどうなっている?」
「ノクトゥール様ならば聞かずともお分かりでしょうに……。もちろん万全です。民の不満は少しずつ積もっているようですが、そちらはなんとかしましょう」
「あの……いったいどういう……?」
遂にルミナスの声が二人の会話に割って入る。ますます状況が飲み込めない。
「ああ、すまない。君には何も話していないのだったな。お前もこの街に入って民の態度に気が付いたことだろう。その件については君から説明してやるといい、レナルド=エクレティオ」
「心得ています。それで、彼女たちには今後も?」
「うむ。できるだけ早くとは伝えたが、人間の体力というものを考慮していなかったようだ。アルカディアに馬がいないというのも失念していた。君が取り計らってやるといい。では私はそろそろ行くとしよう」
「かしこまりました。月の輝きの潰えぬことを……」
レナルドの言葉を最後に教会を覆っていた緊迫した空気が消える。夜の神の姿は既になかった。ふう、と息を吐いてレナルドがルミナスに向き直る。
「ぽかーんとしているね。まあ、無理もないか。ひとまず色々と話したいところなんだけど、教会だとどうにも落ち着かないね。街に出ようか。お気に入りの店があるんだ」
「は、はあ……」
ルミナスもヘインズも完全に置いてけぼりを食らっていた。
レナルドのお気に入りだという店への道中、彼は通り過がる街を一つ一つ指さしながら笑顔で、あそこの肉はどうの、ここの葡萄酒の質がどうの等と案内をしているがルミナスの耳には全く入ってこない。杖を両手でぎゅっと握りしめ、俯きがちに歩く。
街の人々は彼らを見るなり店の陰に隠れたり、目を伏せたりしている。まるでそんなものは見えていないといった様子で、彼は終始、笑顔を貫いている。ヘインズとノエルは二人の神官の後ろを歩き、何やら話しているようだ。この街に着いてから訳の分からないことばかりだ。
「さあ、着いたよ。ここのコーヒーは美味しいんだ。……やあ、こんばんは。できれば僕たちだけで話せるとありがたいんだけど。それとコーヒーを四人分、頼むよ」
レナルドが店主にそう声を掛けると、他の客はぞろぞろと代金を置いて店を去っていった。その様子を気に入らない、と彼を睨んだヘインズをノエルが宥めるように言う。
「お気持ちは察します。ですが、まずは話を聞いていただきたい。よろしいですね?」
「……ああ、分かったよ」
ちっ、と舌打ちをしてヘインズは適当な席に腰を下ろした。それに倣ってルミナスとヘインズ、レナルドとノエルが向かい合うように席に着く。窓の外にはこちらを見まいと歩く街の人々。それを見て俯くルミナスをレナルドは困った笑顔で見つめ、窓から見える街並みを眺めた。
「お、お待たせしました……」
怯える店員はコーヒーを置くとそそくさと店の奥に引っ込んでしまった。やっぱり異常だ、と出されたコーヒーに角砂糖を一つ落として啜るレナルドにどう切り出していいか分からず、じっとカップに映る自分の顔をルミナスが見ていると野太い声が一番槍を務めた。
「それで? いったい何がいったいどうなっているんだよ? この状況は! 街のやつらの様子は! あの夜の神との会話の要点は!」
レナルドは口に付けたカップをソーサーに置き、
「まずは落ち着いて。言ったろう? ここのコーヒーは美味しいんだ。味わわなくては損だよ」
ヘインズはたまらず席を立ち、テーブルをどん、と殴る。眼前のレナルドとノエルは微動だにせずコーヒーを飲んでいる。その様子に更に腹が立ったヘインズが口を開きかけたとき、落ち着いて、とヘインズの外套を引っ張る彼女を見て我に返った。腰を下ろし、黒い液体を一口飲んで腕組みをして押し黙る。ルミナスも同じように一口、飲む。ほろ苦さが口を包む。
「ありがとう。まず、どこから話すべきか……」
とんとん、と指でテーブルを叩いて続ける。
「僕がノクトゥール様に初めてお会いしたのは、今からおおよそ四ヶ月前。その時は信じられなかった。まさか神様に直接お会いするなんて考えられなかったからね。当然さ。逆にあっさりと信じられた君はすごいと僕は思うよ、アルカディア」
馬鹿にされているようで少しムッとした顔でレナルドを見る。彼はそんなことは意にも介さず、
「そのとき僕が仰せつかったのは、今の君たちが置かれている状況と同じもの。つまりはこの国の全ての教会で祈る旅だ。残念ながら僕はすぐにノクトゥール様を信じられなかったからね。その役目をまだ少女の君に押し付けるようなことになってしまったのは申し訳ないと思っているよ」
ここまでで夜の神の言っていたことに偽りはないようだ。やはりこの神官も初めての邂逅では信じられなかったのだろう。
「それから毎晩夢を見るようになった。今や子どもでも知っているような古い昔話。大陸を分けた大戦の神話さ。夜の神と昼の神の争いの夢。不思議な夢だった。まるで夢とは思えないほどの現実感。正直、恐れで身が震えたよ」
ここにきて出た神話という単語に怪訝そうな顔を浮かべたアルカディアの二人を見て、コーヒーを一口飲んでこう続ける。
「まあ、他人の夢の話なんてつまらないだろうね。そして、そんな夢を見るようになって幾夜か過ぎたころ、またノクトゥール様にお会いしたんだ。そのときにはもうこの人が夜の神様なんだと確信した。よくわからないけど、すんなりと信じられたんだ。そしてノクトゥール様は仰った」
窓から射す月の光を仰ぎ、言う。
「――戦争を始める、とね」
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