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ⅡーⅡ 《囲む絶景》
「――んっ、あれ?」
ルミナスは目を覚ます。いつもの見慣れた天井ではない。固い土の上で寝たせいか体が痛い。痛みでだんだんクリアになってきた頭で昨日の出来事を思い返した。そっか、旅に出たんだった。懐中時計で時間を確認する。五時。結構長い時間寝ていたようだ。
横を見るとヘインズはまだ眠っている。水を飲もうと立ち上がると、足は筋肉痛でギシギシしている。
「いてて。まさか、自分の体がここまで貧弱だったなんて……」
周りを見渡してみるとヘインズが張ったと思われる薄い赤色の結界が見えた。その先に、
「あ……」
一頭の大きな熊がこちらを見ていた。
――どうしよう。起きてすぐに熊肉は重すぎる。でも捌けないし、捌けたとしても二人分の食事にしては多すぎるよ。いや、昨夜は食べなかったから案外いけるかも……? いや、無理かな。燻製するのは時間がかかるし保存する手段もないし。そんな魔法なかったかな。もう少し真面目に勉強しておけばよかった。そもそも持ち運びにはいささか重すぎるよね、などど考えているとヘインズも目を覚ました。
「おはようございます、ヘインズさん」
「ふわああ……。おはよう」
「はい、お水です。ところであれなんですけど」
未だこちらを餌にしようとしている熊の方を指さす。指の先に目を向けたヘインズはつまらなそうに、
「無理。ありゃ重すぎる。二つの意味で」
ですよねー、と苦笑いで相槌を打つ。ならば追い払おうと彼の張った結界を壊し、熊の方へと歩いて行く。近づいても熊は威嚇もせず、ただこちらを見ている。大人しい子だなあ、なんて思いながら、
「おはよう。悪いんだけど、私たちはあなたのご飯にはなれないし、私たちもあなたをご飯にする気はないからあっちの方に行っててね」
声をかけると熊は吠えもせずそのまま立ち去って行った。魔法で特に熊と会話できるようにしたという訳ではない。単純に熊の野性的本能から彼女らを相手にするのは不可能だと理解したのだろう。ほっ、と安堵の息を漏らして食事の準備に取り掛かっているヘインズの方に戻る。
「相変わらず肝が据わってんなあ。誰に似たんだか」
「さて、誰でしょう。そんなことより、ご飯の時間です!」
食事は玉ねぎのスープだ。ルミナスは彼の料理をしているところをじっと見ていた。薄くスライスされたアルカディアの玉ねぎをバターと一緒に炒める。飴色になったところで水を入れ、沸騰したところで香辛料を入れてしばらく煮る。ルミナスとヘインズのそれぞれの器にスープを取り分け、パンとヤギのチーズを乗せて魔法で一気に過熱させたところで完成だ。これなら彼女にも作れそうだ。
「「いただきます」」
「美味しい……。ねえ、ヘインズさん」
「ん?」
「なんでお鍋やこんな器があるんですか?」
「そりゃあメシは大事だろ?」
「は、はい」
「以上だ」
ぽかーん、と口を開けてしまった。旅にはもっと他に大事なものが必要なんじゃないだろうか。いや、きっと旅に慣れたヘインズの言うことならば正しいのだろう、とルミナスは無理やり信じることにした。
他愛もない会話をしながらの食事を終えるとヘインズは地図を確認し、出発するぞ、と彼女に一声かけた。
筋肉痛があるとはいえ、少しは道に慣れたのか昨日に比べて歩くペースは速かった。それにしてもこれだけ歩いてなお、林を抜けられないというのはどういうことだろう。林というより森に名前を変えた方がいいのではないだろうか、なんて思いながら歩くこと数時間、ようやく林の出口が見えた。
「ようやく出口が見えてきたな。あそこを抜ければ多少は楽になるだろう」
「やったー! ようやく木ばっかりの景色が終わりますね!」
「ああ。こう木ばっか見てても気が滅入るからな」
――聞かなかったことにした。
林を抜けて見えた景色は、そびえ立つ黒い山々に囲まれた平原だった。山の頂には雪が積もっているように見える。宵闇の大きな山の黒いシルエットと月の光を跳ね返す白い雪のコントラストは、月を映す鏡のような海とはまた違う美しさだ。今まで歩いてきた疲れを忘れてしまう程の光景だった。
「すごく綺麗……」
「圧巻だな。さあ、ここらで休憩にするぞ」
冷えた草の上に腰を下ろし、山を見ながら羊の燻製肉を食べる。
「あとどのくらいでエクレティオに着きそうですか?」
「そうだな……。今は地図で言うと、林を抜けたすぐのここだな。十六時か。実は少し歩けば街は見えるんだが、距離はまだある。さっき抜けた林道な、あれは緩やかな坂になっていて、俺たちはこの山の一部を抜けて来たわけだ」
「知らず知らずのうちに山登りしてたんですね。道理で熊なんているわけです」
「今から休まずに歩いたとして到着は二十三時ぐらいか。そんな時間じゃ、碌に店も宿もないから少し歩いてもう一日野宿だな」
「うぅ。お風呂入りたいです……」
ぽんぽん、と彼に頭を叩かれた彼女は寝転んでもう一度山を見る。山の頂上から見る空は、今二人のいるこの場所よりも綺麗な星空が待ってくれているのだろうか。そこから見下ろす世界はどれほど壮観なことだろうか。想像することすら叶わない。
この世界には、この国にはまだ彼女の知らないものが沢山ある。それはきっとこんなに綺麗なものばかりではないのだろう。でも、それがどんなものであれもっと知りたい。もっと見たい。抑えられない衝動で彼女の鼓動は高まっていた。勢いよく立ち上がり、
「――出発です!」
ああ、と笑ってヘインズもゆっくり立ち上がり、足取りも軽く一人歩き出す彼女の背を追いかけた。
満天の空の下、景色を楽しみながらゆっくり歩いていると、眼前に星の見えない黒の空間が現れる。近づく度にそれは大きくなって、やがて目の前いっぱいを覆ってしまう。小高い丘だ。これを登らなくてはならないのか、とヘインズに目を向けると、彼は頷いてその疑問に答えた。ごくり、と生唾を飲んで歩みを進めた。
林道を歩くときにはほとんど気にもならなかったが、斜面に一歩踏み出す毎に脹脛と太ももが筋肉痛で小さく悲鳴を上げる。杖がなくてはまともに歩くことすらできそうになかっただろう。街に着いたら丹念にマッサージしてやろう、とルミナスは心の中で決意を固めた。
「ほら、頂上だ。平気か?」
「はぁっ、はぁっ、よ、余裕、です……」
丘に登頂するなり倒れこんだルミナスを見て、満身創痍にしか見えんぞ、とヘインズは小声で呟く。だが彼の言葉は彼女の耳には入ってこなかった。自身の粗い息のせいもあるが、それ以上に眼下に広がる光景が彼女に視覚以外の情報を遮断させていたのだろう。
この丘を降りて少し離れたところに、ランプであろう灯りで煌々と輝くエクレティオの街があった。街の少し外れには、ランプとは違う色の灯りで照らされた小麦畑の黄金平原が一面に広がっている。
「すごい……」
「ああ。林を出てから感動しっぱなしだな。ここからもう近いように見えるがまだまだ遠い。せっかくの景色だし今日はここで野営するとしよう」
ヘインズが食事の準備をしている間、ルミナスは杖にぶら下げたランプの光を頼りに、地図と照らし合わせて今まで歩いてきた景色を望む。この丘からでもアルカディアが見えるかと思ったが、残念ながら林に遮られてそれは叶わなかった。
視線を山の方に向ける。あの山の麓に村が一つ。山を越えた向こうにも街や村がある。山越えかあ。今回の比じゃないくらい大変なんだろうな、と思った。
「おーい、準備できたぞ」
今晩はジャガイモ料理だった。面白い見た目で、ジャガイモに等間隔で切り込みを入れてその中にチーズと燻製肉のスライスを交互に挟んである。少しずつ切って食べるとホクホクしたジャガイモと、トロトロのチーズ。そして香辛料の不思議な香りの裏にふんわりとしたバターの風味。体がはやく次の一口をよこせ、とせがんでいるのがわかる。
「ヘインズさん。いつも不思議に思ってたんですけど、どこで料理覚えたんです?」
「昔からお前に旨いメシ食わせる為に、アルカディアのやつらに教えてくれって頼んでたんだよ。あとは、街を出てた頃に食った料理の見よう見真似だったり、自警団時代の知識の賜物ってやつだな。」
「へえ~、色んなこと知ってるんですね。それに比べて私は、何も知らないまま……」
「おいおい、暗くなってんじゃねえよ。お前が街を出られなかったのは仕方ないことだ。だったらこれから知っていけばいいだろ? その為の旅だと思っちまえ」
「……そうですね。ありがとうございます」
一通り目の前の食事に舌鼓を打ち終えた後、ルミナスは相変わらず景色を楽しんでいた。空を見上げれば白い月、満天の星空。目線を前に戻せば荘厳な山々。視線を落とせば幻想的な光の街。まるで夢のような光景を目に焼き付けるように、ただ何も言わず堪能している彼女の肩を抱き、ヘインズは声をかけた。
「出てきてよかったな」
「――うん!」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
翌日、目を覚ましても特に異常はなかった。街から近い場所だ。野党に襲われる心配をしていたが、杞憂に終わったようだった。ルミナスはといえば、昨日はあれだけ辛そうにしていたのにもう火をおこしている。
「おはよう」
「あ、起きたんですね。おはようございます。これからご飯の準備をしようと思ってたんです」
「いや、メシは燻製肉で持たせよう」
はてな顔で首を傾げる彼女も数時間後には満開の笑顔を咲かせていることだろう。そう思うと街への到着がとても待ち遠しく思えた。現在の時刻は五時を少し過ぎたころ。簡単な食事を終えて、二人は丘をくだる。筋肉痛にまだ苦しむ彼女とは裏腹にヘインズの心は明るかった。
丘を降りたルミナスは後ろを見つめる。恨めしそうな表情をしたかと思えばすぐに名残惜しそうな表情へと変わった。この表情の変化をヘインズは面白そうに、
「あそこに住むわけにもいかんだろう?」
と茶化した。あはは、と笑って彼女はようやく進むべき道に向き直った。しばらく歩くと、あの丘で見た金色の平原が見えてきた。間近で見る一面の小麦畑に彼女は飛び込もうとしたが、ヘインズはフードを掴んでそれを阻止した。
「ほら、あの光が見えるか?」
「え?」
コホコホ、と咳き込んでヘインズの指の先を見る。ランプとは違う、白い光だ。
「あれは野菜なんかの植物を育ててる農民のやつらが使える魔法の光なんだと。なんでも、あの光を一日の半分は当ててないと植物は育たなかったりほとんどが死んでしまうらしい。不思議だな」
「へえ、そうなんですね。私も覚えてみようかなあ」
「何に使うんだよ」
そう言ってヘインズは笑い、再び歩き出した。小麦畑の方を見ながらルミナスもつられて歩く。遠くの畑の中にぽつぽつと人影が見える。あの人たちが頑張ってくれてるから、私たちは美味しいパンが食べられるんだなあ、なんて思ってつい叫んでしまった。
「美味しいパンを、ありがとうございまーす!!」
遠くの人影は手を振って返してくれた。それに嬉しくなったルミナスも、ぶんぶんと飛び跳ねながら手を振った。ヘインズはちょっと照れ臭く思ったが娘の成長を素直に喜ぶことにした。でも、小麦はパンだけじゃないんだぜ、と心の中で小さくツッコミを入れておいた。そんな彼女の笑顔を楽しんでいるうちに街の入り口が見えた。
「さあ、ようやく着いたな」
「はい! 初めまして、です! エクレティオ!」
彼女は山に面した西の街に、最初の挨拶を交わした。
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