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ⅠーⅡ 《夜の神》
「あ! 神官様だ!」
ルミナスの帰りに気付いた子どもたちが駆け寄ってくる。子どもたちの声で仕事をしていた街の人も次々と集まってきた。街の人々はみんなルミナスを慕っているようだ。もちろん彼女がほぼ毎日教会を抜け出していることなど既に知れ渡っていた。
「神官様! 今日はどこまで行ってきたんで?」
「おかえりなさい! 神官様!」
「まったくうちの神官様はおてんばで……」
ルミナスもまた、そんなアルカディアの街と人々が大好きなのだ。
「あはは、皆さんただいまです」
「ほらほら! もう帰るから皆離れた離れた!」
「おうヘインズ! お前さんも大変だなぁ」
全くだ、と苦笑いを浮かべてヘインズは、まだ街の人々と話し足りなそうにしているルミナスを半ば引きずるように歩き出した。
街はそこかしこにあるランプの光でいつも明るい。物によっては灯りの消えないランプもある。所謂、魔法と呼ばれるものだ。
当然暗闇の中では人間に生活できる限界がある。それをなんとかしようと、夜の神は魔法という力をノクトゥーアの国民に与えたのだった。その魔法を駆使して国民はどうにか生活している。
「はぁ……ようやく教会に着いた。毎晩抜け出すの本気でやめてくれよな。連れ戻す身にもなれよ」
「はいはい。いつもありがとです。次もよろしくです」
「お前なぁ。ああ……お前の面倒見てると一生分の幸せを吐き出しちまいそうだよ」
街のどの建物よりもひと際大きな教会の入り口に腰を下ろす。その神官を十六年間世話してきたヘインズは、きっとまた彼女がいつも通り抜け出してもいつも通りここに連れ帰ってくれるのだろう。ルミナスは親代わりの彼を心の底から信頼していた。
「じゃ! 今日も精いっぱい頑張ってきます! そしてご飯はシチューです!」
「さらっとリクエストしてきたな……。おう、頑張ってきな」
笑顔で手を振るとヘインズも立ち上がり、右手を上げて去っていった。
ルミナスの仕事は神官である。神官はノクトゥーアのそれぞれの街にただ一人しかいない。夜の神に祈りを捧げ、街の人々の手伝いをするのが仕事……なのだが、まだ十六の彼女には料理の手伝い、子どもの先生代わり、家畜の世話などの簡単な仕事しか入ってこないのが現状だ。
それ故に退屈でどうも教会を抜け出してしまうようだった。帰ってきた今も特にすることもなくぼーっと長椅子に腰かけて手持ち無沙汰になっている。
――あー、シチュー楽しみだなあ。今日は誰も来ないのかなあ。さっきの海の向こうにはいったい何があるんだろうなあ。これからも毎日これの繰り返しなのかなあ、なんて考えてそれも結局不毛だと思った。
ルミナスの座っていた長椅子と通路を隔てた先に人影があることに気付いたのは、掃除でもしようかと立ち上がったときだった。
「あ、ごめんなさい。いらしてることに全然気が付かなくて……」
ルミナスの言葉に微笑んだように見えた。が、よく顔が見えない。さほど離れてもいないし、ランプの灯りも十分な明るさを保っている。不思議な雰囲気に少し警戒しつつ、再び声をかける。
「あの……? 私に何かご依頼でしょうか?」
「依頼……。そうだな、そういう形にしておこうか」
「……? えっと、まず、どちら様でしょうか」
おずおずと、男性とも女性とも取れないその声の主に尋ねた。どうしてもその姿から目が離せずにいる。目を離してはいないはずなのに何故か顔が見えない。背筋がぞくぞくする感覚に耐えながら彼(彼女?)の言葉を待った。
「私は君たちがノクトゥールと呼び、祈ってくれる者だよ」
「へ……あ、え?」
素っ頓狂な声を上げてしまった。当然だ。この国の創造主だ。動揺しない精神の方がどうかしている。目の前のこの人物は自らを、かの夜の神だと名乗っている。普通なら信じない。
だが、今のこの不思議な空気がその不信をどうしても否定する。心臓の音が聞こえてくる。冷や汗が止まらない。恐怖とは違う何かを感じている。
「信じ……ます」
「ほう。やはり君のところに来たのは間違ってはいなかったようだ、ルミナス=アルカディア」
深く深呼吸をして、いつものように左手を胸に当てる。
「ノクトゥールに捧ぐ」
「うむ。それで依頼なのだが、この国の全ての教会に出向き、今と同じように祈ってくれ、というものだ」
正直、まじで? と思った。この国にどれくらい教会があるかは勿論ご存知ですよね? とも。
「正気を疑ったな? 残念ながら冗談ではない。当然教会の数も知っている」
「うっ。さすがに心、読めるんですね……。でもなぜです? 人の足で行くよりもノクトゥール様がご自身で出向かれた方が速いのでは?」
失礼ですが、と一言添えて。
「心を読まずとも顔に出ていたぞ。当然私が出向く方が速い。一瞬だ。だが誰も信じなかった。私を神だと信じたのは君だけだったよ、ルミナス=アルカディア。それ故に君が行かねばならない。私が私の為に祈っても仕方がないからね」
「なるほど……。ですが祈りなら他の教会の神官の皆様も捧げているはずではないでしょうか?」
「当然の疑問だ。私を私と認めて真に祈ってくれる者が必要なんだよ。つまり君だ」
まだ少女の彼女がこの国の全ての教会に足を運ばなくてはならない。それは恐らく簡単な事ではないのだろう。目の前のこの方はいとも容易く言ってのけたが、どうしても不可能のような気がする。いったいどれ程の時間がかかるのかも分からない。
しばし無言で考えたが、断れそうにもない。なにせ、仕えるべき神からの言葉なのだ。なぜ他の教会の方々は、ここまで異彩な空気の中でもこの方を信じなかったのだろう、と一種の疑惑のような恨みのような感情を振り払い、
「わかりました。謹んでお受けいたします」
「助かるよ。ありがとう、ルミナス=アルカディア。一人では大変だろう。あの近衛騎士、ヘインズ=ゴーガンといったかな? 彼を連れて行くといい。期間は……そうだな。できるだけ早く、とだけ」
それだけ言うと、夜の神は影となって消えた。相変わらず顔は見えず終いだった。不思議な威圧感から解放されて長椅子にへたり込んでしまった。白昼夢だと思いたかったが、とても夢だとは思えなかった。それよりも、
「大変なことになっちゃったなあ」
ぽつん、と静かな天上を見上げて呟いた。
混乱しているようで頭の中は鮮明だった。先ほどの会話を脳内で何度も反芻させていたが、とても長い時間が経ったように感じて、ルミナスは二十四までの数字が刻まれた懐中時計に目を向ける。二十時。ここで考えても仕方がない。
結局来客は一人だけだったなあ、と立ち上がり戸締りを確認して教会を出た。
行先はヘインズの待つ家。旅に連れて行け、と言われたがどう切り出せばいいだろう。話したところで信じてくれるとは限らない。もし信じたとしても、共に付いて来てくれるという保証もない。この広大なノクトゥーアの国を自分の足で歩くなど荷が重いのでは、と軽々と引き受けたことを後悔した。
「今日はシチュー!」
ぱんっ、と頬を叩き頭に浮かぶ不安を大声でかき消して、彼女は走りだした。
冷たい夜風が頬を冷ます。銀色の長い髪がしなるように揺れる。街の人々はがむしゃらに駆けるルミナスに、何事かといった目を向けるが彼女はそれを気にも止めない。何もかも全て忘れて一心不乱に走る。走る。走る――。
ようやく家が見えた。窓からは明かりが漏れている。自然と頬が緩んだ。彼女は勢い良くドアノブを握り、
「シチューの時間です!!」
「どわっ! お前びっくりするから普通に入ってこい! あと第一声がそれかよ!」
急に扉を開けられて驚いたヘインズに、あはは、と笑って乱れた息を整える。彼は既に鎧を脱いで麻の衣に着替えていた。
「なんだ、走って帰ってきたのか。どんだけ食いたかったんだよ。ほら、お茶淹れてやるから座ってろ」
「うん……」
テーブルに着いて部屋の中を見渡す。今まで慣れ親しんだこの部屋とはもう別れを告げなくてはならない。テーブルや柱にできた小さな傷を見つけてなんとなく寂しい気持ちになった。十六年間の思い出が蘇る。
――そういえば、あの柱の傷は私が七つの時にヘインズを真似ておもちゃの剣で傷つけたんだっけ。叱られたなあ。傷をつけたことじゃなくて、危ないことするなって怒ってくれたよね……。
部屋を優しく照らす暖炉の前でよく本を読んでもらった。いつも物語の最後まで起きていることができず、暖かいベッドで目を覚ますことになった。
昔は一緒に風呂に入っていた。初めて一人で入ると宣言したときに、彼が少し寂しそうな顔をしていたのをよく覚えている。
月の光が射しこむ窓際で、ヘインズが洗濯しているのをよく眺めていた。手伝うと申し出ても、ガキには早えよ、といつも断られたことを思い出す。ここ数年はどうやらそうでもなかったが。
キッチンには今も昔も変わらずヘインズの背中が見える。その大きな背中が振り返って近づいてきた。
「ほれ。どうしたよ、キョロキョロして?」
「ありがとです。――ふぅ、えっと、なんでもない……です」
ヘインズの淹れた紅茶が身に染み渡る。咄嗟になんでもない、と言ってしまった。伝えなければならないことがあるのに、どう切り出せばいいのかわからない。もういっそのこと、一人で旅に出た方がいいのではないか。彼にまでこれ以上迷惑をかけるわけにもいかない。名案だと思えた。少し悩んだが、そうしよう、と小さく覚悟を決めてしまった。
ヘインズは難しい顔をしているルミナスを見て怪訝な顔をしたが、
「腹減ってんだろ? なんせ入ってくるなりシチューだって言うくらいだもんな」
と、優しく微笑んでまたキッチンに向かった。しばらくして二人分のシチューとパンを持って彼もテーブルに着いた。
「「いただきます」」
声を揃えて言うなり、ルミナスはシチューにがっついた。とはいえ多少は上品に。今は好物であるヘインズ特製のシチューを堪能することにした。しばらくの間は食べられなくなるのだ。
ふわっと香るヤギのミルクの風味。ヘインズらしく大きくゴロゴロしているが、柔らかく煮られているジャガイモやお肉。何よりもソースの旨味と酸味のバランスがとても素晴らしい。いつ食べてもあのヘインズらしからぬ繊細な味わいだ。
「お前の大好きなシチューだからな。味わって食えよ」
「もちろんです! おかわりもします!」
「ほんと、お前はこのシチューが好きだよな」
「料理も未だにこれだけは勝てる気が全くしないですよ。いつになってもレシピを教えてくれないんですから」
「ま、お前が一人前になったらな」
「じゃあ、頑張らなきゃですね!」
いつも通りの和気あいあいとした団欒だ。だがそれも今日で終わる。明日からは一人なのだ。ずっとこの時間が続けばいいのに、どうして私だけ、と思ってしまった。目の奥が熱い。徐々に視界がぼやけていく。
「おい、どうした?」
「ごめん、なさい……。あまりにも、美味しくて……」
溢れ出した涙を止めることができなかった。
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