楠木正成
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時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
生誕 | 永仁2年(1294年)? |
死没 | 延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日) |
改名 | 多聞丸(幼名)→兵衛尉→正成 |
別名 | 大楠公 |
神号 | 南木明神 |
戒名 | 霊光寺大圓義龍卍堂 |
墓所 | 観心寺 |
官位 | 兵衛尉、従五位上、検非違使、左衛門少尉、河内国・和泉国・摂津国守護、贈正一位 |
主君 | 後醍醐天皇 |
氏族 | 楠木氏 |
父母 | 父:楠木正遠(諸説あり)、母:橘盛仲の娘 |
兄弟 | 俊親(正俊)、正成、正季、正家 |
妻 | 不詳、一説に南江久子?[注 1] 滋子?(万里小路宣房娘)、[1] 橘(薄)朝臣以隆弾正少弼養女?[1] |
子 | 正行、正時、正儀 |
楠木 正成(くすのき まさしげ)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。
後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に天皇を助けた[2]。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。
明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。
目次
生涯[編集]
出自[編集]
河内の土豪説[編集]
『太平記』巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとある[3][4]。
楠木氏は橘氏の後裔とされる[5]。正成の母は、橘遠保の末裔橘盛仲の娘。また、任官には源平藤橘の姓が必要であるため、楠木氏は橘氏を借りたとする説もある[6][5]。『太平記』巻第三には楠木氏は橘諸兄の後裔と書かれており、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳は橘諸兄の墓といわれ、楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったともいわれる[5]。
また『観世系図』によれば観阿弥の母は河内玉櫛荘の橘正遠(正成の父・楠木正遠)の娘すなわち正成の姉妹という記録があり、この玉櫛荘を正成の出身地とする推定もある[7]。
得宗被官・御家人説[編集]
得能弘一が、楠木氏駿河国出身説を提唱し(「楠木正成の出自に関する一考察」『神道学』128)、筧雅博も、楠木氏の出自は、駿河国とした[8][9][5]。筧雅博は、その理由として
- 楠木正成の地元である河内の金剛山西麓から観心寺荘一帯に「楠木」の
字 ()はない。 - 鎌倉幕府が正応6年(1293年)7月に駿河国の荘園入江荘のうち長崎郷の一部と楠木村を鶴岡八幡宮に寄進したと言う記録があり楠木村に北条得宗被官の楠木氏が居住したと想定できる。
- 観心寺荘の地頭だった安達氏は1285年入江荘と深い関係にある鎌倉幕府の有力御家人長崎氏に滅ぼされ、同荘は得宗家に組み込まれたとみられる。それゆえ出自が長崎氏と同郷の楠木氏が観心寺荘に移ったのではないかと思われる[注 2]。
- 楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に
くすの木の ねハかまくらに成るものを 枝をきりにと 何の出るらん
と言う落首が記録されている[10]、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる[5]。
網野善彦は、楠木氏はもとは武蔵国御家人で北条氏の被官(御内人)で、得宗領河内国観心寺地頭職にかかわって河内に移ったと推定した[11]。正成は幼少時に観心寺で仏典を学んだと伝わる[8]。
また『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、
悪党・非御家人説[編集]
永仁3年(1295年)東大寺領播磨大部荘が雑掌(請負代官)でありながら年貢を送らず罷免された垂水左衛門尉繁晶の一味として楠河内入道がおり、黒田俊雄はこの河内楠一族を正成の父と推定し、正成の出自は悪党的な荘官武士ではないかとした[13]。
林屋辰三郎は河内楠氏が散所民の長であったとした[14][15]。兵藤裕己はこの説を有力とし、正成の行為も悪党的行為であるとした[15]。
元徳3年(1331年)9月、六波羅探題は正成が後醍醐天皇から与えられた和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した[8]。このことから、正成が反関東の非御家人集団とみなす説がある[8][16]。佐藤和彦によれば、楠木氏は摂津から大和への交通の要衝玉櫛荘を支配し、近隣の和田(にぎた)氏、橋本氏らは同族で、楠木氏は摂津から伊賀にいたる土豪と商業や婚姻によって結びついていた[16]。また植村清二はこの「兵衛尉」官職名から幕府御家人とした[17]。
正成を非御家人とみなす説について新井孝重は、楠木氏が「鎌倉武士のイメージと大きく異なるゆえに、もともと鎌倉幕府と関係のない、畿内の非御家人だろうと考えられてきた」が、「畿内のように交通と商業が盛んなところであれば、どこに暮らす武士であっても、生活のしかたに御家人と非御家人の違いはないとみたほうがよい。だから楠木氏その存在のしかたを理由に非御家人でなければならない、ということにはならない」と述べている[18]。
挙兵以前[編集]
元亨2年(1322年)、正成は得宗北条高時の命で紀伊国保田荘司湯浅氏を討ち、阿弖河荘を与えられた(『高野春秋編年輯録』)[11]。
挙兵から鎌倉幕府滅亡まで[編集]
赤坂城の戦い[編集]
その後、正成は得宗被官でありながら後醍醐天皇の倒幕計画に加担するようになった[11]。後醍醐天皇と正成を仲介したのは真言密教僧文観と醍醐寺報恩院道祐とされる[11]。ほか、伊賀兼光の関係も指摘されている。
元徳3年(1331年)2月、後醍醐天皇が道祐に与えた和泉若松荘を正成は所領として得た[11]。しかし、同年8月に倒幕計画が幕府側に知られると、後醍醐天皇と正成らは挙兵する(元弘の乱)。正成は「悪党楠兵衛尉」として鎌倉幕府の追及を受けた[11]。同年9月、六波羅探題は正成の所領和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した[8]。
9月の笠置山の戦いで敗北した後醍醐天皇らは捕えられ、残る正成は赤坂城(下赤坂城)にて幕府軍と戦った(赤坂城の戦い)。赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、 同年10月21日夜、赤坂城に自ら火を放ち鎌倉幕府軍に奪わせた[11]。鎌倉幕府は赤坂城の大穴に見分けのつかない焼死体を20-30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に関東へ帰陣した。
赤坂城の落城後、正成はその後しばらく行方をくらました。同年末、後醍醐方の護良親王から左衛門尉を与えられた[11]。
赤坂城の奪還・和泉・河内の制圧[編集]
元弘2年、正慶元年(1332年)4月3日、正成は幕府によって赤坂城(下赤坂城)に配置されていた湯浅宗藤(湯浅孫六入道定仏)を襲撃した。正成は城中に兵糧が少なく、領地の紀伊国の阿瀬河から人夫5、6百人に兵糧を持ち込ませ、夜陰に乗じて城に運び入れることを聞きつけ、その道中を襲って兵糧を奪い、自分の兵と人夫やその警護の兵とを入れ替え、空になった俵に武器を仕込んだ[19]。楠木軍は城内に入ると、俵から武器を取り出して時の声を上げ、城外の軍勢もまた同時に城の木戸を破った[20]。湯浅宗藤は一戦も交えることなく降伏し、正成は赤坂城を奪い返した[21][11]。
楠木勢は湯浅氏を引き入れたことで勢いづき、瞬く間に和泉・河内を制圧し、一大勢力となった。そして、5月17日には住吉・天王寺に進攻し、渡部橋より南側に布陣した[22]。今日には和泉・河内の両国からは早馬が矢継ぎ早に送られ、正成が京に攻め込むと可能性がある知らせたため、洛中は大騒ぎとなった。このため、六波羅探題は隅田、高橋を南北六波羅の軍奉行とし、5月20日に京から5千の軍勢を派遣した[23]。
5月21日、六波羅軍は渡部橋まで進んだが、渡部橋の南側に楠木軍は300騎しかおらず、兵らは我先にと川を渡ろうとした[24]。だが、これは正成の策略で、前日に、主力軍は住吉、天王寺付近に隠して二千余騎の軍勢を三手に分けており、わざと敵に橋を渡らせてから流れの深みに追い込み、一気に雌雄を決すという作戦であった[25]。正成は敵の陣形がばらけたところで三方から攻め立て、大混乱に陥った敵は大勢が討たれ、残りは命からがら京へと逃げ帰った[26]。
その後、六波羅は隅田、高橋の敗北を見て、武勇で誉れ高い宇都宮公綱に正成討伐を命じ、7月19日に宇都宮は京を出発した[27]。宇都宮は天王寺に布陣したが、その軍勢は6、700騎ほどであった[28]。
和田孫三郎は正成に戦うことを進言したが、正成は宇都宮氏が坂東一の弓取りであること、そして紀清両党の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評してその武勇を恐れ、「良将戦わずして勝つ」と述べた[29]。その後、夜にあちこちの山で松明を燃やし、宇都宮がいつ攻めてくるのかわからないような不安に陥らせ、三日三晩これを行った[30]。
7月27日夜半、宇都宮がついに兵を京へ引くと、翌朝には正成が天王寺に入れ替わる形で入った[31]。正成は 天王寺に進出してからその勢いをさらに増したが、庶民に迷惑をかけてはならぬと部下には命じており、すべての将兵に礼を以て接したため、その勢いはさらに強大となった[32]。
8月3日、楠木正成は住吉神社に馬3頭を献上し、翌日には天王寺に太刀と鎧一領、馬を奉納した[33]。
千早城の戦い[編集]
やがて、北条高時は畿内で反幕府勢力が台頭していることを知り、9月20日に30万余騎の追討軍を東国から派遣した[34]。これに対し、正成は河内国の赤坂城の詰めの城として、千早城をその背後の山上に築いた。正成は 金剛山一帯に点々と要塞を築きその総指揮所として千早城を活用し、千早城、上赤坂城、下赤坂城の3城を以て幕府に立ち向かうことにした。
元弘3年 / 正慶2年(1333年)2月以降、正成は赤坂城や金剛山中腹に築いた千早城で幕府の大軍と対峙し、ゲリラ戦法や落石攻撃、火計などを駆使して幕府の大軍を相手に一歩も引かず奮戦した(千早城の戦い)。正成は後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、 大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに幕府勢力に果敢に立ち向かい、同年3月に後醍醐天皇は隠岐を脱出した。
幕府の軍勢が釘付けになっている間、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、赤松円心ら反幕勢力が挙兵した。5月7日には足利高氏(のち尊氏)が六波羅を攻め落とし、京から幕府勢力は掃滅された。5月10日、六波羅陥落の報が千早城を包囲していた幕府軍にも伝わり、包囲軍は撤退し、楠木軍の勝利に終わった[35]。
そして、5月22日に新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたが、その挙兵は正成の奮戦に起因するものであった。正成の討伐にあたって膨大な軍資金が必要となった幕府はその調達のため、新田荘に対して6万貫もの軍資金をわずか5日で納入するように迫り、過酷な取り立てに耐え切れなくなった義貞は幕吏を殺害・投獄して反旗を翻したのである[36]。
正成は後醍醐天皇が京へ凱旋する際、兵庫まで出迎え、道中警護についた。
建武の新政[編集]
足利方との戦い[編集]
後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護となる。建武の新政において正成は後醍醐天皇の絶大な信任を受け、結城親光、名和長年、千種忠顕とあわせて「三木一草」と併称され[11]、「朝恩に誇った」とされる[37]。
だが、建武元年(1334年)冬、正成が北条氏残党を討つために京を離れた直後、護良親王が謀反の嫌疑で捕縛され、足利尊氏に引き渡された。その直後、正成は建武政権の役職の多くを辞職したとされることから、正成は護良親王の有力与力であったと見られている。
建武2年(1335年)、中先代の乱を討伐に向かった尊氏が、鎌倉で新政に離反した。追討の命を受けた義貞は12月に箱根・竹ノ下の戦いで破られて京へと戻り、これを追う尊氏は京へ迫った。
だが、翌年1月13日に北畠顕家が近江坂本に到着すると、正成は義貞や顕家と合流し、連携を取って反撃を仕掛けた。28日、正成は義貞、顕家、名和長年、千種忠顕らと共に京都へ総攻撃を仕掛ける[38]。この合戦は30日まで続いた[39]。この合戦の結果、尊氏は京都を追われ、後醍醐帝が京都を奪還する。
合戦は正成の策略と奇襲によって後醍醐帝らの勝利に終わり、京都の奪還には成功したものの、尊氏、直義兄弟ら、足利軍の主要な武将の首級を挙げることはできなかった。敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れたが、2月11日に摂津国正成は義貞、顕家とともに豊島河原(大阪府池田市・箕面市)の戦い(豊島河原合戦)で足利方を京から九州へ駆逐する。
朝廷との確執[編集]
この頃、正成は社会の混乱の全ては後醍醐天皇の政治にあること、力を持った武士階級を統制して社会を静めるにはもう公家政治では無理であること、そして武士を統制できる武家政治の中心となれるのは足利尊氏以外にいないことなどを考えていたようである。
『梅松論』には、後醍醐帝の軍勢が足利軍を京都より駆逐したことに前後して、2月21日に正成が新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだと天皇に奏上したという話がある[40]。その根拠として、確かに鎌倉を直接攻め落としたのは新田義貞だが、鎌倉幕府倒幕は足利尊氏の貢献によるところが大きい[41]。さらに義貞には人望、徳がないが、足利尊氏は多くの諸将からの人望が篤い、九州に尊氏が落ち延びる際、多くの武将が随行していったことは尊氏に徳があり、義貞に徳がないことの証である[42]、というものであった。
正成のこの提案は、『梅松論』にしか記載されておらず[43]、事実かどうかは不明である。しかし、歴戦の武将であり、ゲリラ戦で相手を翻弄する手段を得意とし洞察力に長けた正成は純粋に武将としての器量として、義貞よりも尊氏を高く評価していた[44]。加えて、義貞と正成は、相性があまりよくなかったといわれる。義貞は京都の軍勢を構成する寺社の衆徒や、その他畿内の武士達とは関係が薄く、『太平記』などに描かれる義貞は、鎌倉武士こそを理想の武士とする傾向があり、彼らへの理解に乏しかった。河内国などを拠点に活動する正成は、この点において、義貞と肌が合わなかったと考えられる[45]。一方で、尊氏は寺社への所領寄進などを義貞よりも遥かに多く行っていて、寺社勢力や畿内の武士との人脈も多かった。義貞よりも尊氏の方が理解できる、尊氏の方が徳があると正成が判断してもおかしくはないと考えられている[46]。
この提案は、天皇側近の公家達には訝しがられ、また鼻で笑われただけであり[47]、にべもなく却下されてしまった。正成は尊氏と和睦するよう進言したが容認されなかったばかりか、和睦を進言した事で朝廷の不信を買い、国許での謹慎を命じられた。そのため、後醍醐は義貞を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣したが、正成はこの追討軍からは外されている。
義貞は播磨国の白旗城に篭城する足利方の赤松則村(円心)を攻めている間に時間を空費し、延元元年 / 建武3年(1336年)4月に尊氏は多々良浜の戦いで九州を制覇して体制を立て直すと、京都奪還をめざして東進をはじめた。尊氏は高師直らと博多を発ち、備後国の鞆津を経て、四国で細川氏・土岐氏・河野氏らの率いる船隊と合流して海路を東進し、その軍勢は十万を越していた。一方、義貞の軍勢はその数を日ごとに減らし、5月13日に兵庫に到着した時には2万騎を切っていた[48]。
足利方が再び京に迫まり、義貞が兵庫に退却したという早馬が京へ届くと、後醍醐天皇は正成を呼び出し、義貞とともに尊氏を迎え撃つように命じた[49]。正成は帝に対し、「尊氏の軍勢は大軍であり、疲弊した味方の小勢でまともに正面からぶつかれば、決定的な負け戦になるでしょう。ここは新田殿を京に呼び戻し、帝は以前のように比叡山に臨幸して下さい。私が河内に戻り、京に入った足利軍を新田軍とともに前後から兵糧攻めにすれば、敵兵の数は減ることでしょうし、我々の軍勢には味方が日々馳せ参じるでしょう。その時を狙い、新田殿が比叡山から、私が搦手より攻め上れば、朝敵を一戦で掃滅すること可能かと思えます。新田殿もきっとこの作戦に同意するでしょう」と進言した[50]。この策は正成にとっては、比叡山に朝廷を一時退避して足利軍を京都で迎え撃つという、現実的かつ必勝の策でもあった。
この正成の進言に対して、諸卿らは「確かに戦に関しては武家に任したほうが良い」と、納得しつつあった[51]。だが、坊門清忠が「帝が都を捨てて一年に二度も臨幸するのは帝位そのものを軽んずる」とし、「味方の軍勢は少数ながらも、毎回大敵を滅ぼしてきた。それは武略が優れていた訳でもなく、聖運の天に通じたから」だと述べ、正成は即刻義貞のいる兵庫に向かうべきと主張した[52]。
その結果、後醍醐天皇は正成の意見ではなく、坊門清忠の意見を尊重した[53]。正成は今更反論しても仕方がないと考え、朝議の結果を受け入れた[54]。
兵庫への下向と決戦前夜[編集]
絶望的な状況下、義貞の麾下で京都を出て戦うよう出陣を命じられ、5月16日には正成は京から兵庫に下向した[55]。道中、正成は息子の正行に「今生にて汝の顔を見るのも今日が最後かと思う」と述べ、桜井の宿から河内へ帰した[56]。これが有名な楠木父子が訣別する桜井の別れであるが、史実であるかどうかは不明である。
24日、正成は湊川で義貞の軍勢と合流した。正成は義貞と合流したのち会見し、義貞に朝廷における議論の経過を説明した[57][58]。
『太平記』によるとその夜、義貞と正成は酌み交わし、それぞれの胸の内を吐露した[59]。義貞は先の戦で尊氏相手に連敗を喫したことを恥じており、「尊氏が大軍を率いて迫ってくるこの時にさらに逃げたとあっては笑い者にされる。かくなる上は、勝敗など度外視して一戦を挑みたい」と内情を発露した[60]。義貞は鎌倉を攻め落とすという大功を成し遂げたため、その期待から尊氏討伐における天皇方総大将という過重な重荷を担わされた。そのため、ずっと常に世間の注目を受けていて、それを酷く気にせざるを得ず[61]、箱根竹下での敗北、播磨攻めへの遅参、白旗城攻略の失敗などについて、義貞は強い自責の念を感じていた。
正成はこの義貞の心中の吐露に対して、「他者の謗りなど気にせず、退くべき時は退くべきであるのが良将の成すべきことである。北条高時を滅ぼし、尊氏を九州に追いやったのは義貞の武徳によるものだから、誰も侮るものはいない」といい、玉砕覚悟の義貞を慰めると同時に嗜めた。正成の説得で義貞の顔色は良くなり、夜を通しての彼らの物語に数杯の酒が興を添えた、と『太平記』は語っている[62]。
しかし、正成は周囲の悪評や恥にばかり固執して勝敗を度外視した一戦を挑もうとする義貞の頑迷さに、同情したが同時に落胆もしたのではないか、と峰岸純夫は分析している[63]。いずれにせよ、正成にとっては義貞と酌み交わした夜が最後の夜となった。
湊川の戦いと最期[編集]
25日の辰刻(午前8時頃)、楠木・新田連合軍は足利軍と海を挟んで湊川で対峙した(湊川の戦い)。正成は他家の軍勢を入れず、7百余騎で湊川西の宿にて布陣し、陸地から攻めてくる敵に備えていた[64]。『太平記』によると、正成も義貞も足利方の大軍に対して一歩もひるむことはなかったという[65]。
だが、戦いが始まると、連合軍は多勢に無勢であったため、正成と義貞の軍勢は引き離されてしまった。正成は正季に「敵に前後を遮断された。もはや逃れられない運命だ」と述べ、前方の敵を倒し、それから後方の敵を倒すことにした[66]。
正成は700余騎を引き連れ、足利直義の軍勢に突撃を敢行した。菊水の旗を見た直義の兵は取り囲んで討ち取ろうとしたが、正成と正末は奮戦し、良き敵と見れば戦ってその首を刎ね、良からぬ敵ならば一太刀打ち付けて追い払った[67]。正成と正季は7回合流してはまた分かれて戦い、ついには直義の近くまで届き、足利方の大軍を蹴散らして須磨、上野まで退却させた[68]。直義自身は薬師寺十郎次郎の奮戦もあって、辛くも逃げ延びることができた[69]。
だが、尊氏は直義が退却するのを見て、「軍を新手に入れ替えて直義を討たせるな」と命じた[70]。そのため、吉良氏、高氏、上杉氏、石堂氏の軍6千余騎が湊川の東に駆けつけて後方を遮断しようとしたため、正成は正季ともに引き返して新手の軍勢に立ち向かった[71]。
6時間の合戦の末、正成と正季は敵軍に16度の突撃を行い、楠木軍は次第に数を減らし、ついに73騎になっていた[72]。疲弊した彼らは湊川の東にある村の民家に駆け込んだ[73]。
正成は自害しようと鎧を脱ぎ捨てると、その体には合戦での切り傷が11か所にも及んでおり、ほか72人もみな同様に切り傷を負っていた[74]。正季が「7度生まれ変わって朝敵を滅ぼしたい」と述べると、正成も自分もそう思うと同意し、皆に「さらばだ」と別れを告げた[75]。正成は正季と刺し違えて自害し果て、橋本正員、宇佐美正安、神宮寺正師、和田正隆ら一族16人、家人50余人もまた自害し、皆炎の中に倒れ込んだ[76]。
死後[編集]
南朝寄りの古典『太平記』では正成の事跡は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書である『梅松論』でも正成に対して同情的な書き方をされている。理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な彼に一目置いていたためとされる。
息子の正行(後世「小楠公」と称される)を筆頭に、正時、正儀らも正成と同じく南朝方として戦い、正行と正時は四條畷の戦いで激戦の末に戦死している。また、彼らの子孫も後南朝に属して、北朝を擁する室町幕府と戦った。
南北朝の争いが北朝側の勝利に終わると、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしまった。だが、永禄2年(1559年)、正成の子孫と称した楠木正虎が朝敵の赦免を嘆願し、正親町天皇の勅免を受けて正成は朝敵でなくなった。
影響[編集]
軍学[編集]
今日でいうゲリラ戦法を得意とした正成の戦法は、江戸時代に楠木流の軍学として流行し、正成の末裔と称した楠木正辰(楠木不伝)の弟子だった由井正雪も南木流軍学を講じていた。
尊皇思想[編集]
江戸時代には水戸学の尊皇の史家によって、正成は忠臣として見直された。会沢正志斎や久留米藩の祀官真木保臣は楠木正成をはじめとする国家功労者を神として祭祀することを主張し、慶応3年(1867年)には尾張藩主徳川慶勝が「楠公社」の創建を朝廷に建言した[77]。長州藩はじめ楠公祭・招魂祭は頻繁に祭祀されるようになり、その動きはやがて後の湊川神社の創建に結実し、他方で靖国神社などの招魂社成立に大きな影響を与えた[77]。
明治になり南北朝正閏論を経て南朝が正統であるとされると「大楠公」と呼ばれるようになり、講談などでは『三国志演義』の諸葛孔明の天才軍師的イメージを重ねて語られる。また、皇国史観の下、戦死を覚悟で大義の為に従容と逍遥と戦場に赴く姿が「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、修身教育でも祀られた。
佩刀であったと伝承される小竜景光(東京国立博物館蔵)は、山田浅右衛門の手を経て、明治天皇の佩刀となった。明治天皇は大本営が広島に移った時も携えていたとされる。
明治政府は、南朝の功臣の子孫にも爵位を授けるため、正成の子孫を探した。正成の末裔を自称する氏族は全国各地に数多く存在したが、直系の子孫であるかという確かな根拠は確認することができなかった。このため、新田氏、菊池氏、名和氏の子孫等は男爵に叙せられたが、楠木氏には爵位が与えられなかった。その後、大楠公600年祭(昭和10年)を前後して楠木氏の子孫が確認され、湊川神社内に楠木同族会が組織されて現在に至っている。
戦後は価値観の転換と歴史学における中世史の研究が進むと悪党としての性格が強調されるようになり、吉川英治は『私本太平記』の中で、戦前までのイメージとは異なる正成像を描いている。もっともこの「悪党」という評価はあくまで歴史学のものであり、一般のものではない(悪党という言葉は、一般的に社会の秩序を乱す者ないし悪事をなす集団などを意味する用語である)。NHKのテレビ番組『堂々日本史』において「建武新政破れ、悪党楠木正成自刃す」というタイトルで放送された際、湊川神社がNHKに抗議する事件が起きている。
墓所・霊廟・史跡など[編集]
- 大楠公首塚 - 大阪府河内長野市観心寺
- 高野山真言宗の寺院、檜尾山観心寺の境内にある。湊川の戦いの後、尊氏の命によって送り届けられた正成の首級が葬られている。観心寺塔中院は、正成の曾祖父成氏が再建したと伝えられる、楠木家代々の菩提寺。
- 湊川神社 - 兵庫県神戸市中央区
- 楠木正成(大楠公)の神霊を主祭神とし、子息の楠木正行(小楠公)および湊川の戦いで斃れた一族十六柱と菊池武吉の神霊を配祀。戦後になって大楠公夫人久子の神霊も合祀された。神社として創建されたのは比較的新しく、明治5年(1872年)のこと。神社創建以前から存在した墓所には、徳川光圀によって墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が建立されている。異説もあるが、湊川の戦いで敗れた正成が弟正季とともに「七生」を誓って現在の湊川神社の北に位置する広厳寺 (廣厳寺)の塔頭で共に自刃して自害したとされる[注 3]。その後、塚に移された戦没地ではあるが、同時は墓所地と自害地を境内に有している(同寺本堂には正成とその一族の位牌がある)。
- 桜井駅跡
- 「楠公父子訣別之所」として知られ、「太平記第十六巻」の「正成兵庫に下向の事」(湊川の戦い)において1336年(延元元年・建武3年)、足利尊氏を討つべく湊川に向かう楠木正成が、嫡男の楠木正行を河内国に帰らせたと伝えられている。(→桜井の別れの項を参照)。櫻井の駅自体は、大阪府三島郡島本町桜井一丁目にある古代律令制度下の駅家の跡。1921年(大正10年)国指定の史跡である。
- 南木神社 - 大阪府南河内郡千早赤阪村建水分神社
- 建水分神社の摂社で、正成が祭神。本社の建水分神社は楠木家の氏神とされる。延元2年 / 建武4年(1337年)に後醍醐天皇により自ら彫刻の正成像が祀られたのが起源であり、後に後村上天皇より「南木(なぎ)明神」の神号を受けた。正成を祀る最古の神社。
- 楠妣庵観音寺 - 大阪府富田林市甘南備
- 臨済宗妙心寺派の寺院で、楠木家の香華寺とされる。楠公史跡河南八勝第二蹟、河内西国霊場第二十番札所。正平3年 / 貞和4年(1348年)に楠木正行・正時が四條畷の戦いで戦死した後、正成の妻で正行・正時の母の久子が、草庵を建立。敗鏡尼と称して入寂するまでの16年間、この草庵楠妣庵に隠棲し、楠木一族郎党の菩提を弔った。敗鏡尼の入寂後、楠木正儀は観音殿を観音寺と改め、不二房行者(授翁宗弼)を住まわせた。観音寺は楠妣庵と共に、兵火による度重なる衰退を繰り返し、更に廃仏毀釈により廃寺となった。大正6年(1917年)に草庵楠妣庵が復元再建、同11年(1922年)に観音寺本堂が再建された。
- 長滝七社神社 - 岐阜県山県市長滝
- 七社神社横に、八王寺宮と刻まれた楠公夫人久子(南江久子)の墓がある。正成の妻が楠木一族郎党の菩提を弔った後、戦乱の中、この地を離れ、美濃乃国伊自良村長滝釜ヶ谷奥の院に隠棲。地域の尊志を得て、久子の生地甘南備村の字名、長滝、平井、掛、松尾等を伊自良に与えた。奥の院にある甘南備神社は、楠木家の遠祖と称える橘諸兄の父、美努王を祀る。甘南備村の口碑には、楠木正成夫人久子は、観音像を念持仏にして、行脚に出たが、終わるところ知らずとある。墓は、伊自良湖の登り口、長滝七社神社境内西にある。楠公夫人がこの地に訪れた最大の理由は、新田義貞亡き後、その弟の脇屋義助が大将となり、北陸で敗れ、美濃の南朝一派と共に、最後の根尾城の戦いでも敗れ、根尾川の下流、本巣地区の北朝の根城を避け、一緒に戦った伊自良次郎左衛門の家臣と共に、伊自良に流れ、吉野に帰ったその経路に従ったものと思われる。
- 茨木城 - 大阪府茨木市
- 建武年間に正成が建てたとされる説のある城跡。現在は廃城であり、かつての搦手門が茨木神社に、復元された櫓門が茨木小学校に残る。
- 楠公産湯の井戸 - 大阪府南河内郡千早赤阪村
- 生誕の地から徒歩数分のところに「楠公産湯の井戸」とされる井戸がある。
- 春日大社 - 奈良県奈良市春日野町
- 国宝の黒韋威矢筈札胴丸(甲冑)は正成が奉納したと伝わっている。
- 平泉寺白山神社 - 福井県勝山市
- 平泉寺町平泉寺の神社。「楠正成公墓碑」がある。寺伝に拠れば正成の弟が当時、同寺宗徒であったがある日兄の夢を見た。のち、その日が戦死の日であったことがわかり、供養として墓を建てた、とされている。下って江戸時代には福井藩主の松平光通により、石柵と石畳参道が整備された。
- 楠公像 - 東京都千代田区
- 皇居外苑の二重橋を正面に見据える位置に建てられた銅像。明治23年(1891年)に住友家が開発した別子銅山の開坑200年記念事業として、東京美術学校(現在の東京芸術大学)に製作を依頼、製作には高村光雲、山田鬼斎、岡崎雪聲らが別子鉱山の銅が使って完成までに10年をかけて献納された。像のモデルは、隠岐から還幸した後醍醐天皇を兵庫で迎えた正成の姿であるとされる。[78]
- 奉建塔(楠公六百年記念塔) - 大阪府南河内郡千早赤阪村
- 正成信仰が隆盛のなか、没後600年を記念して、昭和15年(1940年)に全国の児童学生や教職員等の募金により浄心寺塞(上赤坂城支塞)跡に建てられた記念塔。正成討死の年齢43歳に因み、高さはおよそ43尺(約13m)。塔には家紋の菊水紋、旗印の「非理法権天」の文字が刻まれている(但し、旗印は史実ではなく伝承。非理法権天の記事を参照)。
関連作品[編集]
- 浄瑠璃
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- 『楠公櫻井の訣別(楠公)』常磐津節
- 唱歌
- 小説
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- 吉川英治『私本太平記』 講談社文庫:吉川英治文庫全8巻ほか
- 山岡荘八『新太平記』 講談社文庫:山岡荘八歴史文庫全5巻ほか
- 大佛次郎『大楠公 楠木正成』 徳間文庫、1990年10月 ISBN 4195991838
- アイヴァン・モリス『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』斎藤和明訳、中央公論社、1981年
- 高橋直樹「葛の楠木」『異形武夫』 新潮社、2001年4月 ISBN 4104452017
- 北方謙三『楠木正成』(上下) 中央公論新社、のち中公文庫 2003年6月、上 ISBN 4122042178、下 ISBN 4122042186
- 吉川佐賢『楠木正成 夢の花』(上下) 叢文社、上 2005年12月 ISBN 4794705387、下 2006年1月 ISBN 4794705395
- 安部龍太郎『道誉と正成』 集英社、2009年8月 ISBN 4087713121
- 漫画
出典[編集]
- ^ a b “楠木正成”. 2016年2月26日閲覧。
- ^ 『人物日本の歴史8』106頁。
- ^ 山下宏明校注『太平記』新潮日本古典集成、昭和52年,p113
- ^ 佐藤和彦編『図説 太平記の時代』河出書房新社、1990年p6
- ^ a b c d e 新井孝重 『楠木正成』 吉川弘文館、2011年、p58-63。ISBN 978-4642080668。
- ^ 生田目経徳『楠木氏新研究』東京清教社、1935年
- ^ 黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』中央公論社、昭和40年、1965年、p456
- ^ a b c d e 筧雅博 「得宗政権下の遠駿豆」『静岡県史 通史編2中世』、1997年。
- ^ 筧雅博 『蒙古襲来と徳政令 日本の歴史』10、講談社、2001年、p366-368。
- ^ 『後光明照院関白記』正慶2年閏2月1日条
- ^ a b c d e f g h i j 網野善彦「楠木正成」『朝日 日本歴史人物事典』,kotobank. ISBN 978-4023400528
- ^ 海津一朗『楠木正成と悪党』ちくま新書185,1999年、p43 ISBN 978-4480057853
- ^ 黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』中央公論社、昭和40年、1965年、p455
- ^ 『古代国家の解体』(1955年東京大学出版会、新版1983年
- ^ a b 兵藤裕己『太平記 〈よみ〉の可能性』講談社1995年、講談社学術文庫2005年,p70-73
- ^ a b 佐藤和彦「正成と尊氏」『図説 太平記の時代』河出書房新社、1990年p60
- ^ 植村清二『楠木正成』 至文堂(日本歴史新書)1962年
- ^ 新井孝重『楠木正成』吉川弘文館、2011年,p57-8
- ^ 「楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事」『太平記』
- ^ 「楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事」『太平記』
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- ^ 「楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事」『太平記』
- ^ 「正成天王寺未来記披見事」『太平記』
- ^ 「関東大勢上洛事」『太平記』
- ^ 「千葉屋城寄手敗北事」『太平記』
- ^ 峰岸・36頁
- ^ 『太平記』
- ^ ただし合戦の火蓋が切られたのは27日とも言われる。山本・199頁より
- ^ 山本・199頁
- ^ 峰岸・107頁
- ^ 峰岸・107頁
- ^ 峰岸・107頁
- ^ 山本・205頁
- ^ 峰岸・108頁
- ^ 山本・205頁
- ^ 山本・205頁
- ^ 山本・204頁、峰岸、107頁
- ^ 「新田殿被引兵庫事」『太平記』
- ^ 「正成下向兵庫事」『太平記』
- ^ 「正成下向兵庫事」『太平記』
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- ^ 「正成下向兵庫事」『太平記』
- ^ 峰岸・109頁
- ^ 峰岸・110頁
- ^ 「正成下向兵庫事」『太平記』
- ^ 峰岸・110頁
- ^ 「兵庫海陸寄手事」『太平記』巻十六
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- ^ 「正成兄弟討死事」『太平記』巻十六
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- ^ a b 靖国神社とはなにか―資料研究の視座からの序論― (PDF) 春山明哲、国立国会図書館月刊誌「レファレンス」No.666、2006年(平成18年)7月号。
- ^ “皇居外苑の魅力(3)- 楠公像”. 一般財団法人国民公園協会 皇居外苑. 2016年2月17日閲覧。
脚註[編集]
参考文献[編集]
- 植村清二『楠木正成』 至文堂(日本歴史新書)1962年、のち増補版中公文庫 1989年2月 ISBN 4122015871
- 黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』中央公論社、昭和40年、1965年
- 網野善彦「楠木正成に関する一二の問題」『日本歴史』264号、1970年
- 林屋辰三郎『古代国家の解体』1955年、東京大学出版会、新版1983年
- 童門冬二『楠木正成 物語と史蹟をたずねて』(成美文庫)成美堂出版 1995年6月 ISBN 4415065724
- 『神戸と楠公さん 悲運の名将楠木正成公の生涯』湊川神社同編集委員会、神戸新聞総合出版センター 2006年10月 ISBN 4343003795
- 平泉澄『楠公・その忠烈と余香』 鹿島研究所出版会 1973年8月
- 森田康之助『楠木正成 美しく生きた日本の武将』 新人物往来社 1982年6月
- 森田康之助編『湊川神社史上巻(祭神篇)・中巻(景仰篇)・下巻(鎮座篇)』
- 湊川神社社務所 1984年3月・1978年2月・1987年12月
- 展覧会図録 『御殉節650年記念 大楠公展』 神戸新聞社、そごう神戸店1985年5月
- 佐藤和彦編『図説 太平記の時代』河出書房新社、1990年
- 兵藤裕己『太平記 〈よみ〉の可能性』講談社1995年、講談社学術文庫2005年
- 網野善彦「楠木正成」朝日日本歴史人物事典,kotobank.
- 筧雅博「得宗政権下の遠駿豆」『静岡県史 通史編2』1997年。
- 筧雅博『蒙古襲来と徳政令 日本の歴史〈10〉』講談社 2001年。
- 海津一朗『楠木正成と悪党』ちくま新書185,1999年。
- 新田一郎『太平記の時代』講談社、2001年
- 森正人「1930年代に発見される楠木的なるもの」人文論叢(三重大学)第26号 2009年
- 新井孝重『楠木正成』吉川弘文館、2011年
- 峰岸純夫 『新田義貞』 吉川弘文館〈人物叢書〉、2005年5月10日。ISBN 4642052321。
- 山本隆志 『新田義貞 関東を落すことは子細なし』 ミネルヴァ書房日本評伝選、2005年10月10日。ISBN 4623044912。
関連項目[編集]
- 熊野国造(熊野国造和田氏)
- 桜井の別れ
- 後南朝
- 建水分神社 - 楠木氏の氏神で、摂社に正成を祭神とする神社では最古の南木神社を祀る。
- 湊川神社
- 茨木神社
- 千早神社
- 千早赤阪村 - 正成の出身地で、村内に多くの史跡がある。
- 福井城 (摂津国)
- 二上山城 (大和国)
- 楠宏 - 正成の子孫で地理学者・地球物理学者
- 日本三忠臣
- 日本三悪人
- 楠谷町 - 楠木正成終焉の地の説あり。
外部リンク[編集]
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