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正法眼蔵 仏向上事 31

黄檗希運禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

銘記せよ。黄檗禅師の言われた仏向上事(真実を得た後も真実に沿って日常生活を送って行く事態)というものは、現代における根拠のない事をしきりに主張する人々にとっては、理解したり事態を率直に認めたりという事は到底不可能な事であろう。根拠のない事を主張する人々は、釈尊の説かれた宇宙秩序の教えに関連しても法融禅師に及ばないところがある。仮に釈尊の説かれた宇宙秩序の教えに関連して、万一法融禅師と同じ程度に達していた場合があったとしても、法融禅師と同じ程度の兄弟弟子と言う事になるであろう。

どうして真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を送っていくと言う、仏道に関連しての重要な事項と言うものを承知している事があろう。そして、それ以外の菩薩の境地にある人々と言えども、真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を送って行くと言う重要な事項と言うものを承知していることがあろう。ましてその仏道修行におけるきわめて大切な問題を自由自在に取り扱って、その境地において楽しむと言う事がありえようか。

しかしながらこの真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を送って行くと言う基本的な考え方は、仏道を学ぶ上においての非常に大切な点である。同じ仏道修行をしているにしても、真実を得た後もさらに真実に沿って一所懸命に日常生活を送って行くという境地がわかったところで、初めて「仏向上人」と呼ぶ事が出来るのである。「仏向上人」にして初めて、釈尊以来代々の祖師方によって伝承されて来たところの真実を得た後もさらに真実に沿って一所懸命日常生活を送ると言う事態を、体験を通して、体を通して、納得する事が出来た人というのである。

         
             「正法眼蔵仏向上事」
             1242年旧暦3月23日
             観音導利興聖宝林寺においてたくさんの人々に説示した。

※西嶋先生の解説    
以上が「仏向上事」と言う巻であります。この「仏向上事」の巻で説かれている問題は、仏道において真実を得たと言う事によって外見が変わるものではないという事、真実を得れば得たなりに、外見上は普通の人と全く異ならない様子になって、きわめて淡々とした生活を送って行く様になると、そういう事を言っておられるわけであります。
   
ところが一般に仏道と言うものを考えると、悟りを開くと普通の人では出来ないような事が出来る様になるし、普通の人とはだいぶ様子が変わってくると言う様な迷信がある訳であります。そうすると、仏道を勉強したと言う人の間には、えてして普通の人と違った事をやって偉く思われようとして努力をする場合もある訳であります。
    
「仏向上事」と言うのは、偉く思われようという努力をしないという事であります。その事が真実と言うものに関連してかなり大切な事であります。真実を得ていると言う事が大切なのであって、真実を得た様に見えるという事、真実を得た様に人から思われる事はどっちでもいい事、むしろない方がいい事、という事でもある訳であります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅はどんな時にやればいいのでしょうか。毎日の生活に追われてなかなか時間が取れません。 

先生
坐禅は基本的に毎日やらなければ意味がない。参禅会などは、坐禅のやり方を覚えその体験を徹底して味わうという意味では有意義だが、坐禅の意味は毎日欠かさずやるところに生まれてくる。実際、夜寝る前に坐ると心地よい睡眠への導入となり、翌朝のさわやかな目覚めにつながる。さわやかな目覚めを迎えたら洗面後直ちに坐禅するといい。これによって、一日を仏教徒として過ごす身がつくられる。

専業主婦で朝、晩の坐禅が困難な場合は、毎朝、家族を送り出した後、家事の合間をみて独りで坐ればいい。現代生活は様々な用事によって制限されるため、時には5分~10分程度しか坐禅することが出来ない場合もある。しかしたとえ時間は短くても、坐禅をやった事の意義はやらなかったことに比べると真に大きい。坐禅道場では、線香一本が燃え尽きるまでの40分~50分を一炷と言い、これを坐禅時間の単位にしている。だが、短時間でも坐禅をすることによって、釈尊と同じ心身のリズムを浸透させる事が最大の修行であり最高の価値になる。


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正法眼蔵 仏向上事 30

黄檗希運禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

仏道修行を真剣にやっている場合には、必ずこの様な真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を努力してやっていくと言う大切な状態が現実のものとして現れるのである。仏向上事(真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を一所懸命やって行く事柄)というものは、自分が真実を得て仏の境地に到達した後も、さらに真実を得た人々を常に頭において日常生活の中に見出して毎日の生活を続けて行く事である。

悟ったからと言って惚れて仏をないがしろにすると言う事ではなくて、ごく普通の人が仏というものに憧れ、仏というものを尊敬するのと同じ様な状態で仏を見、仏を頭において日常生活を送る事である。まだ真実というものがサッパリ解らず、仏というものを自分以外のところに置いて考えていると言う状態の場合とその状態は異なるのである。

もし真実を得たのちもさらに真実と一体になって生活していく境地において、仏(真実を得た人)に対する対処の仕方が、普通の人々と同じように、仏というものを自分以外のところにおいて、それに憧れる、それに近づくことに努力するという事であるならば、仏を見るという見方については誤りを犯していると言わざるを得ない。その様な形で仏を自分以外のところにおいて、それを求める、それに近づこうとして焦ることであるならば、どうして仏向上事と同じだという事が言えよう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生は人間が一所懸命やる行動すべてが仏道修行だといいますが、行いにも善悪があると思いますが、悪事に没頭するたとえば泥棒三昧なんていうのは・・・・。
 
先生
その点では、仏道の世界は善悪を乗り越えた世界です。善悪にこだわっている時には坐禅の境地と言うのは無いんですよ。普通は善と悪があって、悪を離れて善につけというのが普通の宗教の教えです。仏教にはそれは間違いだと言う主張があるわけですね。つまり、善だ悪だとこだわっているうちはいい事は出来ない。善悪を乗り越えた世界で、一所懸命にやるのが真実の世界だと言う事でもある。これが仏教思想、非常に特徴のある思想です。

日常生活の経験からすると本当なんですよ。つまり夢中にやっている時に、本当の生活があり本当の人生があるというのが実情です。そうすると、善いか悪いかと頭の中で考えている状態、つまり余裕のある状態、切実でない状態は、真実の世界ではないと言う考え方が仏教にはある。西洋思想の場合は善と悪とに分けて、善がどう悪がどうと言う事で何千年も思想が発達してきたわけです。仏教思想のような形で「善悪を乗り越えるという中に本当の意味の実際生活がある」と考えざるを得ない面があります。
    
質問
坐禅の目的は「悟り」に達する事だと聞きましたが本当でしょうか。

先生
世の中には、坐禅をある種の「悟り」に達するための「手段」とみなす人々がいますがこれは間違いです。道元禅師の「正法眼蔵弁道話」には、「初心の弁道すなはち本証の全体なり」と書かれています。これは、「初心者が取り組んでいる坐禅が本質的な体験のすべてである」と言う意味です。我々は坐禅を始めた瞬間から釈尊と同じ境涯に安坐することができる。

坐禅に関するかぎり、初心者と熟練者の間に本質的な違いはありません。坐禅そのものが「悟り」に他ならないのであって、人は坐禅している自分に絶対の自信をもつべきです。「一秒坐れば一秒の仏」という言葉が、坐禅の本質をみごとに表現しています。


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正法眼蔵 仏向上事 29

黄檗禅師の言われた言葉について道元禅師の注釈は続きます。

牛頭山法融禅師は中国の第四代目の教団指導者である大医道信禅師のもとで長年にわたって修行を積んだ弟子であり、縦横無尽に論議するだけの力量は具えていた。仏教に関係した事柄についても、経典に関する師匠や論議に関する師匠たちと比較するならば、インドにおいても中国においても決して不足なところはない力量であったけれども、残念な事には、真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を努力して行くと言う、仏道修行における非常に大切な問題を承知していなかった。

仏道に関連しては、真実を得た後もさらに真実に沿って、一所懸命日常生活を努力して行くと言う問題がある事を言葉にして述べた例はない。もし仮に仏道を勉強している人が、今ここに述べた様な釈尊以来代々伝承されて来た極めて大切な事柄を承知していないならば、どうして釈尊の説かれた教えの何が正しくて、何が間違っているかと言う事を判断し、理解する事ができよう。その点では牛頭山法融禅師と言えども、ただ言葉だけで仏道を勉強している人と言わざるを得ない。

この様に考えてくると、仏道には真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を努力して行くと言う非常に大切な問題があるという事を承知しているかいないか、あるいはその非常に大切な事項を実際に修行しているかいないか。あるいはその大切な問題を実際に体験しているかどうかという点に関連しては、黄檗禅師の境地とはまったく別であるという事が言える。


 
          ―西嶋先生にある人が質問した―
質問
おうかがいします。仏向上人というのは、仏になってもやめないでますますやって行くんだと。洞山禅師だけが仏向上人だと。臨済禅師、巌頭禅師、雪峰禅師は仏向上人に該当しないのはどうしてですか。仏になってストップしたなんて事はないような気がするんですが・・・。
     
先生
臨済禅師も、徳山禅師も、巌頭禅師も、雪峰禅師も、とにかく仏道修行をして偉くなったんだけれども「俺は偉い」と思っていたと言う事が言えると思います。ところが洞山大師は「俺は決して偉くないんだ」と言う生活意識で生きておられた。その方が仏道修行の境地としては上だという事うを言っておられる訳です。
 
質問
じゃ初めは偉いというふうに思うんですかね。

先生
だから初めは偉くなろうと思って一所懸命修行する。これは誰でも共通していると思うんですよね。ただ本当に偉くなった場合には「俺は偉いんだ、俺は偉いんだ」と言う気持ちがなくなってしまう。ごく普通の人と当たり前の様な生活をするようになるものだ。しかし「仏道というのはそういうものが究極だ」という事に気づかれた方は割合人数が少ないと、そういう事を言っておられる。

質問
偉くなるって言うとおかしいんですが、他の方は師匠から証明をもらってその教団では錚々たる者になったんだけれども、得意になるわけですね。洞山大師は得意も何もなくなっちゃうわけですか。

先生
はい、そういう事を「仏向上事」と言っておられる訳です。

質問
なくなっちゃって、なお一所懸命やっているうちに無くなってしまう訳ですか。

先生
と言うよりも、自分でもそう偉いと感じて生きておらないし、人から見てもそう偉いとは見えない様な生き方をしている。ただ真実と一体になったと言うのはそういうものだと。だから、どっかに偉さが残っているうちはまだ本当のものと一体になったと言い切れないと、そういう主張がある訳です。

質問
仏道というのは、少々やったんではちょっと人から言われるような・・・。

先生
つまり、仏道修行をやって他の人とちょっと違ってきたと言う意識がある様では、まだ不十分だという捉え方ですよね。「俺は仏道修行をやったんだ、俺は他の人と違ってちょっと偉いんだ」と言う気持ちが残っているうちは、まだ本当に究極のところへ行ったかどうか解らないと言うのが道元禅師の主張です。

質問
偉いとか、偉くないと言うのはどういう事なんですか。

先生
そんなものはない、と言うのが仏教の主張です。


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正法眼蔵 仏向上事 28

黄檗希運禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。

ここで黄檗禅師が言われている釈尊以来代々の祖師方によって長い間伝承されてきた事柄というものは、釈尊以来代々の祖師方によって伝承されてきたところのものを言うのである。これを正法眼蔵(正しい宇宙秩序の眼目の所在)と言い、きわめて平隠さに満ち溢れた至福の心境とも言うのである。この様な状態は誰にでも具わっているけれども、たいていの場合はそれに気ずかずに一生を終わってしまう。

そして釈尊以来代々の祖師方によって伝承されて来たところの教えというものを勉強しない場合には、夢にさえその様な事態があるという事を知る事が出来ない。黄檗禅師は百丈禅師の弟子であるけれども、その力量は百丈禅師よりも優れていたし、また黄檗禅師は馬祖禅師の孫弟子に当たる人であったけれども、その力量においては馬祖禅師よりも優れていた。

一般的に言って、この黄檗禅師の前後三代、四代というふうな間を考えてみ見ると、黄檗禅師ほど優れた力量の人は見当たらない。黄檗禅師はその様に優れた力量を持っておられたから、牛頭山法融禅師の様子を見て、牛頭山の法融禅師には「牛の頭」と言う名前が付いているけれども、牛にあるべき二本の角が具わっていないと言う事をはっきりと承知された。この様な牛頭山法融禅師に対する判断と言うものは、黄檗禅師以外の祖師方は誰も気づかれなかったところである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
    --つづき

道元禅師の流れをくむ方でも、仏道の大衆化という事を考えて色々と信徒を増やされた方は沢山おられる訳です。我々が「正法眼蔵」を読めると言う事が仏道とは何かと言う事がわかる今日唯一の手がかりです。そう言う点から見ると、道元禅師が沢山の信徒を集めるためにもう少し優しい本を書かれるよりも、難しい本ではあるけれども、本当の事が書いてある本の方が仏道を勉強する上においては絶対の価値がある。


この「正法眼蔵」がなければ、私自身は仏道と言うのは絶対に解らなかった思う。仏道がまがりなりにも解る様な状況に立ち至ったと言うのはまさにこの本があればこそ。この本がなかったら、私は仏道と言うのは絶対に解らなかったと思う。多少勉強してみたところで、あっちに迷い、こっちに迷い、結局何が何だかよくわからんうちに「ハイさようなら」と言う時期が来ただろうと思う。その点では、この本の有り難さと言うものを私は非常に強く感ずる訳です。

そういう点からしても、仏道を説く場合に中身を変えると言う事は出来ない。仏道の中身と言うのは、動かしようのないたった一つの理論があるだけで、その理論以外に仏道と言うものは絶対にありえないという事、この事は非常にはっきりしていると思う。その事を解らせていただいたのが、この「正法眼蔵」だと言う事に他ならない。


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正法眼蔵 仏向上事 27

黄檗希運禅師が言われた。

本来、出家人(家庭生活を離れて僧侶になった者)は、釈尊以来代々の祖師方によって伝承されてきたところのやり方があるという事を承知すべきである。たとえば、中国における四祖大医道信禅師の弟子にあたる牛頭山法融禅師は、論議に関連しては自由自在で非常に優れた才能を持っていた。しかしながら、真実を得た後もさらに真実にそって日常生活を安定した状態で送っていくと言う、真実を探求していく上での大切な問題を知らなかった。

真実を得た後もさらに真実に沿って日常生活を送っていくという、ものの見方、ものの考え方を持っている状態ではじめて、何が誤っていて何が正しいかという基本的な考え方に対する人間の区分けというものがわかってくるであろう。



          ―西嶋先生にある人が質問した―
   --つづき

先生
仏道は沢山の人を集める事が目的かどうかと言うと、これは疑問なんですよ。仏道と言うのはかなり高度の思想だから誰にもわかると言う思想ではないんです。誰もが好きになる思想でもない。これははなはだ残念な事だけれどもね。誰もが「わ-、素晴らしい」と言う感じで今は受け取られる思想ではない。道元禅師が一箇半箇の人を養成すると言う事を言われたのは、仏道にはそういう性質があるという事を言っておられる訳です。
     
道元禅師だって勿論たくさんの人に仏道を説きたいと言う気持ちは当然あっただろうけれども、沢山の人を集めるために教えをまげると言う事は絶対にしないと言う確信はあったと思う。その事が「一箇半箇の真人を打出する」と言う言葉になって表れている。仏道を説く場合に沢山の人に聞いてもらう事はもちろん必要だけれども、中身を曲げてまで人を集める事は絶対に必要ない。

だから私は人を集めるための言葉は一言も言わない。言葉の技術として人を喜ばせる事は必要はあるかもしれないけれども、中身を変えるという事は絶対にしない。また仏道というものは中身の変わるべきものでもないと思っている。だから、仏道と言う思想をこれは本当だと思って学びたいと言う人だけしか集ってこない。それ以外は集ってこない。集めようと思っても、集める事で出来ないと言うのが実情としてあると思います。
                                 
「正法眼蔵』がなぜこんなに難しいかと言うと、仏道の中身は一つしかないんだから、それを一所懸命説こうと思ったらこう言うふうに難しくなってしまったという事なんです。道元禅師が別に難しい事を言うのが好きであった訳ではない。仏道と言うものを言葉で表そうとすると、どうしてもこういう難しいものにしかならなかったという事に他ならない訳です。
                       つづく--
     

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プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
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夫と二人暮らし。67歳。自営業。
自宅で毎日(朝・晩)坐禅をしています。
師事した愚道和夫老師より
平成13年「授戒」を受け、
平成20年「嗣書」を授かりました。    

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