猛禽類を思わせる風貌のルイ・ジューヴェ演じるサン=クレール
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 4月からスタートし、高視聴率を記録している昼の帯ドラマ「やすらぎの郷」(テレビ朝日)は、俳優や作家など、テレビ界を支えた功績者だけが無料で入れる老人ホームの日々を描いている。脚本を手がける倉本聰がモチーフとなった作品として挙げたのが、フランス映画の『旅路の果て』(1939)だ。78年前にジュリアン・デュヴィヴィエ監督が撮った同作は、南フランスにある俳優たちのための養老院が舞台になっている。(冨永由紀)

 かつて活躍した俳優たちが静かに余生を送る「サン・ジャン・ラ・リヴィエール」に、新たな入居者がやって来る。かつて二枚目として一世を風靡し、多くの女性と浮名を流したサン=クレールだ。彼の登場は、平穏だった日々に小さな波紋を呼び起こす。華やかな世界から身を引いた老優たちは寄る辺ない身の上だが、老いても枯れても捨てきれない俳優の性を抱えた個性派ぞろいだ。才能はあったが人気はなく、恋人をサン=クレールに奪われた過去のあるマルニー、現役時代の自慢話はホラばかりで、実は代役専門で一度も舞台に立ったことのないカブリザード、そして今や年老いた色男のサン=クレール。この3人が主要人物だ。

 老境を迎えてもドンファン気分のままのサン=クレールは、隣村のカフェでウェイトレスをしている少女ジャネットを誘惑する。ナイーブな17歳の少女を芝居がかった振舞いで夢中にさせていく様子は滑稽なようでいて恐ろしい。演じるルイ・ジューヴェがどこか猛禽類を思わせる風貌で、女を弄んではすぐに捨てる冷酷な人でなしの中に宿る俳優の狂気を漂わせている。サン=クレールにとって恋愛とは相手を思うものではなく、ひとつの作品として演じるものなのだ。彼は理想の結末を目指して、ジャネットをどんどん追いつめていくのだが、自ら思い描く主人公になりきって異様に高揚していく姿は、『サンセット大通り』(1950)のグロリア・スワンソンと並ぶ怪演。俳優、演出家として舞台で活躍していたジューヴェの本領が発揮されている。

 一方、代役専門で誇れるキャリアのないカブリザードを演じるミシェル・シモンはジャン・ルノワールの『素晴らしき放浪者』(1932)やマルセル・カルネの『霧の波止場』(1938)などで知られる性格俳優。現実を直視しない空威張りで、施設では浮いた存在の男を演じている。カブリザードは、施設の近くでキャンプするボーイスカウトの少年たちと仲良しで、毎年彼らの訪問を心待ちにしている。気持ちは二十歳のまま、さながらピーターパン・シンドロームの老人像が実にリアルだ。そんな彼に、舞台に立てるかもしれない機会がめぐってくる。経営難で閉鎖の危機が迫る施設のために、現役の俳優たちが慈善公演を企画したのだが、公演当日に主演俳優が倒れてしまい、古典劇の名優だったマルニーに代役の依頼が来る。それを知ったカブリザードは力ずくで役を奪い、代役の代役として舞台に立つチャンスを手にする。だが、誰よりもその舞台を見てほしかったボーイスカウトの少年は、恋人連れで別れのあいさつに訪れると、カブリザードの晴れ姿を見ることなく去っていく。子供の時間が終わる、この瞬間は痛ましく哀しい。息子のようだと言いながら、実は兄弟か親友のような気持ちで接していた少年が大人になってしまった。茫然自失で舞台に上がってもまるで集中できず、台詞が一言も出ないまま、幕が降ろされる。最初で最後の晴れ舞台を台無しにしたこともだが、どうしようもない寂しさに彼は絶望してしまうのだ。

 強烈なサン=クレールとカブリザードというキャラクターの間に立つのが、ヴィクトル・フランサン演じるマルニーだ。冷酷であったり、でたらめなようでいて、実際はとてつもなく繊細な芸術家という生きものが闇に吸い込まれていくのを目の当たりにする役どころだ。技術はあるが、スターにはなれなかった俳優という一見損な役回りだが、フランサンはアクの強い2人と変に競おうとせず、ストイックに演じている。マルニーが亡き友に心からの言葉を語りかけるラストシーンは忘れがたい。

 三者とも、この人以外は考えられないという適役なのだが、当初のキャスティングは別物だった。ジューヴェとシモンとともに起用されるはずだったのはデュヴィヴィエ監督の『舞踏会の手帖』(1937)にも出演し、当時絶大な人気を誇っていたレイミュだった。だが、カブリザードを演じる予定だったレイミュと製作側の折り合いがつかず、代わりにサン=クレール役だったシモンが演じることに。なんとジューヴェはシモンの代役だったのだ。そのジューヴェが演じるはずだったマルニーを演じたのはフランサン。シモンが演じるサン=クレールはちょっと見てみたい気もするが、レイミュ降板のおかげでキャストは適材適所に収まったのではないだろうか。

 ちなみに、撮影の一部は当時から実在する芸術家専門の養老院「Maison des Artistes(芸術家の館)」で行われた。映画の設定は南仏だが、こちらはパリ中心部から45キロほどの近郊にある。当然ながら、「やすらぎの郷」のように無料というわけにはいかない。

 「やすらぎの郷」とのもう1つの違いは、老いという現象の受けとめ方だ。これは2017年と1939年という時代の開きもあるだろう。平均寿命も社会通念も、ほぼ80年前と今では大きく違う。そして『旅路の果て』で演じている俳優たちや監督はまだ老年とは言えない中年世代(デュヴィヴィエ監督は43歳、共同脚本のシャルル・スパークは36歳、ジューヴェは52歳、シモンは44歳、フランサンは51歳)だった。彼らにしてみたら、82歳の倉本聰が脚本を書き、平均年齢は75歳を超える「やすらぎの郷」の主要キャストたちは仙人の域かも。設定こそ似ているが、まさに今その時を生きる作り手たちが描く現在進行形の老境と、約80年前の人々にとっての老いと矜持を見比べると、興味深い発見がありそうだ。