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六月の花

作者:乾物屋
 六月の雨。

 東京都北区「飛鳥山(あすかやま)公園」の桜は既に散り、京浜東北線の王子駅から上中里駅を結ぶ「飛鳥の小径(こみち)」では、梅雨の雨が降る灰色の空の下、七色に咲く紫陽花(アジサイ)の花が咲いていた。

 王子駅から小径を歩いて左を見れば、線路が南北に延びて時折走る電車が騒音を立てる。
 右側の石垣の上に咲く紫陽花は、幾つもの小毬の様な花を咲かせて、音を鳴らして走る電車を静かに見守っていた。
 緑の色彩に囲まれた紫陽花の花は、色が持つ冷酷な感情を消して清涼感だけを残していた。

 紫陽花の葉に当たる雨は、幻想的な音楽を奏でる。
 六月の雨は、紫陽花を美しくさせていた。



 二カ月前の春。
 桜の花が散り始めて葉桜へと姿を変える頃。第一志望の高校に無事入学した僕は、入学式の途中で激しい腹痛に襲われると、そのまま意識を失って救急車で病院に搬送された。
 診断の結果、膵臓にウィルスが入っていた事が判明。医者が言うには、免疫が低下している間に風邪の菌が膵臓に入ったらしい。
 免疫が落ちた原因は、発病までの潜伏期間を考えると、第一志望の進学校を目指して無理をした受験勉強が原因だと思う。
 その話を聞いた時、志望校に入学できた喜びが一気に消えて、地獄に落とされた気がした。
 さらに、元々仲の良くなかった両親は、責任のなすり合いの喧嘩を始めて、僕に追い打ちを掛けていた。

 二カ月後に退院して復学したが、既にクラスではグループが出来ていて、僕は高校で友達を作る事ができなかった。
 二カ月のブランクは学業にも響いていた。当然、休みの間も授業は進んで、教師の話を聞いても半分以上理解出来なかった。
 それ以前に、一学期は出席日数が足りなくて成績が付かないと担任から聞かされて、留年という言葉が頭をよぎる。
 担任は今から頑張れば間に合うと励ましていたけど、彼の目は僕を落伍者と見下していた。



 今年は例年よりも早く梅雨に入ると、空は梅雨雲に覆われて雨が地上へと降る日が続いた。
 雨の日は人は面倒だと思いながら傘を差して外を歩き、灰色の空と同じ鬱な気分で満員電車に乗り込む。
 梅雨の雨は東京の人間を不快にさせる。
 僕も朝起きて灰色の空から落ちる雨を見る度に、鬱蒼とした気分になっていた。

 最近の僕は満員電車に乗りながら、これからの人生について考える事が多くなっていた。
 もしこれが将来の夢や希望なら、気持ちも明るくなっていただろう。
 だけど考える事は、「どうやって人生を取り戻すか」それだけしか思い浮かばなかった。
 そして、考える度に頭痛が酷くなっていた。
 授業を受けても、勉強をしても、この事が頭をよぎって身に付かず、誰にも相談する事もできなかった。

 飛鳥の小径に咲く紫陽花を見たのは、僕の短い人生の中で最悪の時だった。



 初めて京浜東北線の車窓から見た七色の紫陽花が並んで咲く光景は、心に爽やかな風を吹きかけて僕の鬱蒼とした気分を一瞬だけでも払拭した。
 最後に紫陽花を見たのは何時だろう……あれは確か、小学校の五年か六年の時だったと思う。
 友達が投げたボールを受け取り損ねて体育館裏へ拾いに行った時、日当たりの悪い場所で静かに咲く紫陽花を目にした。
 僕は花の美しさよりも、葉の裏に居るかもしれないカタツムリの方に関心を抱き、ボールを拾った後もその日の授業が終わるまでカタツムリの事が気になっていた。
 あの時の僕は無邪気な(わらべ)で、花の美しさを理解するにはまだ子供だった。

 車窓から見えなくなった飛鳥山から視線を戻して現実へと帰る。
 満員電車の車内は苛立ちと無関心の人間で溢れていた。



 翌日。この日も朝から雨が降っていた。
 何時もより少しだけ早く家を出ると、王子駅で電車を降りる。

 僕は昨日見た紫陽花が忘れられなかった。
 抱えていた悩みが棘となり心に刺さる。逃げ出したいが、逃げる場所が見つからない。
 袋小路に追い詰められていた僕にとって、あの時の紫陽花は一筋の光明に思えた。

 通勤通学の人達の流れに従って中央口の改札口を出ると、繁華街とは逆の方へと足を向けて歩き始める。
 駅の高架下を出て透明な傘の下から空を見れば、灰色の雲から降り注ぐ雨が傘を叩き、雫は露先から地面へと落ちていた。
 僕の横を都電荒川線が自動車と一緒に明治通りの坂を登って姿を消す。
 都内を路面電車が走る様子は、昭和を知らない僕でもレトロな情景を感じさせていた。

 車が走る明治通りに背を向けて、飛鳥の小径へと歩き始める。
 古い家からぶら下った妙に印象が残るスナックの看板の手前を右手に見れば、雨に濡れる小さな地蔵が立っていた。
 その地蔵は梅雨雲の空の下、雨に濡れながら王子駅を向いて、彼等の安全を祈願しているように見えた。

 細い道を歩けば、右手の石垣の上に、幾つもの紫陽花が七色の毬の様な花を咲かせる。
 雨に濡れた紫陽花は雫を光らせ、緑のキャンパスに花の色を輝かせていた。
 左側の柵を超えた線路を宇都宮線が激しい音を立てて走ると、電車から吹く風に紫陽花は揺れて水飛沫が宙に飛び、空から降り注ぐ雨は再び紫陽花の花に雫を付けて水彩画を描く。

 飛鳥の小径は、自然と人工の境界線の狭間に存在していた。



 先の見えない小径を歩いていると、僕の歩く先で一人の若い女性が紫陽花を見ていた。
 彼女は若いと言っても僕より年上で高校生には見えず、大学生か予備校生ぐらいの年齢だと思う。
 やや明るく染めた茶色の髪はストレートに肩の少し先まで伸びて、薄暗い天気の中でも明るい印象を感じた。
 服装は長袖の部分がレース編みの白いTシャツと、膝丈までの薄いピンクのスカートを穿いていて、全体的に清楚な雰囲気があった。
 彼女は淡いピンクの傘を差しながら紫陽花に近づいて、小さい紫色の花を愛しむように見ていると思ったら、少し離れて毬の様に咲く花全体を眺め始める。
 その様子を横目に通り過ぎようとした僕へ、彼女が声を掛けてきた。

「ねえ。写真、お願いしても良い?」

 振り向いた彼女は花の様に美しく、雨の中、生き生きとした表情で僕を見つめる。
 美しい女性から話し掛けられて少しだけ恥ずかしくなるのと同時に、悩みの無さそうな彼女の表情を見て、何故か心が痛んだ。

「ダメ?」

 無言の僕に彼女が首を傾げる。

「大丈夫です」
「じゃあ、お願い」

 嫌とは言えず僕が答えると、彼女はスマートフォンを僕に渡して足早に紫陽花の横に並ぶ。
 スマートフォンの中の彼女は紫色の紫陽花に囲まれて、ピンク色の傘を差しながら無邪気に笑ってた。

「じゃあ取りますね。……ハイ、チーズ!」

 スマートフォンから電子音がした後、画面の左下に今撮った写真が映る。
 彼女にスマートフォンを返すと、画面弄って何度も頷いていた。

「やっぱり自撮りよりも他人に写してもらった方が、うまく取れると思わない?」
「……うん」

 突然尋ねられて気の利かない言葉で応じる。

「ねえ。もしかして、サボリ?」

 彼女は僕が着ている学生ブレザーを見ながら質問してきた。

「えっと……寄り道?」
「何で疑問形なの?」
「……何でだろう」

 返事を聞いた彼女は面白おかしく僕を観察していた。

「もし暇なら、他の色の紫陽花の写真も撮りたいから付き合ってよ」
「……はぁ」

 彼女の頼みに、素っ気ない返事を返す。
 それを肯定と受け取った彼女は嬉しそうに笑っていた。

「私は、杉山(すぎやま) 美紀(みき)。カメラマンさんの名前は?」
「……小川(おがわ) 優樹(ゆうき)
「じゃあ、宜しくね。優樹くん」

 こうして僕は雨が降る飛鳥の小径を、美紀さんと一緒に歩き始めた。



「優樹くん。何で紫陽花って花が纏まっているのかしら?」

 僕の前を歩く美紀さんが、青い紫陽花を見ながら僕に話し掛ける。

「寂しいから?」

 適当な思い付きで答えると、美紀さんは目を丸くしてからプッと吹き出して笑いだす。
 彼女の肩が揺れる度に、ピンク色の傘も同時に揺れていた。

「あははっ。何それ。だけど、私、その考え結構好きかも」

 そう言った後、美紀さんは僕の方を振り向くと顔を寄せる。彼女からは微かに花の匂いがした。

「ねえ。優樹くんは何でここに来たの?」
「えっと……電車から紫陽花が見えたから」

 ぎこちなく答えると、美紀さんが顔を近づけたままで首を傾げる。
 緊張で王子駅からのアナウンスの音が、遠くの方から聞こえるように感じた。

「花が好きなの?」
「いや……別に……」

 我慢できずに目をそらして、美紀さんの視線から逃げる。
 そんな僕を見て彼女はクスリと笑うと、背を向けて歩き始めた。

「私は紫陽花が好き。桜も好きだけど、あっちは世間が押し付けてくるって感じがしない?」
「何となく分かる」
「でしょ。桜が咲く頃になるとテレビでもネットでも、桜、桜、桜ってニュースばかりでチョット引くよね。あ、でも、桜餅は好きかな」

 そう言って、美紀さんが僕の方へ振り向く。
 彼女の笑う様子は、梅雨の鬱蒼とした僕の気持ちを振り払う。何となく、そんな気がした。

「見て、この紫陽花。すごく大きくない?」

 美紀さんが少し驚いた様子で見ている紫陽花は、バレーボールぐらいの大きさで、赤紫色をした小さい花びらの周りを白い大きな花びらが囲んで、万華鏡を覗いた時の様に華やかだった。

「ねえ。写真撮って」

 美紀さんはスマートフォンを僕に渡すと、大輪の紫陽花の横に立ち、スマートフォンを構える僕に笑い掛ける。
 紫陽花の横に立って微笑む彼女を写真に収めると、美紀さんが突然、僕の袖を引っ張った。

「え、何?」

 驚く僕を余所に、美紀さんは紫陽花の横に僕を立たせようとする。

「紫陽花の横に立って。写真、撮ってあげる」
「べ、別にいいよ」

 美紀さんは拒否して逃げようとする僕を面白そうに笑いながら強引に押しやると、スマートフォンを僕に構えた。

「大丈夫、大丈夫。別にSNSで晒したりしないって。チョット友達に年下のイケメンを自慢したいだけだから。……取るよーー。チーズ!」

 そう言って、美紀さんは嫌がる僕と紫陽花をスマートフォンのカメラに収めた。
 撮れた画面を見て美紀さんが笑う。

 彼女から見せてもらったスマートフォンの中の僕は、恥かし気にそっぽを向いていた。



 小径を歩いていると、僕たちの右手の木々の間から階段が現れた。
 視線を上げれば、遠くに見えていた線路の反対側へ通じる古ぼけた歩道橋が近くにあって空を隠す。
 その雨に濡れた歩道橋を見て、幽玄の小径から現実へと帰る橋。そんな気がした。

「どうする?」

 美紀さんが振り向いて僕に尋ねる。
 その言葉のニュアンスは、まるで僕を試しているかの様だった。

 僕は王子駅を降りた時、少しだけ紫陽花を見てから帰るつもりだった。
 だけど、美紀さんに出会って会話をする内に、心の中の鬱な気持ちが消えかけていた。

「……サボる」

 僕の答えを聞いた美紀さんが軽く肩を竦めてクスリと笑う。

「じゃあ付き合ってあげる」

 そして僕たちは階段を通り過ぎて、飛鳥の小径を歩き始めた。



 平日の雨が降る飛鳥の小径は、僕たちの前に歩く人は居らず、後ろにも歩く人は居なかった。
 手入れのされてないひび割れたアスファルトは水たまりを作り、僕たちはそれを避けて小径を歩く。
 時折、僕たちの横の線路を宇都宮線が騒音を立てて通り過ぎると、雨の音だけが聞こえていた。

「ねえ。優樹くんは『言の葉の庭』ってアニメ映画、知ってる?」

 歩いている途中で、美紀さんが足を止めると、飛鳥山の森を見上げながら僕に話し掛ける。

「知らない。ジブリ?」
「ハズレ。じゃあ『君の名は』って映画は?」
「それは知ってる。ストリーミングを買って観た」
「私は映画館まで行って観たわ。『言の葉の庭』はその監督が作った映画」
「どんな映画?」
「奇麗な映画よ。映像も音楽もストーリーも……その映画の中で、高校生の男の子が雨の日にだけ大人の女性と出会うの。ねえ、今の私たちに似ていると思わない?」
「見てないから分からないよ。その映画の二人は幸せになるの?」

 僕の質問に美紀さんは首を横に振る。

「ネタバレになるから、秘密。だけど、奇麗は残酷なのかもね……」

 何故か彼女の「奇麗は残酷」という言葉が僕の頭から離れなかった。



 僕たちは飛鳥の小径を外れて、飛鳥山へと続く自然の階段を登り始めた。

 階段を囲む新緑の樹木は翠雨(すいう)に輝き、雨に濡れた地面のシダは水滴を光らせる。
 後ろを振り向けば、灰色の空の下で青色と銀色の京浜東北線が走る姿が木々の間から見えた。
 都会の中に囲まれた人の手で作った自然。
 田舎に住んでいる人から見れば馬鹿げた場所だけど、東京で生まれた僕にはこれが普通の自然だった。

「山の中で電車がバンバン通るのを眺めるって、贅沢だと思わない?」

 美紀さんが僕たちの眼下を走る京浜東北線を眺めながら話し掛ける。

「この光景を作るのに金は掛かってるかもしれないけど、美しいとは思えないかな」
「美的センスがないのは確かね。東京で良い風景を撮ろうとすると、何時もその近くに電柱があって邪魔なんだよねぇ……」
「美紀さんは、写真を撮るのが好きなの?」

 僕の質問に美紀さんがピタッと動きを止めて、僕の方をゆっくりと振り返る。
 その笑顔は若干引き攣っている様だった。

「……お金があったら、一眼レフを買って世界中を飛び回るぐらい好きよ」
「……相当好きなんだね」
「上京してきたばかりだから貧乏なのよ。一眼レフをオシャレに持ってるだけの人を見ると殺意が湧くわ」

 美紀さんは溜息を吐いてから頭を横に振って、再び僕の前を歩き始めた。



 急な階段を登った僕たちの前には、雑木林の間を縫うように舗装された遊歩道が続いていた。
 雑木林の地面は雨に濡れた緑の苔と土が入り混じって自然の大地を作り、高低のある広葉樹の木々が都会の風景を覆い隠す。
 誰も居ない飛鳥山の林の中を僕たちは傘を差して歩いていた。

「人が居なくて静かだね」
「そうね。桜が咲いてる頃にも一度来たけど、人混みで凄かったわ」

 僕が話を振ると、美紀さんが頷いた。

「風情のない桜を見ても、心が落ち着かない気がする」
「全くもってその通りだわ。桜を見ていた人は全員浮かれていたからね」

 美紀さんは僕を横目に見ながら軽く肩を竦めていた。

 糸雨だった雨は次第に強くなって雨模様が激しくなる。
 雨に打たれる木々の葉は音を立て始め、遊歩道に浮かぶ水たまりの水紋は複雑な模様を作っては、刹那に消える。

「あそこで休みましょ」

 美紀さんが指さす先を見れば、黒い正方形のテーブルの様な屋根のある無人の休憩所が、新緑の木々に囲まれて物静か気に建っていた。
 コンクリートの階段を上って黒いテーブルの屋根の下へ行くと、僕たちはテーブルを挟んでベンチに座った。



 しばらくの間、お互いに何も語らず、雨の降る飛鳥山を観ていた。

 屋根から流れる雨は地面のコンクリートに弾けて激しい音を立てる。
 遠くの風景は霧に包まれ、僕はこの場所が閉鎖された幽寂の世界に感じていた。

 もし、この場所に僕が一人で居たら何を考えていただろう……。
 飛鳥の小径に入る前まで忘れていた、将来への不安が再び脳裏に浮かぶのと同時に頭痛が始まる。

「何を悩んでいるの?」

 悩みを抱える僕に突然、美紀さんが話し掛ける。その口から出た言葉に驚いて、思わず彼女の顔を見返す。
 美紀さんは先程と変わって、真剣な表情で見透かすように僕を見詰めていた。

「何で……そう思ったの?」

 心の中の動揺を隠して聞き返すと、美紀さんは少しだけ困ったような表情を浮かべる。

「わざわざ通学中に途中下車までして紫陽花の花を見に来たにしては、思い詰めてる表情をしてるわよ」
「…………」
「私が高校生だった頃の友達が時々優樹くんと同じ表情を浮かべていたわ。普段は明るいんだけど、一人で居る時だと悩んでいる表情を浮かべていたの」

 話を聞いている内に、胸が痛み始める。

「……それで、その人は?」
「その先は今の優樹くんには言えないわ」

 美紀さんは言わなかったけど、何となく彼女の友達はもうこの世に居ないと思った。

「最初に優樹くんを見た時、辛そうな顔をしていたから声を掛けたんだけど……。ねえ。悩み事があるなら言って。私じゃ解決できないかもしれないけど、相談するだけでも気分がスッキリす……」
「……失礼します!!」

 美紀さんの話を最後まで聞かずに席を立ちあがると、休憩所から飛び出す。

「……待って!!」

 背後で叫ぶ美紀さんの声から逃げる様に、僕は傘も差さずに雨の中を走り去った。

 何処を走ったのか覚えてない。無我夢中で走っていたら、僕は大きな記念碑の前まで来ていた。
 何故、美紀さんから逃げたのかは分からない。ただ、今の僕は涙こそ出なかったが、泣きたい気持ちで溢れていた。
 傘は休憩所に忘れて手元に無く、全身ずぶ濡れになって雨が降り注ぐ灰色の空を見上げる。
 梅雨の空は僕の考えを表して、大粒の雨を降らしていた。

 この日、僕は退院してから初めて学校を休んだ。



 家に帰ってからバスルームに入ると、シャワーを頭から浴びて目を瞑る。
 美紀さんから何を悩んでいるか聞かれた時に僕は答えられなかった。
 いや、美紀さんの友達の話を聞いて、雨に濡れながら帰る途中でその答えに気付いていた。
 「死んで楽になりたい」。ただ、今の僕には、それを受け入れる勇気はなく、怖かった。

 自分の部屋に戻ってベッドの上に横になる。
 共働きの両親は夜遅くまで家に帰らず、最近では顔を合わせる度に子供みたいな喧嘩を始めていた。
 既に二人の間では僕が高校を卒業するのを待って、離婚することが決まっているらしい。
 窓を叩きつける雨の音を聞きながら、何もかもを忘れたかった僕は何時の間にか眠りに落ちていた。



 寝苦しさに目を覚まして時計を見ると、夜の九時を回っていた。両親は未だに帰って居らず家は暗いままだった。
 朝から何も食べていない事を思い出すと、冷凍食品のドリアを温めて一人夕食を食べる。
 最近はどんな料理を食べても味がしない。だけどこれが普通になっていた。
 習慣は当たり前の生活となり、家族団らんの楽しかった思い出は僕の中から少しずつ消え始めていた。

 部屋に戻って明かりをつけると、机に座って勉強を始める。
 一時間ほどで集中が切れると、脳裏に美紀さんの笑った顔が浮かんだ。
 それで勉強に集中できなくなって問題集を閉じる。

 また自分の将来について悩み始めると頭痛が始まる。少し前から始まったこの痛みは慢性化して体を蝕んでいた。
 薬を飲んでも治らない頭痛に額を押さえていると、何故か美紀さんとの会話で出たアニメ映画を思い出した。
 勉強をする気も無くなった僕は、彼女が教えてくれた『言の葉の庭』の映画をストリームで購入すると、薄暗い部屋の中で映画を観る。
 映画はストーリーや登場人物の心理描写を雨の情景と組み合わせることで美しく作られ、観ている間に頭痛は治まっていた。
 ただ、感動で涙を流すには、今の僕には辛すぎた。

 映画を観て「奇麗は残酷」と言った美紀さんの気持ちが分かった気がする。
 もう会う事もないかもしれない彼女に、ただ、一言「ごめんなさい」と謝りたかった。
 明かりを消すと、タオルケットに身を包んで目を閉じる。

 梅雨の夜は月を隠して、地表に雨を降らせていた。



 翌朝。東京の天気は久しぶりに雨がやんで曇り空だった。
 窓から見える空は一面雲に覆われて、地表のビルと同じ灰色に同化し世界の隅まで広がっていた。
 両親と顔を合わせても会話は一切なく、母が事務的に作った朝食を一人で食べる。
 家の中で声を出すのは、居間で父が見ているテレビの中のニュースキャスターだけだった。

 何時ものように親へ何も言わずに家を出る。親はその行為に叱る事もなく仕事に行く用意をしていた。
 冷え切った家庭に対して、僕の中では既に「諦め」の二文字しかなかった。

 僕を乗せた京浜東北線が王子駅に到着する。
 車窓からの見える飛鳥山と坂を登る都電荒川線を見ながら、僕は美紀さんの事を思い出していた。
 心の中で彼女に会って謝りたい気持ちと、逃げたい気持ちが対立する。
 結局、ホームに降りる勇気が湧く前にドアが閉まると、電車は都心に向けて走り出した。

 車窓から見える飛鳥の小径の紫陽花は、色とりどりの花を咲かせて苦悩する僕を見守っていた。



 午前の授業が終わって休憩時間になると、学生は一斉に談笑を始めて学校全体が騒音に包まれる。
 皆が昼食を食べている最中、僕は職員室で担任から昨日の無断欠席について怒られていた。
 担任は成績が付かなくても学校へ来るようにと言うが、成績でしか生徒を評価しない進学校の教師では、その言葉に説得力を感じなかった。
 担任に見つからないように、職員室の窓から外を見て時間を潰す。
 窓から見える空は、黒と灰色が入り混じった斑模様を浮かべていた。

 授業が終わると学校の自習室へ行き、参考書と問題集を開いて勉強を始める。
 自習室を使うのは勉強が好きな訳ではなく、ただあの冷たい家に帰りたくないだけだった。
 おそらく両親も同じ気持ちなのだろう。冷え切った関係の人間に、家庭の存在は邪魔なだけだと思った。

 午後五時半に自習室を出て家に帰る。
 まだ明るいはずの六月の空は雲に覆われて太陽を隠し、冬の様に暗かった。



 曇りの天気は二日間続いた。
 その間、僕は王子駅に一度も降りず、表面的には変わりのない日常を繰り返していた。
 一度だけ、朝の駅ホームで電車が来るのを待っていた時に、足が勝手に白線の外へ向かって歩き始めた。
 この時は途中で我に返ると、慌ててホームから逃げて駅のトイレに駆け込み、胃の中の物を全部吐き出した。
 便器の吐瀉物を見た時、体の震えが止まらず、自殺は勝手に体が動くものだと知った。

 酷い状態でも普段通りに行動する。
 学校の担任もクラスメイトも両親でさえ、誰も僕の状態に気付く様子はなかった。
 誰か助けて欲しい。
 自分に限界が来ている事に気が付いて、僕は心の中で叫び声を上げていた。



 金曜日。
 前日の夜から降り始めた雨はゲリラ豪雨になって、遠雷が黒い空を響かせていた。
 この日、朝から頭痛が酷かった僕は、王子駅で遅延停車したのを機にホームへと降りる。
 半分意識の無いまま中央口を抜けると、僕の足は勝手に飛鳥の小径に向かって歩き始めていた。

 激しい雨は視界を悪くして、僕の靴とズボンの裾を濡らす。
 目の前で雲が激しい音を立て、近くのビルに雷を落とした。

 僕はゲリラ豪雨の中を走って美紀さんを探していた。今の僕に声を掛けてくれたのは彼女だけだった。
 会ってからの事は何も考えず、ただ僕は彼女に会いたかった。

 道の横に立つ地蔵を通り過ぎて、雷雨の激しい飛鳥の小径に入る。
 そして、誰も居ない飛鳥の小径を見て呆然と立ち尽くすと、その場で顔を伏せた。

 何故、僕は美紀さんが居ると思ったのだろう?
 あの時は偶然会っただけで、別に約束をしたわけでもなく、それに僕は彼女から逃げてもいる。

「はははっ……」

 ここに彼女が居る方が変なのだと気付いて、僕は雨の中で乾いた笑い声を零していた。

「もしかして、優樹くん?」

 背後から雨が地面をたたく音とは別に、人の声が聞こえて振り返る。
 そこには、傘を差して驚くような表情を浮かべる美紀さんが立っていた。

「……美紀さん? ……何で?」

 驚く僕を見た美紀さんは、質問を無視して近寄ると僕を優しく抱きしめた。

「良かった……」

 人の温もりを最後に感じたのは何時だっただろう。
 忘れかけていた温かさに我慢ができず、僕は自然と涙を流していた。

「心配したんだから」

 手に持っていた傘を地面に落とす。

「うわあぁぁぁぁぁぁ!!」

 僕は美紀さんの肩に頭を乗せて、堰を切るように泣き叫んだ。

「大丈夫。もう大丈夫だから、いっぱい泣いて良いから」

 彼女が腕を回して優しく僕の背中を撫でる。
 飛鳥の小径の紫陽花は激しい雷雨の中、僕と美紀さんを見守るように美しい小花を大輪の様に咲かせていた。



 美紀さんと再会した後、彼女はずぶ濡れの僕を見て自分の家に誘った。
 彼女は王子駅近くの古い木造アパートの二階に住んでいた。

「狭いけど入って」

 美紀さんが自分の家のドアを開けて僕を中に入れる。
 家は彼女が言う通り狭かったが、温もりを感じさせる部屋だった。
 そして、冷え切った僕の家に比べて、彼女の家は居心地が良かった。

「すいません」
「別に謝らなくていいわよ」

 僕が謝ると美紀さんは笑って手を軽く横に振る。

「くしゅん!」

 家の中に入った途端、緊張が解れたのか寒さが体を襲うのと同時にくしゃみが出た。
 その様子を見た美紀さんがすぐに僕をバスルームへ放り込む。

「タオル、ここに置いとくからね」

 熱いシャワーを浴びていると、ガラスの反対側から美紀さんの声が聞こえる。

「あ、すいません」
「だから謝らなくていいって」

 僕が礼を言うと、美紀さんは呆れる様に笑っていた。

「あれ?」

 バスルームのドアから半分身を乗り出し自分の服を取ろうとしたが、置いた場所に服がなくなっていて首を傾げた。
 その様子をキッチンで気付いた美紀さんが声を掛ける。

「あ、優樹くんの服、全部乾燥機に入れちゃってるからないわよ」
「……え? もしかしてパンツも?」
「だって濡れてたもん」

 美紀さんが肩を竦める。

「…………」

 困った様子の僕を見て、美紀さんがクスクスと笑う。

「すぐに乾くわ。それまで腰にバスタオルを巻いて我慢してて」

 結局、バスルームに立て篭もる訳にもいかず、腰にバスタオルを巻いてバスルームから出た。



 テーブルの前で縮こまって正座する僕の前に、美紀さんがテーブルにコーヒーを置いた。彼女は裸の僕を見て笑いを堪えている様子だった。
 美紀さんは僕の右横に座ると、僕に話し掛ける。

「今日はキチンと話してね。……それにしても華奢ねぇ。ちゃんと食べてるの?」
「……一応」

 美紀さんは返答を無視して僕の腕を掴むと、顔を寄せてじーーっと見た後、突然、肌を撫で始めた。

「ヒャィ!」
「何、この白い肌。すべすべだし本当に男?」
「……放してください」

 腕を振り払って逃れると照れ隠しにコーヒーを飲む。
 彼女が淹れたコーヒーは、味覚がマヒしている僕に久しぶりの味を教えてくれた。

 それから僕は美紀さんに全てを打ち明けた。
 病気で倒れて復学しても学校で友達ができなかった事。
 授業も遅れて、一学期は成績が付かない事。
 冷え切った家族の問題。

 全部を話し終えると美紀さんが言っていた通り、心の鬱蒼とした気持ちが少しだけ晴れた気がした。
 彼女は深い溜息をついてから頭を横に振る。

「東京は人が多いのに孤独よねぇ。紫陽花みたいに皆仲良く暮らせばいいのにね……とりあえず今日は、学校に連絡して休んだ方がいいわ」

 その意見に頷くと、担任に風邪をひいたと嘘の電話を入れて休みを取った。

「見て。雨がやんで虹が出ているわ」

 電話を掛け終わるのと同時に、美紀さんが立ち上がって窓に近づきカーテンを広く開ける。
 僕も彼女の後ろから窓の外を見た。

 あんなに降っていた雨はやんで、太陽は灰色の雲の合間から地表へと一条の光を差し、ビルから伸びる七色の虹は大きな放物線を空に描いて、彼方へと延びていた。

「奇麗だね」

 僕が外を見て呟くと、美紀さんが外を見ながら僕に話し掛ける。

「そうね。私の友達は常にエリートを目指していたわ。成績も優秀で、先生の評価も良くて……だけど、どこかで悩んでいたんだと思う。誰にも悩みを打ち明けないまま、疲れて居なくなったわ。奇麗な生き方は時々自分を苦しめるから残酷よ」
「……なんか、その人の気持ちが分かる気がする」
「確かに優樹くんに似ていたかもね。だけど、もう大丈夫でしょ。今の優樹くんは前と違ってスッキリしている表情をしているわよ」

 そう言って、美紀さんが僕を見て微笑む。
 そんな美紀さんが愛おしくて、僕も彼女に向かって笑い返した。

「あ、優樹くんの笑った顔って初めて見たかも。結構、可愛いわね」
「美紀さん!」

 僕が抗議の声を荒らげると、彼女は笑いながら謝っていた。

 将来の事は分からないし、この先もどうなるか不安だけど、僕は助けてくれた彼女のために生きよう。何故なら、それが人を愛するという事だと思うから。
 今、目の前に居るこの人と、あの飛鳥の小径に咲く紫陽花の花の様に寄り添って……。

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