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翼の折れた獅子(終)
芋を煮てこの味を出す方法が、小リュービクには分からない。
料理の仕方自体は分かる。
口にしたことのない調味料であっても、おおよそどういうものであるかも分かるつもりだ。
小リュービクに分からないのは、どれほど細かな研鑽がこの芋一つに込められているのかということだった。
ほくほくに炊かれた芋の具合。
味の染ませ方のあんばい。
そしてこの出汁の取り方を決めるために重ねたであろう時間。
芋を口に含んだまま、小リュービクは黙り込んだ。
次の芋にフォークを伸ばしつつ、店主の様子を窺う。
異邦の民の年齢は分かりにくいが、年の頃は三十をいくつか過ぎたくらいだろうか。ちょうど、小リュービクと同じ年代だ。
慣れた所作で客の註文に応えていく姿を見れば、この店主が練達の料理人であることは容易に見て取れる。
小リュービクから見ても惚れ惚れとするほどに手際が良い。
これだけの腕前、〈四翼の獅子〉亭でも自分以外にはいないだろう。自分の父である大リュービクよりも、この店の店主の方が上かもしれない。
二個目の芋を味わいながら、店内をもう一度それとなく見渡した。
パトリツィアの隣で何か透明な酒に口を付けているのは〈鳥娘の舟歌〉を束ねるギルドマスターだ。確か名前はエレオノーラといったはずだった。
食通で知られ、かつては〈四翼の獅子〉亭の上客に名を連ねていたが、最近はとんとご無沙汰だと聞いている。
どこへ通っているのかと思えば、この店だったというわけだ。
見れば他の客も新しく赴任してきた助祭や鍛冶ギルドのマスターと素性の良い客が多い。
ただ繁盛しているというだけでなく、舌の肥えた客をしっかりと抱え込んでいるという証拠だ。
ジョッキを握る手に、知らず力が籠る。
小リュービクが自室に籠ってただ天井を見上げるだけの日々にこんな店が古都に現れ、着実に地歩を固めていた。
そのことを知ろうとさえしなかった自分に、腹が立ったのだ。
調理場の隅で何かを味見していたもう一人の女給仕が渋い顔をしたのはその時だった。
「ダメだね、こりゃ。泥臭さが全然抜けてないよ」
眉根を寄せて水のグラスへ手を伸ばすところを見ると、よほど味が良くなかったのだろう。
この店でそんな料理ができるというのが俄かには信じられず、小リュービクは首を伸ばして皿の中身を窺った。
皿の中身の色で、小リュービクは全てを察する。
ボルガンガの肝煮だ。
古都の運河の水底に棲む雑魚で、大きな口で泥を啜るようにして食べているから、少々洗ったくらいでは泥臭さが抜けない魚として料理人の間では知られた魚だった。
「やっぱり駄目だったかぁ」
ノブ、という店主が人差し指で顎を掻きながら自分も肝煮を口に含むと、すぐに吐き出す。
小リュービクも、味の予想は付く。泥臭くてとても食べられたものではないはずだ。
「ボルガンガの肝煮っていうと、〈獅子の四十七皿〉の一つにも数えられる名物料理のはずなのに、不思議なこともあるものね」
エレオノーラの言葉に小リュービクは口角だけで小さく笑う。
〈四翼の獅子〉亭の名物として名高い〈獅子の四十七皿〉の作り方は門外不出だ。おいそれと真似できるものではない。
「井戸水で七日泥を吐かせ続けても駄目、牛乳で臭みを抜いても駄目、度の強いお酒で洗っても駄目となると、これはちょっとお手上げだなぁ」
どうやら彼は随分と熱心にボルガンガの肝煮を再現しようと努力しているようだ。
他にも指折り数えていくこれまで試した方法に、小リュービクは息を呑んだ。
店主の挙げた方法は、どれも正しい。
この店主がボルガンガの肝煮を食べたことはないはずだから、耳にした話だけで料理法を推察してそこに辿り着いたということになる。もしくは臭みのある食材を日常的に調理しているとでもいうのだろうか。
いずれにしても、ただの居酒屋の料理人が積むような研鑽ではない。
小リュービクは、内心で小さく唸った。
今のままなら、彼がボルガンガの肝煮の秘密へ辿り着くことはない。
ボルガンガの肝煮の秘密は彼が試みていることとはまるで違う場所にある。
例えていうならば、今の彼は美味い芋を探しているのに浜辺を掘るような努力を重ねているということだ。
門外不出の〈獅子の四十七皿〉の秘伝が外へ漏れる心配はない。
しかし、小リュービクの心は別のところにある。
この料理人に、ボルガンガの肝煮の秘密を明かしてみたい、という気持ちだ。
不思議な心持ちだった。
自分以外の料理人が、自分の得意料理を作る。それを味わってみたいと思ったのは、小リュービクの人生ではじめてのことだ。
いつの間にか註文した揚げ物料理に齧り付くパトリツィアの横顔を見る。
彼女の舌は、本物だ。
パトリツィアは小リュービクの仕掛けた罠を乗り越え、見事にすべての調味料を答えてみせた。
父である大リュービクと並ぶ、〈神の舌〉と呼んでも差し支えないだろう。
これだけの舌を持つ人間がそれほどいるとは思えない。
小リュービクが信頼を置く舌の持ち主が通い詰めるほどの店。たかが居酒屋と侮っていた自分が恥ずかしくなるが、その店の主人の腕前を試してみたいのだ。
思えば〈神の舌〉である父に自分の料理を否定されて以降、小リュービクは思考の隘路に迷い込んでしまっていたような気がする。
どれだけ試しても、以前と作り方は何も変わっていないはずなのだ。
それだというのに、父はただ一言「不味い」としか言わない。
混乱の極みにあった小リュービクは、ビッセリンク商会を饗応するという大役から逃げ出しさえした。
自分が立ち直るためには、切っ掛けが必要だ。
居酒屋ノヴ。
この店の料理がその鍵となるかもしれない。
ボルガンガの秘密を話してしまおうと小リュービクが口を開きかけたその時、厨房の奥で料理の盛り付けをしていたもう一人の料理人がポツリと呟いた。
「ボルガンガの肝煮の肝って、本当に運河にいるボルガンガなんですかね」
ハンス、と呼ばれている料理人の言葉に、先ほど味見した金髪の女給仕、リオンティーヌが小さく肩を竦める。
「ボルガンガってのは運河にいるもんなんだろ。あんな魚は海では見たことがないよ。ねぇ、エトヴィン助祭」
水を向けられた禿頭の助祭は顎を撫でながら、そうさなぁと答えた。
「運河にいるボルガンガと同じものかどうかは分からんが、山の渓流に似たような魚がおるのは見たことがあるよ。運河にうようよいる奴の稚魚ほどの大きさしかなかったが」
会話に加わっていた人々の失笑が広がる。
そんな小魚の肝じゃ料理にならないよ、とリオンティーヌ。
だが、小リュービクは内心穏やかでなかった。
それこそが、〈獅子の四十七皿〉の一つ、ボルガンガの肝煮の秘密なのだ。
清流で苔を食べて育つ小さなボルガンガを清い井戸水に飼い、特別な餌を与えると運河に棲むものと同じ程度に大きくなる。
〈四翼の獅子〉亭の地下で育てた特別なボルガンガの肝を使い、更に先ほど店主の言った方法で臭みを抜いてやってはじめて、旨煮ができるのだ。
芋の煮転がしを食べ終え、小リュービクは席を立つ。
「あれ、お客さん、まだお通しと生しかお出ししておりませんが……」
気づかわしげなシノブの言葉を、小リュービクは手で制した。
「やらねばならないことを、思い出した」
パトリツィアの分も合わせて少し多めに銀貨を支払うと、〈四翼の獅子〉亭への家路を急ぐ。
明日からは、厨房に立つ。
いや、長く営業から離れていたから、まずは手と勘と舌を慣らさなければならない。
頭の中に、しなければならないことの長い箇条書きが書き連ねられていく。
月に照らされた古都の道は、来た時よりも明るく見えた。
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