そもそもメインの目的は神社ではなく、その周りにあった古本屋だったのですが、「たまたまそこに神社があった」的な感覚で、吸い込まれるように境内へ入っていきました。
この神社は、第18代天皇の反正天皇の時代、西暦なら330~410年の間に創建された神社って言われている、1700年の歴史を持つ古い神社です。しかし、知名度はというとほとんど知られていないのではないでしょうか。
武内宿禰の末裔と言われる武川氏が神職として奉職しており、今で86代目らしいです。地味ではあるものの、天皇家や出雲大社の宮司である千家並みの息の長さです。
この神社の珍しいところは、名前にもなっている「三光社」が中風(ちゅうぶ。脳疾患の後遺症)封じのご利益があるそうで、毎年6月に中風封じの神事も行われています。
そして、この神社はおそらく、去年一昨年からめちゃくちゃ有名になったと思います。
柵には六文銭のマーク。六文銭と言えば真田幸村。
この神社は「宰相山」、またの名を「真田山」と言われています。上の写真の柵の奥には人工的に掘られた洞窟があるらしく、これは「真田丸」から大阪城へ続く抜け穴と言い伝えられています。
この抜け穴、三光神社のHPによると、毎年11月の第一日曜日に1日だけ開放されるそうです。戦国時代や真田幸村ファンにはたまらないのではないですかね!?私もこの時ヒマで、かつ覚えていたら行ってみようと思います。
真田幸村だなんとかで見逃されがちなのが、この「片脚だけの鳥居」。
大阪大空襲の被害はこの神社にも及び、空襲で鳥居が破壊され片脚だけが残ったものです。
上についている黒ずんだ部分は、空襲当時のまま残る焦げた跡だそうです。
この鳥居には寄進した人の名前が書いているのですが、その名前には。
このキーワードの共通点は、わかる人にゃわかりますよね。
その答えは「相撲」。はい、全部相撲の年寄(親方)の名前であります。
大坂相撲があった頃、相撲の年寄が寄進したものなのでしょう。
この三光神社だけでも、十分一記事に値するのですが、ここまではあくまで前菜。
メインディッシュはこれから続きます。
さて帰るかと引き返そうとすると、ある方向が気になり出しました。
それは、境内の横にある小さな公園の方向。しかし、神社から見たら公園しかない。
何だこのプレッシャーは!?
ってガンダムのシャアではないですが、
「このまま帰るな」
という、後ろ髪を誰かが引っ張るような感覚を覚えました。
時間はあるからその公園の方向へ行ってみるかと。
パッと見渡した限り、怪しいものはなし。
と、その公園の下あたりに何かが見えました。
何すかこれ!?
どう見ても墓場ではありますが、なんだかタダの墓地ではなさそう。
ここで、私のカンがピンときました。
私には、傍目から見ると変かもしれない癖があります。
墓場に行く時、墓石をチラホラ見たりします。特に墓石に書かれた人物と、死亡した日付などを見ては、その人が生きていた頃、どういう人生を送っていたのか思索にふける
こと。
特に、先の戦争で戦死した兵士たちの墓標を優先的に見ています。誰が、いつ、どこで亡くなったが詳細に書かれているので、お墓として興味深いと見ているのですが、この同じような墓標の行列は、ここは陸軍か海軍の墓地に違いないと。
公園から見下ろす形でその墓場はあり、斜めの草の坂になっています。近付いてみたら一目瞭然。やっぱし旧日本陸軍の墓地でした。
それにしても、何でこんな所に陸軍の墓地が?
とスマホを取り出し早速ググってみる。するとここは「真田山陸軍墓地」と言われていた所でした。
明治4(1871)年に作られた、現存している軍墓地の中では日本最古の集団墓地の跡です。旧陸軍墓地は、福岡や広島など大小合わせて全国にいくつか残っているのですが、ここ真田山は最大の規模となります。
明治4年とくれば、同じ年に日本に徴兵制が敷かれたのですが、それと同時に出来たらしい。
で、ちょっと墓標を拝見させてもらうと・・・
軍人軍属の墓標には、いつ、どこで亡くなったのかが書かれているのは上に書いた通りですが、公園から見える墓標を見てみたら、揃いに揃って「明治十年」の文字が。
明治10年に何があったんでしょうか?
その墓標には、続きにこう書かれていることが多いのも特徴でした。
「鹿児島県賊・・・」
墓の文字が風化されて判別できない部分も多かったのですが、私の脳内データベースを駆使したところ、
鹿児島+賊+明治十年=西南戦争
と出ました。
どうやらこの一角は、明治10年に起こった西南戦争、西郷隆盛が政府に対し鹿児島で反旗を翻した、あの戦争の戦死者を葬った兵士の墓らしい。
西南戦争(または西南の役)は明治初期に起こった最大の士族反乱で、同時期に起こった士族の反乱の中でもあまりに規模が大きかったが故に、「~の乱」ではなく「戦争」になっています。
明治10年というと、今から130年前のこと。普通の墓地で見る墓標は、太平洋戦争で亡くなった人のものは珍しくないのですが、こんな古い兵士の墓標は生まれて初めて見ました。
これだけでも
「ただの墓場やないな。相当古いな」
という感じがしますが、さすがに130年も経ったら風化が激しいのか、墓標に書かれた字が判別できるだけならまだマシ。字が判別不能のものや、墓標自体が壊れとるものが多かったのは少し寂しさを感じました。
この墓標には、眠ってる兵士の出身地も書かれています。
それを見てると、大阪はもちろん、福島県の会津やら、東京やら、山口県やら、色んな地方の人が眠っていることがわかります。
そして、時代背景を思わせるこんな記述も。
平民
って、いつの時代の言葉やねん!?
・・・ってこれは明治初期のお墓なので、普通に、そして当たり前のよーに「平民」って書かれています。
墓を見てみると、判別可能な限りだと「平民」が多かったですが、「農」の字が見えるお墓もありましたが、「農民」とかも書かれていたと思われ。
西南戦争の時は兵士の訓練度も士気も低く、士気が高かった薩摩軍に最初はボロボロだったらしいです。
が、警視庁で働いていた旧幕府軍関係者から「抜刀隊」という精鋭を集め、かなり勇敢に戦ったそうです。その中でも、旧会津藩の人が大活躍したという話が。実際は会津藩士ばかりが活躍したわけではないですが、今でも話が残っているということは、一騎当千の如き奮闘ぶりだったのかもしれません。
会津の人は、戊辰戦争の時は「賊軍中の賊軍」として数々の辛酸を嘗め、旧長州(山口県)の人をひどく嫌っている、という話を聞いたことがります。
いつかは知りませんが、萩市が「もうあの時から100年経ったから、そろそろ仲良くしましょうや」と会津若松市に交流を打診すると、返ってきたのが、
「いや、まだ100年しか経ってないぞ!」
その話ホンマかいな!?と私と同世代の会津の人に聞いてみると。
「ああ、本当と言えば本当ですよ」
という返事が。
その人が言うには、自分と同世代はおそらくこだわりは薄れてるけれど、お父さん、おじいちゃん世代は相当嫌っており、長州の人は会津に入ったら、出身地を言わない方がいいとか。殺されはしないけれど、不快な思いはしますよと。
少なくても、お爺ちゃんから「長州の人間との結婚だけは絶対に認めない。長州の人間と結婚などしたら即勘当。一族ならぬ『一賊』として戸籍も抜く」と言われたんだとか。
しかし、聞いていて私はある疑問が浮かびました。
「あれ?薩摩は?」
改めて聞いてもらうと、薩摩はOKらしい。
なんでやねん!? 答えはこう。
「西南の役で仇は討ったから」
今でも陸上自衛隊や防衛大学校、警察の行進曲に使われている「陸軍分列行進曲」は、西南戦争の時の「抜刀隊」の活躍を歌詞にしたものです。それをシャルル・ルルーという、やたら「ル」が多いフランス人の軍楽顧問が編曲して行進曲に仕立てたもの。
偏見なしで聞くと和洋折衷っぽくてけっこういいメロディーです。
確認はできなかったですが、この「抜刀隊」の墓もいくつかここにあるらしいです。
100年以上経った荒廃が激しい墓標の中に、ちょっと奇妙なももを見つけました。
「生兵」
って何ぞや!?
「故」とかならわかるけれど、この「生兵」と書かれた墓標を少なくても3柱確認しました。
この「生兵」の死亡年月を見てみると、明治十年ではなくバラバラでした。
何の知識もないままその場で推定してみると、
「従軍して生きて帰ってきたけど、『戦友と一緒に眠りたい』って希望した人」
と推測してみたのですが、現実はそんなロマンティックなものではないらしい。
調べてみると、「生兵」って「せいへい」って読み、明治7年~20年まであった制度でした。
徴兵で集められた男が半年間「新入社員教育」ならぬ新兵教育を受け、それに合格した者が二等兵として階級を送られたのですが、その半年間の、階級すら与えられなかった兵隊を「生兵」と言ったらしい。
確かに、普通の墓場にある兵士の墓標には、
「故 陸(海)軍 ○○ 名無権兵衛 墓」
のようにに、○○の部分に階級が書いてあるのですが、「生兵」にはそれが書かれていない。
「生兵」は戦闘には参加してないので戦死はあり得ない(はず)。確認したところ、「生兵」の死因は「病死」でした。
つまり、訓練中に病死したり事故で亡くなった人の墓ってことで、どうやらここには全部で113基の「生兵」の墓があるらしい。
その113基の内訳は、
・病死:71人
・事故死:2人
・負傷が悪化:1人
・不明:39人
だそうです。
そして、「鹿児島賊」や「生兵」のエリアから移動します。
まだまだ同じような墓がズラリと並んでいました。
ここあたりの墓標をチェックしてみたら、今度は
明治廿七年 or 明治廿八年
という文字が目立ちます。
明治27年とか28年は、西暦に直すと1894年とか1895年。
「ははん、今度は日清戦争やな」
これはもう、余裕でわかります。
それを裏付けるように、墓標に書かれている「戦没地」が
清国
だらけ。清国はもちろん今の中国のこと。これで日清戦争の死者の墓というのがわかります。
それに紛れて、少数ではありましたが、
台湾○○ニ於ヒテ戦病死
とかなんとか書かれているものもありました。
日清戦争の主戦場は中国の東北部だったので、台湾が出てくるのは何故!?と思うかもしれません。
しかし、これは日清戦争の講和条約、「下関条約」で日本領になった台湾の「鎮圧」に赴いた兵士の墓なのでしょう。
ここで気付いたんは、確かに戦争で戦った兵隊の墓につき「戦死」もいるのですが、非常に目立つのが「戦病死」という文字。
戦病死とは、実際に敵に弾に当たって亡くなったのではなく、現地で病気に罹って亡くなったということ。
当時はもちろん抗生物質などなく、戦場の病院の衛生状態も良かったわけでのない。さらに赤痢などの伝染病が蔓延していたので、戦死より戦病死の方が多かったそうです。これは日本だけではなく、世界全部で言えること。
こんなデータがあります。
=日清戦争で死んだ兵士の数=
戦死:1,417人
変死・死因不明:177名
戦病死:11,894人
(陸軍参謀本部の統計による数字)
何と!実際に弾に当たった人なんかごく少数、「戦死者」の9割以上が「病死」やん。
というか、実際に戦って亡くなったした人は1417人かい。
何故そんなに「戦病死」が多かったのか。
コレラや赤痢、腸チフスなど、今でもほっといたら死んでまうような伝染病が打つ手もなく放置されていた事情もあります。
上述した西南戦争の時も戦地で赤痢やコレラが現場で流行り、手塚治虫の曽祖父(ひいおじいちゃん)に当たる手塚良仙も軍医として従軍中、赤痢で「戦病死」したと言います。
ちなみに、手塚治虫が医者やったのと曾祖父が医者だったのはただの偶然。手塚良仙までは代々医者の家系でしたが、祖父は今の関西大学創設にも関わった法学者、父親はサラリーマンです。手塚良仙は大阪の適塾で学んだことがあり、福沢諭吉とはほぼ同期、一万円札の自伝にも彼の名前が出てきます。
戦病死がゴロゴロ出た、いちばんの原因言われとるんがあります。それが
読みは「かっけ」。誰や、「あしげ」って読んだのは(笑
上の日清戦争時の「戦病死者数」をもう少し細かく見てみると、以下の通り。
=日清戦争の戦病者・戦病死者疾患の順位=
①入院患者数
1位:脚気 30,125名(26.1%)
2位:赤痢 11,164名(9.6%)
3位:マラリア 10,511名(9.1%)
4位:コレラ 8,481名(7.3%)
②死亡患者数
1位:コレラ 5,709名
2位:脚気 3,944名
3位:赤痢 1,944名
4位:急性胃腸カタル 1,703名
(※「胃腸カタル」は胃炎・腸炎の古い呼び名)
脚気については、三国志の故事成語『呉下の阿蒙にあらず』でも書きましたが(というか、後で編集して加えたので、初期に読んだ人は知りません)、病気というよりビタミンB1の欠乏症です。
しかし、当時は原因どころか、ビタミンB1どころか、ビタミンという存在すら知られておらず、謎の病気として結核・梅毒に次ぐ「日本三大国民病」と呼ばれていました。世界的にも日本人の患者が圧倒的に多いので、日本の風土病とも言われていました。
脚気は江戸時代から特に目立ち始めたのですが、白米を食べすぎると罹るということは、漢方の経験則からわかってはいました。
当時の漢方での脚気の予防かつ治療薬が「そば」。関東、特に東京でそばが食べられるのも、一説には脚気予防として食べられたのが定着したものと言われています。実際、未精白のそばにはビタミンB1が豊富なので、食べると一発で快方に向かうそうな。今ならラーメンもB1が豊富なのでOK。ラーメンのB1含有量はハンパなく、インスタントラーメンすらB1が豊富です。
20年以上前に友人と脚気の話をしていた時、「インスタントラーメンを1ヶ月食い続けたら(脚気に)なるんちゃう?」と言った覚えがありますが、ラーメンのB1含有量から見るとどうもならない模様です。他の病気にはなりそうやけど。
しかし、別名を「江戸患い」と言われていた通り、江戸以外では一部の裕福な人たち以外あまり目立つ病気でもありませんでした。
それが「大」がつく社会問題となったのは、明治以降の徴兵制からでした。
当時の一般庶民の主食は麦飯、それが軍隊では白い飯食いたい放題。それを「おかず」にして栄養が偏ってしまい、脚気患者が続出するハメに。
白米なんて金持ちしか食えなかった時代はある意味「贅沢病」ですが、贅沢病なんて暢気に構えてられない事情もあります。脚気は死亡率10~20%とヘタなガンより高い。放置したら100%死あるのみ。
最初は陸海軍共に頭を悩ませていました。
陸軍はドイツ式なので、「病気の原因はすべて細菌のしわざである」というドイツ式に従い衛生改善にシフトしたものの、患者数は増える一方。
対して万事イギリス式の海軍は、臨床を重んじるイギリス医学に基づいて海軍内の患者の統計を取ると、
・患者は和食中心の兵や下士官に多く、パンや洋食を食べる士官の患者が少ない
という結果が。
これは食事に原因ありだなと踏んだ海軍は、当時超最先端の科学だった栄養学と統計学を採用しました。
試しにある軍艦に長期航海をさせ逃げられない状態にした上で、乗員全員の食事を洋食中心に変えると、あれだけ多かった脚気患者がゼロに。
しかし、万事が万事ドイツ式医学の陸軍は、「細菌の仕業に違いない」という考えに凝り固まり、日露戦争頃には「やっぱ麦飯が効果あり」と陸軍でも言われ始めたものの、日露戦争でも25万人の患者を出し約3万人の死者を出すハメに。
(ちなみに、海軍は患者はたった87人、死者はゼロ)
これで経験則で脚気の犯人がおぼろげにわかり、 海軍の食事改革を断行した高木兼寛という海軍軍医は男爵の爵位を得ます。
「なんや、陸軍は昭和からやなくて昔からこんなんやったんか・・・」
と思ってはいけません。
陸軍を弁護すると、脚気=細菌説が当時の医学界の常識だったわけで、陸軍軍医でもあった文豪森鴎外も細菌説の熱烈な支持者でした。
「いや、違うぞ」と今で言う栄養学に近い観点から改革した高木兼寛の見方が「非常識」でした。
高木の説は当時は海軍の軍医以外は総すかん、栄養学はおろか「ビタミン」自体発見されていなかった時代には証拠がなく、全く反論できませんでした。
しかし、それが科学的に「ほぼ当たり」ということがわかったのは、1910年に鈴木梅太郎がビタミンB1を発見、それが脚気を予防する効果があるってわかってからです。
脚気の日本史から学ぶ歴史の教訓は、
「最先端の科学でも盲信することなかれ。違う見方の説も一考の余地あり」
というところでしょうか。
日露戦争で脚気による死者数ゼロを達成した海軍でしたが、ここで慢心してしまいそれ以後脚気患者が増えていきます。
それを憂慮したか、大正時代から昭和初期にかけて優秀な主計担当(総務や経理・食事担当の兵士や下士官)に、当時の最先端の管理栄養学を学ばせるべく栄養専門学校に派遣しました。
その内容が、今でこそ当たり前の常識になったカロリー計算など、最先端のものでした。海軍は昭和一桁の、カロリー何それおいしいの?という時から学び、食事の改善・向上に活かしていました。
当時の海軍経理学校のテキストやテスト問題が残っていますが、現役の管理栄養士にコピーを見せると、80年以上前に、それも軍隊が現代の専門学校と同等の教育してたのかと驚いていました。
陸軍も日露戦争で懲りに懲りたか、軍隊内のメシを麦飯にチェンジ。それ以来脚気の大量発生はなくなりましたが、それでも腐れ縁だったか終戦までなくなることはなかったそうです。
その陸軍が太平洋戦争中に、ある製薬会社に脚気予防薬の開発を依頼しました。
終戦で依頼主の陸軍は消滅しますが、製薬会社は研究し甲斐があると思ったのかそのまま続け、昭和30年代にある薬(サプリメント)を開発します。
それが今のアリナミンAです。
アリナミンAの「アリナミン」は、脚気薬開発中に見つけたビタミンB1誘導体のことで、それを凝縮したものだそう。
陸軍にまつわる薬といえば正露丸が有名ですが、アリナミンAも隠れた陸軍との接点がある薬だったのです。
閑話休題。
明治陸軍にも高木兼寛と同じ考えの人がいないことはなく、堀内利国という陸軍軍医が脚気の原因を栄養の偏りと見抜き、「脚気細菌説」にこだわる軍のトップを無視し、庶民に偏見が比較的少ない大阪の部隊で麦飯を試してみたところ、麦飯を食べてる部隊の脚気患者が激減したと言います。
が、日清・日露戦争で陸軍が脚気に頭を抱える歴史的事実を見ると、その結果が採用されることはなかったんでしょうな。
その堀内利国の墓がこの真田山墓地にあったりします。
明治28年(1895)に亡くなり、ここに埋葬されたそうです。
そして、将校たちの墓も一画にあります。
一般兵卒と違って墓石も立派で、調べてみると兵隊の墓石は和泉砂岩っていうけっこう脆い石を使っています。だから風化が激しく朽ち果てていっているのか。
事実、ちょっと修繕せなあかんのとちゃうの?と思うくらい風化が進んでいるものもけっこうあります。
「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」というNPO団体が、保存を大阪市などに求めているようですが、なかなか事は進まないらしい。
対して、将校や偉いさんクラスの墓は、上の堀内利国の墓もそうですが、保存状態がかなり良好なのです。ホンマに明治時代に作られたもんか!?というくらいのもんまであり、同じ石でもこれだけ違うものなのかと、違う所で感心してまいました。
そして、兵隊クラスで個人での墓標があるんはこの日清戦争まで。
日露戦争になったら戦死や戦病死が多すぎて墓を作る土地がなかったのか、
こんな風に合葬碑として省略されてしまっております。
「明治三十七八年戦役」(明治37年=1904年)とはまさしく日露戦争のことです。
満州事変も「省略」されています。
また、ここに埋葬されているのは何も日本人だけではありません。
日清戦争や第一次世界大戦で捕虜になり日本で死亡したと思われる、中国人やドイツ人捕虜の墓もあります。
左が「ルードビッヒ・クラウト」、右が「ヘルマン・ゴル」と読めます。
墓石によると彼ら二人は大阪の衛戍病院で亡くなったそうですが、よく見ると墓の一部が削れています。
これは元々身分を表すために「俘虜」という文字を入れていたのですが、昭和に入り当時の第四師団長が、
「墓に俘虜って・・・かわいそうやないか」
と「俘虜」の文字を削れと命令したそうです。
うちの地元の泉大津市には、その昔日露戦争の捕虜収容所がありました。泉大津市の墓地の片隅に綺麗に整備された捕虜の墓があり、今でも駐日ロシア大使が就任の度に訪れます。
真田山の方も、ドイツと中国の領事館に慰霊祭の参加を呼び掛けています。
ドイツは毎年参加しているものの、中国は「清国と中華人民共和国は関係ない」と参加を渋っているとのこと。
そこが中国、都合がいい時だけ「同胞」とか言っておいて、こんな時は「そんなの関係ねー、はい、オッパッピー」ですか。
というか、「関係ない」って言っているなら、清と中華人民共和国は国として「連続」していないと政府関係機関が公に言ってるようなものではないか?
それなら「中国68年」であって「中国4000年」と言う資格ないのではないか。
これを突っ込んだら中国はどんな詭弁・・・いや失礼、言い訳を繰り出すのか。一度突っ込んでみたいものです。
それにしてもこの陸軍墓地、端から端まで歩いてみるとかなり広いことがわかります。
東京ドーム何個分かはわかりませんが、敷地は4500坪あるらしくて昔は隣にある真田山小学校の敷地も合わせて8000坪もあったそうです。
人里離れた郊外なら、これより大きい墓地や霊園はいくらでもありますが、大阪市内の真ん中にこんな広い墓地があるなんて、大阪人数十年やっていて今まで知らなかったです。
実際に敷地内を歩いていて驚いたのは、市内のノイズがほとんど耳に入らず、不気味なほど静寂な空間だったということ。人もほとんどおらず、聞こえるのは私が草を踏む音のみ。今でもあんな所にこんなものが、と少し信じられない気持ちもあったりします。
この墓地、戦前は陸軍がきちんと管理しとって遺族以外は立ち入り禁止、入口には衛兵が立っていたとか。
それが戦後になったら軍もなくなり、行政も放置状態で次第に忘れられた存在になってしまいました。
(今は大阪市と「保存の会」のボランティアが管理・整備)
墓守の方が敷地内に住んでる(らしい)ものの、墓石はおろか敷地内は草が生え放題、墓も一部を除いて最近墓参りに来たという形跡もなく、崩壊、と言うたらオーバーですが、確実に荒廃という名にふさわしい感じさえ見受けられました。
この地図の通り、大阪の陣の「真田丸」の跡がすぐ横にあります。
去年の大河ドラマの影響で、三光神社をはじめ真田丸跡にも戦国時代ファンが大勢詰めかけたことは想像に難くありません。
しかし、その横にある真田山陸軍墓地に気づいた人は、果たして何人いたでしょうか。
ここは日本の近代史が凝縮したよーな所とも言えます。近代史の遺産として保存した方がいいんじゃないだろうか、というのが率直な意見です。
偶然見つけた「副産物」とは言え、ある意味良いものを見させていただきました。
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