劇薬小説『異形の愛』
「劇薬小説」というジャンルがある。心をざわめかせ、脳天を直撃し、己を打ちのめすような小説だ。憎悪、歓喜、憤怒、悲嘆、さまざまな感情を爆発させる猛毒だ。
怖いもの知らずで聞いて回り([人力検索はてな:最悪の読後感を味わいたい])、エロもグロもゴアも手当たり次第に読んできた。10年かけて渉猟してきたベスト(ワースト?)5はこれ→([劇薬小説ベスト])。
しかし、『異形の愛』は読めなかった。
正確には、序盤までだった。予備知識ゼロで手にとって、これが一体、何の小説であるかに気づいたとき、二度と触れられなくなった。最初に本書を手にしたとき、まだ幼いわが子と重なってしまい、先に進められなくなってしまったのだ。
これは、巡業サーカスの家族の物語である。団長であるパパは、薔薇の品種改良に想を得て、わが子の品種改良を試みる。すなわち、子どもが「そのままの姿」で一生食べていけるよう、意図的に畸形を目指すのである。ママの排卵と妊娠期間中、コカイン、アンフェタミン、それに砒素をたっぷり摂り、殺虫剤のブレンドから放射線まで試す。
そうして生まれてきたのは、腕も脚もないアザラシ少年(サリドマイド児)の兄、完璧なシャム双生児の姉、一見フツウだが特別な力を持つ弟、そして、アルビノの小人の「わたし」である。物語は「わたし」によって導かれ、過去と現在を行き来しながら、家族への愛が語られる。
見世物のキャラバンでは、フリークスこそが望まれ、フツウは入れない世界なのだ。他にも、家族の外から入り込んでくる変人が現れるが、五体不満足を目指す動機が無残としかいいようがない(袋男のエピソードは強烈である。注意して読まれたし)。
価値観は転倒しているにも関わらず、その愛は正当なものだ。歪んでいるのは、そう見ている読み手であるわたしであることに気づく。その身の捧げ方がいかに特別なものであっても、やっていることは狂気としかいいようのない行為であっても、名付けるとするならば、愛としかいいようがない。この小説に「結論」というものがあるのなら、それはここになる。
強いのは愛する側なんだという思いを引きだした。愛されるなんてはかないもの。お返しに愛されたからって、それがなんになる? そうわたしは自問した。暗闇で背骨を暖めるため? わたしの愛など、アーティには関係のないことだ。それは秘密の切り札、恥毛の下に彫った青い鳥の入れ墨か、ケツの穴に隠したルビーのようなものだ。
言葉にできないものを言葉を通じて知ることがフツウの文学ならば、言葉にしてはいけないものを言葉を通じて知るのが本書である。笑える&泣ける家族のエピソードを散りばめつつ、残酷な運命に向かって平凡な日常を続ける現代のおとぎ話は、ジョン・アーヴィングの傑作『ホテル・ニューハンプシャー』を思い出す。アーヴィングを読んだ人に対しては、『異形の愛』とは、フリークス版の『ホテル・ニューハンプシャー』だと言えば上手く伝わるかもしれぬ。
やっていることは、商品としての赤ちゃん「デザイナーベビー」に連なる。遺伝的に劣位な胚を除外する生殖補助、肌・目・髪の色や遺伝特質を予めセットアップするサービス、亡くした子どもの代わりにつくられる生物学的に同一のレプリカントなど、ベビービジネスは巨大な市場になっている。にも関わらず、そこに異質を感じるのはぜか。さらに、異形たちの愛にフツウの愛を感じるのはなぜか。自分は「大丈夫」だと信じたいのか? 読めば分かる。試すつもりで読むといい。
きれいはきたない、きたないはきれい。闇と穢れの中を読み進め。
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コメント
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投稿: sandyuz4 | 2017.06.19 00:03