ミニマリズムを経て
私はこれまで、たくさんのモノを手放してきました。
洋服や家具の処分など家の中にとどまらず、14年間勤めた会社も、ついには住む環境さえも大きく変化したほど、ミニマリズムから自分が受けた影響は大きいものだと思っています。
今では、持たない暮らしはすっかり定着し、以前のように大きな無駄遣いをしたり、人が持っているものを欲しがったりすることはほとんどありません。
私の中で、ミニマリズムは特別なことではなく、ごく当たり前になったのです。
その靴で何処へ行くのか
(ブルックリンのコーヒーショップの壁にあったペインティング)
そして、現在はモノを最小限にするというミニマリズム思考から、より本質的なことに向き合うエッセンシャリズム思考にシフトしています。
服を何枚持っているか?
家の中に何冊の本やCDが残っているか?
キッチン用品や家具はどんなものを使っているか?
そうした細かな「数」や「量」よりも、その先に、どんな目的があって、その人がどんな人生と向き合おうとしているか?ということに、より関心があります。
大量のモノを抱えていた頃は、まずは少なく所有することにフォーカスしていましたが、それが定着した現在は、モノの「量」にこだわりすぎず、その先にある「質」、つまり本質的な部分をより大切にするようになってきています。
「靴を何足持っている」あるいは「何足しか持っていない」
そうしたことよりも、
「その靴でどこへ行くのか。なぜそこへ行くのか」
というのが、私なりに考えるエッセンシャリズムです。
ニューヨークとエッセンシャリズム
現在住んでいるニューヨークでは世界中の国から多くの人が集まり、あらゆるモノが手に入ります。地下鉄もバスも24時間、様々な地域の食べ物や最先端の流行、一流のアートやライブ演奏まで、テレビや雑誌の中でしか見たことのなかったモノやコトが簡単に手に入ります。
そこで強烈に実感したのは、
私たちは何もかもを手に入れられる。
と、同時に
何もかもは手に入らない、ということ。
これは決して否定的な意味ではありません。
私自身、今まで何度も「できないことはない」「未来は変えられる」「望めばなんだって手に入る」そうしたポジティブな発想を続けてきましたし、そうした思考の多くは現実化すると思っています。
しかし、ここNYでは、あらゆるコミュニティーやイベントに参加し、ヨガにジムに汗を流し、平日は定時できっかり仕事に精を出し、週末はパーティーを楽しむ。そうした充実のライフスタイルを送ることは不可能ではありませんが、一度に使える時間も体力も限られるという現実を痛感します。時に、多くのイベントは重なり合い、2つ3つを欲張ってこなすには身体一つでは到底足りません。
時間も体力もお金も、全てのリソースが有限であることを意識し、自分の中に明確なプライオリティーや、ときにYES・NOをしっかりと言える勇気を持たないと、「いつでもなんでも手に入る」という楽観的思考に甘んじて「結果なんにもしない」という恐ろしいことになりかねない、と気づいたのです。
より、本質的に生きる。
その手段として、モノを減らしてきたからこそ、ミニマムな暮らしを維持し、その先にある、よりエッセンシャルな生き方をこれからもっと追求していきたいと思っています。