裁判所というもっとも閉鎖的な空間で起きた出来事を、新聞社にリークする――そんな行動が許されるわけはなかった。自身の出世と引き替えにそれをやった裁判官が、50年越しに真相を語る。
第15代最高裁長官を務めた町田顯は、2004年10月、裁判官として採用された新任判事補への辞令交付式の挨拶でこう述べた。
「上級審の動向や裁判長の顔色ばかりうかがう『ヒラメ裁判官』がいると言われている。私はそんな人はいないと思うが、少なくとも全く歓迎していない」。
皮肉なことに、これは町田長官に対する批判でしばしば使われる言葉だった。
町田が、東京高等裁判所の民事部裁判長だった時のことだ。知り合いの法曹関係者に、こう零していた。「僕は、高裁長官にはなれないのかねえ」。
当の法曹関係者は、その時の驚きを、いまも鮮明に覚えている。
「町田さんと無駄話をしていた時のことです。ポツリと、本人の口から飛び出したので、非常にびっくりした。そんなこと、気にしたってしょうがないじゃないですか。
お声がかかる時はかかるし、かからないなら仕方が無い。割り切ることですよと話したことがあります」
のちに最高裁長官にまで登り詰めた町田が、これほどまでに上司の評価に気を揉んでいたのは、若い頃、青年法律家協会の会員だったからだ。
すでに脱会から25年以上の時間が経っていた。にもかかわらず、過去の会員歴が重荷となっていたのは、当時はまだ、青法協への「人事差別」が横行していたからである。
青法協は、「すべての政治的立場をはなれて、(略)平和と民主主義を守る会」として裁判官、弁護士、検事など若い法律家の参加を得て、冷戦時代の1954年に発足した。最盛期には、全裁判官の2割近い「350名」が会員に名を連ねたこともある。
しかし「70年安保」の前後から最高裁は、青法協を目の敵にし、その後30年近くにわたって、会員の裁判官だけでなくシンパと目された裁判官にも、「人事差別」をおこなってきた。
その徹底ぶりは、共産主義者を社会から排除した「レッドパージ」になぞらえ、「ブルーパージ」と呼ばれている。
「70年安保」の前々年、政府は、札幌市郊外の長沼町に自衛隊の「長沼ナイキ基地」の建設計画を公表。翌年には基地建設に必要な土地を確保するため、農林省が、同地域の保安林指定を解除し、伐採の許可を出している。これに対し、地元住民が、その執行停止を求めて行政訴訟を起こした。
この訴訟は、国と地元住民が、権利関係を争うという単純なものではなく、日本の防衛が関係していたうえ、背景には「ドミノ理論」に基づく米軍の極東戦略があった。
ひとつの国が共産化すれば、ドミノ倒しのように周辺諸国も共産化するという、一種の強迫観念から生まれた理論である。
非常にやっかいな訴訟であり、当時の札幌地裁の裁判官たちは、「来るぞ、来るぞ」といっては、日々緊張を高めていたという。