寄り添うことは気持ちをくみ取る自然行動
我家には2歳の子供から85歳の高齢者の7人の人間と犬がいます。
その中で、家族の中で一番寄り添うのが上手なのは、犬のチワワです。
今まで動物と過ごしてきて、いつも感じたことなのですが、犬は状況を見て悲しそう…辛そう…と思う心がわかるかのように、そっと寄り添います。
孫が怒られて泣いていると、そっとそばに寄り添い目を見つめます。
孫は泣きながらですが、チワワの頭を撫でて…抱きしめています。
もちろん犬なので言葉にすることなく、体を孫にくっつけているだけです。
孫が生まれる前から我家にいた犬ですが、孫が別の部屋で夜中に泣いていても、私は犬に体をホリホリされて必ず起こされていました。
もう、母性としか言いようがない行動で、私はそんな愛犬チワワがかわいくて仕方がありません。
人は言葉というコミュニケーションの方法があるので、何か言葉をかけなければならないのか?
言葉で言わなければわからない!…という喧嘩もあるのでしょう。
言葉で言わなければ誤解も生じるでしょう。
人間とはコミュニケーションの手段が「言葉」が最大の近道なので、どうしても言葉でどうにかしようとします。
でも、愛犬チワワをみていると、寄り添うということがいかに大切で心の安定に繋がるかと、孫との関係を見ていると感じるのです。
私が愛犬チワワから感じる「寄り添う」とは、相手の心や気持ちに寄り添うということで、言葉に左右されいない「思いやり」から生まれているものだと思うのです。
愛犬チワワにとって「寄り添う」ことは気持ちをくみ取る自然行動なのでしょう。
「寄り添う」という無言のコミュニケーション
私は泣いている人の言葉には、同じ言葉しか返しません。
「◯◯で△△で!そんなの辛い」に対して、私は「辛いね」と言葉を重ねるだけです。
物事は語っている本人にしかわからない苦しみや悲しみがあって、深い意見や人生の方向性を決めてしまうようなことは言えないと思っています。
これは仕事絡みだと始末に負えないことにも発展する場合もあるので、相手の気持ちが落ち着き、相手が意見を要望するまで私は意見を言わないようにしています。
でも、そばにいっしょにいることで、人は安心するのでしょう…時間と共に解決策を自分で見つけていきます。
そばにいることで、共感してもらっているという安心感が生まれて心が冷静になり、自分で答えを導き出すことができていくような気がします。
寄り添うことは、何でも答えを出してあげようとすることでもないし、相手が喜ぶような言葉を並べたてることでもないと思うのです。
「寄り添うこと」ってあまりにも言葉が抽象的なため、人によって違うイメージで、こうやってこのように言葉をかけること…という図式がなくて、「こうしたから寄り添えた」というような答えもありません。
小手先の会話テクニックに優れていて、体裁の整ったキレイな言葉を並べている会話を聞いていても、人の心には響かないのではないでしょうか。
悩みをもつ人と自分と同化して考えても、相手の性格も違えば、立場・環境などが同じではないので、同じ気持ちになって考えることが必要なことでも、私にわかるわけがないのです。
でも、相手を理解できるように考える…その気持ちが大切だと思うのです。
きっと悲しいのだろう…きっと苦しいのだろう…。
人が悲しく苦しんでいることは、目には見えないことで、心で感じることなんだと思うのです。
言葉どうり寄り添うだけでも、 人は安心感を得られるのではないでしょうか。
そして、言葉をかけるとしたらΓそっか…辛いよね…私は離れていてもいつもあなたそばで見守っているよ…吐き出したくなったら何でも言ってね… 」 で充分だと思うのです。
犬の寄り添う姿は、本当に優しい。
群れを成す犬の「仲間を守る」って、そういうことなのだと、愛犬から感じることでした。
私は愛犬チワワのような、見返りも求めず、悲しそう…辛そう…と、心で何か叫んでいる人のそばには、そっと寄り添っていたいと思うのです。