藤田和日郎
『うしおととら』(90)、『からくりサーカス』(97)、『月光条例』(08)、『双亡亭壊すべし』(16)
1964年、北海道旭川市生まれ。日本大学法学部卒業。88年、第22回小学館新人コミック大賞に入賞した『連絡船奇譚』でデビュー。89年、第2回少年サンデーコミックグランプリに『うしおととら』が入賞し、90年から「少年サンデー」で連載開始。同作で第37回小学館漫画賞、第28回青雲賞も受賞する。現在、『双亡亭壊すべし』を連載中。
『うしおととら』(90)、『からくりサーカス』(97)、『月光条例』(08)、『双亡亭壊すべし』(16)
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- 藤田先生はいつ頃から本気で「マンガ家になろう」と思ったのでしょうか?
- 藤田先生:
- もともとマンガ少年で、「サンデー」「マガジン」「チャンピオン」とこだわりなく読んでいました。最初に衝撃を受けて、マンガ家になりたいと思うようになったきっかけは高3の夏に読んだ高橋留美子先生の『闇をかけるまなざし』という短編です。
子どもの頃から妖怪譚や怪奇噺がものすごく好きだったんですけど、大抵は妖怪に人間が負けるんですよね。ところが、『闇をかけるまなざし』は普通の人間が妖怪に勝つ。あの衝撃は大きかったです。主人公ががんばることで物語が丸く収まり、さらに余韻まで残る。そんな話は高橋留美子以外、描かれてなかったんですよ。
初めて高橋先生にお会いしたときは、ひとことも喋らせなかった気がします。いかに自分が先生の作品が好きか、延々と語りましたから。優しい男が好きですし……。読者がイヤな気持ちにならないものを描こうとする人が好きなんですよ。
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- 高校時代には安彦良和先生にお会いしたこともあったそうですね。
- 藤田先生:
- はい。『闇をかけるまなざし』に出会ったのと同じ頃、『クラッシャージョウ』のアニメの舞台挨拶で安彦先生が旭川に来たことがあって。会場で「人物の体をどこから描き始めますか」と質問すると、安彦先生は「眉からだね」とおっしゃったんです。それ以来、オレも眉から描き始めるようになりました。10代のとき聞いたその言葉は、40歳を過ぎても忘れませんね。もっともファンダメンタルな、基本的な部分かもしれません。
特に自分の場合は、まず“感情”を描きたいと思って描きますんで。「こんなに怒ってる!」「こんなに落ち込んでる!」というのは眉の描き方で伝わるでしょう。眉で感情を表現できるんですよ。
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- その後、大学に入って上京。デビューまでの経緯を教えてください。
- 藤田先生:
- 初めて持ち込みに行った雑誌は徳間書店の「月刊少年キャプテン」でした。今では有名になった大塚英志さんが担当だったんですよ。そこで師匠のあさりよしとお先生にも紹介してもらって、大学4年生から2年くらい、あさり先生のアシスタントをしました。大学を卒業してからは、「1年だけ待ってくれ」と親に言って、あさり先生のアシスタントとコンビニのアルバイトで何とか食いつないで。そのとき時間をかけて描き上げたのが『連絡船奇譚』というデビュー作です。
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- 最初から青年マンガよりも少年マンガを描きたいと?
- 藤田先生:
- それはありました。小学生のとき、青年マンガから読み始めるコは少ないでしょう。最初に好きになるものって、一生持っていってもらえるものかもしれないですよね。ザックリと傷のように僕の心に残っている永井豪先生の『デビルマン』だって、「少年マガジン」に載っていたから子どもの頃に見て、ずっと持っていかれるわけだし。熱血マンガにしてもギャグマンガにしても、最初にその人の好みを決めるのは少年マンガじゃないでしょうか?
北国生まれだから言うわけじゃないけど、雪が積もると白いまっさらなトコに足跡つけたくなるじゃないですか。あの気持ちです。真っ白な青少年の心に、オレが土足で入って最初の足跡つけてやるぜ、みたいな(笑)。
青年誌の読者って、負けも知ってるし、ストレートなメッセージが届きにくい。少年誌のメッセージは「優しく」「強く」でしょう。それも性に合ってるんです。子どもには可能性がいっぱいあるじゃないですか。背中、押しがいがありますよね。
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- 「ジャンプ」や「マガジン」ではなく、「サンデー」を選んだのはなぜでしょう?
- 藤田先生:
- 大好きな高橋留美子先生や細野不二彦先生がいたから。彼らが「マガジン」で描いていたら、「マガジン」に持っていったでしょうね。やっぱり、好きなマンガ家が描いている雑誌でやりたいじゃないですか。
「マガジン」や「ジャンプ」に描くことにも興味はあります。それぞれ読者の質が違いますから。でも「サンデー」はオレを育ててくれたところだし、すっかり愛着わいてるんですよね。
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- 藤田先生の絵柄は独特の魅力があり、「個性的」と評されることも多いですが、それについてはどう思っていますか?
- 藤田先生:
- 個性的と言ってもらえるなら嬉しいけど、自分としては絵にコンプレックスがあるので、それほど個性的とは思えないです。石川賢先生、高橋葉介先生、モンキー・パンチ先生、細野不二彦先生、諸星大二郎先生……。絵柄に関しては、いろんな先生の影響を受けてると思いますよ。『うしおととら』を始めたばかりの頃は、「絵柄が古い」「石ノ森章太郎と永井豪に似てる」という意見も編集部であったそうです。でも、借りた着物では“感情”を表わせない。描いていくうちに、だんだん自分の絵柄ができていったんだと思います。
ただ、マンガは“思いの強さ”でしょう。可哀想な子がどれだけ可哀想なのか、その子をいじめるヤツがどれだけ憎たらしいのかを描く。それは画力の問題じゃない。気持ちを込めてしっかり描き込んでいけば、デッサン力なんかなくてもエンターテインメントになるはずなんです。
オレに言わせれば、デッサンなんてクソくらえ、なんですよ。写実を超えたところを描けるのがマンガですから。どれくらい感情をぶち込めるか、どれくらい読者に感情を伝えられるか。そこが一番大事なところなので。(笑)
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- 特にお世話になった編集者はいますか?
- 藤田先生:
- デビューしてから2番目の担当で、後に「月刊フラワーズ」の編集長になった武者正昭さん。この武者さんが自分を『うしおととら』まで引っ張っていってくれた人で、少年マンガの哲学を徹底的に叩き込まれたんです。「ストーリーよりも魅力的なキャラクターで引っ張るのが少年マンガだよ」とか。「物語の基本は感動させることだ」と言われたときは、それで気持ちが楽になりました。
自分のマンガはすべて、「人が変わる」話になってるんですよ。
悪い考えを持っていた子が考えを変える。すぐに泣いていた子が滅多に泣かなくなる。個々のエピソードもそうだし、ストーリー全体でもそうなんですよね。ビルドゥングス・ロマン的な成長譚がないと、感動に持っていけないと思う。「人の心が変わる」ところを描けば感動に結びつく。それをズバッと教えてくれたのが武者さんです。
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- 『うしおととら』はどのように生まれたのでしょう?
- 藤田先生:
- 当時の「サンデー」はスポーツものが多くて、今では考えられないけど、ファンタジーがほとんどなかったんです。それで最初は古代中国を舞台にしたファンタジーを描こうと思いました。「魔法の剣」を主人公が一本ずつ叩き折っていく話を考えたんです。
でも武者さんに、「主人公のキャラクターが弱い」とダメ出しされた。後から思えば、カッコいいヤツがカッコいいまま戦っていたんですよ。「人間を描く」って、そうじゃないじゃないですか。弱いところも描かなきゃいけないし、負けたところも描かなきゃいけない。そこがわからなくて、結局12回くらい延々とネーム(ラフな絵とセリフが入った原稿)を書き直しました。
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- そんなにですか!
- 藤田先生:
- 最後に「花を大切にしている小さな妖怪」がいて、主人公がその妖怪に看病されるエピソードを描いたんです。花を愛する優しい妖怪なんだけど、花を踏み荒らされるとすごく怒るという。足は「とら」の足の形をしていました。
すると、「この妖怪、いいね」と。それから最初の話が「魔法の剣を折る話」だったし、何か武器は出したい。「剣がダメなら槍でどうだろう」と思った。それが『うしおととら』になっていったわけです。で、1回目のネームを書いて持っていくと、「おお、面白いじゃない!」となって、今まで全然ダメだったのに、すんなり通ってしまいました。
アシスタントにもよく言ってるんですけど、「ドアをどんどんノックし続けたら、開かなかったドアがカチッと開く瞬間が来るぞ」と。がんばって続けていると、スッと行くときが来る。アシスタントだった安西信行や井上和郎も、連載が決まったときはみんな、化かされたような顔で報告に来ましたから。
それでネームが通ってから過去のダメだったネームを見ると、「こりゃダメだわ」と急にわかるようになるんですよね。「さかあがり」みたいなんですよ。腹がどうだとか、踏み込みがどうだとか言われても、できないときは全然できない。ある日、クルッと回れるようになる。すると、「なんで今までできなかったんだろう?」というような。
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- 島本和彦先生をはじめ、同業者との付き合いも広いですよね。
- 藤田先生:
- そうですね。特に同時期にデビューした人たちとは仲良くなって、みんなで温泉に行ったりもしました。村枝賢一先生、久米田康治先生、河合克敏先生、皆川亮二先生、椎名高志先生……。村枝くんが豪放磊落な親分肌で、飲むときみんなを呼ぶんですよ。
島本和彦先生と知り合ったのは、『うしおととら』を描き始めたばかりの頃だったと思います。忘年会に行って編集者に紹介されました。そのとき島本先生が赤いセーターを着ていて、オレがたまたま白いセーターを着ていたんですよ。いきなり、「おっ、紅白か……。やるか?」って言われて(笑)。本人も『燃えよペン』の主人公みたいな人なんですよ。面白いし、仕事には貪欲だし、話してる相手を飽きさせないエンターテイナーなんですけど、マンガの話をするときはすごい真剣だし。
マンガ家になって良かったことのひとつは、マンガ家さんとマンガの話ができることですね。自信ありますもん。聞きたいことには事欠かないから、どんなマンガ家の先生が相手でも楽しく喋れると思います。
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- 確かに、そんな気がします。
- 藤田先生:
- 初めて高橋留美子先生と会ったのはパーティ会場でした。「『うしおととら』面白いですよ」と言っていただいて、いかにオレが「人魚シリーズ」とか大好きだったか、半分泣きながらバーッと喋ったんです(笑)。また、高橋先生ってマンガ一途で格好がイイ!よ。「趣味なんてあるんですか?」と聞いたら、煙草を指にはさみながら、「マンガより面白いものってあるのかしら……」って!
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- おお!
- 藤田先生:
- 「目ヂカラ」の話も印象に残っています。「最近の新人の絵は目ヂカラがないんだよね」「なるほど、目ヂカラですか。どうしたらいいんですか?」
そしたら高橋先生が「うーん」と考えて、「一生懸命描くことかなあ」と(笑)。答になってないんですけど、何となくわかるんですよ。
高橋先生くらいのクラスになると、作品読んでこっちは泣いたけど、本人はプロだし、クールに仕事だと思って描いてるのかな、とも思っていたわけですよ。ところが、全然そんなことない。高橋先生だけに限りません。オレが会った少年マンガ家に、斜に構えた人なんていませんでした。こっちが流した涙の分、汗を流してる感じがする人ばかりなんです。
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- ちなみに、あだち充先生はどんな感じの方ですか?
- 藤田先生:
- あだち先生もすごいです。外見も内面も全然若い。スリムの黒いジーンズはいてて、かっこいいんですよね。
あの人はあまりマンガについて語らないという美学を持ってるんですよ。だけど、こっちはしつこく聞くじゃないですか。ものを言わないんだけど饒舌なコマ、あの“間”を教えてもらいたいから。すると、「いいよ、お前はオレが描けないアクション・マンガ描いてるんだから」なんて言ってもらったりして、すごく恐縮するんです。
駆け出しの頃、武者さんに言われたんですよ。「高橋、あだちのコマ割りは、あのふたりだからできるんだ。新人のお前が真似するなよ」と。高橋先生は読み切りのとき、コマを刻むんですよ。1ページに10コマくらい刻む。あだち先生は延々と風景だけのコマを描いてストーリーを流す。どっちも難しいですよね。ふたりとも物腰は柔らかいですけど、ときどき中に“すごいもの”を感じることがあります。
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- 『からくりサーカス』が終わった後、「週刊ビッグコミックスピリッツ」と「モーニング」で連載して話題になりました。
- 藤田先生:
- 青年誌を体験できたことは、とてもいい刺激になりました。仕事を引き受けた時点で、「青年誌ってどういうのが喜んでもらえるんだろう?」と、ものすごい考えるんですよね。停滞しがちな頭脳に揺さぶりがかかって、すごく刺激になる。
「スピリッツ」でやった『邪眼は月輪に飛ぶ』は武者さんが担当だったんですよ。ちょうど、「フラワーズ」に異動になる前で、「その前に一回やろうよ」と言われて。マンガ家が頭の上がらないものといえば、最初に見てくれた編集さんですから。
『黒博物館』をやらせてもらった「モーニング」の担当さんは、「今はできなくてもいいので」と言って、『からくりサーカス』をやっている頃から何回も来てくれました。最初は「オレ、連載やってるから今はいいかな」って気のない感じじゃないですか。すると、「藤田さんは都市伝説なんてどう扱うんですか? 口裂け女みたいなヤツを倒すとしたら」と言ってきたんです。「えっ、倒す? うんうん」と、たちまち興味を引かれたわけですね。そのうちロンドンの怪奇譚の資料も持ってきてくれて、いつの間にかやる気になっていました。
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- 青年誌をやってみてどうでしたか?
- 藤田先生:
- やる前は青年誌に偏見を持っていたんですよ。難しいものを描かなきゃいけないのかな、と思ってた。やってみて、それが消えたのも良かったですね。
オレはもともと「どっちが強いか?」が一番気になる薄っぺらい人間なんですよ。で、「人生なんて描けませんから」と言ったら、「オレたちはエンターテインメントを作ってるんですよ」と、「モーニング」の古川公平編集長(当時)に言われて。そうか、少年誌と同じもの描いてもいいんだ、と。実際、アンケート(の結果)も悪くなかったんです。それまで少年誌にしか描けないと思っていたのに、青年誌にも受け入れてもらえたのが嬉しくて。
- ――
- その後、再び「サンデー」に戻って『月光条例』を始めました。
- 藤田先生:
- はい。「青年誌でも描けるんだ」とわかった途端、なおさら少年誌がやりたくなったんです。子どもたちが喜ぶものをやりたい、という気持ちが強烈に出てきた。おとぎ話のキャラクターを出したのも、少年誌なんだから思いきり下(低年齢)を狙って、小学生に読ませようと思ってのことです。もっとも、主人公が高校生だし、実際は思ったより読者の年齢が高くなっちゃって。主人公を小学生にすべきだったのかもしれませんね。
- 【終】