きっかけは1人の訴え
私が今回の取材を始めたのは、ことし1月。関係者からある1人の女性の情報を聞いたことがきっかけでした。
横浜市の斉藤和子さん(53)はおととし、アスベストが引き起こす特有のがん「中皮腫」を発症し、今も闘病を続けています。
3週間に1度の抗がん剤治療を行っていたため、副作用による激しい吐き気やけん怠感がおさまるタイミングを待って、ことし2月に話を聞きました。
子ども部屋にアスベスト
斉藤さんは昭和38年に建てられた神奈川県の県営住宅で、1歳から結婚で転居する昭和61年までの21年間、暮らしていました。
県の管理台帳には、部屋の天井に発がん性が高いアスベストが吹き付けられ、県が対策工事を行う平成元年までの26年間、むき出しの状態だったことが記されていました。
この県営住宅では、現在は、すべての部屋で対策工事が終わっていますが斉藤さんは幼いころ、子ども部屋の2段ベッドに上っては天井を触って遊んだ記憶があり、「白い綿状のものが天井からフワフワ落ちてきた」と話していました。
アスベストは吸い込んでから数十年の潜伏期間を経て健康被害を引き起こすとされ、その特徴から「静かな時限爆弾」とも呼ばれています。
中皮腫を発症した原因について斉藤さんから相談を受けた「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」は、かつてアスベストが使われた住宅で20年以上過ごした結果、今になって発症したのではないかと分析しています。
「早く知ってほしい」
アスベスト特有のがん「中皮腫」は発症後の進行が早く治療が難しいとされています。闘病を続ける斉藤さんに、今、何を訴えたいか尋ねると、返ってきた答えは、「アスベストの危険性を多くの人に早く知ってほしい」という言葉でした。
斉藤さんがアスベストの専門医に中皮腫と診断されたのは、おととし9月。
実は、その9か月前に当時働いていた職場の定期健診を受けていましたが、アスベストによる健康被害を見るためのものではなく、兆候は見つかりませんでした。
住宅にアスベストが使われていたことを意識して早く専門医の診断を受けていれば治療の選択肢が増えていたかもしれない。斉藤さんはその思いを強く抱いています。
そのうえで神奈川県や国に対し、「アスベストを使った過去を変えることはできないが、今からでも実態を周知して健康診断の受診を呼びかけることはできる。過去にアスベストの使用を認めていた行政が果たすべき当然の義務ではないか」と訴えていました。
公営住宅“2万戸超”
アスベストが使われた住宅に住んでいた人に早く危険性を知らせたいとの思いから取材に応じてくれた斉藤さん。その思いに応えようと、私は「患者と家族の会」と共同で全国の、どの住宅にアスベストが使われていたのかを調べることにしました。
住宅などの建物にアスベストが使われたのは昭和31年から平成18年まで。国土交通省はこの51年間に住宅だけでなく工場や事務所、学校、病院など実に280万棟以上の建物が建てられたと推計していますが、どの建物に使われたのかほとんど分かっていません。
そこでまずは、自治体に記録が残されている県営住宅や市営住宅などの公営住宅に絞って調査することにしました。一口に調査すると言っても市町村だけで全国におよそ1700あります。そこで手がかりにしたのは国土交通省や総務省が6年ほど前に公表した資料です。
資料には、都道府県ごとのアスベストを使用していた公営住宅の件数だけが記されていたため、その数字をもとに都道府県に問い合わせ、住宅が所在する自治体を特定。判明した合わせて123の自治体やUR=都市再生機構などに対し聞き取りや情報開示請求を行い、保管されていた管理台帳などからアスベストが使われていた公営住宅の所在地や戸数などを詳しく調べました。
その結果、人が吸い込む危険性が高い吹きつけのアスベストが使われた公営住宅は、32の都道府県のおよそ8700戸。さらに都営住宅や首都圏と関西の都市部にあるURの住宅のうち微量のアスベストを含む吹きつけ材が使われたケースを加えると、アスベストが使われた公営住宅は全国で少なくとも2万2000戸に上ることがわかりました。
この結果をもとに公害などのリスク評価に詳しい東京工業大学の村山武彦教授にアスベストを吸いこんだ可能性のある人を試算してもらった結果、その数は23万人余りに上るという結果となりました。
村山教授は、すべての住民に健康被害が生じるわけではないとしたうえで、「公営住宅に使われたアスベストによってがんなどを発症する危険性は否定できず国や自治体は住民への情報提供や注意喚起を行うべきだ」と指摘しています。
アスベストが使用されていた公営住宅の一覧は「患者と家族の会」のホームページで公開されています。
アドレスは、https://sites.google.com/site/tatemonosekimen/です。
ただ、掲載されているのは、あくまで今回の調査でわかったものに限られ、老朽化によって解体されたり自治体が記録を廃棄したりして把握しきれていないケースもあり、実際に使われていた戸数はさらに増える見込みです。
また、今回、判明した2万2000戸には、教職員住宅や警察、自衛隊などの官舎はほとんど含まれていません。実態が把握できたのはあくまで氷山の一角なのです。
相談件数1000件
今回の調査結果をニュースや「クローズアップ現代+」で放送したところ、大きな反響がありました。
放送翌日の6月13日からの2日間、「患者と家族の会」が行った電話相談には全国から1000件を超える相談が寄せられ、中皮腫の患者からの相談も複数あったということです。
「患者と家族の会」は住宅による被害の広がりが明らかになれば、被害者の救済の充実や被害の軽減につながるとして寄せられた情報を詳しく調べることにしています。
責任の所在はどこに?
過去に使われたアスベストによって住民が健康被害のリスクを抱えることになった責任は、どこにあるのでしょうか。
中皮腫を患った斉藤さんが住んでいた住宅を管理する神奈川県は「国の通知にしたがって適切に対策工事を行った」としています。
では、その国はどうか。
国土交通省の担当者は、「対策工事が行われる以前の危険性について専門的な知見を持っておらず、答えられない」と話し、対策が行われるまでの間のアスベストを吸い込むリスクについて明確な回答は得られませんでした。
このほか、厚生労働省や環境省も住宅に住む人のアスベストのリスクについては「所管外」と答えています。
今回の取材を通じて話した国や自治体の担当者は、「対策はすでにとったから現在は危険ではない」とか「被害者がいたとしても公営住宅に住んでいたこととの因果関係は分からない」という言葉を繰り返すことが多く、「世の中に数多くあるリスクを挙げたらきりが無い」と言い放つ担当者もいました。
過去に住民が負ったリスクと真摯に向き合う姿勢は残念ながら感じられませんでした。
アスベストには健康被害が顕在化しても数十年前の資料や記憶をもとに原因を特定するのが極めて難しいという特徴があります。行政の担当者が話す言葉の裏側には「自分が担当している間はなるべく波風を立てたくない」という気持ちが透けて見える気がします。
わずかな前進も
一方で、今回の報道をきっかけに、国も動きを見せ始めています。
放送の翌日、6月13日に開かれた閣議後の会見で、住宅を所管する石井国土交通大臣が住宅などに使用されたアスベストのリスクに言及したうえで、公営住宅を管理する自治体に対し住民への情報提供を促す考えを示しました。
また、被害者を救済する制度を所管する山本環境大臣も6月16日の会見で「住宅に使用されていたアスベストが経年劣化によって飛散するという状況は今までほぼ誰も注目していなかった。健康被害が生じてきているという実態が生まれてくるならば関心を寄せるべき事項だ」などと述べ、過去に住宅で使用されたアスベストによる危険性を調査する必要があるとの考えを示しました。
さらに神奈川県や埼玉県、山口県などの自治体の中にもアスベストが使われていた公営住宅をホームページで公表したり住民の不安に応じる相談窓口を設置したりする動きが出ています。
被害の顕在化はこれから
中皮腫による年間の死者数は近年、増える傾向にあり、おととしはおよそ1500人と20年前の3倍の水準に達しました。
さらに東京工業大学の村山教授は、アスベストが多く使われた時期から数十年後の2030年から2040年ごろに被害者のピークを迎えると推計しています。
「住宅」という身近な場所でも被害が生じる疑いがあるとわかった今、程度の違いはあるにしろ、多くの人がリスクと隣り合わせにあることは間違いありません。
「静かな時限爆弾」の被害を少しでも減らすために行政みずからがアスベストの使用実態を把握し、必要に応じて住民の健康診断を行うなど、一歩踏み込んだ対応が必要な時期に来ています。そのために今後も取材を続け、さらに実態を明らかにしていきたいと思っています。
- 社会部
- 橋本剛 記者