元広島の投手河野昌人さん死去39歳。どんな選手だったのか?同期入団はあの選手だった。

広島、ダイエーで活躍し、ホークスジュニアアカデミーの講師を務めていた河野昌人(かわの・まさと)氏が16日、虚血性心疾患のために死去した。ソフトバンクが発表。享年39だった。

引用元: スポニチAnnex

http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/06/16/kiji/20170616s00001173351000c.html

広島、ソフトバンクで活躍された河野昌人さんが亡くなられたとニュースが飛び込んできました。39歳の若さでです。

河野昌人氏とは現役時代どのような選手だったのかを振り返ってみたいと思います。

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プロ野球入団のきっかけは

佐賀県佐賀市にある龍谷高校の2年生の夏に甲子園に出場し、そこから96年に広島カープに投手としてドラフト3位で入団しました、その時の背番号は54。

同期入団はあのレジェンド

96年にドラフト3位で入団した河野選手でしたが、その年の広島カープの2位指名はのちにニューヨークヤンキースで活躍し、広島カープへ戻ってきた黒田博樹投手です。

同じ投手として入団されているので、日々、切磋琢磨してトレーニングされていたのでしょうね。

入団後の活躍は

初登板は1998年の8月19日の阪神タイガース戦です。延長10回から登板されて、1/3回を無失点で切り抜けています。

その後、1998年の9月15日の同じく阪神タイガース戦に初先発しましたが、残念ながら敗戦投手となりましたが、

翌年、1999年8月11日に横浜ベースターズ戦に先発。6回2失点に抑え初勝利を挙げました。

21歳での初勝利は素晴らしいです!高卒三年目での勝利に球団も期待が高まっていたと思います。

翌年の2000年には背番号が、【54】→【12】に変更となります。

基本的に、野球では背番号が若いほど球団の期待の表れとなります。活躍していない新人選手は40~60番台の背番号が多いです。

オリンピック出場

そして2000年には、シドニー五輪日本代表にも選出されています!予選3試合に登板し、4イニングを無失点に抑える活躍をされました。

チームに欠かせない存在へ

2000年は46試合に登板し4勝5敗9セーブを記録。

当時は1シーズン135試合ですので、シーズンの約1/3は登板していたという計算になります。河野投手無しでは考えられないほどの存在感になっていたと思われます。

故障、そして引退へ

2001年に右ひじの故障・手術により、成績が振るわないようになってしまい、2003年に広島を自由契約となってしまいます。

しかし、翌2004年に現ソフトバンクホークスの前身である、福岡ダイエーホークスにテスト入団します。しかし、ひじの故障の影響が大きかったのでしょう、ダイエーホークスでは10試合の登板にとどまり、2004年に現役を引退されました。

生涯成績

通算110試合、7勝16敗10セーブ、防御率5・82

引退後は

引退後はホークスジュニアベースボールスクール佐賀校のコーチを務められていました。

志半ばで急逝された河野投手の指導を受けた子供たちが、将来プロ野球選手として活躍してくれることを祈っています。ご冥福を心からお祈り申し上げます。

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