書籍:秦の始皇帝
著者:陳 舜臣
まえがき
春秋戦国の舞台は、それが当時の全世界であった。戦国末期の七雄(秦、楚、燕、斉、趙、魏、韓)がそのままつづいておれば、その世界は七つほどの国に分かれ、ヨーロッパのような形で、現在に到ったかもしれない。そうならなかったのは、秦の始皇帝が天下を統一したからだった。
<略>
統一の経験は、人びとの胸に強く、そして長く残った。三国時代、南北朝、宋金対峙など、中国はその後しばしば分裂したが、そのときでも、だれもがこれが常態ではないとおもっていたのである。中国が一つであることは、まさにアプリオリ(本来的であること)であった。
P17
当時、七つの国がありましたが、国ごとに字の形が違っていたのです。そのおおもとは殷の甲骨文字から出たものですが、それが各地によって少しずつ字体が異なり、七つの国にそれぞれ違った文字があったのです。
それを始皇帝は、秦の小篆という字の形を天下の文字と定めて、あとの六つの国の文字を廃止したのです。廃止されたものを六国文字といっています。
P18~19
もう一つ有名なのが、“同軌”(軌を一にする)、つまり轍の幅の統一です。当時、各国それぞれ、よそのくるまが入ってこないように轍の幅が違うくるまを使っていました。くるまといっても戦車が主で、馬に引かせた戦車は道路に深い轍をつくり、それがレールのようになっているのです。そのレールに車輪を入れて、くるまを走らせたのです。
戦車は、戦いのためのものですから、他国の戦車が入らないように轍の幅を違えておけば、敵の侵入を防ぐのに効果がありました。ところが、いまや天下は統一されたのです。轍の幅の違いは、全国の交通を阻害すると考えられるようになりました。そこで、始皇帝は、全国に“馳道”という道路をつくり、車輪の幅を一律にしました。
P22~23
もう一つ、度量衡を同じくしたということも重要なことです。というのは、一合、一升、一斗だとか、あるいは長さの単位の歩、丈とかが各国で少しずつ違っていたのです。枡が違うわけですから、一斗のものが、ある国では一斗に足りないということが起こります。
そこで全国の度量衡を一つにしました。これは天下を統一した年にすぐに実施しています。
P23~24
こうして全国が一つになってはじめて、中国は一つだという意識が生まれます。もしも始皇帝が出現しなかったならば、そして彼が天下を統一しなかったならば、おそらく中国は現在のヨーロッパのように、いくつかの国があって、それぞれことばも少しずつ違うということになっていたでしょう。
三国時代のように三つに分かれたり、あるいは南北朝時代、あるいは金や元の王朝ができたりと、分裂した時代のほうが、時期としては長かったかもしれませんが、中国人の心のなかに“中国は一つだ”ということを植えつけたのは、短い秦始皇帝の治世のあいだに行なったことの結果です。
これはたいへんなことで、たいへんなむりをしなければできないことです。私はこういうむりをしたから秦は滅びたというふうに考えております。
しかし、始皇帝は、やることはやったわけです。二千年たってもなお、中国は一つだという心を植えつけた、この事業は偉大であったと評価しなければならないとおもいます。
ポイント
- 中国政府は全世界に中国は一つであるという「一つの中国」を唱えていますが、決してこれは中国共産党の政策ではなく、古代からの伝統なのです。