ジュビリア大陸の西岸に位置するコルシェン王国から、内陸のモルフェシア公国までは三日かかるという。雪空の中でも止まらない強靭なエンジンがあるから大丈夫だ、とも。
そういったことを、紳士は軽く説明してくれた。飛空艇の内部構造は海洋船のそれとほとんど変わらないから、客室のグレードも、四台の二段ベッドが押し込まれた旅人用のエコノミールームから、恋人や夫婦に人気の個室、スイートルームまで多岐にわたるのだそうだ。
紳士はお抱えらしい執事―ナズレと呼ばれている彼に荷物を持たせると、客室へ先導してくれた。セシルがまさかと思っていると、豪華なスイートルームに通された。執事が恭しく扉を開けてくれたので、丁重な扱いに慣れていない少年は、おっかなびっくりの礼を返した。
そんなこんなで、グウェンドソン氏の衝撃的な挨拶のせいで頭がぐちゃぐちゃになったセシルは、生まれてはじめての飛空艇やフライトにも関わらず、気もそぞろだった。
そもそも飛ぶ行為自体は経験していたので、セシルにとって、ふわりと体が持ち上がるときの揚力と重力との感覚は珍しいものでもなかったのだが。気がついたときには、出港のテープカットはとっくに終わっていた。
「気流に乗れたようだ。しばらくはのんびり過ごすといい」
気を利かせてくれたパトロンが隣室に行くや否や、セシルはここぞとばかりにお守り代わりの腕時計にささやいた。
「リア。ねえ、リアってば! 起きてる? どうしよう。グウェンドソンさん、オレのこと、女だって思ってるよ!」
呼び出された少女はふわぁとあくびを一つすると、小さなガラスの中で顎肘をついた。どうやらうたた寝の邪魔をしたようだ。セシルと同じの、触角のように飛び出した二つのくせ毛がふわふわと揺れる。
「そうねえ。セシルはわたしに似てかわいいから」
「『かわいい』はいやだって言ってるだろ! でも、なにあれ! 外の人って、ああするのが普通なの?」
「いいえ。でも……」
「でもってなにさ―?」
リアがまごついたのを問い詰めようとした瞬間、それは三つのノックで遮られた。
「ヴァーベンくん」
「はひぃ!」
セシルは再び体をびくつかせると、戸口に現れた紳士を振り返った。冷や汗をにじませる少年を、男は不思議そうに見つめる。
「呼んだかな?」
「い、いえ! グウェンドソンさんのこと、呼んでないです!」
鏡をちらちらと伺いながら取り繕うセシルを、紳士は軽く笑ったようだった。というのも、ほんの微かに口の端が持ち上げられただけだったから。彼は扉を閉めると、その形のよいくちびるを開いた。
「パーシィで構わないよ。僕もセシルと呼ばせてもらっても? ところで、いつまでその格好でいるつもりだい?」
「ん? いつまで?」
少年が首を傾げると、パーシィが小さく肯く。しかしセシルの問いは拾われなかった。
「着替えだ。僕が用意したもので良ければ、好きに着てくれたまえ、セシル」
「ほ、本当ですか! ありがとうございます、パーシィさん!」
セシルが喜んで備え付けのクローゼットを開けると、彼の笑顔は戸惑いに凍りついた。そこには色とりどりの少女物の洋服が所せましと掛っていたからだ。ふわりと花開いたのは、ヴァーべナの香りだ。セシルには、ハンガーにかかったそのどれもが一級品であると、感動する心の余裕はなかった。少年の疑惑が確信に変わる。やっぱりそうじゃないか。
セシルは不快感を露わにしないよう、懸命に努力しながら振り向いた。
「……あの、勘違いがあったらいけないんで、確認しておきたいんですけど」
出会ってまだ一時間程度の、寛大で美しきパトロンに失礼があってはいけない。セシルは言葉を選んだ。少年のこれからは、パーシィの一存にかかっているのだ。
「なんだい?」
紳士は穏やかに首を傾げる。乱暴でもいけない、けれども誤解は解かねばならない。齟齬は早いうちにとっぱらったほうがいい。セシルは心とボーイソプラノを固めた。
「オレ、男です」
きっぱりと言った。そうセシルが思うくらい、極めて明快で簡潔なセリフだった。
だがパーシィの反応は、同じくらい、こざっぱりしたものだった。
「知っているよ」
「じゃあ、どうして女装なんか!」
正面へ一歩踏み出した若きパトロンは、少年の顔を覗き込んで目を細めた。
「当然だ。きみを魔女として雇ったんだから」
そして胸元からあの紙きれを取りだし、セシルの鼻先へ突き付けた。それは、少女に扮したセシルの写真だった。そして急に頬と頬を寄せてささやいた。
「安心してほしい。きみが魔女の末裔であることは、僕しか知らない」
「なんで、それを!」
セシルは反射的に男の胸を突き飛ばした。そのままよろよろと後ずさる。彼の背中が二重になっている窓へぶつかった。うなる風の音が聞こえる。けれどそれは遠く感じられた。
「知っているよ。ダ・マスケが魔女の村で、世界から隠れていることも」
家族にまでお金が入るなんて、おかしいと思ったんだ。
赤の他人を支援する、見返りを求めない紳士という幻が崩れ、絶望に合点がいく。セシルは家族に売られたのだ。魔法を使える希少種として。
「あんた、人買いだな……!」
「それは、違う。僕は探偵だ」
探偵という言葉は、震えるセシルの耳に馴染みが無かった。わからない。信じられない。
「……オレをどうするつもり?」
声を波立たせる少年に、男はゆっくりと近づいた。すらりと伸びた長身に圧倒されそうになる。その彼に肩を掴まれ、空色の瞳で貫かれる。
「どうもしない。きみの願いと契約書の通り、きみを学校へ通わせる。そのかわり、僕の仕事を助手として手伝ってほしい。それだけだ」
「嘘だ!」
「嘘じゃない! 天に誓ってもいい! モルフェシアへ着いたら、すぐにきみの故郷へ電話をかけようか?」
きめ細やかだったバリトンが急に爆発し、セシルは身体を縮こまらせた。青年の声音はすぐに元通りになった。
「きみのおばあさまと約束したんだ。ダ・マスケの秘密も、きみのことも。絶対に守ると」
