ある日本人の学者は「満洲国は日本の植民地ではない」という説を唱えているようですが、このような説は誰も信用しません。以下、満洲国が日本の植民地である「事実」を書き込みました。
満洲国の政治
書籍:中国の歴史 近・現代篇(二)
著者:陳 舜臣
P214
「満洲国」の協和会は、日本人の政治団体であり、ほかの政党は許されなかったので、
一国一党の政治という形になった。
一進会は日韓合併が成立すると消滅させられたが、満洲の協和会は、かいらい国家成立によって、さらに大きく利用されたのである。
協和会は民族別の分会が禁止されていた。このことが、会の性格を象徴している。
日本人のための、日本人による「満洲国」統治のための御用団体であった。
満洲国もいずれは日本と「合邦」の予定であったのだろうが協和会はそれにむけて活動することが期待されていたにちがいない。
日本人による残忍的な植民地支配
平頂山事件
平頂山は撫順市街区南部にある村であります。ところが、1932年、日本軍は、抗日武装勢力の軍隊がこの村を通過したという口実で平頂山を包囲し、彼らは一軒ごとに全村の児童から老人に至るまですべての村民を村の南端の野原に連れ出し、機関銃で射殺してしまったのです。虐殺された村人はは2500人を超えているのです。
731部隊
この部隊は細菌兵器の開発と使用を目的としていますが、恐ろしいことに、彼らは生きている中国人を細菌効能の実験に使ってしまったのです。例えば、監禁されていた中国の愛国人士に、ペスト菌を注射したり、埋め込んだり、服用させたり、液状コレラ菌の服用を強要したりした。また女性の体で、梅毒伝染の実験をしたり、零下30度から40度の厳寒の中で凍傷の実験をしたり、気密室あるいは乾燥箱に押し込めて圧力実験や耐熱実験を行ったのです。
移民政策
日本政府は、約500万人の日本人を移住させました。これは植民地政策以外、何でもありません。しかも、日本人開拓団のために、関東軍は中国農民から、200万ヘクタール以上の農地を強奪したのです。ちなみに、「中国残留孤児」というのは、中国東北地区に移住した日本人であります。
また、黒竜江省依蘭県土龍山鎮で1934年3月に起きた、日本開拓団の農地取り上げに対する反乱事件(土竜山事件)なども発生したほどでした。
満洲国内でのインフラ整備
満洲国の各都市(新京・大連など)で日本人はインフラ整備などをして、都市を近代化させたり、ダムや鉄道なども建設されたのですが、それらの恩恵を受けているのは日本人だけであり、満洲国にいる日本人にとって生活しやすくなっただけです。かつてのイギリスは香港を植民地にし、上海を租界にしました。イギリスはそれらの都市にインフラ整備を実施し、香港は「東洋の真珠」、上海は「東洋のパリ」と呼ばれるほど発展しました。つまり、植民地にインフラ整備を実施するということは、植民地支配をさらに強化していることと等しいのです。
満洲国の国歌
満洲国建国10周年を紀念して新たに制定された新国歌の中に日本語の歌詞も入っていたのです。その歌詞は以下の通りです。
おほみひかり あめつちにみち
帝德は たかくたふとし
とよさかの 萬寿ことほぎ
あまつみわざ あふぎまつらむ
日本ではない国の国歌に、日本語の歌詞を入れるのは、植民地支配の一つしかないでしょう。
中国(東北地区)の建築物と日本の建築物の比較
「満洲国国務院」(上)と「日本国会議事堂」(下)
「瀋陽駅」(上)と「東京駅」(下)
中国共産党吉林省委員会(旧・関東軍総司令部)
注意
- 日本にあるような建物が、実は中国の東北地区にもありますが、決して中国人がパクったのではありません。日本人は満洲国を第二の日本にするためにそうしたのであります。やはりこれも植民地支配の一つですね。
おまけ(「満洲」という単語)
書籍:歴史の交差路にて―日本・中国・朝鮮
著者:司馬 遼太郎・陳 舜臣・金 達寿
P54~55
陳 中国では、もともと地域名じゃないんですよ。前にもふれたように文殊菩薩信仰者の意味で、モンジュ、マンジュのあて字で、
サンズイヘン(洲)はわざわざつけた。あれをつけないと徐州とか蘇州とかの地名とまちがえられるから、これは民族名であって、地域名じゃないということなわけで……。
司馬 地域名にわざとしたのは日本帝国主義ですね。