大本教史

 (最新見直し2014.01.17日)(目下草案書き直し中)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、大本教史を確認する。れんだいこには、大本教の第一次弾圧、第二次弾圧が、ほんみちの第一次弾圧、第二次弾圧と立て合って見える。いつの日か、この観点からの検証を世に出して見たいと思う。公式サイト「おほもと」「おほもと」、「ウィキペディア大本」、「大本教の歴史」その他を参照する。


【出口なおの大本教開教】

 大本教は、開祖・出口なお(1836.12.16~1918.11.6)が京都下綾部で始めた教団である。出口なおは、1836(天保7)年、丹波国の貧しい家に生まれた。幼い頃から丁稚奉公をしたのち出口家の養女となり、20歳で大工と結婚し11人の子をもうけた。夫の政五郎は浪費家で生活は苦しく、その夫は1887年(明治20年)に病死し先立たれた。家を出た子供たちも同様で苦労を重ねた。なおは幼い頃より信心深く、大本の教祖になる前には金光教の教師をしていた。

 1892(明治25)年旧正月の節分の夜、56歳の時、出口なおは突然「神がかり」現象に陥いった。神はなおの肝に居座り、自らを「艮の金神(うしとらのこんじん)」と名乗り、概要「天理教、金光教の神はその先走りで、最後に現れた艮の金神こそ三千世界の大掃除・大洗濯をするものであって、三千世界を一つにまとめて万却末代続く神国の世にいたすぞよ」と申し渡したと云う。これより、金光教と離れ独自の活動をし始めた。節分の夜の「神がかり」により、大本教では節分の日を大切な日として盛大にお祝い をすることになる。なおは、「今の世はけものの世である」と述べ、日本の近代化は間違っていると告発し続けることになる。

 なおは当初、艮の金神様のお告げを叫びながら隣近所を駆け回り、周りからは完全な狂信者とみられていた。なおの長女と三女もすでに発狂しており、出口一族は精神異常者の家系といわれていた。ある日、神のお告げを得たなおはいつものごとく近所に触れ回った。「・・・今のうちに改心致さねば、どこに飛び火がいたそうも知れんぞよ」といった内容であった。おりしも放火事件がおきた直後のことであったため、これを聞いた近隣の者が警察に通報、なおは放火犯と間違われ牢獄へ入れられてしまう。牢獄の中で腹中に居座る金神様より「釘をもて」といわれ、目の前に落ちていた釘を持つと、目の前の柱に光の筋がみえた。その筋の通りに釘でなぞると、そこには神の言葉が記されたという。これが「お筆先」のはじまりであった。あくる日、放火犯が捕まりなおは無罪放免となった。この日より神示はすべてお筆先で現されることとなる。大本の主神「艮の金神」がなおに乗り移ったとする。なおも、天理教の中山みき同様に筆をとり、猛烈な勢いで半紙に向かって神の言葉を書き付けたお筆先が残されている。このお筆先は膨大なもので、約1万巻、半紙にして10万枚にものぼるに至った。

 なおはひらがなしか読み書きできなかったため、お筆先はすべて半紙にひらがな文でしかもその内容は抽象的でしかなかったのだが、驚くべきは、なおが死去するまでに書いたお筆先は半紙20万枚に達するという。この「お筆先」は後に王仁三郎によって漢字かなまじり文に直された上で整理され「大本神諭」としてまとめられた。現在の大本の経典である。なおのお筆先の原本はほとんど残っておらず、現在はこの神諭でしか知ることができない。また、この神諭の一部には王仁三郎によるでっち上げも混じっているという(後に王仁三郎が検挙された際、官憲の取調べにてそう語ったとされている)。

 1894(明治27)年、綾部に金光教会を開く。1897(明治30)年、独立して布教を始めた。

 大本開祖・出口なおと大本聖師匠・大本王仁三郎(おにさぶろう)の霊界物語につき、小滝透・氏の「神々の目覚め」は次のように記している。

 「それは遠く始原の世にまで遡る。その時、世界は国常立尊(くにとこたちのみこと)によって創られた豊かな世が続いていた。ところが、この世を始めた国常立尊であったが、あまりに我が強いため、押し込められてしまった。この結果、国常立尊は政権の座を退き、うしとらの金神(こんじん)となって隠遁する。それは実に三千と五十年の長きにわたった。だが、その間、世界は乱れに乱れる。神界では悪神が跋扈してゆき、地上では弱肉強食がまかり通る。いわゆる大本の言う『我れ良しの世』となった。もはや、一刻の猶予もなかった。国常立尊は、この乱れ切った世を救うため、再びこの世に降臨するのだ。国常立尊の降臨先-それが、出口なおに他ならない。そして、神は彼女を通して、三全世界の立て替えを激しく求めてきたのである。なおは、それをうしとらの金神(国常立尊)の語る物語として『ふでさき』に著した。恐らく、彼女の中には没落に向かって突き進む世界崩壊の烈しい予感が渦巻いていたに違いない。いや、それは予感などという生易しいものではない。その崩壊はありありと目に映っていたに違いない。それ故、彼女は世の立て替えを急き込んだ。なおは、幼い頃より世の辛酸を嘗め尽くして育っていた。例えようもない不幸と悲惨をその一身に刻み込んでいた。『何かが間違っている。絶対に何かが』。そうした烈しいなおの思いが神からの天啓と直結した時、彼女をして世の警告者として登場せしめた。そして、そうした警告を聖師たる王仁三郎が体系づけ、烈しく世に問うたのである。かくして、これら世の立て替えの物語は、同じ思いを心に抱く名も無い民衆から熱狂的に迎えられた。彼らは自らの境遇を大本の物語に重ね合わせ、その吐く言葉を自らのものとして世の立て替えへと馳せ参じたのだ」。

【出口王仁三郎の大本教継教】
 開祖なおの下に吸い寄せられるように一人の青年・上田喜三郎(1871.7.12-1948.1.19)がやってくる。青年もまた貧しい農家の家に生まれ、苦労を重ね、小学校の教師、農業、畜産などの職歴を経ていた。1897(明治30)年、喜三郎は妙霊教会の熱心な信者となった。1898(明治31)年、27歳の時、亀岡市内の霊山・高熊山の岩窟において7日間の断食修行をし、そこで自らの使命を悟り宗教者の道へ入ることになった。この年に稲荷講社の中監督に任じられ、鎮魂帰神二課の高等科得業の免許を得る。同年10月、「綾部の金神様」のうわさを聞き、「園部へ行け」との天命を受けて園部へ向かう。途中、なおの三女ひさと出会い導かれ、なおと対面する。なおは自分が遭遇した神を理解できる人物として喜三郎を歓迎する。

 翌1899(明治32).7月、上田喜三郎が、なおの神示により招かれて再度綾部に行く。なおは、上田喜三郎の支援の下、大本の基礎になる稲荷講社「金明霊学会」を設立する。1903(明治36)年、上田喜三郎は、なおの末娘・すみと結婚し、出口家の養子となる。これを機に出口王仁三郎(おにさぶろう)と改名することになる。この年、なおは日露戦争の敗戦を予言する。結果大外れする。1905(明治38)年、王仁三郎を始め多くの信者が教団から離れ綾部を去る。これにより、教団はなおの筆先を書く用紙にも事欠く困窮に陥ったといわれる。1906(明治39)年、36歳の時、王仁三郎は京都の「皇典講究所」(現:「國學院大學」)教育部本科2年に入学。神職尋常試験に合格し、翌年卒業する。建勲神社の主典となり短期間奉職する。この頃、伏見稲荷の御岳教西部教庁の主事となる、ともある。この頃の「金明霊学会」は警察の圧迫によって 布教活動が進展しない状況であった

 1908(明治41)年、出口王仁三郎はなおの苦境を知り綾部に戻る。その後の王仁三郎は教団の実質上の指導者となり、その才能を発揮した。8月、教団は金明霊学会から「大日本修斎会」と改称、大成教の傘下に入って積極的な布教活動を行なう。神殿も落成して全国展開をはじめる。これにより信者が膨れ上がり大教団に成長する。

 1916(大正5)年、皇道大本と改称する。王仁三郎が教主の地位に就き「皇道論」を発表する。

 この年の12月、東京帝国大学英文科卒のインテリにしてシェークスピア全集の翻訳を日本で始めて手がけた浅野和三郎が入信し綾部に移住する。海軍機関学校の英語教師であった浅野は、心霊体験をきっかけに大本に入信。大正10年の大弾圧で教団を離れ「心霊科学研究会」を創設するまで教団内の有力幹部となる。まもなく日露戦争時のバルチック艦隊撃破の立役者として知られる秋山真之海軍中将が大本教本部を訪問し、すぐに大本教に興味を持ち大本教の立替立直説に魅かれる。この日以降、真之の勧めで綾部を訪れる海軍関係者が増え始める。

 1917(大正6)年、11月、王仁三郎が、「いろは歌その1」の中で大東亜戦争、その敗戦を歌の中で予言している。
 「琉球に続く台湾膨湖島、御国に遠きこの島に、心を配れ日本人(やまとびと)。外国魂(とつくにたま)のここかしこ、国売る曲(まが)の多くして、主人(あるじ)の留守の間鍋(なべ)たき、柱を崩すカミばかり。ヤンキーモンキー騒ぐとも、降る雨りカを防ぐ由なし」。

 1918(大正7)年、綾部に五六七殿をはじめとする大建築が完成する。明智光秀の居城のあったことで知られる亀岡の亀山城跡を買収して大道場の建設に向かい綾部と並ぶ教団の本拠地にした。6月、「神の国 広く正しき十年の正月五日は吾れ悩ましも」と歌っている。「広く正しき十年」が「大正10年」、旧暦「正月五日」は新暦で2.12日に当り、大正10.2.12日の第一次大本事件の予言と解されている。

 1920(大正9)年、大阪の有力新聞だった「大正日日新聞」を買収した。以降、大本教理に基づく宣伝を開始、めざましい発展を遂げて行く。 

 この年、なおが逝去する。すみが二代目教主となり、王仁三郎は聖師と呼ばれて教団発展に才覚をふるった。王仁三郎は亀山城王仁三郎は、初期の段階から機関紙・誌などのマスメディアを利用した布教を行った。若き日の、金がない頃の王仁三郎は、執筆編集を一人で行っていただけにとどまらず、自身で活字を拾い、印刷し、機関誌を作っていた。1919(大正8)年には「大正日日新聞」を、1924(大正13)年には「北国夕刊新聞」を買収する等、言論活動に進出した。有力信者・浅野和三郎を中心とする大日本修斎会の一派が独走し、「大正維新」、「大正十年立て替え説」を唱え、社会体制の変革を主張し始めていた。この時期、教勢を大きく伸ばし、全国に二百五十余の分所・支所を擁して信者は五万人を越えた。更に、戦前の日本において有数の巨大教団へと発展して行く勢いを見せ始めた。

 なおの教義は、王仁三郎による教義の理論化と教団の組織化を得なければ無名の京都の小教団として終わっていただろうと思われ、そういった意味で王仁三郎は稀代のカリスマ性を備えた一大実業家であり、いうなれば「もう一人の経営の神様」であった。開祖のお筆先により、開祖の血を引く女性が教主の地位を継承するというのがこの教団のしきたりになっているため、男は教主になれず王仁三郎も教主ではなかったが、実質上は最高指導者の地位にあった。これが為、王仁三郎は“聖師”と呼ばれ、なおとならんで二大教祖とされている。 

 日本海海戦後の秋山真之が宗教研究に没頭した際、浅野和三郎の紹介で入信し教義を研究したことで知られる。植芝盛平(合気道開祖)と、その甥の井上鑑昭(親英体道道主)らも高位の信者である。大本の精神性を彼らの武道の根幹として取り入れた。

【大本教考】
 大本教は、出口なおが創始し、王仁三郎がこれを大きく発展させた。その教義には、1・記紀神話の虚構を衝く霊界神話の重視、2・万宗同根(万教帰一)の教え、3・「世の立て替え、立て直し」、4・「型の教え」に独特のものが認められる。これを確認しておく。この大本教の幕末宗教との相似性と独自性を確認しておく。

 「1・記紀神話の虚構を衝く霊界神話の重視」は、大本教に対する大弾圧の事由と繋がっている。これについて確認できることは次のことである。大本の祭神は「艮の金神」(うしとらのこんじん)で、その正体は国常立尊とされる。「金神」が金光教の祭神「天地金乃神」と相通づるものがあるのは、金光教の影響が少なからずあるものと思われる。実際、活動初期には金光教の祭神と艮の金神(うしとらのこんじん)を同時に祀っていたという。但し、天理教の影響をも強く受けていたものと思われる。これについては研究が為されていない。

 思うに、黒住教、金光教、天理教応法派のそれは明治維新以来の記紀神話系皇国史観に基づく近代天皇制と親和ないしは協力的な関係を維持していた。これに対し、大本教は、記紀神話系皇国史観を絶対視せず、むしろ記紀神話に閉じ込められていたスサノオを主神とする日本神話の再解釈に向かった。これを「素盞嗚(すさのお)主神論」と云う。この史観は大和前王朝の出雲系神話の復権に繋がる。このことが明治政府の国民教化政策と齟齬しており、明治政府の警戒する原因となったと思われる。もっとも、大本教理の「霊界物語」は、これを漠然と打ち出しており、且つ理論的に整合するところまでは形成されておらず、このことが逆に大本教の布教が公認される所以でもあった。しかしながら、当局は、次第に教勢を伸ばして行く大本教を見て脅威を感じ、弾圧を準備し始めた。これが「第一次大本弾圧事件」、「第二次大本弾圧事件」へと続くことになる。これに、天理教異端派のほんみちが微妙に絡まり、相前後して「第一次ほんみち弾圧事件」、「第二次ほんみち弾圧事件」が発生している。

 「万宗同根(万教帰一)の教え」とは、すべての宗教におけるあらゆる神は呼び名は違っても本来同一のものであるとするもので、大本ではその〝おおもと〟の神を「宇宙創造神・国常立尊」に置き、これが「艮の金神」の正体であるとする。この大本こそがすべての宗教を超えた真の神道であり、すなわち宇宙の中心は大本であり日本であるとして、国家神道のいうところの皇国史観とはまた別の独自の皇国史観をもっていた。これによると、天皇を現人神として奉っている国家神道は底が浅く神道の奥義を極めていないエセ学問と云うことになる。王仁三郎は、この辺りをボカしているが、この観点からの皇国史観的天皇制批判に道を開いている。これが為に危険思想視されることになったものと思われる。

 「世の立て替え、立て直し」とは、なおが予言した「三千世界の立て替え・立て直し」がやってくるとする終末論を云う。王仁三郎は、教祖なおの「お筆先」を基本としながらも独自の考えを加味して教義と組織を確立した。「三千世界の立て替え、立て直し」による最後の審判の時がくると預言し、この預言にもとづく政治的活動(昭和神聖会運動)を盛んに行なった。その結果、大正から戦前にかけて、大本は先行していた天理、金光をも凌ぐ一大教団となり、信徒総数数百万を誇った。「大本神諭」とならんで大本の経典となっている「霊界物語」(全81巻83冊)は、王仁三郎が岩窟において7日間の断食修行をしたときに、幽体離脱して神の使者に案内されて霊界のすみずみまで見聞した体験をまとめたものである。その壮大なストーリーはおよそ我々一般人の理解を超えているが、しかし大本三派のうち愛善苑では「霊界物語」こそ大本の唯一の聖典としているほど、大本では重要視されている。


 「霊界物語」は王仁三郎が何回かに分けてそのすべてを口述し、配下の者たちが交代で筆記するという形で作られた。速記ではなく普通の速度で筆記したというから、口述した王仁三郎も一文づつ区切りながらしゃべったものと思われるが、その間一切の書物をみることなく、すべてソラで口述したという。口述が長時間に及んだときには王仁三郎は途中で居眠りしてしまったというが、居眠りから覚めた後はよどみなく口述を続け、言い直しや前後の文脈の矛盾などは一切無かったという。本当かどうか怪しいが、口述の現場には筆記する者のほかにも多くの取り巻きがいてその様子を見ていたという。筆記した者の中には谷口正治(のちの谷口雅春=「生長の家」開祖)がいた。谷口雅春の著書「生命の實相」は「霊界物語」の影響を多分に受けているといわれている。王仁三郎にはこうした超人伝説が他にも数多く残る。

 王仁三郎は同時に政治運動も行い、結果、短期間で多くの信者の獲得に成功する。弾圧前は信徒総数700万に達していたという説もあるが、それほどではないにしても大本が一大教団であったのは事実である。これに時代が影響していたことも無視できない。明治維新による封建制度の崩壊や西洋文化の流入など日本は大きな転機を迎え、また19世紀が終わろうとしていた。そんな世紀末に終末論が流行るのは今も昔も同じでろう。この時の大本教の「三千世界の立て替え・立て直し」論による「近い将来、神意による大変革がこの世に起こる」なる予言が人々の心を捉えたものと思われる。しかし、この予言とその活動が時の政府による二度の大弾圧事件(第一次大本事件、第二次大本事件)へとつながってゆく。教団は壊滅的状況となり信者数は激減、終戦までこの状況が続く。

 大本教義のもう一つの特徴として、「型の論理」がある。「型の論理」とは、大本教内で起こったことが日本に起こり、日本に起こったことが世界に起こるという法則を云う。これを使って近未来の予知が可能となるとしている。具体的には次のような諭しになる。第一次大本事件、第二次大本事件で綾部・亀岡の大本の施設はことごとく破壊し尽くされたが、10年後、日本の国土も大本の聖地とおなじく焦土と化した。ほかにも大本では大本自身の歴史と日本の歴史に符合点がたくさんあると主張している。これを「型の論理」と云う。

 これらについて次の一文「大本教(大本・大本信徒連合・愛善苑)」(最終更新日2009年5月15日)をネット検索で見つけたので転載しておく。
 大本教は明治25年開教の教派神道系新宗教、不思議なポテンシャリティー(潜在力・可能性)を秘めた宗教である。今後日本から発信できる宗教を考えた時に、古い日本の神々、記紀神話をどのように再評価し、表に出すかということは避けて通れない問題であると思う。神社神道には、かつての国家神道、天皇崇拝の影が未だに色濃く残り、徹底的な自己批判を経ない限り国際舞台に出るのは困難であるように思われる。その点、大本は、かつての明治憲法下、国家神道体制の中で、治安維持法違反、不敬罪、新聞紙法違反などにより二度に渡る徹底した弾圧を受けた歴史を背負っており、そのような困難を免れている。加えて、教祖出口王仁三郎の思想は、記紀神話の枠を超え、聖書(ユダヤ教、キリスト教)の救済史をも包含するスケールの大きなものであり、さらには、現代のイスラム教のムフティ(イスラム法勧告資格者)から「日本のイスラム」と評価されるなど、日本発の世界宗教に展開し得る可能性を秘めているのではと密かに期待している。

大本教との最初の出会いは、宗教学のゼミで保阪正康著『信仰の理由』(朝日新聞社)を取り上げたことだった。大本教に1章が割かれており、京都府綾部にある大本教の長正殿が「20世紀最大の木造建造物」と紹介されていた。教団外からこのような高い評価を受ける建造物を立てる宗教団体に興味を覚え、綾部を訪ねたのが最初である。その後、2008年の8月には、亀岡と綾部での5日間の道場修業にも参加し理解を深めてきた。

また、並行して進めていたカルト研究において、オウム真理教が1995年の地下鉄サリン事件を機に社会から糾弾された時に、大本に接触して弁護を求めたこと(大本もかつて国家から弾圧された経験があるので、オウム側が同調を求めたのである。大本側は即座に拒否をしたが)、統一協会の出版物にも大本を引用して自己弁護するような記事のあることなどからも、カルト研究を進める上でも無視できない団体かもしれないと思い始めたことである。

さらに、大本が「万教同根」の教義に基づき、宗教間対話に先駆的な実践を行ってきたこと、とりわけ、イスラム教との交流(上述のように「日本のイスラム」と認定されて、通常はイスラム教徒しか許されないメッカ巡礼を大本の幹部が行っている!)やアメリカのキリスト教会(聖公会)との合同礼拝など、その懐の大きさに本当に驚かされた。

現在、大本教の系譜を引く団体は、大本愛善苑大本信徒連合会の3つである。いずれも出口なお開祖と出口王仁三郎聖師を二大教祖と仰ぐが、出口家世襲の教主制を支持し、現在五代目教主出口紅さんをいただく大本、同じく教主制を支持しつつも70年代以降の活動方針の相違から排斥された出口榮二さんの妻、直美さんを四代教主と仰ぐ大本信徒連合会、そのような世襲教主を一切認めず、出口王仁三郎を唯一の苑主と仰ぐ愛善苑と、教団の権威の所在に対する理解の相違で三派に別れている。

 今後、文献研究と調査の両面で「カルト研究」「宗教間対話」「宗教多元論」「複数宗教経験(inter-religious-experience)」などの観点からこの教団を研究していきたい。(川島堅二)


 1920(大正9)年、中村古峡著「学理的厳正批判大本教の解剖」が刊行されている。同書は、第一次大本事件前夜の大本に対するインテリの対応ぶりを示す貴重な史料となっている。東洋大学学長の境野黄洋、哲学者の井上哲次郎、インド学の権威・高楠順一郎、社会主義者の堺利彦、河上肇、国粋主義者の三宅雪嶺などが序文を寄せており、付録として哲学者・姉崎正治による同書への書評が転載されている。当時を代表する一流の知識人の大本教に抱いていた反感がうかがえる、とある。


【第一次大本弾圧事件】
 1921(大正10)年の第一次大本事件を確認しておく。

 1919(大正8).5月、第1回目の警告が出された。内容は「世の立替え直し」、「神政復古」、「大正維新」、「私有財産の否認」等を宣伝し、綾部を聖都のように説いてはならない。また、これらを新聞・出版物・講演で説くことも禁止するというものであった。この警告で止むものでもなく布教活動が続いた。1920(大正9)年、2回目の警告が出される。内容は「皇室に対する不敬、日米戦争や日本対世界大戦、憲法廃止、土地私有制及び金銀為本制度の廃止、天変地異や悪疫流行などに関する予言や言説は、演説・講演・出版その他いかなる方法によらず絶対に発表を禁止すること。鎮魂帰神はひかえること。」といった内容であった。こうした官憲の圧力によっても活動が停止せず かえって活発化した。

 1921(大正10).1.27日、教会本部が、直轄教会長を集めて、来る大正15年1月に教祖40年祭を執行すると発表した。ここまで、大本教が教勢を拡大させて行った。

 2.12日、大本教に内乱予備罪が適用され、京都府綾部の本宮山神殿が破壊された。出口王仁三郎(編集人)、英文学者の浅野和三郎(発行人)、吉田祐定(印刷人)が不敬罪及び新聞紙法違反で逮捕された。王仁三郎は大正日日新聞社の社長室で筆を執っているところを検挙された。

 「大本神諭」は「天の巻」、「火の巻」に続いて「水の巻」、「地の巻」を刊行する予定であったが、この弾圧により「大本神諭」そのものの発表、公刊が困難 となった。 これを機に、大本教は「筆先」と開祖中心の信仰から大きく方向を転換し、「大本神諭」にかわる新教典として、王仁三郎によって「霊界物語」が述作されることになる。これを「第一次大本弾圧事件」と云う。

 王仁三郎は126日間の未決生活の後で6.17日、保釈された。この後6年にわたって法廷での闘いが続く。8.5日、京都地方裁判所は王仁三郎を「不敬罪」で懲役5年の判決、浅野和三郎も同じく不敬罪で懲役10ヶ月、吉田祐定は新聞紙法違反で禁固3ヶ月、罰金150円とする判決を下した。王仁三郎は直ちに控訴。裁判は大審院まで争われ、「前審に重大な欠陥あり」として大審院が前判決を破棄し、控訴院へ差し戻した。再審理中の1926年(大正15).12.25日、大正天皇が崩御し、免訴となる。広い意味で、ここまでを「第一次大本弾圧事件」と云う。

 関西の有力紙誌を中心とするジャーナリズムは競って大本教の拠点である綾部に乗り込み非難攻撃を行った。新聞には「内乱予備の陰謀として告発」、「命を的に探査の二ケ年 毒殺、決闘、斬奸状」」、「軍人に深い根を下した大本教」、「竹槍十万本の陰謀団」、「十人生き埋めの秘密あばかる」など毒々しい見出しが踊った。このマスコミの狂騒ぶりは第二次大本事件でも再現された。

 教育界でも大本教攻撃の波が広がり、大正9年、島根県では、教師で大本教の布教をする者には退職を勧告し、信者の生徒には校長が警告を与えることを決定。金沢では信者の生徒が校長に呼ばれて棄教を勧告されたうえ、諭旨退学処分をうけた。岡山の第六高等学校では入信者が続出し、あわてた文部当局は取り締まりの強化を指令した。大正10.5月、王仁三郎らの予審が終結し 当局は事件の報道禁止を解除。マスコミは予審決定の全文を発表。各新聞。雑誌は一斉に大本教攻撃の報道を再開したが、事実を報道した記事はほとんどなく、政府に追従した興味本位の内情暴露記事が紙面を埋めた。政府のマスコミ操作はこのような方法によって、「国賊」・「邪教」のイメージを世人に植え付けた。

 この事件を契機に多くの教団幹部・信者が大本を去って行き、その後、浅野和三郎は心霊科学研究会を、谷口雅春は生長の家を興している。 王仁三郎は保釈の後、教団の危機的な状況に在って秋頃の10.18(陰暦9.18)日から「霊界物語」の口述を始めている。これが新しい経典となる。さらに芸術活動の推進、機関誌の発行、日刊紙「北国夕刊新聞」、「丹州時報」、「東京毎夕新聞」などの一般新聞も傘下におさめ宣伝活動を展開し始める。大本教の教勢が上り調子になり、昭和4年には支部総数は772に達し 昭和10年には1990箇所にまで急増して行くことになる。

 大正時代、田中守平の霊術団体「太霊道」と激越な批判・反批判の論争を行い、最後は霊能力で対決した。


【第一次大本弾圧事件その後1、「大本ラマ教」の道】
 1924(大正13).2月、王仁三郎は、第一次大本弾圧事件による責付出獄中に日本を脱出して、植芝盛平を護衛としてモンゴルへ行き盧占魁(ろせんかい)という馬賊の頭領とともに活動する。

 王仁三郎はモンゴルに入った際、「大本ラマ教」なるものを奉じ、自らダライ=ラマを称していた。 同年6月、パインタラにて張作霖の策謀により落命寸前の危機となる(パインタラの法難)も、王仁三郎とともに活動した植芝盛平を始め、日本人6人は無事難を逃れ、翌月帰国する。この間、中国、蒙古、朝鮮、台湾などに足を運び、現地の宗派や秘密結社と提携を結んだと云う。

【第一次大本弾圧事件その後2、エスペラント語普及の道】
 1923(大正12)年、王仁三郎はその後、反差別思想や平和主義を掲げるエスペラントに共鳴し、王仁三郎の「ひとつの神、ひとつの世界、ひとつの言葉」論に基づいて国際語エスペラントの教団活動への導入を試みる。エスペラント語は1887年、ポーランドのユダヤ人系眼科医、ザメンホフが人工的につくった言葉で、国際補助語とか国際共通語と云われている。
 
 1924(大正13)年、エスペラントでの大本関連の出版活動を開始した。1925(大正14)年、大本の海外布教が一気に進み、最初のヨーロッパ宣伝使(大本では布教者を宣伝使と呼ぶ)が派遣される。「万国エスペラント大会」や「万国平和会議」などに出席し、ドイツの白旗団(びゃっきだん)と交流したり、パリに大本の布教本部を設置したりと海外布教の成果を挙げている。現在でも教団内にエスペラント普及会を設置し、エスペラント普及活動を行っている。熱心な会員約45,000人のほとんどが大本で何らかの形でエスペラントを学び、約1,000人が流暢に話せるとされる。

【第一次大本弾圧事件その後3、昭和神聖会の道】
 1926(大正15、昭和元)年、その一方で、頭山満、内田良平ら右翼人士との交流を行い、昭和神聖会を結成して軍事教練などを施した。

【第一次大本弾圧事件その後4、芸術の道】
 1927(昭和2)年、芸術団体として明光社を設立した。「芸術派宗教の母なり。神は偉大な芸術かなり」。自ら膨大な数の短か書画、陶芸作品などを創作して行った。

【大本教の復興、「ほんみち第一次不敬事件」】

 1928(昭和3)年、大本教は大きく躍進期に入った。2.1日、大本教の出口王仁三郎の長女・直日が高見元男(後に日出麿)と結婚式を挙げる。2.21日、大西の「岩戸古記」が224首で完結した。3.3日、王仁三郎みろく大祭にて「弥勒下生の宣言」を行う。

  • 今日こそは五十六年七ヶ月みろくの神世の初めなりけり
  • 諸方面、諸ぼさつひきい、弥勒ぼさつ高天原より今日下生せり
  • 万代の常夜のやみもあけはなれ、みろく三会のあかつきよし

 この頃、「ほんみち第一次不敬事件」が発生している。これを確認しておく。

 3月初旬、ほんみち派の「研究資料」が完成する。3.20日頃、大西愛治郎の若宮・愛信が側近の幹部の楠平助に「奈良県庁に『研究資料』を直ちに持って行け」と激しく迫った。3.22日、幹部役員会が開かれ、概要「愛信の所作は、速やかに研究資料を世に公開し、来るべき大国難に備えるべしとの神示」と聞き分け、奈良県庁、警察その他に資料を送付することを決定した。

 3.22日、高田警察、3.23日、奈良県庁、警察部保安課、3.24日、同内務部、3.26日、一般社会への喧伝開始。研究資料の配布先は、内閣、各省、府県庁、警察署、外国公使館、貴族院衆議院各議員、知名士、有力者に配布された。教内は、「高山に対する神の思惑の打ち出し」と位置づけた。これを「昭和3年の打ち出し」と云う。

 4.3日、警察・検察当局が報道管制を敷きつつ摘発に動いた。教義で天皇の神格を否定したとして、研究所を閉鎖し、4.9日、教祖・大西愛治郎夫妻が逮捕されたのを始め、天理研究会員約500名が拘引された。そのうち180名が不敬罪で起訴された。これを「ほんみち派第一次不敬事件」と云う。


【大本教の躍進】
 1931(昭和5)年、日本陸軍の中堅幹部によって計画されたクーデター未遂事件である三月事件では自ら資金や人員の提供を申し出るなど、「昭和維新」の実現のために急進的な行動を取るようになっていった。

 1933(昭和8).旧元日(2.3日)、大本教は節分祭を期して「皇道大本」の教 名に復帰した。 .

 1934(昭和9).7.22日、九段会館において、社会運動の団体「昭和神聖会」を結成し賛同者は800万人を超えるなど、幅広く様々な活動を展開する。

【第二次大本弾圧事件前の動き】
 昭和8年から10年にかけて天声社は組織的にも整備され、総務部、営業部、雑誌部、代理店部、倉庫部、工場経理部、文選部、欧文部、鋳造部、製本部、銅版部(旧明鏡館)、写真部(旧智照館)などに分かれていた。幹部は高木鉄男を中心に中山勇次郎、土井三郎、河津雄次郎などが補佐するという陣容であった。工場は木造一部二階建で、その二階は聖師の部屋にあてられた。聖師はたびたび訪問されてはその部屋から熱心に作業をご覧になり、社員はそれをまた喜びとしていた。仕事はそれぞれの分担に従って進められたが、例えば紙型場では当時まだ自動圧搾の技術が確立していなかったため、毎日のように雁皮紙を貼り合わせ特殊ブラシで叩き紙型をつくった。再版の際にはこの紙型から鉛版をつくり印刷場へまわされた。

 昭和神聖会結成以来その活動はいやがうえにも盛り上がり、またたく間に日本全土にひろがっていった。しかし、一方では当局が着々と秘密裡に膨大な大本の刊行物を集め、調査に乗り出していた。当局にとって皇道大本は国家神道体制の枠からはずれた異端な存在だけにとどまらず、国家権力にとって危険な存在とうつるようになってきた。昭和十年の初めから極秘に進められた弾圧の準備は、十月にはほぼでき上がった。その至上命令は「大本を地上から抹殺する」ことであった。当時の大本教の公称信者数は40万人、実勢は20万人とされている。

 1935(昭和10).2.7日、大本教は、亀岡穴太の瑞泉郷(聖師の生家)で神聖神社鎮座祭を挙行。3.6日、台湾宣教。この後、神聖会のことでは活動を止められる。夏季、東光苑(天恩郷の敷地内)で防空演習。8.11日、亀岡で神聖歌劇公演、自ら脚本を書かれる。8.22日、16ミリフィルムで『昭和の七福神』を撮影。10.8日、大本映画部が聖師伝『霊山修行』の撮影開始。10.31日、第一回『歌祭り』が亀岡天恩郷で挙行される。11.17日、第二回『歌祭り』が北陸別院で挙行される。この頃、大本検挙の閣議決定が行われる。12.6日、島根へ向かわれる。この頃、王仁三郎はクーデター準備中の皇道派系右翼・青年将校グループから多額の資金援助を求められている。

 12.7日、大国美都雄氏と王仁三郎夫妻の三人での最後の晩餐ならぬ最後の茶会(大国美都雄著「 第二次大本事件の原因は何か(3)」)。

【第二次大本弾圧事件】

 1935(昭和10).12.8日、「第二次大本弾圧事件」が発生。内務省警保局長唐沢俊樹の直接の指示のもと、特別検察隊250名が綾部の大本教本部を襲い、大本教幹部150名を検挙する。別働隊300名は亀岡の天恩郷に乱入。総統補出口日出麿ら60名を検挙する。こうして両聖地が急襲された。筆先、霊界物語をはじめ、文書、原稿、日記、メモ、武器類など「不逞の目的」を裏付ける証拠物件を重点的に約5万件が押収された。本部事務所、神殿などの主要な建物は封印されて警察の管理下におかれ、鉄条網を張りめぐらして立入り一切禁止にされた。マスコミメディアは、王仁三郎を「国賊」とののしり、「山師」とさげすみ、「淫し邪教」、「妖教」、「怪教」の指導者として大々的に報道した。

 王仁三郎は、松江の島根別院の秋季大祭に出席するために滞在していた松江市で検挙され、京都市の中立売署に留置された。罪名は不敬罪並びに治安維持法違反。東京の昭和神聖会本部など7ヶ所が襲われ、出口伊佐男、出口宇智麿らが検挙される。四谷愛住町の昭和神聖会本部、杉並区方南町の皇道大本紫雲郷別院なども捜索を受けた。出口一族では五十麿、日出麿も逮捕、有力幹部の岩田久太郎、栗原白嶺らも逮捕された。2代教主も、翌11.3月に女性でただ一人検挙された。取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、約3千名が取調べを受け、200名が逮捕され、教団幹部61名が検挙・王仁三郎ら8名が起訴された。12.15日、内務省・京都府特高警察・京都地検は、共同で押収物件の整理を開始。弾圧を正当化する資料をつくりあげた。

 1936(昭和11).1月、京都で大審院検事局、内務省警保局、京都府特高警察、京都地検の合同会議が開かれ、起訴と同時に大本教の解散と建造物の破却を実施することを決定。自白の強要がはじまる。3.13日、王仁三郎・すみ以下の大本教幹部61人は、不敬罪・治安維持法違反などの理由で起訴され、内務省は大本教を禁止した。起訴理由として、大本教が国体の変革を目的として結社を組織し、政権の奪取を企てたとしていた。自白以外にはなんの証拠もない言いがかりであった。開祖出口ナオの墓は 綾部の町営墓地に築かれていたが、当局が町議会に圧力をかけて墓地廃止を決定させて墓の移転をせまり、もとの墓は破壊。墓地の池を玉石で埋め、苑内の樹木は根こそぎ引き倒した。信者の納骨堂は破壊された。教職者、信者の墓石から、宣伝使、修斎何等などの大本教に関係する文字を削り取った。関係8団体の支部の解散命令が実施され、礼拝施設は個人・団体の別なく破壊され、大本教関係の書籍・物品は一切没収された。信者に対しては、キリシタンの踏み絵そのままの執拗な転向の強制が行われ、大阪では信者に神体を踏ませて棄教を強制するなどの暴圧すら行われた。

 政府は、裁判の結果を待たずに、大蔵省達118号「神社に紛らわしき奉斎施設の撤去」を理由に大本教の全施設の破壊に着手。綾部・亀岡の聖地の宏壮な総石造りの神殿(月宮殿)はダイナマイトで吹き飛ばされた。神殿破壊には1500発以上のダイナマイトがつぎ込まれ跡形も無く破壊、本部内の地蔵・観音などの石像は首を切り落とされた。関連施設も競売に付された。用材は再建をおそれて短く切断した。施設・動産の破却処分が開始され、大本教に関係のない美術品や家具什器類は売却され、大本教に関係するものは焼却された。綾部、亀岡の教団所有地5万坪は、「概ね賃貸価格」というタダ同然の超安値で強制的に売却された。

 この時の激しい拷問で16名が死亡している。岩田久太郎は獄死、栗原白嶺(七蔵)は翌年3.9日、中立売署の独房でハンカチで首吊り自殺。後継者と目されていた出口日出麿(38歳)は発狂し入院。王仁三郎も度々長髪をつかまれてひきずりまわされ、たびたび失神し、病院に入院したという記録がある。足をくくられ廊下をひきずりまわされて後頭部の皮膚がすりむけた者、ひとにぎりの毛に血がべっとりついて抜けた者、焼火ばしを尻にあてられ責め立てられた者、あおむけに寝かされて鼻や口から水を注ぎ込まれた者、竹刀がササラになるほど打たれ、顔の見分けがつかなくなった者も稀ではなかった。「幹部の誰それは自白したぞ」とだまして、たくみに自白を引きだそうとそうとした。出口日出麿(当時39歳)は尋問がはじまった直後に精神に異常を来たした。予審においては、自白を拒否すると、被告は2ヶ月も3ヶ月も、精神的動揺とあせりから自白に応じる気持ちになるまで放置された。

 拷問によって獄死または自殺をとげたり、保釈後に死亡した大本教信者の数は、事件中だけでも20名を越えた。幹部の栗原七蔵は自殺(享年64歳)。抵抗むなしく自白させられた直後のことだった。幹部の岩田久太郎は獄中で病死(享年62歳)。岩田は肺を病んでいたが、充分な手当を許されないまま病状が進行し、一杯の水すら与えられず、水、水とつぶやきながら絶命した。埼玉県の信者の宮川剛は、浦和署から京都に送られ、はげしい拷問をうけて中京区刑務支所に収容されたが、その後重病として日赤病院にうつされ、まもなく息をひきとった(享年50歳)。病名は不明だが、体には拷問によってできた黒い斑点が随所にみられた。福島県の信者の神正彦は京都に連行された父の神守が王仁三郎の信任をうけていたので、その自白をとるため、病身にもかかわらず拷問をうける。病状が悪化して半死半生のまま家に帰され死亡(享年22歳)。福島県の信者の加藤利七は、水責め火責めなどの拷問をうけ、帰宅後、余病をおこし死亡。湯灌のさい、遺族が臀部に数条の暗紫色の傷あとがあるのが発見されている。・・・

 第二次大本事件は、当初共産主義運動を壊滅させる目的をもって施行された治安維持法を宗教団体に適用した最初の案件であった。この事件により信教の自由が国民から奪われ、強引な手法によって戦時体制へと国民の意識を集中させていくことになった。

 王仁三郎は昭和17年に保釈されているが他の幹部は戦後になるまで囚われの身となった。王仁三郎の霊界物語などの諸著は安寧秩序紊乱によって発売頒布禁止処分となった。


 権力に迎合したマスコミの報道は、第一次弾圧のときを上回る激しさで「邪教」大本、「国賊」王仁三郎攻撃の筆陣を張った。当時の日本帝国主義はファシズム支配下で近代天皇制イデオロギーの宣伝ときびしい思想統制を加えていた。国内は天皇崇拝と「忠君愛国」の一色でぬりつぶされ、狂信的な「滅私奉公」の精神があおりたてられていた。この風潮のなかで、大本教に加えられた「非国民」「国賊」という非難は、大本教信者のひとりひとりへの偏見による差別や攻撃となって現われた。この攻撃は単に侮蔑、嘲笑のみにおわらず、村八分にされて孤立する者、職業や地位を追われたり、取引を停止されて廃業に追い込まれる者、住居を追われる者などが全国で続出し、信者たちの日常生活はいたるところで脅かされた。

【大本教裁判と天声社解体】
 1936(昭和11).2.26日、2.26事件が発生している。大本教は、事件に連座し銃殺刑に処された北一輝に資金援助をしていたとの風説がある。  

 大正10年の検挙では、結局、恩赦で免訴となったものの弁護側は王仁三郎の精神鑑定を訴えており、天理研究会の大西愛治郎の不敬事件も精神鑑定によって大審院(今の最高裁)で無罪になっていた。そこで警察側は神庭会議というものが大本教内部で行われていた事を証拠に、王仁三郎が精神異常でも王仁三郎の意見に賛同する神庭会議の出席者は常人なので、王仁三郎の責任も問えるといった形で、王仁三郎の無罪判決を阻止しようと手早く準備を始めていた。

 3.13日、大本教の聖師ら教団幹部8名が、「治安維持法違反」と「不敬罪」で起訴された。その時を待っていたかのように、皇道大本、昭和神聖会、昭和坤生会、昭和青年会、更始会、大日本武道宣揚会、人類愛善会、明光社に解散命令と建造物破却命令がだされた。

 天声社は事件当日より操業ストップしていたが、4.24日、工場の倉庫に在庫していた用紙全てが京都市内の洋紙店へ6千円で売却された。また印刷機会も京都市内の印刷会社へ約1万円で売却することが決まり、5.10日より解体、搬出がはじまった。5.5日、休刊となっていた「神の国」、「瑞祥新聞」、「真如の光」、「エス文OOMOTO」などの機関誌が廃刊処分となった。5.11日、工場の床板、天井の撤去がはじまった。この作業も急ピッチで進められ、六棟すべてが他の神殿や建造物とともに解体、破却された。当時、工場や売店にあった約8万4千冊の書籍や機関誌も、すべて神苑内の窪地に積み上げられて焼却された。その炎は夜空を焦がし、余燼は一ヵ月余りもくすぶりつづけた。亀岡の工場は解体後亀岡町営住宅として、旧第一天声社の工場だった神光社は綾部商工会へ売却されて、再利用された。さしもの山陰一をほこった新鋭の印刷工場は、無残にも地上から姿を消した。

 その時の法廷で、出口王仁三郎は、「人虎孔裡(こうり)に堕つ」禅問答をしている。人が虎の穴に落ちた場合の問答で、王仁三郎は裁判長に問うた。「あなたならどうするか」と。この問答は、裁判長が虎、王仁三郎が虎の穴に落ちた人を前提として問い掛けられていた。裁判長は答えに窮した。王仁三郎は答えた。「人間より虎の方が強いから逃げようとすると殺される。刃に向かっていっても同じ事だ。ジッとしていても虎の腹が減ってくると殺しに来る。どっちにしても助からない。けれど、一つだけ生きる道がある。それは食われてはダメだ。こちらから食わしてやるのだ。食われたら後には何も残らんが、自分のほうから食わしてやれば後に愛と誇りが残るのだ」。裁判調思わず「うーん」とうなり、打たれるものがあった、と伝えられている。つまり、王仁三郎は、裁判長(国家権力)に向かって、「君達が私を裁くのではなく、私が君達をして裁かせてやっているのだ」と言い放ったことになる。


【出口王仁三郎の法廷予言】
 1938( 昭和13).8.10-8.11日、王仁三郎が第2次大本事件の裁判で次のように予言している。
 「戦争で外国が東京を攻め、東京は空襲を受けてススキノになる」。

 出口*著「王仁三郎の言霊論理力」(㈱ヒカルランド、2014.6.30日初版)が次のように記している。
 「(各地の信者に対して次のように予言し対応を促している)東京は空襲されるから早く疎開せよ、「大阪は焼け野原になる、火の雨が降るぞ。火の雨とは焼夷弾だけではないぞ。新兵器の戦いや。広島は最後にな、最大の被害を受けて火の海と化し、それで戦争は終わりだ。広島在住の者は疎開するように」。

【大本教の壊滅、「ほんみち第二次不敬事件」】
 1938( 昭和13).8.12日、 「ほんみち」は、「憂国の士に告ぐ」と題した書信を大阪朝日、大阪毎日新聞社へ届け「昭和13年の打ち出し」を契機に、二人一組の説明班を編成し検事局、警察署、憲兵隊に出向き所信を表明した。全国の信徒が約900万部を個別配布した。11.21日、第一次一斉検挙で約1千名の信徒が検挙され、約400名が収監された。昭和14.5月、第二次一斉検挙206名が逮捕され、全部で273名が起訴された。世にこれを「ほんみち第二次不敬事件」と云う。

【王仁三郎に無期懲役刑判決下される】
 1940(昭和15)年、大本教裁判の一審判決で、王仁三郎は無期懲役刑となる。同17年の控訴審判決で、治安維持法違反容疑としては無罪となる。不敬罪については大審院まで持ち込まれたが、1945(昭和20).10.17日の敗戦による大赦令で無効になった。なお、1947(昭和22).10月に刑法が改正され、不敬罪そのもの消滅した。

 1942(昭和17).4.18日、本土が初めて空襲を受け、太平洋上の空母から出撃した米軍のB25爆撃機が東京、川崎、名古屋、神戸などを空襲した。奇しくも6年前、京都綾部、亀岡の両神苑が当局によって売却させられ、所有権が綾部町と亀岡町に移ったのと同じ日だった。

 8.7日、6年8か月獄中に過ごした後、保釈で出所する。仮釈放された際、「わたしが出た日から日本の負け始めや」と声高に叫んだと云う。その日、日本が占領していたソロモン諸島のガナルカナル島に連合軍が上陸し、この日を境に日本の敗戦が色濃くなっていった。

 1944(昭和19)年、「広島は最後にひどい目に遭う。広島在住の者は疎開しなさい」と警告したという。 12月、京都府清水の窯元・佐々木松楽が亀岡に疎開していることを聞き、訪ねて行って手ほどきを受け、陶芸の道に入った。

【大本教の戦後の歩みと分裂】
 1945(昭和20)年、9.8日、大審院で無罪が確定した。「大本は国体変革を目指す陰謀結社ではない」。

 終戦直後、思想統制が解かれたことによって釈放となった王仁三郎は、戦争終結により新しい時代が到来するといち早く察知し(吉岡発言)、教団もこれからの新時代にふさわしくあるべきとする活動に尽力した。12.30日、王仁三郎は、療養のために鳥取県の吉岡温泉に滞在した。この時、大阪朝日新聞の記者の取材を受け、次のように語っている。
 「自分はただ全宇宙の統一和平を願うばかりだ。日本の今日あることは既に幾回も予言したが、そのため弾圧を受けた。『火の雨が降るぞよ、火の雨が降るぞよ』のお告げも、実際となって日本は敗けた」。

 1946(昭和21).2月、「愛善苑」と名前を変えて復興に尽力し、愛善苑の名で教団を再興、老体を押して全国行脚して布教を続けた。夏頃から病床に臥すようになる。

 1948(昭和23).1.19日、昇天する(享年76歳)。綾部の天王平に埋葬された。王仁三郎は宗教家としてのみならず「宗教は芸術の母である」との思想から、芸術家としての才能も発揮した。数多くの和歌、書画、陶芸の作品を数多く残しており、その作品の芸術性が高く評価されている。王仁三郎の死後、妻の澄(すみ)が2代目教主となる。

 1949(昭和24)年、この頃より世界連邦運動を推進している。他に、慈善団体「人類愛善会」を組織、核兵器廃絶運動や死刑廃止運動など社会問題に取り組んでいる。

 1952(昭和27).3.31日、逝去する(享年69歳)。長女の直日が出口直日(でぐちなおひ)が三代教主就任。受け継がれる。4.1日、宗教法人として認可され、教団名を「愛善苑」から「大本」に復帰させる。  

 1972(昭和47)年、10月、フランス・パリ市の主催で、王仁三郎とその一門による陶芸、書画、織物などの作品展がパリ市立セルヌスキー美術館で開催され、ル・モンドやル・フィガロなどの有力紙が高く評価する記事を配信した。

 1980(昭和55)年、三代教主・出口直日の後継者の座を巡って内紛が起きた。結果、教団は三団体に分かれる。これを俗に大本三派という(本部と信徒連合会のみを取り上げて大本二派という場合もある)。関係者内では、出口王仁三郎が生前にこの内紛を予言していたと信じる者もいる。
名称 組織 教主、実力者、教団の出版社、本部所在地
大本(本部) 宗教法人 直日が後継者(教団内では「教嗣(きょうじ)」と呼ぶ、のち三大教主代行)と指定した三女・出口聖子を四代教主とする。聖子→紅。実力者は京太郎。出版社は天声社。本部所在地は二大聖地。www.oomoto.or.jp
大本信徒連合会 任意団体 直日の長女である出口直美(当初、教嗣と指定されていた)を四代教主とする。実力者は榮二。出版社は愛善世界社。本部所在地は綾部市駅前通り。www.omt.gr.jp
愛善苑 宗教法人 「いづとみづの会」を母体とする。王仁三郎の思想研究に力を入れていた出口和明氏(王仁三郎の孫にあたる)が、出口三平氏とともに第3の大本である「愛善苑」を設立した。「愛善苑」は前述のとおり大本が以前使っていた教団名であるが、新生愛善苑では、なおではなく王仁三郎を教祖と仰ぎ、王仁三郎の思想が大本の唯一の道であるとの方針を採っている。教主制を否定し、教主を置かずに出口王仁三郎を苑主とする。実力者は和明。出版社はみいづ舎。本部所在地は亀岡市中矢田町。aizenen.info

 大本本部では幹部に現教主・出口聖子氏への個人的忠誠を求めるという形で結束を固め、愛善苑側ではその動向を非民主的だと非難するという形で両者の対立は進行した。この内紛は裁判沙汰にまでなりドロ沼化の様相を呈している。これがいわゆる第三次大本事件であり、第一次・第二次大本事件が国家権力という外部からの弾圧だったのに対して、攻撃の火の手が教団内部から起こったところに特色がある。

 出口直日は「いづとみづの会」による本部批判が始まった時、「不意打ちをうけたるよりの吾が祈り日本に型のうつらぬやうに」と詠んだ。第二次大本事件が第二次世界大戦の惨禍として現れたように、第三次大本事件が日本にその型を現すことを恐れた祈りの歌である。愛善苑は王仁三郎の神格化を押し進め、王仁三郎原理主義ともいうべき方向に教義を展開させている。王仁三郎が大正時代に口述した霊界物語は三五万年前、トルコはエレズレムに神都を置く世界帝国の崩壊に始まるSF調の物語だが、機関紙『神の国』など愛善苑側の刊行物にはこれがフィクションではなく、真実の人類の歴史であるという記述がしばしばみられる。

 いわゆる教祖を教主と呼ぶ。大本の特色として、教主はすべて女系相続である。初代(開祖) 出口なお(直、ナオ)。二代 出口すみ(澄、すみこ、澄子)。夫は王仁三郎で教団内の肩書は聖師。三代 出口直日(なおひと発音する)。夫は日出麿で教団内の肩書は三代教主補→尊師。四代 出口聖子(きよこと発音する)。五代 出口紅。紅は聖子の姪にあたり、聖子が死ぬ直前に聖子の養子となっている。女系相続のため、血統を引き継ぐためには、外部から婿をとる必要がある。八重野の夫は宇知麿で教団内の肩書は総長。夫のほうはすべて婿であり、もともとは出口姓ではない。出口王仁三郎は特別な存在であり、特に「聖師」と呼ぶ。通常、開祖出口なおと聖師出口王仁三郎の二人を事実上の二大教祖と考える。

 1989年、「出口王仁三郎の霊界からの警告」の著者・武田崇元氏は愛善苑の事実上の代表者である十和田龍(出口和明)氏の令嬢と結婚し、大本閨閥入りを果たした。

 1990(平成2)年、三代教主直日が死去する。その後、後継者争いが生じ、出口一族の内紛が勃発する。教団は、本部(四代教主聖子)、大本信徒連合会、宗教法人愛善苑の三派に完全分裂する。これを第三次大本事件と云う。これら3教団が“大本三派”と呼称され現在に至る。

 大本三派の一翼の「大本信徒連合会」は三代目教主の長女・出口直美を四代目教主とするもうひとつの“おおもと”です。本来は長女である直美が“大本”の四代目教主になるはずだったのですが(王仁三郎が生前に書いた和歌にも直美が後継者であることが詠われている)、直日の長男・出口京太郎が教団の実権を握るために扇動し、姉である三女の出口聖子(でぐち・きよこ)を四代目教主に据えたといわれている。これに異を唱えた出口直美一派は“大本”を離れ新しい宗教法人「大本信徒連合会」を設立、綾部市内の「本家」(なのか?)“大本”のすぐそばに本部を置いている。

 また、王仁三郎の思想研究に力を入れていた出口和明氏(王仁三郎の孫にあたる)は、出口三平氏とともに第3の大本である「愛善苑」を設立した。「愛善苑」は前述のとおり大本が以前使っていた教団名ですが、新生愛善苑では、なおではなく王仁三郎を教祖と仰ぎ、王仁三郎の思想が大本の唯一の道であるとの方針を採っている。


 1991(平成3)年、12.25日、日出麿が逝去する(享年93歳)。

 2001(平成13).4.29日、本部四代教主・聖子が死去。聖子の姪で直前に養女になっていた紅が五代教主に就任する。

 大本の本拠地は2箇所あり、1つは京都府綾部の梅松苑(大本立教の地)であり、大本では「祭祀の中心地」と位置付けている。もうひとつは同亀岡市にある天恩卿(旧亀岡城址。明智光秀居城跡を出口王仁三郎が買い取ったもの)である。大本では「布教の中心地」と位置付けている。信者数は10万人~50万人(日本国内)、5000人~1万人(日本国外)とされる。

 
教団の表向きの名として、金明霊学会→大日本修斎会→大本瑞祥会という名称を使っていた。また、既成宗教の傘下であるという形式をとらねばならず、上部団体を稲荷神御嶽教出雲大社と変えていった、とある。


 幕末期から明治にかけて新宗教が創始された。備前岡山の黒住教、金光教、奈良の天理教が最有力教団である。最後に現れたのが京都の大本である。大本の本拠地は2箇所あり、1つは京都府綾部の梅松苑(大本立教の地)もうひとつは同亀岡市にある天恩卿(旧亀岡城址。明智光秀居城跡を出口王仁三郎が買い取ったもの)である。大本の知名度はそれほど高くないが、日本の新興宗教を語る上で非常に重要である。なぜならば、その後の神道系新興宗教のほとんどが天理教と大本の流れを汲むか、その教義の影響を少なからず受けているからである。天理教も数多く分派を生んでいるが(「天理教分派史考」)、大本教からも「生長の家」、「世界救世教」、「ワールドメイト」等々を生み出している。「生長の家」を興した谷口雅春はかつて大本の機関紙の編集主幹をしていた。「世界救世教」を興した岡田茂吉もかっては大本の信者だった。「ワールドメイト」の教祖・深見東州もかっては大本の信者だったという話があり、実際ワールドメイトの教義は大本のそれと類似著しい。なお「生長の家」は「白光真宏会」、「法の華三法行」などに影響を及ぼし、「世界救世教」は岡田茂吉死去後に分裂し「救世神教」、「黎明教会」、「神慈秀明会」、あるいは傍流である「世界真光文明教団」、「崇教真光」はじめいくつもの教団を生んでいる。これら数多くの教団も元をたどれば文字通り“大本”にたどり着き、大本の教義が色濃く反映されている。





(私論.私見)