書籍:中国の歴史 近・現代篇(二)
著者:陳 舜臣
P195~196
東北が満洲と呼ばれることから、この地方に満洲族が多いとか、甚だしきにいたっては満洲族の土地とおもわれがちだが、
それはまちがっている。
文献にあらわれるこの地方の最古の民族名は「粛慎」である。『国語』『春秋左氏伝』『史記』『山海経』などにその名がみえるが、実体はわからない。戦国時代、紀元前三世紀ごろは、
戦国七雄の一つである燕の版図が、遼東半島にひろがり、遼東郡が置かれた。
秦に圧迫された燕は、非常手段として、燕の太子丹(?―前二二六年)が刺客荊軻(?―前二二七年)を送ったが、始皇帝(前二五九年―前二一〇年)の暗殺に失敗した。そのため、始皇帝は徹底的に燕を攻めた。燕王は北京地方から遼東に逃げ、そこで滅亡したのである。始皇帝は万里の長城を築くとき、西は臨洮、
東はこの遼東をそれぞれ起点とした。長城が中国の政治圏をあらわすとすれば、この地は中国にとって、けっして特別の地区ではない。
秦、漢、三国の魏、晋にいたるまで、そのことにかわりはなかった。
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一六四四年、清は北京に遷都し、やがて全中国を支配したが、満洲族を東北から北京に呼びよせることになった。現在、満洲族の人口は二百六十余万である。当時はもっとすくなかったであろう。少数の人口で、百倍する漢族の土地を治めるのだから、すくなくとも皇帝、皇城は満洲族で固めなければならない。このときに、大部分の満洲族が、山海関を越えて西にはいった。これは東北における満洲族の人口が激減したことを意味する。ただでさえ過疎の地であり、清朝政府も対策に苦慮した。一六五三年、
「遼東招民開墾令」が出され、漢族の移民を募ったのである。
これによって、人口の補充はできたが、満洲族の比率が、この地方でいちじるしく低下したのはやむをえない。
漢族ははじめは強制移住に近かった
が、やがて自発的移住が増え、乾隆五年(一七四〇年)には、移住の禁止令を出したが、一片の法律ではもはや漢族人口の増加をおさえることはできなくなった。それだからこそ、東北は満洲族の土地、という虚構を維持する必要があった。官制を別にしたのも、そのためであったが、時代の流れは、虚構にかぶせていた、さまざまなものを洗い出したのである。清朝政府はやむなく、東北の「特別地区」という看板をはずしてしまった。