「共謀罪」法案 監視すべきは1強政治だ
国家権力には縛りが必要です。国民主権をうたった憲法の下で、権力の乱用や行き過ぎがないよう国民が国家の動きを監視していく-。そうした立憲主義の基本理念に照らして、この法案はいわば正反対の性格を帯びています。
国家が絶えず国民を監視し、不穏な動きがあれば計画段階であっても処罰する。そのために従来以上の権限を国家に付与する-。
政府と与党が今国会で成立を図ろうとしている組織犯罪処罰法改正案のことです。いわゆる「共謀罪」の趣旨を盛り込むことが、いかに危うさをはらんでいるか。私たちは改めて法案に反対する立場を明確にしたい、と思います。
●「詭弁」は通らない
共謀罪を巡っては、現行の法体系との矛盾や捜査上の懸念など刑事司法上の問題点が数多く指摘されています。それらに加え、目を凝らすべきことがあります。
そもそも、なぜ新たな立法が必要なのか。政府は、テロを防ぐには「国際組織犯罪防止条約」の締結を急ぎ、3年後の東京五輪に備えなければならない。条約の締結には重大犯罪を計画・準備段階で取り締まる法整備が義務付けられている-と主張します。
これは「詭弁(きべん)」ではないか。この条約が国連で採択されたのは2000年で米中枢同時テロより前のことです。しかもテロ対策を主眼とした内容ではありません。
マフィアなどによる組織犯罪、それも金銭的、物質的な利益を得る犯罪への対処が目的とされています。テロ対策では、ハイジャックの防止、原子力施設の防護、爆薬の製造・移動の禁止などに関する条約が別に存在します。法学者らの間では、現行の法体系のままでも国際組織犯罪防止条約の締結は可能と指摘する声もあります。
日本には現に組織犯罪を取り締まる法律があり、また刑法は殺人などの予備罪や準備罪も規定しているからです。そこに屋上屋を架す必要があるのか。国会では、十分な審議が行われていません。
詰まるところ、安倍晋三政権はテロ防止や五輪対策に乗じて、国家による監視機能を強化しようとしているのではないか-。そんな疑念が拭えないのです。
●謙虚さ失った政権
政府は、共謀罪を「テロ等準備罪」という名称でくるみ、「対象はあくまで組織的犯罪集団であり一般市民を取り締まるわけではない」「摘発は準備行為があった場合に限る」と説明しています。
もっともらしく聞こえますが、実相は曖昧です。何をもって犯罪集団とみなすか、犯罪の準備行為とは何か。法案はテロとは無関係と思える犯罪にも網を掛け、摘発の可否は事実上捜査機関の裁量に委ねる内容になっています。
通常、自ら犯罪集団を名乗る組織は存在しません。故に捜査機関はさまざまな団体や人物に狙いを定め、内偵を行うことになります。そこでは盗聴、盗撮、スパイ行為、密告などが横行しないか。戦前の治安維持法の過ちを想起すべきだ、という指摘もあります。
現行法の下でも、捜査の行き過ぎや見込み捜査による冤罪(えんざい)事件などが後を絶ちません。そうした中で、警察権力が一段と幅を利かす「監視社会」を許していいのか。
憲法が保障する「思想信条の自由」や「結社の自由」などが脅かされる、として市民運動などに関わる人々から不安の声が上がるのは当然ともいえます。
無論、テロ対策そのものは重要です。不審者の入国や銃器類の流入を防ぐ水際対策をはじめ、日本がテロの標的とならないよう国際社会と誠実に向き合う外交も求められます。テロの背景にある貧困や格差の解消に向け、日本が果たせる役割は何か、国際貢献の道を探ることも期待されています。
今国会では、気になる場面が目立ちました。閣僚らの相次ぐ失言はもちろん、首相の立場に関わる疑惑が生じても、安倍政権は今の国政を正当化し、批判の声を封じ込めようとする。いわば、謙虚さを欠いた「1強政治」です。
長期政権のおごりなのか。特定秘密保護法や安全保障関連法などを含め、異論や危うさを抱えた施策が次々にまかり通る国政を看過するわけにはいきません。監視すべきは国民ではなく、国家権力です。そして、私たちメディアがその役割を背負っていることも改めて肝に銘じたい、と考えます。
=2017/06/15付 西日本新聞朝刊=