警視庁作成「痴漢捜査マニュアル」その全容 痴漢対策で「駅前交番は地獄です」…
通勤時間帯、首都圏の電車では異常な光景が展開されている。男性たちは痴漢に疑われぬよう、吊り革に両手でつかまり、高齢者を立たせてまで自らの座席を確保しようとする。「痴漢冤罪保険」なる商品が登場し、加入者を伸ばしている。
こんな日本社会の病理を作り出す原因の一つが「誤認逮捕」、つまり問答無用で警察に逮捕されることへの恐怖だ。報道記者として警察取材を続けてきた竹内明氏が、現場の警察官に配られた「痴漢捜査マニュアル」を独自検証する。
■「冤罪防止」で仕事が肥大化
「駅前交番は地獄ですよ。痴漢冤罪への恐怖が社会現象となった以上、警察も慎重にならざるを得ない。痴漢対応はめちゃくちゃ大変になった」
電話をかけてきた知り合いの警察官がこう悲鳴をあげた。線路への逃走、逃走中の死亡事故。首都圏の鉄道で相次いでいる問題を受けて、現場の警察官たちの負担が増しているのだ。
5月下旬、警視庁各署に、ある文書が配布されたという。タイトルは「卑猥行為事件犯発生時における留意事項等について」。
生活安全特別捜査隊から発出されたこの通知は、A4版で10枚、内容は警察官用の「痴漢捜査マニュアル」である。その中身は、冤罪防止のために警察官に慎重な捜査を求める内容だ。
〈 被害者供述の信用性の有無、誇張や矛盾、勘違いはないか、他に犯人となりうるものはいないか、犯罪と犯人の明白性を十分に吟味する必要性がある 〉
つまり、被害申告を鵜呑みにするのではなく、嘘や勘違いを疑いながら、様々な手段で証拠を集めよという内容だ。その中では、痴漢事案発生時の7項目の捜査を解説している。
(1)目撃者の確保
(2)防犯カメラ映像の収集
(3)犯行再現による証拠保全
(4)被疑者、被害者の身体測定等
(5)実況見分による証拠保全
(6)被疑者の手指からの微物採取
(7)被害者の供述調書作成
たかだか7項目か――。読者の皆さんはそう思うかもしれない。だが、事細かな解説を読むと、現場の警察官が1件の痴漢事件のために、膨大な作業をしなければならないことがよく分かる。
■「痴漢捜査マニュアル」の中身
痴漢が発生したとき、現場に行って、被疑者の身柄を押さえるのは交番の地域課員だ。
目撃者や防犯カメラ映像があれば、被害者の主張は十分に補強できる。だが、電車の中に防犯カメラはないし、警察官が到着したときには目撃者はいないケースが多い。大抵、被疑者は容疑を否認する。こうなると、被疑者は署に連れて来られ、生活安全課員があらゆる捜査を尽くさねばならない。
「痴漢捜査マニュアル」では、被害者を立ち会わせ、マネキンを使って犯行再現をするよう書かれている。〈マネキンの身長、所持品、スカートの丈の長さを忠実に再現する必要がある。被疑者の身長も合わせる〉〈被害者・被疑者だけでなく、一般乗客との位置関係も再現する〉などと細かい方法が指示されている。
次が被疑者と被害者の身体測定だ。床から被害部位までの高さ、被疑者の指先、手首、肘、肩までの高さまでを計り、写真を撮って、報告書に記載せよとある。そのうえで、同型の電車を借り上げて、仮想の乗客を立ち合わせ、被疑者と被害者の位置関係の計測もしなければならない。物理的に痴漢行為が可能だったかどうかを検証するのだ。
さらに近年、痴漢捜査で使われているのが、微物採取による科学捜査だ。「鑑識採証テープ」によって、被疑者の十指、両手のひら、手の甲、着衣から付着物を採取する。ここに被害者の服と同じ繊維片がついていれば、被疑者はクロということになる。
捜査マニュアルには〈採証テープは15セントメートルの長さ〉〈被疑者が採取に応じなければ捜索差押許可状を得て実施〉〈異物混入を防ぐため、採取者はゴム手袋、マスク、腕カバー、ヘアキャップを着装せよ〉〈被疑者に手を洗わせない。手をはたかせない〉などと注意点が並んでいる。これは無論、数少ない客観証拠をより正確に確保するのが狙いだ。
■示談金目当ての”被害常習者”も
「痴漢捜査マニュアル」の中で、もっとも重視されるのが、被害者調書の作成方法である。
体に触れていた犯人の手を直接掴んで、その手を肘、肩と辿って犯人の顔を確認したのか。犯人の袖口、時計、指輪の特徴を言えるか。被害の後、犯人の腕を掴んで警官に渡すまで一度も手を離さなかったかなど、確認事項は詳細、多岐にわたる。
もし被害者が犯人の手を一度でも離していたら、取り違えの可能性を疑わねばならない。警察官は被害者に微細にわたる質問を繰り返しながら、矛盾点がないか検証していかねばならないのだ。
実際に被害に遭った女性からすれば、被害申告が疑われているように思うかもしれない。それなのに、なぜ、被害女性の申告内容をここまで細かく検証するのか。それは示談金目当ての「被害申告常習者」が存在するからだ。ある刑事はこんな事例を明かす。
「俺が取り扱った事件でも危ないのがあった。被害者は大手企業勤務の女性だったのだけど、被害にあったのが帰宅ルートとはまったく逆の電車、しかも痴漢列車として有名な車両に乗っていた。被疑者は否認しているし、女性の説明もあやふやで、矛盾があったから、念のために他の署に照会した。
するとその女性はあちこちで痴漢被害を訴えていて、合計数百万の示談金をとっていることがわかった。1件につき、50万から100万円とっていた。こういう連中もいるから、被害申告を鵜呑みにはできない」
示談金目当ての被害申告常習者をリスト化すればいいという声もあるようだが、実際に複数回、被害に遭う女性もいるわけで、「リスト化など不可能に近い」(警視庁刑事)という。
■痴漢対応で「交番は閉鎖」
毎日、満員電車にもみくちゃにされているサラリーマンたちは痴漢冤罪の恐怖に震えている。被害申告を鵜呑みにしない捜査が徹底されるのなら、喜ぶべき話だろう。
だが実際には、この痴漢捜査マニュアルは、あくまでも「無罪判決を防ぐために捜査を尽くせ」というものであり、冤罪防止ではなく「無罪防止マニュアル」である。
サラリーマンたちが恐れるのは、誤認逮捕によって家族や会社に知られて人生が台無しになることなのだから、マニュアルは不安の根源を解消するものではないのである。
一方で、現場の警察官の負担はますます増している。筆者が知り合いの警察官たちに話を聞いてみると、こんな返事が返ってきた。
「正直、もう、痴漢対応にはウンザリです。JRの各駅、私鉄の急行停車駅を管轄する交番は終電が終わるまで気が抜けない。痴漢が一件発生すると、交番の警察官はかかりきりになり、他の事件への対応が疎かになる」(某署地域課巡査)
「痴漢被疑者を署に連れてきて、留置所に入れるまで6時間掛かる。臨場した地域警察官は、逮捕手続書、取扱状況報告書、列車の運行状況報告書など、膨大な量の書類を作成しなければならない。その間、交番は閉鎖、パトカーは休車になってしまう。ほかの事件に対応できません」(某署地域課巡査部長)
「最近は目撃者がいないと逮捕には慎重にならざるを得ない。送検した後も、検事から補充捜査の下命が来るので、生活安全課員はさらに時間を費やすことになる」(某署生活安全課警部補)
痴漢事件が増えるのは、夜の帰宅時間帯。だが、警察署は宿直で対応することになる。捜査を担当する生活安全課の宿直は3人程度。痴漢対応中に、自殺志願者や子供の行方不明など人命に関る事案が起きても、お手上げ状態だという。ある警察官はこう指摘する。
「殺人的な混雑が緩和されれば、痴漢は確実に減るし、同時に誤認逮捕も減ります。社用車で帰宅している行政と鉄道各社の幹部たちが、もっと連携して混雑緩和のための努力をすべきです。車両や信号システムの見直しに金をかけられないのなら、まずは男女別車両を試験的に増やしたり、私鉄各社による沿線の住宅開発を規制して人口集中を防ぐべきだ」
警察官の捜査がいくら丁寧になっても、痴漢行為を繰り返す者が実際に存在し、通勤電車の混雑が緩和されない限り、サラリーマンたちの恐怖は拭えない。それどころか、痴漢対応による警察官不足は、社会の安全そのものにも影響を及ぼすこともありうるのだ。
竹内明(たけうち・めい)
1969年生まれ。神奈川県茅ヶ崎市出身。慶應義塾大学法学部卒業後、1991年にTBS入社。社会部、ニューヨーク特派員、政治部などを経て、ニュース番組「Nスタ」キャスターなどを務めた。国際諜報戦や外交問題に関する取材を続けている。著書に『マルトク 特別協力者 警視庁公安部外事二課 ソトニ』、『背乗り ソトニ 警視庁公安部外事二課』など