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神田雑学大学講演抄録 第382回 平成19年11月2日


在原業平のあぶない恋愛

講師 川口順啓 


目 次

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1.貴公子在原業平の人となり

2.在原業平と伊勢物語の関係

3.深窓の藤原高子姫と駆け落ち

4.斎宮との夜ふけの逢いびき



1.貴公子在原業平の人となり(高貴な血統と朝廷での不遇)

講師川口順啓さんの顔写真
 在原業平(ありわらのなりひら)は平安時代初期にいた実在の人物ですが、戦前の日本ではイケメン(当時はそんな言葉はなかったのですが)いわゆる美男の代表といわれていました。

この人の系図をみるとたいへん高貴な血筋に生まれています。まず平安京を作った桓武天皇の曾孫にあたります。また母方からみれば桓武天皇は祖父にあたります。母親が桓武天皇の晩年に生まれた伊登内親王です。
 このように業平は高貴な生まれのわりには成人してから宮廷社会で長い不遇の時代を送りました。
これは本人の実力の程度のせいもありますが父と祖父のせいでもあります。

 平安初期、朝廷が編纂した日本三代実録という歴史書があります。これは清和天皇とその子供の陽成天皇、その後を継いだ光孝天皇の時代について記述したものですが、この中に在原業平の人物像として「体貌閑麗にして放縦かかわらず、云々」と書かれています。
その意味は、「非常にスマートでハンサムであるが好き放題勝手放題なことをする人物である。学問すなわち漢学(漢詩・漢文)の知識はないが和歌は上手であった」という評価です。宮廷社会で不遇であったのは好き放題という点も影響しているのだとおもいます。

 また祖父の平城天皇というのがたいへん問題のある天皇でして、桓武天皇の後をついで第51代の天皇になったわけですが心身ともに不健康であったといわれています。しばしばノイローゼになって情緒不安定になり3年ぐらいで弟の嵯峨天皇に位をゆずって上皇になります。上皇と嵯峨天皇は同じ母親から生まれた兄弟ですが平城上皇は勝手に奈良平城京にひき移っていろいろな命令をだしたりします。実は平城上皇愛人の悪女藤原薬子(くすこ)がそそのかしていたわけです。

 平城上皇の行動を面白く思わない平安京の嵯峨天皇とは対立がたかまり結局戦争になりますが上皇側が簡単に負けてしまいます。薬子は毒を飲んで自殺し平城上皇は頭をまるめて出家するという悲しい状況になります。日本の歴代の天皇を見ても、殺された天皇、廃位された天皇、遠島処分になった天皇、騙されて位を降りた天皇など、不幸な目にあった天皇は数しれずいます。そういうお話は、たくさんあり過ぎて、いまお話する時間はありません。

 そんなわけで平城天皇は暗い影を負ったみじめな天皇であり、その息子である阿保親王は戦争に加わった罪でしばらく九州の大宰府に流されております。また、その後に仁明天皇の頃に、実際にはなかった貴族たちの陰謀を密告したりして宮廷ではしだいに疎んぜられた存在になりました。
阿保親王には五人の息子があり業平は五男だったといわれます。在原姓を与えられ皇族から臣下に下りました。

在原業平関係系図

 晩年の業平は右近衛中将というポストについており在五中将とも呼ばれます。
 このような背景から業平は宮廷で非常に出世が遅かったのです。かれは学問がないと見られているので文官関係のポストはなく、天皇のせわをする蔵人(くろうど)または武官である近衛関係の仕事についています。

 しかも彼の行動が非常に色好みで様々な恋愛事件を起すなどして、なおさら出世が遅れます。しかし50歳ぐらいになって陽成天皇が即位したころから日があたるようになります。そのとき右近衛中将(武官ですが宮廷の近衛兵の上から二番目の地位)と同時に蔵人の頭(とう=トップ)も兼ねるようになったのです。この地位は閣僚ではありませんが、これを何年か勤めれば参議に任じられ閣僚扱いとなるはずでしたが、残念ながら55歳で亡くなってしまいます。

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在原業平と伊勢物語の関係(物語の主人公「むかし男」)

 伊勢物語の概要について少しお話します。これは、いわば和歌が入った短編小説の集合体ですが平安時代の末から鎌倉時代を通じて中世の時期には高く評価されていました。中世には、日本の三大古典は源氏物語、伊勢物語、古今和歌集といわれていました。

 伊勢物語の内容は先ず125段からなる短編の集まりで、どの段も出だしの部分が「むかし男ありけり」で始まります。この「むかし男・・」の男は在原業平であるというのが定説になっていますが、すべてがそうであったかは疑問もあります。業平以外の主人公のエピソードも混じっているといわれています。しかし伊勢物語の中には、いくつかは古今和歌集にあるものと同じものであり、古今和歌集のほうでは、その作者は業平と明記されているのです。

 なぜ伊勢物語というタイトルがついているのかについては、いろんな説がありますが、ほぼ定説になっているのは125段の物語のうち、非常に重要な部分が伊勢テーマに描いた物語であるからというものです。むかしは伊勢物語といわず在五中将日記と呼ばれたともいいます。各段には必ず和歌が添えられており「みやび(雅)」という精神を重視しているのが特徴です。そのなかでかなりの部分が男女関係について書かれています。

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深窓の藤原高子姫と駆け落ち(藤原一門の必死の奪回活動)

講演会場風景

 まず第5段についてご説明しますと 「東五条の屋敷に、こっそり忍んで通っている男がいた(業平のこと))というエピソードです。この屋敷の主人公は藤原冬嗣の娘順子(のぶこ)であろうといわれていますが、この人は仁明天皇の妃の一人(五条の后)で文徳天皇の母親です。

 業平は五条の屋敷にいた藤原高子(たかいこ)姫のところに通っていたわけです。正門から堂々と入っていける状況でないので崩れた土塀のところから密かに通っていました。これが順子(高子姫の叔母)の耳にはいり崩れた土塀のところに毎晩張り番をたてたのです。そこで業平が嘆いて作った和歌が

   人しれぬわが通ひ路の関守は宵々ごとにうちも寝ななむ
(こっそりと彼女のところに通っているけれども、見張りが警備していて入ることができない。門番もときどき居眠りしてくれればいいのだが)

 これを知った高子が大変嘆いたので順子が可愛そうに思って黙認しようかという気持ちになったということです。高子は後に清和天皇の妃になって二条の后と呼ばれますが、高子の兄たちが忍んでくる業平から守るために警備の番人を立てたのだといわれています。兄である国経、基経のもくろみは高子をいずれは清和天皇の妃にし、自分たちは外戚となって藤原一門の勢力拡大に利用しようという魂胆があったからです。

 いうなれば高子は藤原一門にとって大事な玉(たま)だったわけですが、それをいいかげんな業平なんぞにとられてたまるかという気持ちから懸命に業平を遠ざけようとしたのです。

 次に第6段ですが、これを要約してみます。
 冒頭の「むかし男ありけり」の男はもちろん業平です。忍んで通っていた得がたい女がありました。一年以上かけてよばひわたっていた、すなわち通い続けていたのですが「よばふ」という語は、すなわち(繰り返し呼ぶの意)呼ぼうという動詞からきています。ようやく高子姫を盗みだして暗い夜を逃げてき て芥川というところまで連れてきました。彼女はたまたま草の上に降りた露を指差して「あのキラキラ光っているものはなんですか」と尋ねました。

 業平は彼女を背負っていくうちに夜がふけてきました。そのへんにあった粗末な倉庫を見つけ、そこに鬼がいるとも知らないで、折悪しく雷鳴がとどろいて雨もひどく降ってきたため、業平は彼女をその建物の奥に押し入れて自分は戸口で守りながら「はやく夜が明けてほしい」と思っていました。
 そのとき鬼が彼女を一口でパッと食べてしまいました。彼女は「アレーッ」という声を出したのだが雷鳴のために聞こえませんでした。

 夜が明けて明るくなって奥を見ると彼女がいません。「しまった」と地団駄をふんで泣いたけれど甲斐もないことでした。そのとき彼が詠んだ歌が

   白玉か何ぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを
(彼女をここへ連れてくるときに葉の上のきらきら光るものはなんですかと聞かれたが、そのとき「あれは露だ」と答えて、露が消えるように自分も消えてしまえばよかったのに)

 この第6段の末尾に「後に二条の后となる高子姫が若いとき文徳天皇の妃である従姉の女御明子(あきらけいこ)にお仕えする形でその屋敷に同居していた。高子がたいへん美人であったので業平が口説いて肩に背負って逃げ出したところ、兄の堀河のおとど(大臣)基経や太郎国経の大納言の二人がまだ下っ端だったけれど内裏に参内しようとしたときに、大声で泣く声をききつけて、なんだろうと見たら自分たちの妹の高子であった。これは大変だというので、すぐに屋敷連れ戻った」。というコメントが付記されているのです。

 多分、この事件が原因となって業平は都に居られなくなり東国の方へ流浪の旅をすることになります。この話が東くだり(あずまくだり)の段のなかに出てきます。

 このとき業平は30代前半で高子姫は10代だったと思われます。これは単なる美男美女の恋愛というだけでなく不遇の皇族である業平が自分の恨みから藤原一門を混乱させてみかえしてやろうという魂胆があったのかもしれません。後世の書物に高子が生んだ陽成天皇の父親は業平でなかったかという噂話も書かれています。また高子が55歳のとき不倫をはたらいて皇太后の地位を剥奪されたという驚くべき史実があります。彼女は大変ユニークな女性だったようです。

 なお、冬嗣の長男長良より次男の良房のほうが優秀で、藤原本家の跡継ぎになりますが、基経は兄国経より優秀でした。良房には子供がなかったので、やがて長良の次男、基経を養子にして藤原本家の跡を継がせています。

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4.斎宮との夜ふけの逢いびき(神をもおそれぬタブー侵犯)

講師川口順啓さんの写真
 次に第69段を見ることにします。むかし男(業平)がいました。た。宮中の宴会用の野鳥を狩るため伊勢へ 勅使として派遣されます。伊勢神宮の斎宮(さいぐう=(いつきのみやとも呼ぶ)は天皇の妹か娘に限るという大変高い身分で清らかな処女である必要があります。
当時の斎宮は文徳天皇の娘である恬子内親王(てんしないしんのう、やまと言葉ではやす子内親王)が宮中から派遣されていました。

 この人は業平の妻の叔母の娘にあたります。つまり業平の妻はやす子内親王のいとこになります。こんな関係だったので内親王の母親である静子(文徳天皇の妃の一人)がが手紙をだして「この人は親戚だから普通の使いよりも大切にしてください」という意味のことを内親王に伝えます。

 内親王はその意を受けて業平を懇切丁寧に取り扱ったわけです。朝から業平を狩に出発させて夕方自分の宮殿に来させました。二日目の夜、業平は思い切って「今晩会いましょう」と声をかけたのですが、これは神聖な身分である斎宮に対して重大なタブーを犯すことになります。
 美男に声をかけられた彼女のほうは悪い気はしないのですが人目があるのでなかなか会うわけにはいきません。業平は勅使一行のリーダーのの身分なので宿舎は斎宮のすぐ近くであり忍んでいくには便利でした。

 人が寝静まる11時過ぎ彼女は業平のところへ忍んで来ました。男も寝られずに悶々としていると窓の外に朧月がさしていて、斎宮が召使の少女を先に立てて立っていました。

 業平は喜んで彼女を寝室に案内し午前2時ごろまでを一緒に過ました。その後彼女は自分のところへなにもいわず帰っていった。業平はそれが悲しくて寝ないでいた。
 朝方になって「彼女はどうしているだろうか」といった感じで後朝の別れというのではないかもしれない(女が忍んで来たので)と思っているところに彼女の方から手紙がきた。

   君や来しわれはゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか (夕べは貴方が私のとこへ来てくれたのでしょうか、それとも私があなたのところへ行ったのでしょうか、あれは夢であったのかうつつであったのかよくわかりません)
 これを見て彼はたいへん泣いて

   かきくらす心のやみにまどひきに夢うつつとは今宵さだめよ
(私のほうも心が迷いに迷って夢だったかうつつだったかは今晩お会いして決めましょう)と詠んで狩に出発した。
 宵になって早く彼女に会いたいと思っていたところ伊勢の国の頭、すなわ三重県知事ののような男が斎宮の長官を兼任していたのですが業平をもてなす意味で一晩中宴会をやってしまった。そのために業平は彼女会うこともできない。

   翌日業平は尾張へ出発しなければならない人知れず血の涙を流した。夜明けに彼女のほうから平ったい杯の底に歌を書いて届けてきた。みると

   かち人の渡れど濡れぬえにしあれば (徒歩で川を渉る人が濡れずに渉れる程度の浅い浅いご縁でしたね)

 これをみて業平は松明の燃えカスの墨でもって下の句を書いた。

    またあふ坂の関はこえなむ (私としてはもう一度あう関を越えてお会いしたいものです。そのうち是非)
と書き残して尾張の国は発っていった。

 これは水の尾(清和天皇のニックネーム)のときで、斎宮は文徳天皇の娘である惟喬の親王の妹でありました。

 実際にどのようなことがあったのかいろいろ説がありますが、後日やす子親王は男の子を生んだという話もあります。その子は密かに育てられて高階氏の養子に貰われて跡継ぎになったともいわれます。そして高階氏の子孫は以後決して伊勢神宮に行くことはなかったといわれています。

おわり
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文責:得猪 外明
会場写真撮影:橋本 曜 HTML制作:大野 令治

本文はここまでです

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