「駅前交番は地獄ですよ。痴漢冤罪への恐怖が社会現象となった以上、警察も慎重にならざるを得ない。痴漢対応はめちゃくちゃ大変になった」
電話をかけてきた知り合いの警察官がこう悲鳴をあげた。線路への逃走、逃走中の死亡事故。首都圏の鉄道で相次いでいる問題を受けて、現場の警察官たちの負担が増しているのだ。
5月下旬、警視庁各署に、ある文書が配布されたという。タイトルは「卑猥行為事件犯発生時における留意事項等について」。
生活安全特別捜査隊から発出されたこの通知は、A4版で10枚、内容は警察官用の「痴漢捜査マニュアル」である。その中身は、冤罪防止のために警察官に慎重な捜査を求める内容だ。
〈 被害者供述の信用性の有無、誇張や矛盾、勘違いはないか、他に犯人となりうるものはいないか、犯罪と犯人の明白性を十分に吟味する必要性がある 〉
つまり、被害申告を鵜呑みにするのではなく、嘘や勘違いを疑いながら、様々な手段で証拠を集めよという内容だ。その中では、痴漢事案発生時の7項目の捜査を解説している。
たかだか7項目か――。読者の皆さんはそう思うかもしれない。だが、事細かな解説を読むと、現場の警察官が1件の痴漢事件のために、膨大な作業をしなければならないことがよく分かる。
痴漢が発生したとき、現場に行って、被疑者の身柄を押さえるのは交番の地域課員だ。
目撃者や防犯カメラ映像があれば、被害者の主張は十分に補強できる。だが、電車の中に防犯カメラはないし、警察官が到着したときには目撃者はいないケースが多い。大抵、被疑者は容疑を否認する。こうなると、被疑者は署に連れて来られ、生活安全課員があらゆる捜査を尽くさねばならない。
「痴漢捜査マニュアル」では、被害者を立ち会わせ、マネキンを使って犯行再現をするよう書かれている。〈マネキンの身長、所持品、スカートの丈の長さを忠実に再現する必要がある。被疑者の身長も合わせる〉〈被害者・被疑者だけでなく、一般乗客との位置関係も再現する〉などと細かい方法が指示されている。
次が被疑者と被害者の身体測定だ。床から被害部位までの高さ、被疑者の指先、手首、肘、肩までの高さまでを計り、写真を撮って、報告書に記載せよとある。そのうえで、同型の電車を借り上げて、仮想の乗客を立ち合わせ、被疑者と被害者の位置関係の計測もしなければならない。物理的に痴漢行為が可能だったかどうかを検証するのだ。