『Blog Media 横紙やぶり』を始めて一ヶ月半が経過した。運営報告というほどのものではないが、色々と思うことがあったので今後のために今思っている雑感をまとめたい。個人的なメモのような記事になるけれども、皆さんの興味をひく事もあるかもしれない。よかったら読んで下さい。
人々に尊敬と承認を与えるシステムが機能していない
まず思ったことは、現代には尊敬されていない人が多すぎるということ。
尊敬や承認というものは個人が努力して何かを達成し獲得するもの、という考え方から見れば「尊敬されていない人」という言い方は違和感があるかもしれない。と言うのも、個人の尊敬や承認というものは、ある程度は個人が努力をして獲得しなければならないものだが、ある程度は社会のシステムの問題だと思っている。
それは、個人に尊敬と承認を与えるための循環システムが不完全、あるいはそもそも存在していないのかもしれない。社会はあらゆるものが循環して、健全に維持され発展する。循環というと、情報やモノを思い浮かべるかもしれないけど、でも、考えてみて欲しい。社会を構成する最小単位は人間だ。循環に個人の承認や尊敬が加わってこそ、その機能が完全になるのではないだろうか。
インターネットの普及で、情報とモノの循環は、以前よりも発達したのかもしれない。循環のなかに流れるものは、基本的に我々にとって有益なものだけだ。この中で満たされない個人が、尊敬や承認を得ようとして情報を発信しても、当然だが認められない。例え有益な情報であっても、タイミングや発信したポジション、人間の理解力、とにかくこれらによって流動性が早いネット上では粉末のように消えていく。そして弾かれたことは、発信した個人の精神にナイフとして帰り、尊敬されていない個人の精神をますます歪める。ネット上にあふれる誹謗中傷、批判のための批判は、これら尊敬されていない個人の、尊敬して欲しい、認めて欲しいという、歪みすぎた心の叫びなのではないだろうか。
市場としての人々の不満と消極性
他に思ったことは、知識人の「俺を見てくれ」圧が凄まじいこと。
『Blog Media 横紙やぶり』の今後については色々と考えているが、いずれにしても、まずは私の考えや意見が支持されなければ発展の基礎とはならない。私の考えや意見と知識人のそれらの優劣はともかく、彼らの精神の露出癖に勝てるのか不安になる。だが、冷静に考えれば知識人の「俺を見てくれ」圧が凄まじいのは仕方のないことなのだ。それはシェアの奪い合いで、生活が掛かっているのだから。
シェアとは、大衆の不満と問題への消極性のこと。この社会では、人々が一足歩くごとに、一呼吸するごとに膨大な不満が吐き出される。例えば、労働問題。パワハラを受けて会社を訴えても涙銭しかもらえず、金銭と心の費用対効果を考えれば十分な対価とは言えない。また、そのことをネット上で発信しても、共感を得られるかもしれないが、デジタルの共感が増えたところで何になるだろう。
だが、不満も一定数に達すれば市場となる。頭のいい知識人が、そんな不満に形を与える。アグリゲーションした不満から共通のものを抽出し、それにちょっとした知見を加え、なんなら統計なんかも添えて、自分の意見として発信する。人々は自分の不満すらなかなか形を与えられない。だから、明確に言語化されると理解されたと思い、知識人を支持する。
この支持をネットではPVと呼び、一部ビジネス感覚に長けた知識人が、各方面でPVを現金化するのだ。例えば、自分のサイトの広告収益、書籍化、講演、新しいWEBサービスなどなど…。
知識人はキュレーションした人々の不満を発信し続ける。大衆は彼らを支持し続ける。でも、立ち止まって冷静に考えてみて欲しい。あなたの不満は何も解消されていないこと。あなたの生活は何も変わっていないこと。あなたの不満は、これら知識人の領地となっているかもしれないこと…。
最後に
他にもこの一ヶ月半で思ったことは沢山あるが、長くなるのでこの雑感記事はここまでとしたい。
個人に尊敬と承認を与えるための循環システムについては、今後も考察を続け、折々で発信できればと思っている。と言うのも、このシステムは社会的な観点からだけでなく、ビジネスにも応用が効くし、現在成功しているWEBサービスなどは、根底にこのシステムが機能しているのではないかと私は見ている。