【法施(2)】
仏教では法を伝える人を「僧」といいます。
仏法をわかるように話しするのは並大抵ではありませんから、
法を伝える人の頭の中は、いつも
「どう言えば分かってもらえるだろうか」
の悩みでいっぱいです。
道を歩いていても、ご飯を食べていても、布団に入っても、
「どうしたら分かってもらえるか」
の悩みから解放されることはありません。
そういう悩みのない、「伝えたい」はウソです。
僧侶が他の職業に就く時間がないのは、
仏法をお伝えするにはどうしたらいいかで
精一杯だからです。
そしてそのようにして仏法を伝えてくれる人が
真の僧侶なのです。
こんな話があります。
ある有名な布教使がある寺へ説法したときのこと、
その寺の住職が布教使の寺の門徒の数を聞いた。
布教使が「七軒です」と答えると、
住職は気の毒そうに「それは大変ですね~」。
布教使は「はい、大変です」
住職「そうでしょうとも、そうでしょうとも」と頷いている。
この時の住職の気持ちは
「七軒では葬式や法事の依頼も少ないだろうし、
お布施も多く集まらないから、生活が大変でしょう」
という意味です。
次に布教使が住職に門徒の数を聞いたところ、
その住職、よくぞ聞いてくれたと自慢顔で
「いやたいしたことないですよ、たった二千軒ほどですよ」
と言う。
布教使はそれを聞いて、いたわるような表情で
「それは大変ですね~」。
住職それを聞いて、きょとんとした。
布教使はその後、こう言った。
「二千軒もおありだったらさぞ大変でしょう。
私はたった七軒ですが、間違いなく七軒の人達に
親鸞聖人の教えをお伝えしなければなりませんので、
どうお伝えしたら分かってもらえるだろうか、
日夜思い悩んでいます。
二千軒もあったら夜寝る時間もないくらい
大変でございましょう」
聞いた住職は己の浅ましい考えを恥じ、赤面した、という話しです。
僧侶はどうあるべきか、自省を促されるエピソードです。
真の僧侶として、生涯を全うしたいものです。