日銀が4月に公表した「展望レポート」は、景気判断を「“拡大”に転じつつある」と上方修正。物価は、今年度の見通しを下方修正しつつも、目標とする物価上昇率2%の達成時期は「平成30年度ごろ」で据え置きました。
幾度となく修正を余儀なくされた展望レポート。日本最高峰のシンクタンクともいえる日銀の見立ては、今度こそ当たるのでしょうか。(経済部 市原将樹記者)
実に9年ぶり 景気は“拡大”
景気や物価の現状と先行きはーーー日銀が3か月ごとにその見方を示すのが「展望レポート」です。ときに「日銀文学」とも称される繊細なことばづかい。市場関係者や私たち経済記者は、微妙な表現の変化から今後の金融政策の方向性を探ろうと目をこらします。
しかし、4月に発表された日銀文学は明快そのものでした。日本の景気は「緩やかな“拡大”に転じつつある」という文言。長い間、いわば定型句と化していた「緩やかな“回復”」という表現からの上方修正です。日銀が景気判断に“拡大”ということばを使うのは実に9年ぶりのことでした。
わかれる見方 実感は
展望レポートを発表した日の会見で、黒田総裁は「輸出・生産を起点とする前向きの循環が強まる中、労働需給は確実に引き締まり、経済活動の水準を示す『需給ギャップ』のプラス基調が定着しつつある」と説明しました。
たしかに、企業の業績は概して好調。雇用の面でも、4月の有効求人倍率は1.48倍とバブル期を超える高い水準となりました。
では、景気は「拡大」ということばがふさわしいほどに上向いているのでしょうか。実はその見方は、日銀と政府で異なっています。
日銀の「展望レポート」に対し、政府の景気に対する公式見解が示されるのは「月例経済報告」。最新の5月の景気判断は「緩やかな“回復”基調」という表現で、平成4年を最後に姿を消した“拡大”の表現は、まだ復活していません。
「ずれ」の背景には、景気を判断する基準の違いがあります。日銀が景気判断を上方修正した大きな理由となったのは「需給ギャップ」という指標。日銀の計算では、これがプラスに転じた、つまり単純に言えばモノやサービスの需要が供給を上回ったというわけです。
一方、月例経済報告を作成する内閣府は、需給ギャップ以外の経済指標も判断材料としているうえに、そもそも、需給ギャップはまだマイナスと見ています。
需給ギャップを推計する際、内閣府はGDPをデータとして活用するなど、両者の間では計算方法が異なります。概して日銀のほうが強めの数字になる傾向があると言われています。内閣府の数値も改善は続いていますが、ある幹部は「成長率が大きく伸びているわけではなく、今はまだ“拡大”の局面ではない」と冷静です。
働く人たちの実感は?
では、働く人たちは、景気の“拡大”を実感しているのでしょうか。街で会った人たちや取材先に、話を聞いてみました。
「景気はまだまだ。景気がよかった時は『ちょっとそこまで』と短い距離を乗って、1000円札を出して『お釣りはいらない』という客が多かった」(タクシー運転手)
「景気は悪いとは思わないが、拡大しているとも思えない。海外メーカーとの競争で売り上げが伸びない」(自動車部品メーカーの経営者)
「企業が接待費を使わなくなったせいか、客単価が減少。値上げしたら客が来なくなるので、原材料費が上がっても価格に転嫁できない」(外食チェーンの経営者)
日銀ウォッチャーとして定評のある、みずほ証券の上野泰也さんは「需給ギャップがプラスなら、景気は拡大とするのは日銀内部の決めごとにすぎない。今の景気は海外経済に支えられたもので、消費などの内需が弱く、『拡大』ということばが持つイメージよりもぜい弱で心もとない状況だと思う」と指摘します。
物価目標 達成時期は据え置き
日銀の「展望レポート」で、もう1つ焦点となったのが、物価の見通しです。
今年度の予測を1.5%から1.4%に引き下げながらも、大目標である2%に達する時期は「平成30年度ごろ」で据え置いたのです。
記者会見で、この点を問われた黒田総裁は「物価は足元で少し弱めの数字が出ているが、先行きの物価は上昇していく」と強調。足元の弱さの理由は「携帯電話や通話料の値下げが相当効いているが一時的だ」と述べました。
通信料値下げは一時的か
たしかに、消費者物価をつぶさに見ていくと、携帯電話の端末や通信料は、ほかの項目に比べて下落率が大きくなっているのは事実です。
ただ、携帯電話の通信料の値下げは、政府が有識者会議まで設置して推し進めてきただけに、想定の範囲内のこと。政府の狙いどおり、これがほかの分野への消費につながればよいのですが、今のところ、日銀にとっては物価上昇を妨げる“足かせ”ともいえる皮肉な状況です。
さらに、格安スマホを含めた激しい競争が続く中、通信料の値下げは本当に一時的な動きにとどまるのでしょうか。5月24日、NTTドコモは、6月から特定の端末を新規に購入した利用者を対象に、月額の通信料を一律1500円値下げすることを明らかにしています。
どうして物価は上がらない?
日銀の見立てどおりに物価は上がっていくのか。気になる民間の指標があります。
スーパーの販売データをもとに、物価の動きを独自に算出している「日経ナウキャスト日次物価指数」では、一時2%近くに達した物価上昇率が、このところは0%程度となっています。
この指標を出している会社では「企業の間には、値上げをすると販売数量が落ちて、かえって売り上げが落ちかねないという懸念が根強く、値上げに踏み切れない」と分析しています。
流通大手、イオンの岡田元也社長は、4月に開いた決算発表の記者会見で「脱デフレは大いなるイリュージョン(幻想)だった」と述べ、低価格を売り物とするディスカウントストア事業に力を入れる方針を打ち出しました。
セブンーイレブンなどの大手コンビニも、日用品を相次いで値下げ。生活防衛意識が強い消費者を、値下げで取り込もうという動きが目立っています。
日銀が、大規模な金融緩和策を導入してから4年余り。この間、2%の物価目標を達成する時期の見通しは、すでに5回も先延ばしされています。
日銀の展望レポートは、企業や消費者の意識を反映できているのか。金融緩和策の正当性を守るために、数字をあてはめる作業になってはいないか。立ち止まって考えることも必要ではないかと感じています。
- 経済部
- 市原将樹 記者
- 平成13年入局
札幌局などをへて
現在、日銀・金融業界を担当