三遊亭円歌が死んだ。
落語家である。
そこそこの期間、落語を聞き続けていると、落語家の死にいくつも接することになる。
落語家はあまり引退しない。死ぬ少し前まで高座に上がっていることも多い。
這うようにして高座にあがる噺家もいる(あまり這うところを見せても笑いにつながらないので、だいたい幕をおろして噺家を高座に座らせて幕を開けている)。ついこのあいだ高座を見た、という噺家の訃報を聞くことがけっこうある。
落語は実は、かなり死を身近に感じさせる芸能だとおもう。
この人もいつか死ぬのだろうな、と落語を見つつ、ふとおもってしまうことがある。
それは同時に、まあ、見ているおれもそのうち死ぬんだけどな、とおもい至ることにもなる。元気のいい若手の高座を見つめつつ、こいつの60代の高座を見ることはないんだろうな、というようなことだ。
べつだん、それでさみしくもならない。落語というのは、そういう部分までも笑おうとする芸である。
業の肯定だ、という言葉は千年を越えて残る名言である。
どんな人だろうと、その人が生きるのを楽にしてくれるのが、落語の力だ。
その言葉を残した立川談志は、三遊亭円歌のことを、ウソつきだ、とさんざんに言っていた。
もちろん三遊亭円歌がウソつきだというのは、彼を知るすべての人が言っていたことである。尋常ひととおりの法螺吹きでなかった。言葉すべてに虚実がない混じり、高揚させる言葉ばかり吐いていたのだろう。虚実がない混じりというより、虚にときどき実を入れて、あたりだったとおもう。
生き方までも芯から芸人である。そうでなければ、ああいう高レベルの高座は維持できないというということだ。
談志の口調は、あまり円歌の嘘が好きではなかったようだったが、べつだんそんなことを気にしてもしかたがない。
三遊亭円歌は売れた。
それも尋常じゃない売れかただった。
二ツ目時代、つまり若手だったころ、三遊亭歌奴という名前でテレビ・ラジオに出て、売れに売れた。林家三平と同じ時期に売れ、この二人は二ツ目ながら寄席でトリを取ったという伝説が語り継がれている。
寄席では二ツ目がトリを取ることはまず、ない。当時は落語家の人数も少なかったのだろうが、それにしても実力が若いころから抜き出ていたのは確かである。
三遊亭歌奴(うたやっこ)という芸名の時代に売れたので、円歌に改名してもう40年以上経つのに、まだ歌奴さんと呼ぶやつがいる、とこれは高座でいつも語っていた。最初覚えた名前で人はずっと呼び続けるものだからだ。
売れていた歌奴時代は1960年代で、私はちょうど小学生だった。
林家三平とともにテレビでよく見た覚えがある。「山のあなあなあな」というギャグも覚えている。でもわけがわからなかった。べつだん意味がわからなくても、面白いものは面白い。
この人は独特の音を持っていた。
客に心地よく音を届けることに力を注いだのであろう。
円歌の音が心地よく届いたということと、この人が稀代の法螺吹きであったこととは表裏にあるとおもう。