私ぐらいになると(?)新聞とかべつに読まなくてもいいんだが、ネタ探しのつもりもあってこのweb版『人民の敵』を始めた昨年夏から、なるべく毎日(しょっちゅうあちこち動き回って本拠の福岡を留守にしてることも多いんで購読契約はせず、その都度わざわざコンビニで買って)新聞を読むようにしている(そのわりには“時事ネタ”を書くことは少ないけれども)。で、昨日(6月8日)の朝日新聞の国際面の記事の中に、こんな一文があった。
容疑者は40歳のアルジェリア人とされ、フランスの大学に籍を置いて論文を書いていた。過激思想に染まった兆候は見られなかったものの、パリ郊外の学生宿舎の家宅捜索でビデオが見つかったという。
とくに何の変哲もない文章だとたいていの人は思うだろう。しかし私は「ん?」と引っかかった。内容にではない。「過激思想に染まった」という表現である。「昔の新聞って、こんな表現をしてたかなあ?」と。してたかもしれないが、してなかったような気がする。私が過敏になってるだけかもしれないが、どうもやっぱり“95年以降”つまりオウム事件以降の表現であるような気がする(私が新聞やTVニュースをほぼまったく視界に入れないように意識的にし始めたのは、オウム事件によって変質したそれらの語り口がとにかく不快で、精神衛生上よろしくないと思ったからである。それらは要するに戦時報道であり、現在は“戦争の足音が近づいている”つまり“戦前”などではなく、“95年以来とっくにもう戦時下”という正しい認識に、私だけが唯一到達しえているのも、この“健康法”の賜物である)。
「思想に染まる」というのは、なんか病気にかかるみたいな表現である。正常な人間は“思想”なんてものとは無縁で、何かの“主義者”みたいな人はそれとは違う、ウイルス性の恐ろしい病気にでも感染してしまった特殊な、正常でない、我々とはまったく異質な存在なのだ、という感覚に支えられた表現である。昔の人は、たとえ“客観・中立・公正”を自称するマスメディアの中の人であっても、そういう表現はしなかったような気がする。あくまで“気がする”だけだが、少なくともそういう表現に「ん?」と引っかかる私のような人は、95年以前には今より圧倒的にたくさんいただろうことは間違いない。
朝こういう記事を目にして違和感を抱いたその夜、福岡の“外山界隈”が誇る在野のまったく無名のインテリ、ファシズム転向する前の“異端的極左活動家”時代から交流がある数少ない右翼方面の友人で、しかも当時から左右の立場の違いを超えてなぜか地元福岡の同世代では一番話が合っていた、天皇主義者で反原発派で敬虔な中島みゆき教徒の藤村修氏と、紙版の『人民の敵』で半年おきにやってる“時事放談”の収録をしたのたが、その席でも、なんか同じような匂いのするエピソードを藤村氏の口から聞いた。
藤村氏は先頃、東京でおこなわれた“在特会批判”的なトーク・イベントに聴衆の1人として足を運んだらしい。イベントの合間の休憩中だか終了後の懇親会的な場でだか、他の来場者たち数人が、ちょうど森友学園問題が盛り上がり始めた頃ということもあって、渦中の“怪しげなフリー・ジャーナリスト”菅野完氏について話題にしているのを、藤村氏はとくに口を挟まずに黙って横で聞いていたのだそうである。菅野氏についてあれこれ云い合っていたのは、これ全員、新聞記者とか大手出版社の書籍編集者とかである。
藤村氏が云うには、彼らは一様に、菅野氏に対して反感を抱いており、とくに菅野氏が“ジャーナリスト”扱いされているのが気に入らない様子で、藤村氏に云わせれば、「マスコミ関係者で、つまり“本職の”ジャーナリストのつもりでいる彼らより、どこの馬の骨とも知れないノイホイさん(菅野氏の通称)のほうがよっぽど“ネタ元”の籠池さんに食い込んでて、しかも自宅前で囲み取材されて、森友問題でのマスコミの取材方針についてあれこれ、叱りつけて指図するようなこと、いわば“マスコミしばき”をやったんだから、そりゃあ彼らからすれば面白くないでしょうね」ということになる。口々に「あんなのは“ジャーナリスト”とは云わない」とか「“ノンフィクション作家”でもない」とか云い合った挙げ句に、1人が「あの人は何と呼べばいいのか……“活動家”だよね」と云って、「そうだそうだ!」と一同爆笑して“菅野完問題”にオチがついた、というのである。
これまた不思議な話だ。私のような古い人間、“昭和の人間”にはさっぱり分からない感覚である。“活動家”というのが一種の悪口として、少なくとも“ジャーナリスト”や“ノンフィクション作家”とかより一段(どころかたぶん何段も)低いカテゴリーとして、バカにして云われているのである。
昔はむしろ逆だった。さまざまな問題の現場に全身で飛び込んで“当事者”となっている“活動家”のほうが、それらに一定の距離を置いて論評したり研究したり取材して報道したりしている、本質的に“傍観者”であるしかない“評論家”や“学者”や“ジャーナリスト”なんぞより何百倍も何億倍も“偉い”というのが、何というか人としての常識だったはずである。有島武郎が、“たかが作家にすぎないオレなんかよりはるかに偉い”と思って、アナキストの大杉栄に求められればいつでも大金をカンパしていたような感覚は、ひと頃までは少なくともインテリなら全員が持ち合わせていたものであるはずなのである。
それでまた思い出した話がある。
これまた藤村氏も含めて、このさらに数日前の6月4日に、私や藤村氏の同世代ではおそらく最も影響力を持つ批評家である東浩紀が主幹する雑誌『ゲンロン』創刊号(2015年12月)に載った、東も含む30~40代の批評家4人による座談会「昭和批評の諸問題」の読書会を福岡でやったのだが、その中で東もまた、同じような発言をしているのである。座談会の本来のテーマである“昭和末期の批評シーン状況”から話は少し飛んで、福嶋亮大の「ぼくは七〇年代以降を、思想から階級の問題がなくなっていった時代だと見ています。(略)けれどこれから、階級の問題はまた前景化してくるのではないか」という問題提起を受けて、「賛成です」と応じた上での発言である。
しかしその結果、批評が豊かになるかどうかはわからない。階級構造が復活したら、そのとき求められるのは、批評ではなくむしろ「運動」の言葉でしょう。
ここでもまた「『運動』の言葉」は、「『批評』の言葉」よりも一段(もしくは何段も)低いもの、「『批評』の言葉」ほど「豊か」ではありえないものと見なされている。他の3人の批評家も誰も引っかかっている様子はないし、それは何の説明も不要なごく当たり前の認識であるかのようである。そりゃまあ“3・11以降”に目立っているシールズその他、昨今の諸運動の思想的貧しさを思えばそういうふうに云いたくなる気持ちは分からんでもない。しかし「『運動』の言葉」一般を貶めるようなこういう云い方は、東もまた、私には“時代の病理”であるとしか思えない“95年以降”の倒錯的な感覚にどっぷりとそれこそ“染まった”人間にすぎないことを証している。
それでさらに思い出したことがある。
“異端的極左活動家”時代の、90年代末ごろの私のサイトに掲載していた、今はネットでは(というか私の周辺にリアルで入り浸ってなきゃ)読めない、当時の同志の1人である鹿島拾市が私を相手にいろいろ喋った内容をテープ起こしした文章の中にある一節である。私は鹿島とは現在は疎遠になっているが、2014年に本名で『九月、東京の路上で』(ころから社)を上梓するなど、最近ようやく書き手として世に出てきてくれているようである加藤直樹のことで、鹿島は、私もその中にいた90年前後のラディカリスト青年たちの一群を代表するイデオローグのような存在だった。発言は、93年ごろのものである。
社会問題に興味があるって学生が、水俣病の本を読みました、許せないと思いますって云うんだったら、じゃあ水俣病患者の支援運動をやればいいんだよ。あるいは、おれは殺人事件とかが好きで、そういう現場に行きたいっていうんだったら、人殺しになるか、警察になるか、どっちかになればいい。天皇制が問題だと思うんだったら反天皇制運動をやればいい。それが普通の発想だよ。ところがなんで「ジャーナリストになりたい」って発想になるのか、おれはそこに腹が立つんだよね。
(略)
マスコミに入りたいって奴は、いったん犯罪をおかすか、反体制運動をやるか、あるいは警察に入るか──警察はあんまりよくないな(笑)。とにかくそういうことを一旦すべきだよ。当事者としての経験を積んで、取材されるようなハメにならなきゃダメだよ。ところが全然そういうのがないもんね、実際には。マスコミ志望なんて奴の感性はほんとに分かんないよ。おれは一度もジャーナリストなんかになりたいと思ったことないよ。
それでも例えばおれなんかがミニコミを出さなきゃと思ったりするのは、マスコミ志望の学生とかとはまた違うレベルの話だよ。つまり現実にいろいろやった上で、出す必要があるってんでミニコミを作るわけでしょ。最初からミニコミを出したかったわけじゃないんだから。いろいろやった上で、こりゃやっぱりジャーナリズムが必要だと思ったら、その時点でジャーナリズムをやればいいんだよ。最初から「マスコミに入りたい」ってのが分からんよ。
さすがに我らの世代の最高の知性だった鹿島、まだ20代半ばだったろうに、実にいいことを云っている。
今でこそ東を筆頭にいろいろ(ろくでもないのばっかり)出揃ってはいるが、私の世代というのはかなり遅くまで活字の世界の“論客”のような人間がほとんど出なかった。この93年時点では、東も思想誌『批評空間』に最初の論文を発表したばかりで、もちろん私などの視野には入っておらず、すでに著作のある同世代は、私の他には2、3人、しかも全員が反管理教育などの“活動家”だった。その後も、東が単行本デビューして一躍、私の世代の代表的な論客のように扱われだす99年まで、そういう存在はいっこうに現れる気配がなかった。
そりゃそうだよなあと私は思っていた。“時代”や“社会”についてまず一番にモノを云う資格があるのは現場で行動している“活動家”であって、10代とか20歳前後で“運動”の世界に飛び込んで“活動家”となった同世代はほとんど全員知り合いだったし、まともな“論客”もその範囲の中からしか出てきようがあるまい。20代半ばで何冊も著作がある人間は私1人しかいないんで、今は特殊な例としてキワモノ扱いされているが、出版社とかに就職した同世代の連中がやがてその世界の中堅どころを担うようになった時に、同世代の書き手を求めるとすれば私や私の周囲の同志たちしかいないんだから、時間の問題で、私を含む70年前後生まれのラディカリストの一群がそれぞれの運動体験に基づく思索を文章にまとめ始めて、いずれ“層”として“論壇”の主要な一角を占めることになる他あるまいと思い込んでいた。なにせ“活動家”が一番“偉い”に決まっているのである。まさかその我々を差し置いて、“マスコミ志望”の手合いと大差ない、諸問題の“傍観者”どもがまず自らモノを云い始め、増殖し、奴らにとっては理解の範疇外の異星人か何かにしか思えないにそりゃ決まっている“活動家”を見下すような言説がまかり通るような時代がこようとは、まさか思いもしなかった。
菅野完氏を“活動家”呼ばわりして嘲笑したというマスコミ人たちや、「『運動』の言葉」を見くびって恥じない東浩紀や、「過激思想に染まる」とか何の違和感もなく書いてしまう記者やそれをそのまま通してしまうデスクだか校閲担当者だかの感性は、反原発運動や反基地運動を一部の特殊な“サヨク”が騒いでるにすぎないものとして冷笑するネトウヨどもの感性とそれほど遠いものではない。
東浩紀もまた“観光客の哲学”がどうこう云ってるようだし(そんなもん“傍観者の哲学”ってことにしかなるまい)、どう云えばいいのか、かつて鹿島拾市が語ったことを私なりに云い換えれば、せめて“波瀾万丈の物語の作者や読者になるより登場人物になったほうがいいに決まっている”ぐらいの健全な感覚すら持ち合わせていないような奴が増えすぎ、調子に乗りすぎ、喋りすぎである。
そりゃ、こういう世の中になっちゃうわな。